1人と1人で365.2425日

本編後、初めての中堂の誕生日の話。お付き合いしてる中六。中堂にとって六郎は光みたいな、そんな話。

 うるさく鳴り響くアラームに若干苛つきながらの目覚めだった。
 まだ思考もままならない状態でのそりと起き上がり、スマートフォンで設定したアラームを片手で止める。ぼやけた視界の端に画面の数字が映る。
 九月十日午前七時二分。
 はあ、と重苦しい息を吐いて前髪をかき上げる。初秋だというのに夜半に蒸したせいか、じっとりと汗をかいていることに気付いて舌打ちした。
 立ち上がってキッチンで水分を摂り、次いでカーテンと窓を開けて朝日を家の中に迎え入れ、空気を入れ替えている間にシャワーを浴びる。汗を流して風呂場を出て、適当に積み上げた服の中からカットソーとズボンを掴んで袖を通す。タオルで雑に髪を乾かしながらリビングに戻り、コーヒーを淹れてスツールに腰掛け、昨夜からカウンターに置きっぱなしにしていたコンビニのビニール袋に手を伸ばした。
 ガサガサと音を立てて袋を漁り、帰りがけに買ったパンを掴んで口に運ぶ。太いソーセージが挟んであるパンにかぶりつき、続けてコーヒーにも手を伸ばす。特別うまいわけでもまずいわけでもないパンは、手軽に腹を満たすには都合がいい。ひとつ目のパンを食い終わり、もうひとつのパンを袋から取り出す。今度はコーンが乗っているものだ。これも無言で食い切り、からになった袋をぐしゃりと潰してビニール袋の中にまとめて放り込む。
 空いたカップはシンクに移動させて、布団を畳み、フローリングをシートで拭き上げる。ほこりが目立たなければ別にいいだろう。掃除道具を片付けて、最後に窓を閉めて家をあとにした。

 

