クロマティック・シンドローム

いきなり!レッドカーペット5の無配でした。
見えない色があるゲラートの話。まだできてないあの夏のゲラアル。無自覚両片思い。

「そういえば、ナンシーとは仲良くなれた?」
 微かな葉擦れを音楽代わりに読書に勤しんでいたところで、アルバスが前触れもなくそんなことを言い出したものだから、ゲラートは思わずページをめくる手を止めて隣を見上げてしまっていた。
 村の外れにある森の一画、秘密基地代わりの大樹の下で、手のひらを枕にして草っぱらに寝転び、顔の上に浮かせた本を読んでいる最中だった。会話を切り出した張本人のアルバスは、ゲラートの隣で木の幹に背を預けて軽く片膝を立てて座り、その膝を支えにして、涼しい顔で本に目を通している。
 突然の問いかけに目を見張ったゲラートが見つめていても、アルバスの手は止まらない。試しにそのままの姿勢でしばらく沈黙してみたが、結局、アルバスの反応ひとつ引き出すことはできなかった。
 仕方なく、ゲラートは目線を頭上の本に戻して、直前まで読んでいた行を探しながら、問いに答えるべく口を開く。
「ナンシーって?」
「ボウマンさんのとこのナンシーだよ。知ってるだろ?」
「ボウマン……?」
「……まさか名前も知らなかったのか?」
「だから、いったい誰の話をしてるんだよ」
「ナンシー・ボウマン。君のひとつ年上で、瞳は空色、それから、ブロンドがいっとう綺麗だって評判の」
 アルバスはひとつひとつの特徴を念を押すかのように説明してみせたが、最後までゲラートが頷くことはなかった。それどころか、色素の薄い眉の間にはくっきりとしたしわが刻まれるばかりだ。
 事実、提示されたどの特徴にもまったくぴんときていなかった。ブロンドが評判だというからには長い髪が美しいのだろうとは予測できたが、まともに得られた情報はそれくらいのものだ。ゲラートの頭の中には、顔はおろか、シルエットや後ろ姿さえも浮かんでいない。
「本当にわからないのか?」
 うんともすんとも言わないゲラートに呆れたような息をついたアルバスは、ようやく本から目線をはずしてゲラートの顔を見た。微かに吹く風に合わせて木漏れ日がゆらゆらと揺れ動くその下で、ゲラートは器用に本で目元に影を作って、いささか不機嫌そうに目の前に並ぶ文字を追っている。
「一昨日だったかな、君が話してた子がナンシーだよ。プラウの前で会ってただろ?」
 アルバスが口にした『プラウ』というのはゴドリックの谷にあるパブの名前だ。ミートパイが人気のその店が村人たちの憩いの場だということは、交流の場には縁がないゲラートでも知っている。
 ゲラートは『パブに立ち寄ったりはしてないはずだ』と思いながらも、プラウという名前を頼りに記憶を辿り始めた。
 一昨日は確か、アルバスに会えず一人でバチルダの蔵書を漁っていたはずだ。そうしたら、やることがないなら少し出てこいと使いを頼まれ、体よく家を追い出された。居候の身としては家主には逆らえず、荷物を受け取るためにわざわざ徒歩で広場を往復して……と、そこまで考えて、そういえば使いの帰りにあの辺りを通ったんだったと思い出した。そしてようやく、プラウの前で声をかけてきた人物に思い至って「ああ」と声をこぼした。
「あれがナンシーか」
「あれがって……話し込んでるみたいだったのに」
「別に。あいつが勝手に話してただけだ」
 ゲラートがけんもほろろとばかりにそっけなく答えると、すぐさまアルバスの苦笑が耳に届いた。ゲラートはそれに応えたりはせず、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
 どうせアルバスも内心ではほかの奴らと同じように〝他人に興味がなさすぎる〟とたしなめているんだろう――そんな考えが頭をよぎる。
 頭の中に浮かんできたその声に対して『何も知らないくせに』と心の中で不満をこぼしはしたが、懇切丁寧に説明してやるつもりはこれっぽっちもなかった。
 数え切れないほどに向けられてきたこの視線に反論するということは、己の弱みを晒すことにほかならない気がしているからだ。

