決闘直前の地獄のゲラアル。悪夢をみるアルバスの話。
2023/8/27~8/29のさわマルWで初稿を展示したものを完成させました。一応死ネタではないです。
※残酷な描写があります
※死体についての言及があります
※嘔吐描写があります
7
ゲラートが死んだ。
石畳の上に仰向けに横たわる姿はまるで眠っているようだった。私は傍らに立ち、動かないゲラートのことを黙って見下ろしているが、何が起こってこんなことになったのかどうにも思い出せない。気がついたらここに立っていた、という表現が正しいだろう。
ゲラートは死んでいた。珍しく首もとを緩めた姿で、ぴくりとも動くことなく。初めはただ寝ているのだと思ったのだが、うっすらと伏し目がちに開いた目がまばたき一つしていないことに気付き、それが思い違いだと知ったのだ。それをどう受け止めたらいいのかわからなかった。私もその場から動くことなく、黙って、死体を見つめ続ける。
死体は一見、眠っている姿と間違うほどきれいな状態を保っている。だがよくよく見ると、彼を死に至らしめたものがなんだったのか、それを知るための痕跡を見つけることができた。首の色が変わっていたのだ。正確にいうと、頭部と首を繋ぐ、顎の下から耳の後ろにかけてのライン、そこに鬱血痕のようなものが残っていた。一本の線を描くそれがゲラートの呼吸を止めてしまったに違いない。体重がかかった際に折れてしまったのだろう、首の骨も不格好に歪んでいる。
その事実を前にして私は眉をひそめた。
彼が自ら死を選んだとはどうしても思えなかった。なにしろ、若い頃から死を支配するための研究に心血を注いでいた男だ。たとえどんなに追い詰められようとも、己の力量を信じて最後まで抗うだろう。ゲラート・グリンデルバルドというのはそういう男なのだ。
――では、何があった?
それを知ろうとして私は一歩を踏み出した。なるべく足音を立てないように近寄り、片膝をついて顔を覗き込む。そして、そろりと手を伸ばし、血の気を失った頬に触れた。――ゲラートの頬は氷のように冷たかった。その、眠っているかと見間違うほどよく見知った顔に似つかない、冷え切った皮膚に触れた瞬間、なんともいえない悪寒が背中を駆け抜けていき反射的に手を引く。
そこで目が覚めた。知らぬうちに止めてしまっていた息を勢いよく吸い込み、息苦しさに喘ぐ嫌な目覚めだった。見慣れた天井と記憶にあるとおりの寝具が精神を現実に引き戻してくれたが、冷えた指先はそう簡単には戻らない。のそりと上体を起こしてベッドに腰かけ、手のひらで額を覆ってため息をつく。室外の暗さが示すとおり、時計の針は夜明け前の時刻を指している。朝食まではまだ時間があるが、もうひと眠りする余力はなかった。何より、ゲラートの姿が脳裏に焼き付いてしまっていて眠れそうにない。
嫌な……嫌な夢だった。悪夢とはまさにこういうものをいうのだろう。予言者でもない自分がどうしてこんな夢を、とひとり呟きそうになり、何をわかりきったことをと苦笑で誤魔化す。
ゲラートを止められるのはお前しかいないと幾人もの要人に言われていながら決着をつけられないままここまできたが、それももう限界だった。私が校内外の事件に手を焼いている間にもゲラートの活動は過激化し、いまや諸外国で一大勢力を築いている。各国政府がこまごまと彼の手足を潰していたのでは間に合わない。本体を叩かなければ、この勢いが止まることはないだろう。そんなことは政治に明るくなくても理解できる。それほどまでに状況は悪化していた。
やるべきことは決まっている。おそらくは結末も。決まっていないのは私の胸の内ばかりだ。とうに腹をくくったはずなのに、心の中は霧が立ち込めて先が見えない。その意識がこんな悪夢を作り上げたのだろう。その事実がまた私を憂鬱な気分にさせた。ここまで事態を悪化させた責任の一端は自分にあるとわかっているというのに、未練がましくもこの感情に振り回されている。
己の愚かさにもうひとつ、深くため息をついた。
6
