リクエストいただいた進呈物。GQの既婚ヘムトム。
「ハイ、トム」
「クリス、久しぶり」
人々のざわめきの中、笑って再会のハグをする。お互いの変わらない様子を喜び合って、ぽんぽんと肩を叩いた。
ふわりとコロンの香りが鼻腔をくすぐる。彼らしい爽やかな香り。その匂いが移ってしまうんじゃないかと気にするよりも先にテーブルの近くに集まっていた人々に話しかけられて、彼は人に埋もれて見えなくなった。
絶え間なく聞こえてくる賑やかな笑い声とカメラのシャッター音を背にして自分の席に戻って息を吐くと、隣に座った今日のパートナーが頬杖をついてこちらを見ていた。
「もういいのかい?」
「ええ。挨拶はしてきたから」
「そう?」
彼は伏し目がちに人だかりに目をやってから再び僕に視線を戻す。僕の言葉を信じているのかいないのか、しばらく観察するように顔の隅々まで眺めた後、刻まれた口元の皺を一層深くしてにっこりと笑った。
「やっぱり“お兄さん”が一番かな?」
「何を言ってるんです?今日は貴方が一番だよ」
「嬉しいことを言ってくれるね。でも彼があの様子じゃ少し寂しいんじゃないかい?」
彼は僕の肩に手を置き、顔を近付けてクリスの方を見たまま僕に言葉を投げ掛けた。
歌っているように軽快に話すジェフにつられて、僕もついお喋りになってしまう。
「……実は、もうこっそり会ってるんだ」
からかい半分、気遣い半分で向けられた問いに答えるために、僕はジェフの耳に唇を寄せてそっと囁いた。これは、本当。滞在中のクリスと何度か食事に行った。
内緒話を終えて顔を離すと、ジェフと目が合って二人同時に笑い出した。なんでもないことを、さも事件であるかのように共有する。僕たちは時々こうやって遊んでは笑い合った。
そうしている間にクリスは移動したようで、視線を送ると彼の後ろ姿が目に入った。そのわずかな瞳の動きをジェフは見逃さない。僕が彼を目で追ってしまったことに目敏く気付いたジェフの瞳が細められる。眼鏡の奥で雄弁に語る瞳に『全て知っている』と言われているような気がした。
だが、彼はそんなことは口にしない。
だから僕は、彼の前なら少しだけ油断しても許されるような気がして安心するのだ。ゆったりと笑うジェフに笑みを返してみせる。
そうやって年の離れた友人と話していると、時間が経つのはあっという間だった。
人前でのスピーチも様々な人との交流も、全体から見てしまえば一つ一つはほんの一瞬だ。無事に自分の役割を果たせたことに胸を撫で下ろしながら、会場の外へ向かう人々の波に合わせて歩き出す。
数え切れないほどの人の声はもう拾いきれず、近くを通り過ぎる人と別れの言葉を交わしながら出口へと向かう。知っている顔も知らない顔も、少しずつバラけて見えなくなっている。
ゆっくりと歩を進めていくと、色とりどりのドレスやスーツに囲まれて、頭ひとつ抜き出た長身が振り向くのが視界に入った。海を思わせるブルーの瞳が数秒こちらを見ていたかと思うと、それ以上近付くことはなく視線は逸らされ、大きな背中は出て行ってしまった。
その姿が見えなくなるギリギリのところで、彼はもう一度ちらりと視線を送った。今度はしっかりと視線が交差する。
僕はその背中を見送って、さっきまでと同じようにゆっくりと出口に向かった。
ジェフと抱き合い、最後の挨拶を交わして車に乗り込むのを見送ってから彼が消えた方向に脚を向ける。ペースを変えず、ごく自然に見えるように歩いてさりげなく小路に入った。
暗く、狭くて埃っぽい、どこにも続いていない空間。よほどのことがなければ、そうそう人は通らないだろう。
どことなく感じる息苦しさに顔をしかめてから、彼が選びそうな場所をわかってしまっていることに苦笑を浮かべて更に奥へと進む。
行き止まりになっている壁の少し手前に狭い窪みが見えて、おそらくそこにいるだろうと当たりをつけて近付いた瞬間、突然目の前が明るく光って視界がチカチカと明滅した。