 アパートを出た途端に一筋の風が頬を叩いた。
 前夜の湿度が嘘みたいなからりと晴れた朝だ。上着を着こむには早いが、真夏の焼くような暑さは去っていて、道行く人々の服装は半そでから長袖までまばらだ。疲労の滲む足取りや、きっちりと髪を整えた後頭部をいくつも追い越し、一日を生きるために歩く人間に紛れて足を動かす。
 職場に到着すると「おはようございまーす」という軽い声と、いくつかの話し声が飛び交っていた。それらの横を通り過ぎて簡単に荷物をまとめ、ロッカールームに向かう。着古したつなぎに着替えたら今度は解剖室へと向かい、解剖を一件。解剖台に横たわる人間の皮膚を開き、内臓に触れて、すべての情報を拾えるように五感を集中させる。検体を解析に回すように指示を出して皮膚を閉じる。器具を片付け始める頃には、一足先に解剖を終えた三澄班が解剖室から出て行った。
 解剖台も片付けてオフィスに戻り、一息つくために淹れたコーヒーを手に、どさりとソファに腰掛ける。
 はあ、と大きく息を吐いてコーヒーを啜っていると、所長室から出てきた神倉さんが迷うことなく冷蔵庫に向かっていき、中から箱をひとつ取り出して掲げ、「じゃーん」と言いながらオフィスの中央までやってきた。
「本日のおやつはなんと。なんと! キハチのロールケーキですっ」
 神倉さんが高らかに宣言すると、途中まで話半分に聞いていた三澄と東海林から甲高い歓声が上がる。
「えっ、ほんとにキハチ!?」
「やっば! 神倉さん最高~!!」
 きゃっきゃと盛り上がっている二人は慌ただしく皿とフォークを用意し始める。そうして取り分けられたロールケーキを口に運んだかと思うと、顔合わせてまた歓声をあげた。
「生クリームが沁みる~」
「あー、これで午後もがんばれるわ」
「それね。神倉さん、ありがとうございます」
「いやあ、喜んでもらえてよかった。皆さんにはこれからもバリッバリ働いてもらわないといけませんからね」
「もうすでにバリッバリの労働時間になってますけどねー」
「東海林さんは自力で相殺するじゃない」
 東海林と神倉さんのふざけてるんだかなんだかわからないやり取りが盛り上がりかけたところで、三澄の「あっ」という短い声がそれを遮る。
「ねえ、六郎の分どうしよっか」
「あ。あいつ次いつ来るんだっけ?」
「たぶん木曜だから……三日後」
「……」
「……」
「半分こでいい?」
「うん、私ベリーのとこ欲しい」
 久部の取り分は三澄と東海林の胃の中に消えることに決まったらしい。あとになってこの話を知ったら羨ましがるのだろうと考えると、久部が少しだけ哀れに思えてつい鼻で笑ってしまった。その瞬間、顔の横にずい、とロールケーキが乗っている皿が差し出された。
 皿を持つ手を辿って顔を上げると、神倉さんの笑顔に辿り着く。
「中堂さんもどうぞ。おいしいんですよ、このケーキ。今日だけ〝特別〟ですからね」
「……ありがとう、ございます」
 返事に迷って時間がかかってしまったが、おとなしく皿を受け取る。すると、神倉さんの笑みが深くなった。このケーキに含まれた意図に俺が気付いていると、神倉さんも気付いたらしい。
 笑顔から逃げるようにして皿の上に乗っているケーキに目をやる。
 中心に置かれたバナナをぐるっと囲む形でクリームが詰まっていて、さらにそのクリームの中に何種類もの果物が入っていた。どこか有名な店のものらしいロールケーキは、白い皿の上に堂々と鎮座している。
 端の方からフォークで一口大に切り分けて口に運ぶ。咀嚼して飲み込んだそれは甘すぎず、果物の酸味がきいていて確かにうまい。しかし、これ以上何かを言う気にはなれなかった。
 今日が俺の誕生日だと知っている神倉さんが、ほかの奴らに知られないようにこっそり祝ってくれているのだと理解はしていたが、元々、三澄や東海林のように嬉しいからといってはしゃぐような質ではない。それは神倉さんだってわかっているはずだ。そもそも、俺としてはこんなことをする必要はないと思うのだが、それをこの場で口に出したりはしなかった。そんなのはガキのすることだと判断する程度の分別はある。……いや、去年はもしかしたら口にしていたかもしれないが。どうだろう。毎年、この日は常よりも苛ついていてあまり覚えていない。
 いまいちどんな顔をしたらしいのかわからないままケーキを咀嚼する俺を満足そうに見て、神倉さんは空いた皿を一枚ずつ回収していく。そして、途中で研究フロアから戻ってきた坂本にもケーキを勧め、てきぱきと午後の予定を確認し、調査のためにオフィスを離れる三澄班を見送っていた。
 俺もからになった皿を下げると、神倉さんはにんまりと笑った。

 

 その後、三澄班が出払っている間に急遽舞い込んできた案件の解剖は中堂班が担当した。
 基本的な手順は変わらない。肉体を開き、内臓に触れて、違和感を見落とすことがないよう観察する。最後に縫合してご遺体を保管庫へと移し、解剖台と器具の清掃。
 それらすべてを終えたらシャワーを浴びてオフィスに戻り、データがあがってきた案件から順にまとめていく。そうやってソファを陣取りパソコン画面と向き合っている最中に三澄と東海林が戻ってきて、一気にオフィスが賑やかになった。今日の結果と、明日の予定を話し合っている様子が伝わってくる。
 放っておいても聞こえてくる声は雑音として処理して、作業を続けること一時間。退勤するという坂本から声をかけられたことで定時を過ぎていると気付き、きりのいいところでデータを保存してパソコンの電源を切った。
 荷物をまとめ、鞄のファスナーを閉めようとしたときだ。唐突に東海林の素っ頓狂な声がオフィスに響き渡り、何事かと顔を上げると、東海林のデスクの前で話し込んでいたらしい三澄班の二人が揃ってこちらを凝視していた。なんだっていうんだ。
「えっ! 中堂さんが自主的に定時退社……!?」
「昨日だって神倉さんが無理やり帰したのに……中堂さん、天変地異は起こさないでくださいね」
「ねえ、この場合、降るとしたらやっぱ槍?」
「あっはっはっ、あり得る」
「あーうるっせえ……」
 かしましいとはまさにこのことだろう。眉間に力を込めて睨み付けても、ちっとも効果なんかありはしない。その証拠に、三澄も東海林もまったく意に介さず「お疲れさまでしたー」と言って話に戻ってしまった。クソッと吐き捨てて背後を通り過ぎたが、やはり気にする者はいなかった。
 どかどかと大股で歩いてエレベーターで一階に降り、西武蔵野研究センターの敷地を出たところでポケットの中のスマートフォンが震えた。取り出した端末の画面にはメッセージが一件。
《すみません、少し遅れそう》
 メッセージを送ってきた相手の焦った顔を思い浮かべてしまい、思わず笑いそうになる。
《焦らず来い》
 それだけ送って端末はポケットに突っ込み、待ち合わせ場所へと向かって歩き始める。すると、最近ようやく涼しくなり始めた風が前髪を微かに揺らした。目元をかする毛先のうっとうしさから顔を上げる。
 すっかり日は落ちているが、街灯や店の明かりが途切れることなく道を照らしていて、暗いとは感じなかった。毎日見る同じ道が、いつもと同じように続いている。