またゲラートが死んでいた。今度は目の前にあるのは死体だと一目でわかった。なぜならゲラートの首と胴体がきれいに切り離されていたからだ。頭部は切断面を下にして見晴らしのいい台の上に置かれており、胴体は昨日と同様に床に仰向けに転がっている。首が完全に切断されているのに周囲に血痕がほとんどないのは、その残酷な行為が行われた場所がここではないからだろうか。気崩されたシャツの襟もとに染みて残ったいくらかの血液だけが、切断当時の残虐性を物語っている。
横たわるゲラートの残骸からはすっかり血が抜けており、肌は驚くほどに白く、生の気配はこれっぽっちも残っていない。だが、晒されている頭部に浮かぶ表情は穏やかだ。固く閉ざされた目はもう何も視ることはないのだろう。良いものも悪いものも、これ以上彼を振り回すことはない。そのことに少しだけ安堵した。
周囲にわずかながら人の気配を感じる。微かなざわめきも。人々の姿を視認できない私は、この場にゲラートとふたりきりのような気になっていたが、そんなことはなかったようだ。おそらくだが、ここは広場のような場所なのだろう。ゲラートは哀れにも、死してなお衆人環視の中にいるのだ。私は触れることも、その姿を隠してやることもできず、群衆に紛れてただ遠巻きにゲラートの顔を眺めている。
こころがひび割れる音がした。
びくり、と体が大きく跳ねたことで現実に引き戻された。目の前には見慣れた自分の教卓と教材があり、私は体によく馴染む椅子に腰掛け頬杖をついている。授業の合間に少し目を閉じるだけのつもりが、思っていたよりも深く眠り込んでしまったらしい。まさか夢を見るほど寝てしまうとは、自分に呆れる。はあ、と小さく息をつくと、教室の端から微かな「あ」という声が聞こえた。
顔を上げて声がした方へと視線を向けると、青白い顔をして立ち尽くし、こちらを見ている子どもがいた。グリフィンドールの一年生だ。その子は胸元まで半端に上げた両手を握ったり開いたりしながら、はくはくと音もなく口を動かしている。そうしてしばし見つめ合ったあと、震える声がその口からこぼれ始めた。
「あ、あの、先生、ぁ……あの、ごめんなさい」
謝罪を告げる子どもの体は緊張のせいか微かに震えている。怖がらせないように普段通りの空気を保って立ち上がり、できるだけ軽やかに距離を縮める。
「一体どうした……ああ、なるほど、これか」
震える子どもの足元には割れた花瓶の破片が散らばっていた。表面に描かれた模様を見るに、ひとつ前の授業で使って、そのまま机の上に置いておいたものだ。床の花瓶から子どもへと視線を戻し、改めて向き合い何があったのか尋ねたところ、その子は「片付けようとして落としてしまった」と白状した。見るからに青くなっている姿が不憫に思えて「ふむ」と呟き杖を取り出す。
「レパロ」
呪文とともに杖を振ると、バラバラになって床に転がっていた陶器の破片がみるみるうちに繋がっていき、あっという間に元の美しい曲線を描く花瓶に戻った。
「ほら、こうすれば元通りだろう? 減点も必要ない」
「いいんですか?」
「花瓶は直ったからね。それに、形ある物はいつか壊れるものだよ」
床から花瓶を持ち上げて慎重に机の上に置き、倒すことのないよう加減して滑らかな陶器の面をぽん、と軽く叩く。
「ただし、次からはもっと慎重に扱うこと。それから、何かあったらすぐに報告するように。いいね?」
「はい」
子どもが安堵した様子で小さな頭をしっかり縦に振るのを見守ってから、片付けようとしてくれたことに礼を言い、授業の前に復習しにきたというその子の練習に付き合うことにした。杖の振り方や呪文の発音をみてやりながら、自身の言葉を振り返る。
魔法があれば、呪文さえ知っていれば、壊れた物を直すことなど造作もない。だが、本当に大切なものほど壊れたらなおせないものだ。その対象が大切であればあるほど……。いつか、この子もそれを知るときがくるのだろうか。
5
ゆるやかに目が覚めた。夢も見ない、静かな目覚めだった。中途覚醒がないほど深く眠り込んでいたことに驚くと同時に、ゲラートの姿を見ずに済んでほっとしてもいた。そう考えること自体が妙だとも思ったが、二日続けての寝不足の原因は彼にあるのだから、この感覚はまっとうなのだと自分を納得させることにした。