 ――ゲラートにはいきものの色が見えていない。
 正確に表現するならば〝認識できていない〟というべきなのだろうが、ゲラートにとって、そんな表現の違いはたいした問題ではなかった。どちらにせよ〝わからない〟という意味ではそう変わらない。
 生まれて此の方、どんないきものも決まってモノクロの写真のように感じられる。それだけが揺るぎない事実だ。
 ただし、すべての色が見えないというわけでもない。たとえば、晴れた日の空は青、雲は白。夏の葉は緑。夕焼けの紅……自然も人工物も、いきもの以外の色はすべて正しく認識できている。そうした理由から、ゲラートの色覚異常の原因は身体的なものではないということが推測できた。しかし、はっきりとした原因はいまだにわかっていない。心因的なものなのか、それとも、天から与えられた特殊な目を持ってしまったがゆえか。どちらにせよ、癒者が匙を投げ、両親が諦めと嘆きの声をあげた頃には、ゲラートはとうにこの事実をただあるものとして受け入れていた。
 そもそも周りが勝手に騒ぎ立てて憐れんでいただけで、ゲラート自身はそう困ってもいなかったのだ。自分自身のことは明瞭に、両親のことはぼんやりとだが色を認識できるから身だしなみに支障はなかったし、色がわからないだけで人間もそれ以外のものも顔や形は見えている。己の目を通して色を判断できなくても、どんな物と同じ色なのかがわかれば想像はできたし、違和感に気付かれないよう、周囲の人間から言葉巧みに情報を引き出すのはゲラートの得意分野だった。
 一部だけ色の欠けた世界。物心ついた頃から、それがゲラートにとっての〝普通〟の世界だったのだ。

 そんなゲラートの秘密など知らないアルバスは、静かに目線を本に戻し、やはり静かに、なんでもないことのように言葉を紡ぐ。
「とにかく、これで名前もわかったことだし、もっとちゃんと話してみたらいいのに」
「名前も覚えてなかったのに、何を話すっていうんだ」
「別になんでもいいんだよ。気取ったことじゃなくていい。たとえば、そうだな……何が好きとか、嫌いとか……そういうの。彼女はきっと、なんだって喜ぶから」
「わざわざそんな気を回してやってまで喜ばせる理由がないね」
 ゲラートのつれない返事を聞いたアルバスが、くすりと吐息交じりに笑う。
「だって彼女、君に気があるだろう?」
「ハッ、くだらないし、興味もないな。第一、一緒にいたわけでもない君に、なんだってそんなことがわかるっていうんだよ」
「……そんなの、彼女の目を見ればわかるよ」
 そこで、軽快に続いていた会話がぴたりと止まった。
 少しの間をあけて答えたアルバスの声音がそれまでとはどこか違う気がして、ゲラートはちらとだけ目線を投げて様子を窺った。
 アルバスは先ほどと変わらず、脚を支えにして、開いた本に目を通している。本を読むためにわずかに伏せられたまなざしは、目的に反して、文字を追っているようには見えなかった。
 そういえば、この会話が始まってからページをめくる音を聞いていない。ゲラートはその事実に今さらながら思い至り、そうしてようやく、今見上げている表情を前にも見たことを思い出した。
 開いたページの一点を見つめているアルバスのその表情は、少し前に、これからは自分がアリアナとアバーフォースの面倒をみていくのだと語っていたときのものと酷似している。苛立ちも悔しさも口にしながら、すべてを飲み込もうとしていたときの顔。
 見上げたアルバスの表情が穏やかであればあるほど、ゲラートの胸の内はざわめきたった。沸き上がってきた苛立ちが一気に頭の先まで突き抜けて、色違いの双眸から剣呑な色となって現れる。
