みちゆき *

夕希子さんの墓参りにいった中堂と、中堂とお付き合いしてる六郎の話。一緒にいるってことを考えたり、もやもやしたり。
六郎初めての中いき話でもある。

 ブーッ、と音を立てて、テーブルの上でスマートフォンが震えた。午前から始まった解剖を終えて、オフィス内のソファで休憩しているときだった。同じテーブルを囲んでいる班員二人にすみません、と断って慌てて端末を手に取り、画面上の通知をタップすると、写真が一枚とメッセージが表示される。
《なにもない》
 たった今送られてきた短すぎる文章に思わず笑いそうになってどうにか堪える。口角が上がらないように唇を噛んだのだが、どうやら逆効果だったらしい。隣に座る東海林さんがバウムクーヘンを頬張りながら、ちらりと俺の手元に視線を寄越してきた。
「中堂さん?」
「あ、はい」
「なんだって?」
「『なにもない』そうです」
「なにそれ」
「いやマジですって」
 ほら、と送られてきた写真を見せると「うわ、絶景~」と楽しそうな声があがる。
 差し出した画面には満天の星空が映し出されている。写真の端に木々の影は写っているが、地上から見上げた風景を邪魔するものは何もない。出発前に中堂さんが言っていた、墓所は都心から離れた場所にあるらしい――という話は事実だったようだ。
 画面の中の星空を堪能していた東海林さんが「海外かあ」と遠い目をして呟いて、不意に首を傾げる。
「あれ、テネシーって時差どれくらいなんだっけ」
「こっちより十四時間くらい遅いらしいすよ」
「ってことは、向こうは今深夜?」
「みたいっすね」
「だからこの星空かあ」
 なんてことを言いながら片手で返信し、メッセージ画面を閉じて、神倉さんが用意してくれた本日のおやつのバウムクーヘンを頬張る。スマートフォンをテーブルの上に戻すと同時に、今度はミコトさんが「あ」と呟いた。
 ミコトさんは愛用の椅子ごと移動してきて俺たちの正面に座っている。それまではおにぎりを食べながら東海林さんと俺の会話を笑って聞いていたのだが、何かに気付いたらしく、お茶で口の中のおにぎりを流し込んで言葉を続けた。
「じゃあ、ついさっきまであっちでは命日だったんだ」
「そうなりますね」
「そっか……。向こうも晴れてるといいね」
「……はい」
 ミコトさんが微笑むと東海林さんも頷く。俺も同じように頷いて、もう一度テーブルの上のスマートフォンに目をやった。
 中堂さんが日本を発ったのは二日前のことだ。
 夕希子さんを殺害した犯人が逮捕されてから初めての命日に墓参りに行くために、有休をとってアメリカへと旅立った。UDIは今だけ受入数を調整して三澄班のみ稼働、坂本さんは各種サポートという形を取っている。
 数日とはいえ受入数を調整しなければならなくなったUDIだが、この事態に不満を持つひとはいなかった。だって、みんな知っている。中堂さんがどれだけ必死に事件に向き合ってきたか、夕希子さんを大事にしていたか……。そのおかげで出発当日の午後は職員みんなから『早く帰れ』と急き立てられていたくらいだ。
 テーブルを中心にどことなくしんみりとした空気が流れる。高瀬の有罪を証明するために奔走した日からまだ一年足らず。事件そのものも、あのときの中堂さんの姿も記憶に新しいと、そう感じているのは俺だけじゃないんだろう。
 そっと噛んだバウムクーヘンのやさしい甘みが染みる。続けて愛用のマグカップに手を伸ばしてコーヒーに口をつけたところで、東海林さんがさっきよりも声を落として独り言のように呟いた。
「六郎はえらいよねえ」
「なんすか、急に」
 俺は思わず笑ってしまったのだが、東海林さんは声のトーンを変えず、両手で持っているカップをゆらゆらと揺らす。
「だってさ、あのときの中堂さんを私たちは知ってるわけじゃない? なんか、自分だったらちゃんときれいに受け止める自信ないなあって」
 だからすごいよ、ろくろーは。と続けた東海林さんの手が伸びて、ぽんぽんと俺の肩を撫でる。そこから優しいぬくもりが染み込んでくるようで、どう答えたものかと苦笑する。
 二人にだけ聞こえるように抑えた返事は、東海林さんと同様、独り言のようになってしまった。
「そんなことないっすよ」
「そうなの?」
「全然すね。夕希子さんのことは大事にしてほしいですけど、まあ、めっちゃぐちゃぐちゃもするし。そんないいもんでもないです。でも……」
