ゲラアル転生AU本「Only through Love」のサポートプラスのお礼としてお渡しした小説です。リアイベでご購入いただいた方もいたのでweb公開します。
本編後、未来の壮年ゲラアルが出てくる話なので、読了後に読むことをおすすめいたします。
転生前にまつわる話でもあります。二人で暮らしているゲラアルです。
私に残されたものはそう多くはなかった。この肉体と、質素な布切れのような服と、みすぼらしい家具がわずかばかり置かれた狭い部屋。直接肌に触れる石畳は体温を奪い、魔法を封じられた身では暗がりに明かりひとつ灯すことも叶わない。世界から隔絶された私に与えられたのは、悠久とも思える時間と、記憶を辿る旅路の自由――それのみだといっても過言ではなかった。
そんな苦痛と隣り合わせの毎日の中、わずかな楽しみはこの眼で未来を垣間見ることだった。厳重に施された封印も、生来の能力を完全に抑え込むことはできなかったらしい。未来を知ったところで何ができるわけでもなかったが、私にとって、これだけが外界の出来事を知るすべだった。
与えられたまずいスープを水鏡にして、私をこの場所に押し込めた男の姿を垣間見る。その行為を何度も続けていると、男の容貌は現実の時間に合わせて少しずつ変化していった。
若い頃は鳶色だった髪が少しずつまだらになり始め、やがて見事な白髪へと変わった。時折かけるだけだった眼鏡が常にその瞳を覆うようになり、伸びきったひげがその顔を覆い隠した。しかし、どれだけしわが刻まれ、皮膚がかつてのような張りを失っても、その瞳の輝きだけは衰えることがない。
私は目を閉じ、背を丸めて蹲り、その輝きだけを頼りに記憶の奥底に深く潜る。
遠い夏の日のまばゆい日射し。
草はらのざわめき。
愛を綴るインクのにおい。
初めて知った他者のぬくもり。
……絶望に濡れた、ふたつの青。
そして、それらを失った日から長く続いた孤独な日々。
欲したものを手にしても、多くの人間に囲まれていても、ただひとつ望んだものだけが手に入らなかった。
閉じた目蓋の内側で、記憶を辿る旅は続く。
生涯でただ一度だけ結んだ誓いが破れた日のこと。互いに杖を向け合った日のこと。そして、敗れた私に向けられた、その青の意味。
そうして最後に見た男の姿を反芻してからゆっくりと目を開けると、そこには変わらない石造りの牢獄があった。晴れた日には窓ともいえないような狭い隙間からわずかに光が射し込み、雪の日には冷たい空気が壁を伝い、雨の日には独特の土のにおいが沁み込んでくる、私の終の棲家。
思考すること以外、ここでできることはない。だが、長い間、記憶の中に浸っていられるほど、男と二人で過ごした時間は多くはなかった。
やがて記憶を追い続けることに限界を感じた私は、それ以外のことに意識を向けざるを得なくなった。それに向き合うのは決して楽なことではなかったが、できることといえばそれくらいしかなかったのだ。
己が真の望みとはなんだったのか。選んだ道はどこに続いていたのか。どの時点で、ほかにどんな選択肢があったのか――。
そういった事柄を考えるということは、自分の半生を辿ることにほかならない。そうして振り返ったところで己の行いを恥じることも、この結果を嘆くこともなかったが、ただひとりと想える相手と人生の早いタイミングで出会っておきながらどうして隣に在れなかったのかと、それだけは悔いずにはいられなかった。
この場所で、私はひとり朽ちていく。顔のしわは増え、筋肉が衰えた手足はやせ細り、特別なちからを宿す色違いの双眸は落ち窪んでいく。
その事実が何度も私を打ちのめそうとしてきたが、それでも私は、その男の姿を追うのをやめようとはしなかった。たとえ相手の望む存在にはなれなくても、もう二度と相容れないのだとしても、その男だけが私の真実だったからだ。