 何かを勝手に決めているらしいアルバスの言動も、大勢にとっての美醜の感覚を押し付けられていることも、何もかもが疳の虫を刺激する。
 ――色の欠けた世界を知らないくせに。
 自分が説明していないからだという理屈は棚に上げて、睨むようにしてアルバスをじっと見たあと、ゲラートは自分の顔の上にある本に視線を戻し、できるだけ棘を隠した声でこう言った。
「僕は、君の髪の方がきれいだと思うけど」
 次の瞬間、アルバスの目がわずかに大きくなり、それまで動かなかった視線が自然とゲラートに向かっていた。
 ゲラートは視界の端でそれを感じ取りながらページをめくり、新しく現れた文字をゆっくりと追いかける。それから再び口を開き、先程よりもさらにはっきりと言葉を紡いだ。
「君の鳶色の髪の方が、ナンシーのブロンドよりずっといい」
「え……」
 だって、彼女の髪色なんて僕には見えてないからね――なんてことは言わず、暗に〝お前のいうとおりになると思うなよ〟という反骨精神も込めて発した言葉は、予想以上にアルバスに影響を与えたようだった。
 隣に座る青年からにじみ出る、驚いている気配にゲラートの胸がすく。アルバスに気付かれないようにふっ、と息をこぼし、小さな優越感に浸る。罪悪感はなかった。アルバスに言ったことがまるきり嘘というわけでもなかったからだ。
 これはゲラートにとっても原因不明で奇妙な現象なのだが、なぜかアルバスのことは初対面のときから色がついて見えているのだ。アルバスは家族以外で唯一、ゲラートの目でも色を認識できる相手だった。
 意表をついてやったことで苛立ちが解消されると同時に、今度は少年らしい好奇心が沸き上がってくる。
 いつもすました顔をしているアルバスは今どんな表情をしているのだろう? もしかしたら見たこともないようなまぬけな顔をしているかもしれない。そう思うと浮足立つ心をどうにも抑えられなくなり、ゲラートは姿勢は変えず、再び目線だけでアルバスの表情を窺い見た。
 すると、目が合った。その瞬間、ぽかんと口を開けてしまったのはゲラートの方だった。
 アルバスは何かをためらっているような、困惑しているような表情で、わずかに眉間にしわを寄せてゲラートを見下ろしている。その頬に、じゅわりと赤色が滲んでいたのだ。目を合わせたまま動けずにいる間もその赤は段々と色濃くなり、染める範囲を広げていっている。
 それは、人間の色を認識できないゲラートが初めて目にした色彩だった。
 思わず起き上がり、草の上に手を付いて距離を縮めて、ずいとアルバスの顔を覗き込む。そうするとアルバスの顔はますます赤くなり、目も髪も肌も、すべてが先ほどまでよりくっきりと色鮮やかになっていく。ゲラートは、その変化から目を離せなくなっていた。
 これまでも今のアルバスと似たような表情でゲラートのことを見てくる相手はいた。その口で『好きだ』と言ってきた者もいたが、そんな告白をされたところで、ゲラートが興味を持ったことは一度もない。どれだけうっとりと見つめられようと、愛を囁く唇が艶めいていようとも、それらはただの眼球で、皮膚で、肉の集合体でしかなかった。
 こんなに目が離せなくなることなんて、なかった。
 引き寄せられるようにしてゲラートの顔がアルバスの方へと近付いていく。もっと見たいという欲求に逆らえずに体を寄せていく。
 それがただの好奇心なのか、ある種の探求心なのか、ゲラート自身もよくわかっていない。ただ、明確な欲求だけが頭をもたげてゲラートの体を動かしている。