予定通りの時刻にベッドを抜け出し、前日よりもいくらかすっきりした頭で身支度を整える。着替えを終えて、最後に鏡の前に立ち、癖のついた髪をまとめると、そこには見慣れた姿の〝ダンブルドア教授〟が立っていた。鏡の中の自分に向かって頷き、ネクタイをきっちりと締めてからドアに足を向ける。
どうか穏やかな一日になるようにと願って、子どもたちの元へ向かった。
4
また夢を見ずに起きた。いや、覚えていないだけで何かは見ているのかもしれないが、少なくとも記憶に残るような強烈なイメージはない。おそらく大多数の人間にとっては普通といえるであろうこの状態を当たり前とは思えず、今日も悪夢を見ずに済んだと、私は胸を撫で下ろしている。だが、本当の安らぎにはほど遠い。日をまたぐたびに神経がすり減っていくのを感じて胸の内に影がさす。日に日に私の中を侵食していくばかりのその影を抱えたまま起き上がり、今日も新たな一日を始めるためにベッドを出る。そして、昨日のような穏やかな日がやってくることを願って洗面台に向かった。
私のささやかで重要な願いは叶わなかったのだと知ったのは、午後の一つ目の授業を終えたときだった。
新しく覚えた呪文に興奮する生徒と、その難易度に辟易した生徒が口々に感想を言い合いながら教室をあとにする。それらの賑やかな話し声をかき分けて、深刻な顔で足早に教壇前までやってきたのはミネルバだった。ミネルバは私の元へまっすぐに近付いてきて隣に並んだかと思うと、強張った表情で、子どもたちに見えないようにこっそりと一枚の紙を差し出した。文字でびっしりと埋め尽くしてあるそれは、見覚えのない新聞記事だった。何かよからぬことがあったのだろうと察して、受け取った紙に目を落とす。
教室に持ち込まれた異変を感じ取った子どもたちが立ち止まり、不安と好奇心が入り混じった表情で我々の様子を窺っていたが、それに気付いたミネルバが子どもたちの方を向き、よく通る声を教室に響かせた。
「珍しいものは何もありませんよ。さあ、次の授業の準備をして!」
声をかけながら子どもたちを追いたて、最後のひとりが廊下に出るところも見送って、ミネルバは教室のドアをしっかりと閉めた。いささか重苦しい音が響いたあとは、規則正しい足音しか聞こえなくなる。私は教壇に浅く腰掛け、じっくりと手元の記事に目を通した。日刊預言者新聞の号外だ。
『グリンデルバルドの勢い、とどまることを知らず』
という見出しで大きく取り上げられたその記事は、ゲラートの軍隊によってまたしても多くの命が失われたというものだった。本人が先頭に立っていたわけではないようだが、彼が画策した結果には変わりないだろう。凄惨な現場の様子が事細かに綴られているその文章は、明らかな揶揄でもってこう締められている。
『彼を止められる人物はどこに?』
その文面を見てつい鼻で笑ってしまった。あえて名前を出さないところがいやらしい。ゲラートを止められる人間が誰かなど、とっくに世界中が知っているだろうに。
「アルバス……」
「大丈夫だ、ミネルバ。もうすぐ終わる」
隣から向けられている気遣わしげな視線に笑みで応えてから、再び紙面を睨み付ける。記事の中心には、惨劇の痕跡が色濃く残る事件現場の写真が大きく取り上げられていた。
3
ゲラートが死んでいた。そのなきがらの損傷のひどさに吐き気が込み上げてきて、とっさに手のひらで口元を覆い隠した。
仰向けに横たわっているという点はこれまでと変わりないが、見た目はまったく違う。真っ赤に染まったシャツに覆われた腹部はありえない方向に凹んでおり、彼がその〝中身〟を失っているのは明白だった。背中側へとゆるやかなカーブを描くシャツは元の色がわからないほど血に濡れてしまっている。しかも、今回はそれだけではない。ゲラートの四肢が胴体から切り離されているのだ。いや、おそらくはそんな親切なやり方ではないだろう。刃物で切り落としたのではなく、力任せに引き裂いたに違いない。その証拠に、服を着たままのゲラートの手足は長さがばらばらになっている。右腕が左腕より長く、足も右側の方は、トラウザーズの裾からふくらはぎがはみ出していた。服の裾から飛び出した、あるいはそでの隙間から見えている手首や足首には縛られた跡があり、手足の付け根部分を覆っている本来白かったはずの布は、どこも腹部と同じ赤黒い色に染まっている。本来肉体があったはずの、今は布がたわんでいる箇所がどうなっているかなど想像したくもない。