そして、数えきれないほどの時間が流れ、世間が私のことなどすっかり忘れ去った頃、とうとう終わりの瞬間を知る日がやってきた。くすんだ水鏡の中に男の命が消える瞬間を視る。空中に放り出された男の、光を失った鮮やかな青をこの眼で確かに視たが、不思議と涙は出なかった。奇妙なほどに、私はその事実を受け入れていた。年月がそうさせたのか、繰り返し反芻した記憶がそうさせたのかは定かではないが、ただそう在るものなのだと理解した。
最期の瞬間を見届けられないことは悔しく思ったが、それもまた、己が行いの結果だと受け入れた。私は私であるためにすべてを受け入れると決めたのだ。この先何が訪れ、この身に何が降りかかろうとも、最期まで自らの意志で選択してやろうと――。
気が付いたときにはその場所に立っていた。これまで長い時間を過ごした牢獄ではない、うっすらともやがかかっているかのような真っ白い場所だ。そこがどこでもない場所だということはすぐに理解できた。現実では、私はただの肉塊になっているだろうことも。
視線を落とし、己のしわだらけの手を眺めてから改めて周囲を見渡す。この空間のことを〝白い〟と認識しているが、これを視覚として〝見えている〟といっていいのかははなはだ疑問だ。感覚は存在しているが感触はない。奇妙な場所だ。ぺたり、と足を踏み出すと確かに前進するのに、何を踏んでいるのかはよくわからない。ただ〝在る〟ということだけが確かで、ほかはすべてが不確かだった。
私は周囲を観察しながら歩き始めた。進めば進むほどに奇妙な感覚に襲われる場所だ。どれだけ歩いても代わり映えのない風景が続き、真実進んでいるのかどうかもわからなくなってくる。それでも立ち止まって何かを待つのは性に合わず、あてもなくふらふらと歩き続けた。
そうしていると、いつの間にか、遠くに小さな影のようなものが見え始めた。真っ白い場所で影というのもおかしな話だが、それを見た瞬間に影だと思ったのだから、それは影で合っているのだろう。このどこでもない場所に初めて現れた物質に引き付けられるようにして、私はそれに向かって足を進めた。ゆっくりと、やせ細った足を動かして前に進む。
初めは豆粒のような大きさだった影は、歩みを進めるほどにはっきりとした質量を持って存在感を放ち始めた。何かのオブジェのような、長方形の物体。それのもとに辿り着くまでは随分と時間がかかった。影がある場所は、何分もかけて歩き続けてやっと道半ばに到達する、という距離にあったのだ。少しばかりうんざりしながら、さらに時間をかけて近付いていく。そして、その影が自分の身長と変わらないほど大きいことを知ったとき、ようやくそれが人の形をしているのだと気が付いた。
その頃には歩いてきた距離よりも残りの距離の方が短くなっており、もやの中でも影の形を目視できるようになっていた。
それは、人間の後ろ姿だった。足元まである長いローブに、背中が隠れるほど長い白髪――実際に目にするのは初めてだったが、私は、長い時間をかけてその姿を何度も視てきていた。
「アルバス……」
するりと滑り落ちた言葉がもやの中に溶けて消える。すると、その声を聞きとってか、アルバスはゆっくりと振り向いた。しわとひげで隠されていながら輝きを失うことのない青い瞳がゆるゆると開かれていく。
大きく目を開いたアルバスは、わずかに口を動かした。その声はここまで届かなかったが、私には「ゲラート」と形作ったように見えた。
ふらりと、引き寄せられるようにして足を踏み出す。
アルバスは私が歩き出したのを見てわずかに身を硬くしたようだった。ローブで覆い隠された足が一歩後退する。だが、それに構わず私は足を進める。アルバスは変わらず私のことを見ていたが、今度は逃げ出そうとはしなかった。その場でただ立っているだけだ。ゆっくりと、時間をかけて衰えた足を動かし続ける。