 ――これがほしい

 唇が触れた。やわらかいものがそっと触れて、ほんの少しだけぬくもりが混ざり合う。その直後、触れ合っている、わずかにかさついた皮膚が小さく震えたかと思うと勢いよく離れていった。
 アルバスは体ごとゲラートから距離を取り、口を手の甲で覆い隠す。
「き、きみねぇ……! ゲラートッ、君はどうってことないって思ってるんだろうけど、でもこういうのはちゃんと同意をとらないと……!」
「じゃあ、していい?」
 ゲラートを睨み付けながら珍しく上擦った声で語気を荒げていたアルバスは、返ってきた言葉の意味をすぐには飲み込めなかったらしく「え?」と呟いて動きを止めた。
 上半身を半端にうしろに傾けたまま、アルバスは困惑をあらわにしてじっとゲラートの顔を見ている。ゲラートはそれを正面から受け止めて、地面に付いた手を動かし、じり、と一歩距離を縮める。
「同意があればいいんだろ?」
「え、いや」
「していい?」
「ゲラート……?」
「いい? アルバス」
 アルバスは有無を言わさぬゲラートの口調に最後まで戸惑っていたが、やがておずおずと口元から手を外して小さく頷いた。
 戸惑いを多分に含んだ目線がゲラートから離れ、地面と空中の間を泳ぐ。時間をかけて、青い瞳がそろりとゲラートの姿を捉える。それを合図に、二人はもう一度顔を近付けた。互いの顔がぼやけてはっきりと見えなくなり、熱を帯びた息が混ざり合い、静かに唇が重なる。
 触れるだけ。ほかより皮膚の薄い肉が、わずかに触れただけ。それなのにそこがひどく熱く思えて、ゲラートは心臓が騒ぐのを感じた。自分の内側から力強い鼓動を感じるたびに血液が全身を巡り、指の先まで熱を帯びていく。
 一度目よりも少し長く触れ合ったあと、名残惜しく思いながらも体を離す。ほう、とアルバスが静かに吐き出した吐息にまで意識を持っていかれたことで、知らぬ間に周囲の音が消えていたことに気が付いたゲラートは、その現象の奇妙さに怪訝そうに表情を歪めた。
 アルバスはゲラートの様子を窺い、まだどこか迷いが残る声で呟く。
「……君は、女の子が好きなんだと思ってた」
 その言葉が妙に耳障りだったこともあって、ゲラートは怪訝そうな表情を保ったまま首を傾げた。今度は先ほどとは違い、わかりやすく険のある声が出る。
「どうして」
「どうしてって……ほとんどのひとはそうだろう? みんな、異性を好きになる」
 そう言うアルバスの瞳はゲラートを見つめながらも、どこか違うところを見ているようだった。それがまた腹立たしくて、アルバスから目を離さずにゲラートが答える。
「女がどうとか男がどうとか、そんなの考えたことないね。みんな同じ、ただの人間だ」
「そりゃ、理想はそうだろうけど」
「理想とかじゃない」
 はっきりと言い放ったゲラートに対してどう答えたものかと考えあぐねているらしく、アルバスの言葉はそこで止まった。
 ゲラートもまた、伝えるべき言葉を己の中に探す。
 『みんな同じ』という言葉は、ゲラートにとっては理想ではなくただの現実だ。世間の誰も彼もが容姿で互いを評価し合っているのは知っているが、ブロンドもブルネットもジンジャーも、肌の色が何色でも、ゲラートにはなんの価値もない。みな一様に色がないせいで、誰であろうと、存在そのものが世界から欠落しているように思えてならないからだ。背景と同じ。いや、それ以下だろうか。美しい者も醜い者もそこに差異はなかった。……ただひとり、アルバスを除いて。
 それに気が付いた途端、何かがすっと腑に落ちた。
 ああ、そうか、アルバスは最初からそこにいたのだ。出会ったときから周囲の風景と同じように色を持ち、そこに――ゲラートの世界に当たり前のように存在していた。これを〝特別〟と呼ばずになんとしよう。
 そんな考えに辿り着く頃には、笑い出したくなるくらいに気分が軽くなっていた。しかし、ゲラートは実際に笑ったりはせず、一旦口をつぐんでから改めてゆっくりと息を吸い込み、続く言葉を丁寧に口にすることにした。
「君だけが、ちがう」
「ちがう?」
「そうだ。ほかの奴らとはちがう、特別なのは君だけだ」
 ゲラートがためらうことなく告げる姿を、青い瞳がまっすぐに捉える。アルバスの白い頬はいつの間にかりんごのように真っ赤に染まり、耳まで色を変えてしまっていた。見つめ合っている瞳はわずかに潤んでゆらゆらと揺れているようで、それでいてゲラートを見つめたまま動こうとしない。
 視線が交わるほどにアルバスの髪も目もどんどん色鮮やかになっていき、もはや木々や草花よりも鮮明な色を放っていた。
 木漏れ日が射し込むブルーの瞳が、透き通って眩しい。
「君の目、こんなに鮮やかな青だったのか……」
 ぽつりと、囁きにも似た声がゲラートの口からこぼれ落ちた。それは意図して放った言葉ではなかった。アルバスになんらかの影響を与えようとしたのではなく、ただ感嘆の声が止める間もなくあふれてしまっただけだった。
 アルバスはそのことに気付いたのか、目をまるくしてから、ふっと息をついて小さな声で笑い始めた。俯いて顔を隠し、小刻みに肩を震わせる。
 突然放っておかれたゲラートは、むっとした顔を隠そうともせず「なんだよ」と言って顔をしかめた。
 それに「いやね……」と答えて顔を上げたアルバスは、照れ臭さと嬉しさが混じったような、それでいてどこか泣きそうにも見えるような、ゲラートがこれまでに向けられたことのない笑みを浮かべていた。
「僕もずっと、初めて会ったときから、ずっと……きみが眩しくて、仕方なかったから」
 その声が、表情が、ゲラートの胸を締め付ける。
 苦しくて、それなのにその痛みを手放したくなくて、胸の内を搔きむしりたいようなそのどうしようもない衝動を誤魔化そうと、ゲラートはアルバスへと手を伸ばした。正面に座り直し、赤毛よりもいくらか暗い色の髪をそっと梳いて耳にかけてやる。
 やわらかな髪の束は驚くほどに肌に馴染んで、ゲラートの指を震わせた。

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