 その先を口にしてしまうのはためらわれて言葉に詰まる。
 ――もしも末次さんに拾われていなかったら、俺がこうしてここにはいることはきっとなかった。ミコトさんだって、親に殺されかけた過去がなかったら法医学者にはなっていなかったかもしれない。それと同じように、夕希子さんを愛して喪った中堂さんじゃなければ、きっと今の中堂さんになってない。俺と付き合ったりなんかしなかっただろうし、俺も彼を好きになったりしなかったんだと思う。だから、つらくても苦しくても、その事実ごと一緒に生きていきたかった。
 うまく言えずに口ごもる俺を見ていたミコトさんが、静かにゆるやかに頬を緩める。
「……うん。そうだね」
「……はい」
 うまく言葉にできなくても意図を汲んでくれるひとがいることで、ようやく自然に笑えた。東海林さんもそっと笑って、今度はぐしゃぐしゃと髪が乱れるほど頭を撫でてくる。
「ちょ、ぼさぼさになる……!」
「いいから! 撫でられときなって」
「東海林ぃ、ほどほどにしときなよ?」
 持ち前の好奇心と洞察力で俺と中堂さんの関係を察知した――曰く『顔に出すぎ』らしいのだが――上司でもある班員二人は、身近な職場恋愛にはほどよく距離を置きながらも、からかうことを忘れない。おかげで俺は今日も自分を許して笑っていられる。

 神倉さんに声をかけられるまでぎゃあぎゃあと騒いだあと、壁に掛けられた出勤表を横目でこっそりと見て【中堂】の欄に並ぶバツ印を数えた。

 *

 オフィスでそんな話をしてから三日後、午後の講義を終えたその足で空港に駆けつけた。
 予定より大学を出るのが遅くなってしまい、人にぶつからないように注意して早足で歩く。そうして立ち止まった先で現在の運航状況を確認し、ひっきりなしに響いているアナウンスを聞き逃さないように意識しながら端末にメッセージを入力する。
《到着ロビーにいます》
 送信できたところまで見届けて、スマートフォンをコートのポケットにしまった。手をポケットの中に突っ込んだまま、夜だというのに人でごった返している空間を見回して小さく息を吐く。
 広々とした空港のロビーは様々な人が行き来している。大荷物を引っ張って一人で歩く人、再会を喜ぶ人、誰かを待って立ち続けている人――俺は待ち人を見逃すことがないように、きょろきょろと忙しなく視線を動かし続けている。中堂さんは『来なくていい』と言ったのに、俺が『行きたい』と渋ったんだから、五日ぶりに見るその姿を見逃すわけにはいかなかった。
 飛行機が到着するタイミングに合わせてロビーの混雑具合は変化し続けていて、少し人の波が落ち着いたかと思うとすぐに次の波がやってくる。
 中堂さんが乗っていた飛行機の到着時刻から考えて、そろそろ出てくる頃のはずだ。出迎えに来ているらしい家族にかき消されないように数歩移動して、押し寄せる一団を端から端まで見渡す。すると、ロビーに向かってくる団体の真ん中より少しうしろの方にその姿を見つけた。くりくりとあちこちに跳ねた癖だらけの髪が周囲の人々の頭の合間から覗いている。
 ロビーの端に立って人波を避けながら、中堂さんに向かって手を上げる。顔を上げた中堂さんは俺を見つけると、同じように手を上げてくれた。遠くから目が合って自然と頬が緩む。
 いくつもの賑やかな声であふれ返る中、思い思いの方向へと進む人々の合間を抜けて近付いてくる中堂さんを待ち続ける。そうして全身が見えるようになったとき、目に飛び込んできた見慣れない格好に少しだけ動揺した。でも、それは笑顔で隠して向かい合う。
「おかえりなさい」
「ああ――ただいま」
 そう言うやいなや、中堂さんは両手を広げて俺の体を腕の中に捕らえた。
 え、という俺の声は、近付いてきた肩に吸い込まれてほとんど音にならなかった。人前で抱きしめられるなんて初めてだ。それどころか、外で手を繋いだことだってないのに。
 思わず全身に力が入り、息を詰めてしまう。そのとき、耳のうしろの方でふっと中堂さんの吐息を感じた。中堂さんは腕の力を緩めることなく、密やかな声で囁く。
「大丈夫だ。ここじゃ誰も気にしちゃいない」
 中堂さんは俺の動揺なんてお見通しだったらしい。