 この道を歩くようになって二年以上が経ち、今では多少ぼうっとしていても目的地に辿り着けるようになった。それをときどき、奇妙だと感じる。
 新しい文具をねだる小学生くらいの子どもと手を繋いだ母親とすれ違う。車道を挟んだ向こう側の歩道では、買い物用のカートを引っ張る老夫婦がゆっくりと歩いている。それを追い越していく、急いでいる様子のスーツを着た男。俺の目の前から向かってくるのは、大きな声で通話しながら歩く制服姿の少女だ。
 俺は、歩き慣れた道を同じ速度で歩き続ける。足を動かし続けて、待ち合わせ相手との約束を果たすためにまっすぐ駅に向かっている。
 ……ふと、立ち止まる。歩き続ける人々の中で自分だけが止まってみて、ようやく少し息が吸えた。うしろから俺を追い越していった数人からは迷惑そうな視線を送られたが、構わず息を吐いてもう一度歩き始める。
 大抵の場合、何かをしている間は余計なことを考えずに済むものだが、ただ歩くという行為はむしろ思考を加速させる。
 これから俺は生まれたことを祝われに行くのか。そう思うと、喜びではなく、重苦しい石のようなものが胃の腑に落ちていくようだった。
 八年前から、自分の誕生日というものは、現実を突き付けられてどうしようもなく苛立つだけの日になった。たかが数字、されど数字。毎年ひとつずつ増えていく数字……夕希子のそれが動くことはもうないのに。
 同い年だった俺の歳が三十五を超え、四十路を迎えても、夕希子はずっと三十三歳のままだ。いつだったか確か『将来はかわいいおばあちゃんになる』と言ってきれいな白髪になるかを気にしていたが、彼女が白髪を手入れする日も、しわに悩む日も、永遠に訪れることはない。
 俺だけが、夕希子を置き去りにして日々を歩き続けている。それを突き付けられるだけの日になってからは、毎年の誕生日が苦痛で仕方なかった。だから、今日も例に漏れず暇さえあれば余計なことを考え始める脳を誤魔化すために、目覚めてからずっと、何かしら手を動かし続けた。
 犯人が捕まったとはいえ、そう簡単にすべてが変わるわけではなく、怒りが、憎しみが、絶望が、時折魔が差したかのように意識の隙間に忍び込んできて俺を引きずり込もうとする。
 ……これを見せたくない。こんな暗くて汚いものは、最近同じ時間を共有するようになった青年には背負わせたくない。そう思えるようになったのは、この数ヵ月で起こった大きな変化のひとつなんだろう。隣に並ぶことを許容しているという事実も含めて。