だが、考えるなというのも無理な話だった。ゲラートの切り離された頭部は先日とは違い、床に無造作に転がっていた。切断面が晒された、肉と骨が剥き出しの首が語る、その、表情が……死後も消えないほどくっきりとしわを刻んだその苦悶の表情が、私の体から血の気を奪っていく。思わずふらついてしまい、踏み止まろうとして一歩後ずさる。しかし、少し距離を置いたくらいでこの状況から逃げられるわけがない。私はここがどこかも知らず、行くあてもないのだから。
ふらつく体をなんとか支えている足元まで、ゲラートの体から流れ出た血液が沁み込んでくる。石畳のくぼみを伝い、水路を流れる水のごとく、ゲラートの血が私の元まで這ってくる。赤黒い液体が、靴の先端に触れた。
勢いよく目を開き、天井を見つめたまましばらく動けなかった。心臓がどくどくと激しく脈打ち、全身にじっとりと汗をかいている。鉄さびによく似た臭いが鼻腔にまとわりついている気がして手の甲で鼻を覆ったが、実際に嗅いだわけではないのだから効果があるはずもない。
全身に染み付いて離れない死の気配をなんとか引き剥がそうとして立ち上がり、腹に何か入れるために無理矢理体を動かして部屋を出る。途中ですれ違った同僚に顔色の悪さを心配されたが、暑くて寝苦しかったのだと言って誤魔化した。同僚は納得してはいないようだったが、それ以上深く追求することなく「ゆっくり休めよ」と声をかけて去っていった。ありがたいことに今日は授業がないから、多少は彼の言ったとおりになるだろう。
不必要に心配されることのないよう表情を取り繕って、何食わぬ顔で厨房に向かい、何か簡単に食べられる甘いものはないかとねだる。すると、いそいそと下がった屋敷しもべ妖精は、有り合わせのもので作ってくれたらしいトライフルを持ってきた。細かく刻まれたベリーとやわらかいスポンジに、ゼリーのかけらが重ねられている。これなら胃に不快感を抱えていても食べられるだろう。トライフルを用意してくれた屋敷しもべ妖精に感謝を告げて、手元からほのかに香る甘い香りに身をゆだね、こっそりと肩の力を抜く。
午後にはなんとか調子を取り戻して編み物に没頭する時間も作れたが、ディナーに並んだローストビーフには手を付けられなった。
2
死体が目の前に転がっていた。これまでのことを考えればそれはゲラートなのだろうが、絶対にそうだとは言い切れない。地面に仰向けに横たわっている物体は、真っ黒い人型の何かでしかなかったからだ。かろうじて人間の形を保っているが、着ていたであろう服も全身を覆っていたはずの皮膚もすべて焼け焦げており、性別すら判断するのが難しい。当然ながら、顔の判別がつくはずもなかった。ぽっかりと開いたいくつかの穴が、目、鼻、口の位置をかろうじて示しているだけだ。マネキンのように固まった黒い指先も、焼けただれた皮膚も、およそ人間らしいといえるものはそのシルエット以外残っていない。昨日よりも臭いがひどく、いきものが焼けたとき独特の、肉と脂と少しの炭が混ざり合った臭いが辺り一帯に充満しているせいで、今にも胃がひっくり返りそうだ。だが皮肉なことに、表情がわからない分、視覚的にはいくらか楽に見れている。
ゲラートの残骸を目の前にしながら、どうしてこんなものを見てしまうのだろうと考える。なぜ、私の頭の中のゲラートは残酷な方法でばかり死ぬのだろう。夢には無意識が反映されるというが、私はこんなことを望んでいるのだろうか。どんなに恨めしく思っても死を願ったことはないと思い込んできたが、ただ、そう信じたかっただけなのだろうか。あの夏のうつくしい記憶を守りたかっただけなのだろうか。
本当は、死を望むほど、この男を憎んでいたのだろうか?