すると、不思議なことに、私の体はじわじわと変化し始めた。一歩歩みを進めるごとに輪郭が揺らぎ、失った髪が戻り、しわの数が減り、しゃんと背筋が伸びていく。歩みを止めずに持ち上げた己の手は、杖を握っていた頃の厚みのある手に戻っていた。ぼろきれ同然だった服は体型に合わせて仕立てられたスーツになり、革靴が純白の大地を踏む。
この服には覚えがあった。忘れもしない、アルバスと杖を向け合ったときに着ていた服だ。自分で選んで身に着けた、最後の服。……ということは、おそらくは肉体もその頃に戻っているのだろう。ここが魂の在り処だというなら、そもそも決まった形などないのかもしれない。
己に起きた事象に感心しながら再び顔を上げると、つい先程まで老人だったアルバスも同様に姿を変え始めていた。じんわりと姿が揺らいでいく。鳶色に白が混じった髪とひげが頭部を覆う。体の線を隠していたローブはスーツに変わり、その足でしっかりと立ち、私を待っている男が現れる。
私は最後まで同じ速度で歩み寄り、ついにアルバスの目の前に立った。アルバスは、ふたつの青でじっと私を見ている。
「すまないことをしたね、ゲラート。君も狙われるだろうとわかっていながら、私は忠告ひとつしなかった」
「君が何かしていたとしても結果は変わらなかっただろう。それに、私は知っていた」
「……視えていたのか」
「ああ、ずっと視ていた。君が何をしていたのかも」
アルバスは腹の前で指を組み、そっと目を閉じて微かな笑みを浮かべる。
「私は満足してるよ、最期まで愚かではあったがね。この先は、私たちよりもずっと優れた者たちが正しい選択をしてくれるだろう」
「……アルバス」
「ああ、怒らないでくれ、ゲラート。我々は才能こそあったかもしれないが、それに伴う資質を備えてはいなかった……だろう?」
静かに語りながら目を開けたアルバスが宥めるようにそう言う。どうやら険しく歪んだ顔を見て、私が彼の発言に怒っていると思ったらしい。
私は自分の眉間に深いしわが刻まれていることには気付いていたが、苛立ちの理由はそんなところにはないということも知っていた。ゆっくりと息を吸い込んで言葉を綴ると、先程より幾分か低い声がのどから滑り落ちる。
「アルバス――アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア。私の前でそんな顔をするな」
「……ええと、私はそんなに変な顔をしているかな?」
「教師の顔。英雄の顔。賢者の顔……そんなもの、私の前では必要ない」
そこまで聞いたアルバスはわずかにその目を見開き、動揺から瞳を揺らした。反射的に後ずさりそうになるのを意図的に押え付けたのだろう。ぐ、と指先に力が入るのが視界の端に映る。そしてそのあとで、見え隠れしていた揺らぎをすべて隠して口を開いた。
「……これが私だよ。今の、すべてを終えた、私だ」
「そうだ、すべては終わった。よくわかっているじゃないか、アルバス。我々があちら側に対してできることはもうない。だから、そんな余所行きの顔ももう必要ない。私は本当の君をよく知っているからな」
「それ、は、それは……だめだ、いけない」
「なぜ?」
「なぜ……?」
ぽつり、とアルバスが小さな声で同じ言葉を繰り返すと、再びその輪郭が揺らぎ始めた。
「……君が、最期まで戦ったと、聞いた。抗ったと。それは、それが、私は……」
アルバスが続けて声を発する中、時間をかけて姿がゆらゆらと変わっていく。豊かなひげが消えてつるりとした顎が現れ、短くなっていく髪から白いものが消えて明るい鳶色に変化し、肌はしわひとつなく輝いた。共に過ごした頃の、今の時代にはそぐわないシャツとベストを身に着けて、アルバスは私を見る。その青い瞳が濡れてきらりと光った。
その涙を掬い取りたかったが、その行為が許されるかわからず、結局、指先がぴくりと痙攣するように動いただけで終わってしまう。
「泣かないでくれ、アルバス……君を傷つけたいわけじゃない」