 少しの気まずさを誤魔化すためにゆっくりと呼吸して、中堂さんの肩越しに周囲の様子を窺う。確かに彼の言うとおり、こっちを注視しているそぶりのひとはいなかった。みんな自分のことに夢中で、他人のことなんて気にしていない。ついほっと息をついてしまったが、それで恥ずかしさがなくなるわけでもなく、大きく抱き返せずに腰の辺りに手を添える。
「……ア、アメリカ式……?」
「なに言ってんだ」
 くつくつという笑い声と振動が体に直に伝わってきて悔しくなり、拳で軽く脇腹をどつく。それでも中堂さんは俺を離さない。仕方がないから、中堂さんが満足するまでおとなしく待つことにした。
 しばらく同じ体勢で抱き合ったあと、中堂さんは、はあ、とひとつ静かな息を吐いて笑いを収めた。
「……会いたかった」
 耳に触れた思いもよらない言葉に、つい目を見開いてしまった。だが、次の瞬間には、その声に宿っていた切実さに胸の奥が熱を帯びてきて、そっと腰に手を回してなんとか「俺もです」とだけ返した。そうしてやっと解放される。
 改めて向かい合った中堂さんの表情はいつもと変わらなかった。なんだか小さな引っ掛かりを覚えたが、結局、たった今行われたやり取りに触れることはなく、どちらからともなく並んで歩き始める。
「飯は?」
「まだです」
「なんか食ってくか」
「何食いたいすか?」
「和食」
 そう答えた中堂さんの声にあまりにも迷いがなくて、カロリーもボリュームもたっぷりのアメリカ料理を辟易とした顔で見ているところを想像して笑ってしまう。
「こら、何がおかしい」
「いやなんでも……あ、確か途中にそば屋ありましたよ」
「ああ、いいな」
「じゃあ決まりで」
 そう言って、日常に戻るために駅のホームを目指した。

 

 そば屋までの道中も話が尽きることはなかった。会えない期間はたった数日だったのに、共有したいことは山ほどある。手始めに、今日、空港に来る前に受けていた講義の話。それからUDIのみんなこと。それが終わると、テレビ番組や美味かった菓子について。どれも取るに足らない出来事ばかりだけど、中堂さんは相槌を打ちながら聞いてくれていた。
 目的の店に辿り着き、カウンターに並んで座って注文を済ませてからも話題はあちこちに飛び回った。やがて近況といえるような話が尽きたところで、くだらない雑談に織り交ぜてさりげなく「服、珍しいすね」と初めて見る真新しいジャケットをさして尋ねてみると、中堂さんはなんてことない顔でジャケットの裾をつまんでみせた。
「和有さんの手前、さすがにな」
 と言って、少し煩わしそうに眉をひそめていたけれど、ボタンや裾を扱うその所作はよく馴染んでいた。そこに知らない中堂さんがいるみたいで少し息が苦しくなったが、努めて明るい声を出す。
「糀谷さん、お元気でした?」
「ああ。最近ようやく落ち着いてきたところだとは言ってたがな。二十六人殺しはさすがに向こうでも話題になったらしい」
「殺害方法が全部違うシリアルキラーだもんなあ……」
 口にしながら嫌な気分がよみがえる。高瀬のあの、目になんの感情も乗っていない笑い顔や、裁判所での上擦った叫びを忘れることはきっと今後もないだろう。
 そんなことを思い出したせいで、知らずに表情が曇っていたのかもしれない。中堂さんは横切った苦い空気を打ち消すかのように、正面を向いたまま落ち着いた声で続けた。
「まあ、おかげでちゃんとした追悼式ができたとも言ってたが」
「……よかった」
 そう呟いたところで二人分のそばが運ばれてきた。お盆を受け取り、店員と言葉を交わしている間も中堂さんは俺から視線を外さない。俺は七味を自分のそばにかけて、木製の容器をふたつのお盆の間に置いた。
「夕希子さんのことをちゃんと覚えてるひとが増えるのは、いいことですよね?」
 宍戸が書いたような誇張されたゴシップではなく、俺が中堂さんから聞いたみたいな、あたたかくて力強い太陽みたいなエネルギーを持ったひとだったことを知ってる人がいるってことが、これからを生きていく人たちにはきっと必要だ。
 返事を待たずに、いただきます、と手を合わせて箸に手を伸ばす。ずずっ、と麺をすする音に混ざって「そうだな」という小さな声が隣から聞こえた。その声が穏やかなことに、自然と笑みが浮かぶ。
「UDIでも話してたんすよ、中堂さんのこと」
「悪口じゃねえだろうな?」
「あー、ちょっとは?」
「おい」
 いたずらっぽい声に笑って、水を飲んで一息つく。頭の中に巡るのはバイト先の職員たちの賑やかな話し声だ。