一瞬で暗闇に戻ったことでそれがフラッシュだったのだと理解して、僕は未だに瞳の中に残る光に目を細めてため息をついた。
「クリス……こういうのはやめてくれないか」
「悪い。全然トムの写真撮ってなかったからさ。外部には出さないよ」
謝りながらも全く悪びれる様子はなく、片手にスマートフォンを握ってクリスは楽しそうに笑っている。
それ以上何も言わずに視界を遮る光と格闘していると、いつの間にかスマートフォンをしまっていたクリスに腕を引かれて狭い隙間に引きずり込まれた。思わずバランスを崩した僕の身体をしっかりと支えて、クリスは腰に腕を回す。壁に挟まれた僕らはぴったりと密着した状態で息を潜めていた。
「この後の予定は?」
小声で問うクリスの息が顔にかかる。
この後は真っ直ぐ家に帰ろうと思っていた。だが、彼の質問の意味がわかって僕は逡巡してしまった。言葉を選んでゆっくりと口を開く。
「この後は、約束が――」
「ジェフ?いや、違うよな。家族で過ごすって言ってた。家庭がある奴は帰る時間だ。ああ、TH?それとも……なあ、誰と?」
誤魔化そうとした言葉を遮って矢継ぎ早に続けられる質問に答えることは、僕にはできなかった。クリスは僕が嘘をつこうとしていることに気付いていて、そうさせないために問うているのだとわかってしまったからだ。
きゅ、と唇を引き結ぶ。
今更「嘘でした」なんて言えなかった。そうした理由を聞かれてしまったら、もう僕に残された選択肢はない気がした。
視線を逸らして黙っていると、くん、と首に圧を感じてよろめいた。蝶ネクタイの隙間に指を引っかけてクリスがそれを引っ張っている。引き寄せられて、そのまま唇が重なった。
驚いて開いた唇の隙間から、分厚い舌が侵入してきて歯列をなぞる。上顎を舌先でなぞられて、ぞくりと背筋から快感の欠片が這い上がろうとしてくる。
なんとか身体を押し戻して離れると、クリスは唾液で濡れた唇を舐めてから指先で僕の髭を拭った。その指をそのまま口に含まされて、勝手に体温が上がる。指の腹で僕の唇を撫でながら、クリスは熱のこもった瞳で見下ろしている。
「予定は?」
改めて質問を繰り返されて、僕は観念して瞳を閉じた。
僕も、君も、もうそれ以外の選択肢なんて用意していなかったくせに。
「ないよ」
「俺も朝まで一人なんだ」
「……バーにでも入る?」
わざとらしく笑みを浮かべたクリスに、僕も冗談めかして答えた。軽口を叩いているように見せながら、心臓は激しく鳴っている。
このまま言った通りになってしまえばいいと思いながら、そんなことはあり得ないこともわかっていた。
くす、と笑いを音にして、クリスは僕の股間を太腿で押し上げた。上等な布が擦れて、びくりと身体が跳ねる。
「人が多いところじゃまずいだろ。お互いに」
「……っ、じゃあ、ホテルに」
「トムの家は?」
「……え?」
思いもよらない単語が聞こえて思わず固まった。
クリスはそんな僕をじっと見つめて、頬を撫でる。輪郭を辿って、耳元にそっと添えられた手はそれまでと打って変わって優しかった。太い指先に髪が絡む。
瞳に滲む熱に気付いて、じわりと頬が熱くなる。流されそうになる自分を叱咤して、なんとか声を絞り出した。
「ダメ、だよ。家はまずい」
「……まずい?何がまずい?パパラッチなら関係ないだろ。元共演者が飲むだけだ。俺が行ったらまずいことが起こる?なあ、誰に見られたらまずいんだ?」
決して早口ではないのに、僕は口をはさむことができなかった。その言葉を選んだことを後悔しながら、もう取り返せない失態に口を噤む。
こうならないように気を使ってきたのに。
彼がロンドンに滞在するようになって、時折来る連絡にどう返事をするかいつも迷っていた。
迷った挙句に彼と会うことを決めた僕は、評判はいいけれど行ったことがなくて、これからも自分は行かないであろう店を選んでクリスと会っていた。これからも暮らしていくこの街に、クリスとの思い出を増やさないように。