真実は見つからないまま突っ立って、真っ黒い人型の物体を黙って見下ろす。そのとき、私の中に湧き上がってきた疑問に答えるかのように、半端に浮いていた死体の指先がぼろりと崩れた。かつて左手の薬指だった黒い欠片が、音もなく地面に落ちるのを見た。
あまりの不快感に勢いよく起き上がった。浅い呼吸を繰り返し、なんとか現実を掴み取ろうとするがうまくいかない。焼死体独特の臭気がどこまでもまとわりつき、まるで自分がその臭いを発しているかのような錯覚に陥る。思わず口元を手で覆った瞬間、ぎゅる、と胃がねじれる感覚が襲い掛かってきた。これはまずいと判断してベッドを飛び出し、急ぎ足で洗面台に向かう。だが、間に合わなかった。真っ暗な室内で、のどまでせり上がってきたものを堪えきれず、床に向かって嘔吐した。不快な水音と自分の声のせいで、再び胃の中身がせり上がってきそうになる。すえた臭いと喉が焼かれる感覚で、生理的に涙が滲む。吐き出したものはほとんど胃液だけだったが、不快感が治まらなかったせいでまた戻した。
少し落ち着いた頃を見計らって洗面所に向かい、冷たい水で口をゆすぐ。口中の感覚はいくらかマシになったが、腹部を支配する不快感は治まらない。全身にこびりついた臭いや目に焼き付いた映像も不愉快だったが、それ以上に自分の願望が不快だった。いつの間に私は、あの男のことをこんなにも許せなくなっていたのだろうか。
胃の中にはびこるむかつきを少しでも洗い流したくて、口をゆすいだついでに顔を洗う。水を両手に掬い、数回顔に叩き付けるようにして顔を濡らして息をつく。そうして顔を上げた先で視界に飛び込んできた鏡の中には、水に濡れ、落ち窪んだまなざしでこちらを見ている、知らない表情の男がいた。
1
ゲラートが仰向けで横たわっていた。きっちりと着込んだスーツは上等なもので、ほとんど乱れてすらいない。血痕や目立った傷跡も見受けられず、目が大きく開いたままになっていなければ死んでいるとはわからなかっただろう。私は傍らに立ってきれいな死体を見下ろしながら、なぜ死んでしまったのかと考える。これまでも見ているこちらが嫌になるほどはっきりした死因があったのだから、今日も何か理由があるはずだ。そう考えて、見える範囲を隅々まで観察してみたが、傷はおろか肌の変色すら見つけられない。その事実を認めて、ようやくひとつの可能性に行き着いた。
――アバダケダブラだ。
今の今まで生きていたかのような死にざまからはそれしか考えられない。それに気付いた途端に、心臓が激しく動き始める。ドッドッ、と全身に伝わるほど強い脈動を繰り返す心臓の音が世界を支配する。さらに、鼓動に煽られるようにして呼吸が震え始める。その瞬間、自分が何かを握り締めていることに気が付いた。嫌な予感を覚えながら恐る恐る手を持ち上げ、視線を落としていく。震える私の手の中には、ゲラートが所持しているはずのニワトコの杖があった。
「あ」
口から声がこぼれ落ちるのと同時に手の力が抜けた。ニワトコの杖が私の手をすり抜けて離れ、地面に落ちて、からん、と乾いた音を立てる。
「……私か」
呟く声はひどく掠れていて、とても聞けたものではなかった。
床に転がる杖と死体を交互に眺め、ついにこの手でゲラートを殺してしまったのだという事実が脳まで届くと、一気に脱力してしまった。脚から力が抜けて立っていられなくなり、ずるずると膝から地面に崩れ落ち、へたり込む。杖の所有者になった喜びなどなかった。宿敵を打ち倒したという達成感も、感慨も何もない。ただ、ゲラートが死んでしまったという事実に打ちのめされている。
そして、この状況を理解してようやく、ゲラートがなぜ目を見開いたまま死んでいるのかわかった気がした。
まっすぐに正面を見つめたまま開かれているゲラートのオッドアイは、確かな意思を宿している。『なぜだ?』と。それが死ぬことに対してなのか、私に向けられた言葉なのかは知るよしもないが、ゲラートの物言わぬ瞳は疑問も怒りも宿したまま正面を見据えている。