「じゃなくて、『晴れてたらいいね』って、ミコトさんが」
「……そうか」
「はい。天気大丈夫でした?」
「ああ。ついたときは雨だったからどうなるかと思ったが、当日は運よく晴れた」
 麺をつまみかけた中堂さんの手が止まって、すっと顔が上がる。
 カウンターの奥を見つめる瞳が遠い土地を思い返しているということはすぐにわかった。ここじゃないどこかを見ている中堂さんの口角がゆったりと持ち上がる。
「頭上一面が覆われてんのかってくらいの青空でな。……あれはこっちじゃそうそうお目にかかれない」
 俺は、思わず手を止めて隣を見ていた。
 やわらかく目尻を下げた中堂さんの横顔があんまりにもきれいで、どうしようもなく胸が苦しい。うん、とか、はい、とか何か言うべきなんだろうけど、何を言っても陳腐になる気がして声が出なかった。ただ目が離せなくて、胸が痛くて自分じゃどうにもならない。
 微かに震える指で手を伸ばした。遠くに目を向ける中堂さんのジャケットの袖口をつまんでそっと引っ張る。すると、中堂さんは不思議そうにこっちに目を向けて「どうした?」と首を傾げた。それには応えず、続けて袖を引き続けると、中堂さんは力の流れに逆らうことなく腕をテーブルから下ろした。
 俺は中堂さんを見つめたまま、周りから見えないように、カウンターの下で脱力している指にそっと触れた。小指の腹をそろそろと撫でて、指先をきゅっと握る。
 その瞬間、中堂さんの目がまんまるに開かれて大きくなった。黒目がちなふたつの目が驚きに満ちたまなざしで俺を見る。
 ――あ、かわいい。
 不思議だ。自分よりも体格のいい、十五も年上の男をかわいいと思う日が来るなんて考えたこともなかった。
 掴んでいた指先をするりと離して箸を持ち直し、つゆを吸った天ぷらを掴んで口に運ぶ。……まだ頬に視線を感じる。じわじわと目元が熱くなっている気がして、きゅ、と唇を食む。そうして、もう一度麺をすくって熱いつゆに息を吹きかけると、湯気が舞い上がって眼鏡が曇り、視界が真っ白になった。
「見えない……」
「……ふっ、何やってんだ」
 堪えきれなかったらしい笑い声が隣から聞こえてきたのと同時に、突き刺さっていた視線も外れてそっと胸を撫で下ろした。やらかしたー、とふざけて笑って、目の前のどんぶりに向き直る。
 まだ目元に熱が集まっている気がして、視界がふさがれてよかったと本気で思った。

 

 二人ともあまり喋らずにそばを食べきったあとは、いつもの調子に戻って帰路についた。
 明日の分の食事や飲み物を買い込んで、一緒に中堂さんの家に向かう。そうしようという話は元々していたから、改めて確認する必要はなかった。
 中堂さんのあとに続いて玄関に入り、鍵をかけたところで抱きしめられて、何度も唇を吸われ、荷解きもそこそこに布団になだれ込んだ。本格的に熱を逃がせなくなる前にどうにか踏み止まってシャワーを浴びて、それぞれ準備をしている間に部屋を換気したことは褒められてもいいはずだ。
 暖房のおかげで暖まった部屋で服を脱ぎ、互いに隅々まで触れ合って、数え切れないくらいキスをして、それでも足りずに限界まで近付くことを選んだ。
 じっくりと解された場所で、張り詰めた中堂さんのペニスを受け入れて、それが根元まで収まったことを察して短く息を吐いた。俺を見下ろしている中堂さんも小さく息をつく。 
「っ、中堂さん……」
「大丈夫だ、わかってる」
 言葉にするまでもなく、中堂さんは俺が落ち着くまで待ってくれる。動かないでいる間も中堂さんの手は広げた脚の内側や腹部を撫で回し、唇は頬や耳に触れ続けた。それだけでも体の奥にじくじくとした熱が溜まっていって、圧迫感よりも物足りなさの方が勝ってくるから不思議だ。
「もう、大丈夫」
 自分からも口づけを返して囁くと、ようやく中堂さんは腰を動かし始めた。
 ぴったりと下半身を密着させたまま、ナカを押し上げるみたいにゆるゆると揺すられる。しばらくそうしていると、体の奥から生まれた快感がゆっくりと全身に広まっていき、じんわりと汗が滲み始める。
 きもちいい。これだけでイけるような強烈さはないけれど、二人の間で揺れる性器はしっかりと勃起して先走りで濡れているし、頭の芯はぐずぐずに蕩けていく。中堂さんは呼吸を荒らげながらも少しの異変も見逃すまいと俺を見続けていて、視線で全身を焼かれているみたいだ。