どこを見ても彼を思い出してしまう生活なんて、そんなのはご免だ。
そう思っていた――今だって思っているのに、見上げた先にある瞳の奥にじりじりと炎が燻ぶっているのが伝わると、僕の心臓は鷲掴みにされたみたいにぎゅっと痛んだ。
その痛みは余りにも甘美で、僕はその手を跳ねのけることなんてできた例がなかった。
「……トム」
彼の口から囁かれる僕の名前は、低く甘く響く。
その先にあるはずの言葉を僕が聴く日は来ないだろう。僕だってクリスに聴かせる気はない。それを音にしてはいけないと知りながら、僕たちは溢れてしまう熱に振り回されてばかりだ。
さっき彼がしたように、今度は僕がクリスのネクタイを引っ張って引き寄せ、口付けた。
ぶつけるみたいに唇を合わせると、クリスはネクタイを掴む手に自分の手を重ねてやんわりと唇を噛む。
さっきよりも更に息を潜めて、僕は熱くなった息を吐いた。
「行こう」
囁いた声は暗闇に吸い込まれて消える。
二人の間に吹いた冷たい夜風に身震いしながら、同じ車に乗り込んだ。
*
室内に入ったところで出迎えてくれた愛犬を宥めてクリスを招き入れる。
シャワーを浴びるか提案しようとしたところで、後ろから抱き締められた。腹部に回された腕にぎゅっと抱き寄せられ、身体は熱を思い出す。
耳の裏に唇を寄せられて、そこから熱が広がっていく気がした。
「クリスっ……、シャワーは……?」
「いらない。それより早く触らせて。もう随分トムに触ってない」
かぷ、と耳の端を咥えながら息を吹きかけられて、そこから肌の上を電流が走っていくようだ。
ゆっくりと舌を這わせながら、クリスの腕が段々と上がってくる。ジャケットの表面をなぞり、シャツの襟を撫でで、顎を掴むように首を手のひらが這う。
熱いクリスの手の感触の中で、一か所だけ冷たいものが皮膚に触れて身体がすくんだ。外気に晒されていた金属は痛いほどに冷え切って僕の肌を蝕む。クリスの指を飾るリングの感触は、僕の皮膚には全く馴染んではくれなかった。
僕のジャケットのボタンを器用に外し、自分のジャケットも脱ごうとしたクリスの腕を掴んで止めると、クリスは驚いて動きを止めた。身体が動いてしまってから、その腕に刻まれた文字を見たくないと思ってしまったことに気付いて、僕自身も驚いていた。そっと腕をほどき、身体の向きを変えて向かい合う。
訝し気に僕の表情を探るクリスの腕を自分の腰に添えて、彼のネクタイに手を伸ばした。つるりとした布の表面を指で辿り、ジャケットを撫でる。
そのまま顔を寄せて、耳元で囁いた。
「今日はこのまましたい」
シャツから覗く首筋にちゅ、と音を立ててキスをすると、クリスが喉を鳴らす音がはっきりと聞こえた。その勢いのままに唇に噛みつかれる。荒々しいキスに応えながら、目論見が成功したことに内心ほっとしていた。
そんな浅ましいことを考えたなんて知られたくなかった。僕もそれに向き合いたくなくて夢中になってクリスの熱にしがみついた。
上半身はそのまま、下半身だけ乱した情けない恰好で壁に背を預けている。
片足に脱げかけの布が絡まって身動きが取れない。靴下は履いたままだし、勃ち上がった陰茎はシャツの裾から顔を覗かせていた。震える陰茎をクリスの大きな手で扱かれると、それだけで吐息交じりの声が上がってしまって止められない。
クリスもネクタイが少し乱れているくらいで服はさっきのままだ。下げられたチャックから覗く硬く反り返った性器が僕の太腿を擦った。その刺激も腰に伝わり、甘い痺れが駆け抜ける。
「っ、クリス、も、まてない……ッ」
「俺も限界……」
そう言うとクリスは腰の後ろに手を回し、さっきまで触っていた後孔に手を伸ばした。
ぐちゅ、と音を立てながら掻き回されて、刺激を待ちわびていた窪みは指を離さないように何度も収縮する。それに笑みを浮かべたクリスは指を引き抜き、僕の身体を壁に押し付けながら片足を持ち上げた。膝裏をぐっと支えられて、僕は後孔を晒された状態で、もう片方の脚で身体を支えなければならなかった。