 止まない数多くの声と人の多さに辟易としながら、待ち合わせ場所である駅の階段を降りたところで突っ立っていると、背後からバタバタと忙しない足音が近付いて来た。弾む息と混ざって上ずった声が俺を呼ぶ。
「中堂さんっ、すいません、遅くなって」
「焦らなくていいって送っただろう。見てないのか」
「見ましたけど、そんな悠長なこと言ってたら今日が終わっちゃうじゃないすか」
「十分や二十分そこらじゃ変わらん」
「何言ってるんですか、変わりますよ。一年に一回しかないんだから」
 息が整い始めた久部の声に呆れた調子が混ざり、口が大きく開いて、はあ、とひとつ息を吐き出される。
「行きましょう。いいやつがなくなる前に」
 久部は歩き出しながら、ポケットから取り出したスマートフォンで店の情報を確認する。俺も続いて歩き始めた。
 隣を歩く久部の、わずかに俯いたことで晒されたうなじにはうっすらと汗が滲んでいた。精一杯急いだのだろう。言動の端々から俺の誕生日なんてものに力を注いでいるのだと伝わってきて、どうにもむず痒い心持ちになる。行き場のないその感覚に促されてぐしゃぐしゃと少しばかり乱暴に頭を撫でてやると、されるがままの久部が気恥ずかしそうに笑った。
 雑踏に流されるようにして歩き、駅から五分ほどの場所にある百貨店に入って総菜を買い込む。せっかくだからと気になるものを片っ端から買っていたら、和食、洋食、中華とまったく統一性のないメニューになっていたのだが、それも含めて久部が楽しそうに笑ったから気にならなかった。
 最後に、久部が絶対に必要だと主張したケーキと、普段飲むものより少々値の張るブランデーを買って百貨店を出る。荷物を分け合って持ち帰る道中でお互いの一日の話をしたが、三澄と東海林が久部の分もロールケーキを食べていたことは黙っておいた。
 アパートの階段を上り、鍵を開けて、数時間ぶりの我が家に入る。
 二人で会う場所がもっぱら俺の家になっているせいで、久部は慣れた様子で玄関に上がった。何も言わなくても手洗いうがいを済ませて、カウンターに総菜を並べ始める。それを終えると、ふた月ほど前にひとつ増えたスツールに腰掛けた。
 学生の久部の部屋は男二人がくつろぐには少々狭苦しく、自然とこうするのが当たり前になった。久部が定期的にやってくるようになって増えた二人分のグラスに氷を入れ、買ってきたブランデーを注ぎ、箸と一緒にカウンターに置いて自分も隣に座る。
「それじゃ、中堂さん、誕生日おめでとうございます!」
 差し出されたグラスに自分のグラスを合わせてカチンと音を鳴らし、酒を口に含む。熱によく似た刺激が喉を滑り降りていき、小さく息を吐いた。同じく酒を口に含んだ久部も感嘆の声をこぼしながらグラスを見ていて、俺が何も答えなかったことは気にしていないようだった。
 別に構わないのに、久部が「主役が先」と言ってきかないから、端から並んでいる順に一品ずつ口に運ぶ。どれも専門店の品だけあって味は悪くない。久部は特に中華が気に入ったようだから、それは任せて俺は和食を中心に箸を進める。
 テレビやラジオの雑音がない部屋は静かで、久部の声がよく通った。同級生の話をしていたはずが、いつの間にか解剖学の話になってしまっているのは職業病のようなものだろう。久部はそれに気付くたびに謝るのだが、今はそれでいいし、浮き沈みの少ない、思考を追って話す声は耳に心地よい。
 食事を始めて小一時間になる頃には、二人ともほどよく酔いが回り、総菜も残り少なくなっていた。最初よりも口数が減り始めて、箸よりもグラスを持っている時間の方が長くなってきている。
 自分のグラスを空けて立ち上がり、それぞれのグラスに氷と酒を足した、そのときだ。それまでぽつぽつと喋っていた久部が急に静かになったかと思うと、箸を置いておもむろに立ち上がった。壁際に置いてあったリュックサックの中を漁り、戻ってきて、両手で箱を差し出す。
「おめでとうございます」
 二つのグラスを元の位置に戻し、スツールに隣り合って腰掛ける。改めて告げられた言葉と一緒に渡されたのは、紺をベースに白でシンプルな模様が描かれた紙で包装された、手のひらより少し大きい箱だった。紙の上から巻かれた銀のリボンが華やかさを演出している。
 それを久部の手から受け取ってまじまじと眺める。やはりどこか、胸の中心がむず痒い。
「わざわざ用意してくれたのか」
「そりゃするでしょ。こ、恋人の、誕生日なんだし。高級レストランで、とかじゃないのは申し訳ないですけど……」
「これで十分だ」
「うーん、デパ地下もうまいけど、やっぱりなあ……」
「久部。……ありがとう」
 箱から目を離さずに告げると、隣から微かな吐息の音がした。きっとむずがるような顔で笑っているのだろう。
「開けていいのか」
「もちろん。どうぞ」
 リボンをほどき、テープを剥がしてまっすぐな折り目のついた包装紙を開いていくと、中から正方形の桐箱が現れた。木目の上に達筆な字で店名が印字されている。
 少しばかり力を込めて蓋を開ける。白いつるつるとした布が敷き詰められた箱の中、あらかじめ用意されたくぼみに陶器のマグカップが収まっていた。同梱されている紙には説明書きと合わせて〝美濃焼〟と書いてある。
 漆黒の中にうっすらと模様が浮かんでいるような、それでいてどこか透明感のある、どっしりとした印象のマグカップを手に取る。陶器の表面を撫でてみると、冷たいはずのそれが不思議と指に馴染んだ。あたたかみがある、とでもいうのだろうか。
「……それ、家でもUDIでもいいから使ってくださいね」
 そう囁いた声がやけに神妙で、マグカップを持ったまま隣に視線を向けた。