「なかど、さん……」
「ん?」
「キス、ほしい、です」
「ん」
 厚みのある肩を指先で撫でると、ぐっと体が近付いて唇が触れ合った。下半身がより密着して、んん、と短く声が漏れる。それに小さく笑った中堂さんは、やんわりと唇を啄んでから口内に舌を挿し込んできた。
 熱い舌が絡まってくちくちと水音を立てる。舌先で上顎をなぞられたことでぞくりと快感が駆け抜けていき、思わず上擦った声が出てしまう。気恥ずかしさはあるが、それでもやめたいとは思わなかった。触れ合っている場所のどこもかしこも気持ちよくて、ちっとも離れたくなんかない。
 布団の上に投げ出していた手のひらに中堂さんの手が重なって、指と指が絡まり繋がる。ぎゅっと力を籠めると同じだけの力が返ってきて胸の内側が痺れた。

 このひとは案外と触れ合うのが好きなんだな、ということに気付いたのはわりと最近になってからだ。普段の言動から勝手に淡泊そうなイメージを持っていたけれど、二人きりの空間では手を繋いだり、抱き合うことにためらいがないし、セックスしない日もただ頬や首筋を撫でていたりする。まるで、そうあるのが当然だと言わんばかりの自然さで。
 でも、外では一度もそういう触れ方をしたことがなかった。
 ……その原因はきっと、俺にある。
 恋人同士になりましょう、とお互いの気持ちを確認して間もない頃のことだ。二人で過ごしていたある日の夕方、近場の定食屋まで出かけたとき、道端で不意に手が触れたことがある。並んで歩いている最中に何かの拍子で半歩距離が近付いて、こつん、と手の甲同士が触れ合った。それだけのことなのに、その瞬間、俺はとっさに手を引いてしまったのだ。
 反射だったとはいえ、自分の反応に驚いて顔を青くした俺に、中堂さんは何も言わなかった。自分の中に存在していた偏見と臆病さに俺自身が戸惑っている間も、変わらない態度で接してくれた。それは今日まで変わらず、おかげで俺は気負うことなく日々を過ごせているのだが、もしかしたら、これまでずっと中堂さんが譲ってくれていただけなのかもしれない……空港でのやり取りを経て初めてそう感じた。
 思えばセックスだってそうだ。こうして挿入して深く繋がったあと、これ以上激しくされたことがない。中堂さんはいつだって俺に負担がかからないように細部まで注視していて、俺が少しでも苦しそうなそぶりを見せると動きを止めて「大丈夫か?」と気にかけ、誤魔化そうものなら「無理はするな」と言ってきかない。だから、中堂さんが挿入しながら達した回数はさほど多くないはずだ。
 ナカを擦られて下半身がぐずぐずになるほど気持ちよくてもこれだけではイけないから、最後は自分でペニスを触るか、中堂さんに触ってもらって射精する。それで同時にイけるときはいいのだが、問題なのは、毎回タイミングが合うとは限らないということだ。そういうとき中堂さんは、俺が落ち着いたタイミングでまだ硬いペニスを抜いてしまう。そして、自分で扱いて出して終わり。
 おかげで俺は怪我をしたこともないし、苦しかったりつらい思いをした経験もない。中堂さんのセックスは熱を持ちながらも穏やかで、コミュニケーションという言葉がぴったりだと思う。
 だからこの行為が好きだ。言葉少ななこのひとが、指や唇だけじゃなく、全身で伝えてくれるものを余すことなく受け取れるこの行為が好きだ。毎日、毎秒、共に過ごす時間が増えるほどに、中堂さんがどれだけ大事に想ってくれているか実感する。
 それなのにまだ足りないと思ってしまった。俺は驚くほどに貪欲なんだと、自分のことなのに今さら痛感する。いくらだって欲しいし、同じだけのものを彼にあげたい。一方的に与えてほしいんじゃないんだ。

「っふ、中堂、さん……」
「どうした? イきたいか?」
「ぁ、ちがう」
 中堂さんの手が下腹部に向かいかけて、慌てて首を横に振る。自分の中にペニスを受け入れるのにもすっかり慣れたはずなのに、いやに緊張してごくりと唾液を飲み込んだ。動きを止めた中堂さんの顔は見れずにおずおずと口を開く。
「あの、っちゃんと、動いてください」
「悪い、よくなかったか」
「ッ、そうじゃなくて、……中堂さん、あんまり、は、激しくとか、しないじゃないすか」
「問題ない。もう十分気持ちいい」
「――っ俺が、中堂さんに、もっと気持ちよくなってほしいんです……!」