僕がクリスの身体に縋り付くのとほぼ同時に、スキン越しの熱の塊がひくつく窄まりに宛がわれる。一呼吸置いてから、勢いよく体内を貫かれて悲鳴のような嬌声が漏れた。
前立腺を擦られた身体はがくがくと跳ねて、ぐっと押し付けられた腰の力強さに脚が震えた。揺さぶられる度に抱えられた脚がゆらゆらと揺れる。
抱えた脚を撫で、額から汗を流しながら、クリスは何度もキスを降らせた。
繰り返し啄み、時には舌を絡ませながら、クリスは的確に僕が感じるところを刺激してくる。
体内のしこりを押されると性器の先端から透明の液が流れて床を汚した。クリスの陰茎は浅いところを往復し続けている。張り出した部分が粘膜を擦り、快感から涙が流れたが、それと共に物足りなさも感じ始めていた。
過去に拓かれたことがある奥の方が、疼いて仕方がない。もう少しで届きそうなところで去っていく陰茎に、腸壁が必死に吸い付こうとしていた。
「クリス、なんで……」
「なにが?」
「おく、ッあ、どうして……っくれないの……」
「ッ、欲しいの?」
「ほし、ぃ、んぁ……っほしい……!」
その言葉を聞いたクリスは唇を舐めると、最奥まで一息で突き上げた。その衝撃で脚の力が抜けてしまい、自分の体重でより深くまで飲み込んでしまう。
強すぎる刺激に脳はスパークしてしまいそうなのに、身体は悦んで強くクリス自身に吸い付いていた。
崩れ落ちそうな身体を抱きとめたクリスに繰り返し奥まで突き上げられる。
「も、ぁ、あ……それ、いくっ……」
「んッ、イって?」
「あっ、あ、ッ――!」
一際強く奥を突かれて、吐き出された精液が先端を覆う白いシャツにシミをつくる。腹部をどろりとした粘液が汚して気持ち悪い。だが、そんなことを考えるよりも先に再び突き上げられて、呼吸が止まった。
高みから戻ってくる前に今度は両足を抱えられて、完全に宙に浮いてしまった。性器を挿入されたまま抱き上げられて、震える腕で必死に太い首にしがみつく。脚に引っ掛かっていたスラックスが完全に落ちて、床とぶつかったベルトが金属質な音を立てた。
頭が追い付かないままクリスに掴まるしかない僕に、クリスは囁く。
「寝室はどっち?」
少し掠れた低い声に身体はふるりと震える。朦朧とした頭で、僕は寝室のドアを指差した。
*
久しぶりだったせいか何時間も抱き合ってしまった後、仮眠を取ってクリスは朝早くに家を出た。
部屋着で見送る僕の額を撫でて「また」とだけ告げてクリスは家の扉を開けた。
首筋を撫でるときに触れた手のひらからは、今度は金属の冷たさは感じなかった。昨日よりも皺が増えたスーツの背中を見送ってからあくびをして部屋に戻る。
ついでに起きてしまおうと愛犬に食事を与え、ベッドを整えるために寝室に戻り、そのとき感じた違和感に首を傾げた。
いつもより乱れているからとかそんな理由ではない。違和感の原因が思いつかなかったが、まあいいかと汚れたシーツを持ち上げて、そこから立ち上る香りに愕然とした。
いつもはない、コロンと、汗が混じった彼の匂い。
その匂いが脳に届いただけで僕を抱き締める腕の太さや、胸の厚み、触れた手の熱に、僕の名前を呼ぶ声まで甦ってしまい、眩暈がしそうだった。
シーツを抱えたままベッドに倒れ込む。ぎし、と嫌な音が鳴った気がしたが構わなかった。
部屋の違和感の正体はこれだ。
たった一晩なのに、この部屋は彼の匂いで満たされてしまった。僕は深く深くため息をつく。
「だから嫌だったんだ」
ぼそりと吐き出された声に返事はない。
せっかく彼の残像をこの街に残さないようにしてきたのに、一番いる場所に一番強く刷り込まれてしまった。
目を閉じると鮮やかなブルーの瞳が見える。
混乱する頭とは裏腹に、僕は彼の残り香を胸いっぱいに吸い込んでいた。