 久部は真剣なまなざしで俺の手元を見ていた。笑顔でもないが冷めているのでもなく、ただ静かに一点を見つめている。
「まだ少し先だけど、本格的に実習が始まったら今よりもっとUDIには行けなくなるし、近いうちに夜勤のバイトを始めようと思ってるんです。実習が落ち着いても卒業試験と国試があるし、そのあとは研修期間だし、きっと、これからどんどん会えなくなる」
 きゅ、と唇を引き結んだ久部が顔を上げる。そのまなざしに宿る光の強さに身動きが取れなくなる。
「だから、コーヒー一杯飲んでる間だけ、俺のこと考えてください。これ、使うときだけでいいんで」
 眼鏡の奥にある瞳はまっすぐこちらに向けられていて、迷いなど微塵も感じ取れない。
 思わず、わずかに目を開いて黙り込んだ。口はうっすらと開いているが何ひとつ声にならず、黙って久部を見つめ返すしかない。沈黙に耐えられなかった久部が、まずはちゃんと進級しろってとこからなんすけどね……と、もごもごと続けていたが、その声にもろくに反応できなかった。やがて久部も口をつぐんでしまい、しんとした静けさが訪れる。
 無言で向き合っている状況が気まずくなったのか、久部はうろうろと左右に目を泳がせた。迷いを含んだ視線を落とし、唇を噛む。それからもう一度顔を上げて、カウンターに腕を乗せてわずかに身を乗り出し、内緒話をしているみたいに声を潜めた。
「……なんか、ないすか。してほしいこと、とか」
「……なに?」
「誕生日プレゼント。追加で」
「もうもらったぞ」
「いやなんか、これじゃプレゼントっていうより、俺のわがままな気がして……食事も、結局中堂さんも出してるし……だから」
 久部の喉が、こく、とわずかに上下する。
「……エロいのでも、いい、すよ」
 いかにも〝覚悟を決めました〟と言わんばかりの表情で見上げられ、堪えきれずに破願した。ハッ、と息を吐き出すと、久部の表情にじわじわと困惑が滲み始める。
「バァカ」
「ばッ……!?」
 久部の目が大きく開かれたのがわかったが、無視してマグカップを桐箱に戻し、表面に水滴がついてしまったグラスを手に取り酒を煽った。
 どうせさっきの沈黙を不満とでも捉えたのだろう。代案を出してくるあたりがらしいといえばらしいが、残念ながら答えを教えてやるつもりはないし、久部が俺の胸中を理解することはおそらくない。
 マグカップに込められた願いを知った瞬間、俺の中にあったのは、
〝そんな何年も先の未来も、当たり前に一緒にいるつもりでいるのか〟
 ……という純粋な驚きだった。
 たったそれだけのことで? とお前は答えるんだろうが、学生から社会に出る時期なんて身の回りのすべてが目まぐるしく、刺激的なはずだ。環境が変われば感情も変わるのは当然で、いつ『やっぱり違った』と言い出してもおかしくないとこちらは頭の片隅に置いているというのに、当の本人がそんな可能性などほっぽり出しているらしいとわかったんだから驚いて当然だろう。
 喉を通過していくアルコールの余韻を楽しんでからグラスを置いて、ちらりと隣の男を見やる。
 久部はまだ大きく目を見開いていた。硬い表情でわずかに瞳を泳がせて、ぎこちなく肘をついて口元を隠す。
 同じように肘をつき、少しだけ首を傾けて顔を覗き込んでやると、ほんのりと羞恥が滲む瞳と視線が交わった。逸らされたりはしなかった。ほんのわずか、ゆらりと揺れた瞳が、俺の言葉を待っている。
「今日ならなんでもしてくれるんだったか」
「なん、え、なんでも……? うん……なんでも、です。あ、でも一個! ……一個だけ」
 ぴんと伸びた人差し指が差し出される。おそらく細かい条件など考えずに提案を口にしていたのだろう。どこか焦った様子がまたおかしくて、ふ、と笑いがこぼれた。
「そうだな……お前がここにいてくれたら、それでいい」
「はい。……え、そ、それだけ?」
「ああ」
「……元からそのつもりなんですけど」
「そうだな」
「嘘だろ、無欲……?」
「んなわけあるか」
 そう言っても信じられないのか、久部は怪訝そうな表情で首を傾げた。しかし、それ以上何か言ってやるつもりはない。
 望んだ相手の時間も居場所も欲しいだなんて、こんなに強欲なことはないだろう。物欲よりもずっと重く、ずっと恐ろしいはずだが、今それを説いたところで理解が得られるとは思えなかった。
「ほら、いいから食っちまえ。残しても仕方ない」
「あ、はい」
 再び料理に手を伸ばし、適度に酒も飲みながらもくもくと食事を続ける。
 しばらくそうしていると、プレゼントを渡す前よりも口数少なくなった久部が、ローストビーフの最後の一枚を口内に押し込んでぽつりと呟いた。
「エロいのは、なし、すか?」
「あとでな。やらないとは言ってない」
 こくりと頷いた久部の肩から力が抜ける。それを誤魔化すかのように、久部は一瞬迷ってから箸を置き、自分のグラスに手を伸ばした。
 グラスにまとわりついている雫が骨ばった指を濡らし、指の腹を伝って手首を滑り落ちていく。その光景がひどく煽情的に思えて目を細めた。グラスを下ろした久部と目が合う。かろ、と氷同士がぶつかり位置を変える。次いで、コト、とグラスとカウンターが触れ合う音が耳に届いたと同時に、久部も目を三日月形に細めて、ゆったりと口角を持ち上げた。
「すけべ」
「……おい、覚悟しとけよ」
「……え?」
「お前が言ったんだからな」
「うわ、やっべぇ。あの、お手柔らかにお願いします」
「どうだかな」
「月曜からはまずいって……!」
「知るか」
「中堂さん……っ」
 あああ……と嘆いてぼやく姿を横目で眺めてこっそりと頬をゆるめる。いつ冗談だと明かしてやろうかと考えながらうま煮に手を伸ばしたとき、不意に、朝からずっと燻ぶっていた怒りや絶望が薄らいでいることに気が付いた。