かける言葉がなかった。涙のひとつも流せない私に何が言えるだろうか。この手で命を奪っておきながら、今さら何を言えというのか。ゲラートの傍らに座り込み、語り掛けることも、立ち上がることもできないまま時間だけが過ぎていく。そうしてじっとしていると、やがて、どこからか微かな音が響き始めた。硬質で重みのある音だ。そう、革靴が地面を蹴るときのような。ちょうどこんなふうに、一定のリズムで――。
「これが君の望みか」
そう告げる、よく馴染む声が耳に届いた。その声に聞き覚えがあることにまた心臓が大きく動く。先程よりは静かに、しかし常より早く動く心臓を無視してそろりと顔を上げると、死体を間に挟んだ向こう側に男の革靴があった。視線を持ち上げていくと、衣装のひとつひとつが男の立ち姿と合わせて視界に飛び込んでくる。
皺ひとつないトラウザーズと、華奢なボタンがあつらえてあるベストとジャケット、その合間からのぞく小花柄のネクタイ。そして、それらを着こなし、私を見下ろしている、死体と同じ顔の男。
「ゲラ……」
「それが君の望みか? アルバス」
ちがう、と言いたいのに喉が貼り付いて声が出ない。わずかに唇が動いたが、息が漏れ出ただけでなんの役にも立ちはしなかった。
「……そうか、わかった」
冷えたまなざしで私と死体を一瞥したゲラートは、それだけ呟いて背を向けてしまう。とっさに呼び止めようとしたが、呼び止めて何を言おうというのかと考えてしまい、その名を口にすることはできなかった。これから君に引導を渡そうとしている私が、いったい何を言えるのだろうか。
呆然としたまま遠くなっていく背中を見つめ続けることしかできず、言葉も想いもすべて飲み込んで、死体の横で膝をつき座り込んでいる。背中が視界から完全に消えてしまうまで、そのまま……。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。
小さな涙の雫が肌の上を流れていくのを感じる。静かな呼吸を繰り返し、現実に戻ってきたことを確かめる。カーテンの隙間からわずかに光が入り込んでいるところを見るに、ちょうど空が白み始めた頃なのだろう。太陽光の力強さにほっと息をついて上体を起こし、指先でほんのりと濡れたこめかみを拭う。
あれは……最後に現れたゲラートはなんだったのだろうか。私の無意識の産物なのか、夢を渡ってきたゲラート本人だったのか、私には判断が付かない。もし本人だったとして、彼はあの状況をどう受け止めたのだろう。夢の中で自分が殺されているという事実を――
「ちがう……」
夢の中とは違い、今度は言葉がすんなりと音になって口から滑り落ちる。
殺したいわけがない。たとえどんなに憎み合おうと、敵対していようと、間違いなく生涯でただひとり愛した相手なのだ。この手で葬りたいなどと思うわけがない。
はっ、と乾いた笑いがこぼれた。今ならわかる。この一週間でこんな夢を立て続けに見たのは、結局のところ、私の弱さの表れだったのだ。
夢に現れたのはすべて、罪人として処刑されたゲラートの姿だった。多くの人々が望んでいるだろう姿だ。それを夢にまで見るのは世間と同じように彼の死を望んでいるからだと、そう思い込もうともしたが、どうやら無駄な足掻きだったらしい。こんなにも鮮明な夢を創り上げたのは、心の底で『そんな姿は見たくない』と恐怖に怯える私の無意識の自我だったのだから。
胸の内に抱えていた霧の正体を受け入れたことで、ようやく息苦しさから解放される。
彼が犯した数々の罪は決して許されるものではないが、死での償いなど望んでいない。私が望むのは、ゲラートが生きて、その罪と犠牲にしてきたものたちに向き合うことだ。……私にできることはもう、それくらいしか残っていない。
明日、ついに現実でゲラートと対面することになる。彼が現れる場所を私が知っているように、彼も、私がその場に赴くことを知っているはずだ。そうして一度杖を抜いてしまえば、どちらかが倒れるまで引くことはできないだろう。やり直せるタイミングはとうに過ぎた。もう互いの命をかけることでしか向き合えない。
こうなってしまった今、私がきみのために涙を流すのはこれが最後になるのかもしれない。だが、それでも、たとえきみが私の死を望んでいたとしても、私はきみにそれを望まない。きみが世界中を敵に回し、私が世界中から疎まれるとしても。私だけは、きっと。