 意を決して視線を定めると、中堂さんが戸惑った表情で俺を見ていた。一度付いた勢いを止められず、言葉が次々と流れ出る。
「もっとちゃんと擦った方が気持ちいいの、俺だって男だしわかります。大丈夫です。もうかなり慣れたし苦しくもないし、だから、動いてみて、ほしい……」
 下半身は繋がったまま何をやっているんだろう、と急に頭の一部が冷えて、最後は尻すぼみになってしまった。
 中堂さんはまだためらっているみたいで、喜んでいるとはとてもいえない表情で俺の目を覗き込んでいる。だから負けじと見つめ返した。裏なんかない、ただ受け止めたいだけなんだと伝わるように。
 これだって俺のわがままに過ぎないんだろうけど、こうすることで見つかるものだってあるかもしれない――そんな念を込めてじっと見つめ続ける。
 やがて観念したらしい中堂さんは、ひとつため息をつき、身を屈めてかわいらしいキスをした。
「つらかったらすぐに言えよ」
 吐息が唇にかかる距離でそう囁いてから上体を起こし、俺の脚を抱え直す。そして、ゆっくりと腰を引いた。
 ずる、と潤滑剤のぬめりを借りてペニスが這い出る。何かぞわぞわとしたものが擦れた場所から駆け上ってきてぶるりと体が震えた。続けて、そっと息を吐いたタイミングで、今度はゆっくりと押し込まれた。粘膜が硬いもので擦られて、最後に奥に行き当たる。
 さっきとは違う、びりびりとした何かが腹の中で渦巻いて思わず息を詰める。
「久部、やっぱり……」
「ちが、ちがうんです……たぶん」
 うまく説明できずに首を横に振る。苦しくはないがもどかしくて、後孔が勝手にきゅうっと締まった。自分でもそれがわかって頬が熱くなり、顔を背けて目をつむる。一連の動作を黙って見ていた中堂さんはやっと安心したのか「続けるぞ」と言ってもう一度動き始めた。
 太くて硬いものがゆっくりと腹の中を往復する。抜けるときにはぞくぞくと肌が粟立って、奥を突かれると鈍い快感が体の中心を走って蓄積されていく。
 初めは遠慮がちだった動きが段々早くなってきて、途切れることなく突かれるようになるともうだめだった。堪えきれなくなった声が断続的にこぼれ落ちて止まらない。
 どうしよう、きもちいい。きもちいい。やめないで。もっと突いてほしい。
 腹の奥から駆け上がってくる熱が頭の中まで支配して、そんなことしか考えられなくなってくる。
「ッ、久部……!」
 切羽詰まった声が聞こえて目を開けると、怖いくらい必死な形相で俺を見下ろす中堂さんがいた。ぽた、と顎を伝った汗が同じく湿った腹部に落ちる。
「あんまり、っ、そういうことを言うな……!」
「え……?」
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。でもすぐに中堂さんの瞳の奥がぎらぎらとした欲で濡れていることに気付いて、慌てて自分の口を手で覆い隠した。
 無意識のうちに思考をそのまま口走ってしまっていたらしい。自分がどんな言葉を口にしたのか気付いた俺は、手のひらの下できつく唇を引き結んで中堂さんを見上げる。
 これまでに見たことのない顔で中堂さんが俺を抱いてる。眉根を寄せて、歯を食いしばって、呼吸を乱しながら何度も腰をぶつけてくる。その姿にかっと体が熱くなって、意識の片隅にあった矜持なんてものは一瞬で吹き飛んだ。
 唇を噛んだまま両手を伸ばす。中堂さんは上半身を倒して体を寄せて、俺の手を自分の首に回させた。しっとりと湿った肌に縋り付くと、首筋を這う唇に肌の薄いところを吸われて、その小さな刺激にすら体が跳ねた。繋がっている箇所から聞こえてくるぐちゃぐちゃという粘着質な音に自分の頼りない声が混ざる。
「っん、ン、ぁ、ッなかど、さ……っ」
「ん、どうした?」
「ごめ、っおれ、ァ、なんか変、かも……ッ」
 自分の体なのに、腹の中で渦巻いているものが快感だということしかわからない。自然と涙が出てきて、よくわからないところに力が入って、腰が勝手にびくびく跳ねる。漏れ出る声が恥ずかしいとか、そんなことを考える余裕もなく、強烈な快感が一気に全身を駆け抜けていく。
「~~~~ッ、あ、ぁ――……!」
 ぶ厚い背中に一際強く縋り付いた瞬間に俺の口からこぼれた声は、掠れてほとんど音になっていなかった。びくびくと断続的に震えていた足が解放感と共に弛緩する。