 ――そういえば、駅で声をかけられてから今この瞬間まで、この青年のことばかり考えている。

 途端に、心臓の近くが締め付けられるように痛んだ。
 八年の間、誕生日とは、夕希子との距離が離れていくだけの日だった。それが、どうやら今は別の意味を持っているらしい。
 今日から約二ヵ月間だけ、俺と久部の年齢差はひとつ縮まり、十一月にはまた十五歳差に戻る。生きている限りそれを繰り返す。縮まりも開きもしない時間を共有していく。
 これから先の九月十日とはそういう日になるのだろうか? ――そういう日にしていっても許されるのだろうか。
「中堂さん?」
 名前を呼ぶ声にはっとして隣を見ると、半端に手を伸ばしたまま動きを止めた俺のことを、久部が気遣わしげに見ていた。
「大丈夫ですか?」
「何がだ」
「いやなんか……そんな気がして。すいません」
「別に怒ってるんじゃない」
「それはわかってます」
 ふ、と久部はどこか得意げに吐息を漏らした。それ以上は本当に気にした様子はなく、エビチリを箸でつまんで口に運び、ひとりで頷いている。
「……久部」
「はい?」
「十一月、どうしたいか考えとけよ」
「……はい」
 一瞬目をまるくした久部が照れ混じりの顔でくしゃりと笑う。口の前にかざされた手の甲の向こうにちらりと八重歯が見えて、唐突に目頭が熱くなり、目の前で笑う恋人に気付かれないようにぐっと堪えた。

 ――ああ、こうやって終わる一日なら、きっとそう悪いもんじゃない。

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