 息を荒らげたまま、しがみ付いていた背中を解放して両腕を布団に放り出すと、中堂さんもゆっくりと体を起こした。そして、俺の腹に飛び散った精液を見つけて、ひとつ大きく息を吐いた。その手でするりと俺の頬を撫でる。
「……よかったのか」
 こくりと頷くと中堂さんの表情が緩んだ。ゆったりと目を細めて、まだ断続的に痙攣している俺の肌を指先で辿る。そうしていつも通り腰を引いて抜こうとしたから、とっさに両足でそれを阻んでいた。腰にしっかりと足を回して、ぐ、と引き寄せて挿入を促す。
 中堂さんは苦笑して、宥めるみたいに太ももを撫でた。
 ……なんにも伝わってない。俺がどうしたいのか、どうしてほしいのか。仕方なく大きく息を吸って、緊張で震える唇を動かした。
「このまま、続けて、ください」
 こう言ったところで中堂さんが頷かないだろうことはわかっているから、その口が否定の言葉を吐き出す前にもう一度深く息を吸い込む。
「平気だから。お、俺の、……っおれのなかで、イって、ほし、ぃ……」
 ばくばくと心臓がうるさく鳴り響いて、顔が燃えるみたいに熱い。精一杯の勇気をもって発した言葉だったのに、本当に聞こえているのか疑問に思うくらい中堂さんは無反応だ。
 それ以上言うべきことが浮かばず、沈黙を不安に思い始めた頃、中堂さんは「お前……」とだけ呟いて目元を手で覆い隠した。はあ、と重苦しい息が吐き出されて不安が募る。しかし、それはすぐに覆った。中堂さんの頬にこれまで以上に強い赤みが差していたからだ。外された手のひらの下から現れた瞳に宿る光はまだ消えていない。
「少し、我慢してくれ」
 滲み出る色気に充てられて、何も言えずにこくこくと頷く。
 投げ出していた俺の両脚を抱え直した中堂さんはゆるゆると律動を再開した。明確に熱を帯びている手が腿を掴み、肌がぶつかる音がはっきりと聞こえるくらい腰を打ち付けられる。
 さっきと比べると刺激が強く感じられてつらくはあったが、それ以上にひどく興奮した。五感すべてが目の前のひとでいっぱいになる。
 大人で、余裕があって、俺を優先する中堂さんじゃなくて、自分の快感を追うのに夢中な中堂さん。俺の前以外では見せることのない顔をしてる中堂さん――。
 ひく、と再びペニスに熱が集まるのを感じて自分のものに手を伸ばした。与えられるナカへの刺激に合わせて前も扱くと、なにもかもが気持ちよくてまた後孔が収縮する。
「っは、でる……久部……っ」
「く、ぅ……アッ……」
 ぐっと強く腰を押し付けられたことで、中堂さんがイったのがわかった。敏感になっている粘膜で微かな脈動を感じながら、張り詰めたペニスの先端をいじって自分も欲を吐き出す。
 押し寄せてくる快感の波を逃がすために、は、と短い息を吐くと、呼吸ごと食らい尽くすみたいなキスをされた。少し乱暴に舌を絡めて、唇をやわく噛んで、お互いの体を抱きしめる。そうして満ち足りた息を吐き、次に目が合った瞬間、なぜか自然と笑い合っていた。

 

 体を汚した精液や役目を果たしたゴムを処理してから、ずるずると這いずって巨大なビーズクッションにしがみ付いた。初めてナカの刺激だけでイったことで疲れ果てて、もう少しだって動きたくない。
 そうやって駄々をこねる俺を見かねた中堂さんは「仕方ねえな」と言って甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。水を持ってきたり、タオルを濡らしてきてくれたり、汚れたシーツを交換してくれたり。おかげでどうにかこうにか身なりも整えて、心置きなくごろんと布団に寝転がる。
 汗だの精液だので汚れたシーツを洗濯機に放り込みに行っていた中堂さんは、ようやく汗が引いたのか、着古したスウェットに腕を通しながら戻ってきた。隣に腰を下ろして、布団の上に足を投げ出し、背中は壁に預ける。それから、まだ根元が湿っている俺の髪をさらさらと撫でた。
 このひと、涼しい顔してるけど今日すごかったよな……なんてことを考えながら、黙って横顔を見上げる。
 すると、中堂さんの顔がこっちを向いた。髪を撫でる手は止めず、俺の目元にかかる前髪を軽く除けて「ん?」なんて呟く。
 そのまなざしも声も必要以上に甘ったるくて、いつも与えられているものより明らかに過剰で、そのせいでどうしたって余計なことを考えてしまう。
 ――夕希子さんに会ってきたからですか?
 ――だから、空港で抱きしめたりしたんですか?
 ――もっと長い期間会えないことだってあるのに、今日に限って『会いたかった』なんて言ったのはどうしてなんですか……?
 うっすらと口を開きかけて、思い留まって唇をゆるく噛む。
 そうじゃない。俺が踏み込むべきものはそれじゃない。
 ゆっくりと深く呼吸して、髪を撫でている指先を手に取ってゆるく指を絡めると、優しい指先が俺の手のひらをくすぐるみたいに撫でた。
「なかどうさん」
「なんだ」
 俺の甘ったれた呼びかけに、同じくらい甘ったるい声が返ってきて、なんだか妙にほっとしてしまい、自分の口元に笑みが浮かぶのがわかった。
 込み上げてくる小さな笑いと浮足立つような心地を抑え込んで、手を握る指に力を込めて中堂さんの顔を見上げる。
「俺とデートしましょう」
「いきなりだな」
「さっきのジャケットを着て」
 中堂さんは少し目をまるくして、続けて面倒くさそうに顔をしかめた。
「いつもの服じゃだめなのか」
「だめです。あれじゃないと」
 迷いなくそう告げると、中堂さんの顔はますます訝しげなしかめっ面になってしまった。でも、こっちだってそれくらいは予想済みだ。動じることなく、握っている手を引き寄せてごつごつした手の甲に口付ける。
「俺に、全部ください」
 ていねいに紡いだ言葉は、知らずに宣告にも祈りにも聞こえるような声になってしまった。
 少しの沈黙が降りる。
 その間、俺はじっと目の前にある中堂さんの手を見ていた。繊細にものを扱う、無骨な手。その手が微かに震え始めたことに気付いて、そろりと視線を持ち上げる。
 まさか不快にさせただろうかと不安になりながら顔を上げた先で、中堂さんはぷるぷると肩を震わせていた。もう片方の手の甲で口元を押さえて俯き、笑いを堪えている。
「え、ちょ、真面目に言ったんすけど……!」
「いや、わるい、そうじゃない」
 何がだ。何をフォローされているのかもわからず、浮足立っていた気分があっという間にしおれていく。そこに恥ずかしさも追加され、俺は掴んでいた手を離して、顔を隠すように枕に額を押し付けた。
 中堂さんは繰り返し「悪かった」と言いながら前髪を梳いて、顔を上げるように促している。
 やわらかく動いて耳をくすぐる指先の意図がわかっていても、簡単には顔を上げられず沈黙を貫いた。また唐突に静かになる。開け放した襖の向こうで稼働している暖房の微かな機械音だけが聞こえてくる。
 一度拒絶してしまうと身動きが取れなくなり、顔を上げるきっかけを失ったと後悔し始めたところで、中堂さんの低くてあたたかい声が響いた。
「ろくろう」
 それまでのこととか、このあとのこととか、何かを考える余裕もなく勢いよく隣を見上げる。
 中堂さんはまっすぐに、ひたすらまっすぐに俺を見ていた。逃げ場もなくその視線に絡め取られて、小さく息をのむ。
「あ、の……?」
「そのデートとやらは、お前がエスコートしてくれんのか?」
「ぜ、善処します」
「そうか」
 頷くことも忘れて答えると、中堂さんはようやく頬をゆるめた。なんだか可笑しそうにほんの少し目を細め、ほんの少しだけ目尻を下げて、指先で俺の唇の端をそっとなぞる。
「……楽しみにしてる」
 その瞬間、気が付いた。このひとは、ようやく定めた俺の覚悟なんてきっとお見通しなんだ。だから、俺がどうしたいのかわかっていながら何も言わずに、少し先で俺を待ってる。
 追いつきたい。与えられるものと同じだけのものを返したい。手を繋ぐ。肩を、顔を寄せて並んで歩く。それが当たり前だって顔で――そういうふうに、歩んでみたい。あなたの隣で。
「……はい。楽しみにしててください」
 意識してさっきよりもはっきりとした口調で答える。
 ふっと肩の力を抜いた中堂さんはやっぱり可笑しそうににやりと笑って、くしゃくしゃと俺の頭を撫でた。

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