「……君が、それを言うのか」
「信じてもらえないかもしれないが、嘘じゃない。結果的にそうなってしまったこともあるが、私はそんなことを望んではいなかった」
「それならどうして僕を置いて行ってしまったんだ……! どうして僕の話を聞き入れてくれなかったんだ! どうして……ッ、僕に引導を渡させるようなまねを……!」
堰切ったように言葉の洪水があふれ出すと、それと同時に、わずかに伏せられたアルバスの大きな瞳からも大粒の涙があふれ出した。透明な雫がぼろぼろと頬を伝い、足元に落ちてはどこへともなく消えていく。
思わずそこから逃げ出したい衝動に駆られて身を引きかけた。だが、なんとか踏み止まり、今度こそあふれ続ける雫を掬おうと手を伸ばした――そのときだ。自分の手もまた様変わりしていることに、僕はようやく気が付いた。手のひらは先程よりもいくらか薄くなり、肌はみずみずしく張りがある。見覚えのある袖口をしぼったシャツがその腕を包み込んでいることで、アルバスと同様、十代の頃の姿に変化したのだろうと推測できた。
見慣れない手に違和感を覚えながらもおずおずと手を伸ばし、次々にアルバスの頬を流れ落ちていく涙を掬う。その手を払われなかったことにそっと胸を撫で下ろした僕は、雫があふれる速度に合わせて言葉を選び始めた。
「僕の……僕の望みは、君の願いを叶えることだった。僕らの夢を叶えることだった。それは、君を解放することでもあったんだ」
「僕が望んでたのはそんなことじゃない……!」
「わかってるよ、今はね。正しく理解するのにひどく遠回りしてしまったけど、ほんとうはずっと、僕の望みも君と同じだったから」
アルバスは濡れた目でひとつ大きく瞬きをした。何もかもを見透かす瞳で、僕の顔をじっと覗き込む。
「僕が何を望んでたか、わかるっていうのか?」
「ああ、そうだよ。僕は君を守りたかったし、救い出したかった。ほかの誰でもない僕の手で。それに何より、一緒にいたかったんだ。……でも、僕は逃げた。君に嫌われたと、もう愛されてないと知ってしまうことに耐えられなくて……」
悔恨が胸を締め付ける痛みを堪えようときつく目を閉じる。すると、ほどなくして頬にやわらかなぬくもりを感じた。そっと目を開けると、アルバスは伸ばした手のひらで、さっき僕がやったのと同じように頬を包んでいた。痛みと喜びがない交ぜになった微笑みを浮かべて、その手のぬくもりと同じくらいやわらかな声で囁く。
「ばかだな、ゲラート……僕が君を嫌いになれたことなんて、なかったのに」
その言葉を聞いた瞬間、とっさにもう片方の手も伸ばしていた。両手をアルバスの背に回し、肩に顔をうずめて、きつくきつく抱きしめる。両手が背中に触れる直前に一瞬だけアルバスの驚いた顔が視界に飛び込んできたが、無視して腕に力を込めた。そうすると、僕の背にも二本の腕が回ってきて、よりいっそう強く抱き合うことになった。
それからいくらも経たないうちに、今度は腕の中の体の厚みが少しずつ増していき、先程まではなかったひげが頬に触れるようになり始めた。くぐもった自分の声がアルバスのチャコールグレーのジャケットに吸い込まれていく。
「もっと早く、気付けていたらよかった」
「ああ……でも、そうなっていたら、私も君もここにはいなかったかもしれない。だからこれでいいんだ、きっと。おかげでこうして君とゆっくり語り合える。ここは時間があってないようなものだからね。ゲラート、聞かせてくれ。君が何を見て、何を考えてきたのか……そうしたら、そのあとで、私の話も聞いてくれないか」
「もちろんだ。君となら話は尽きない。そうだろう?」
腕の力を緩めて顔を上げると、目の前に壮年の頃のアルバスの顔が現れた。先程よりも短いひげが頬を覆っており、その中心で唇がきれいな弧を描いている。
どちらからともなく私たちは歩き出し、別々に過ごした日々のことを話し始めた。それは悔いと懐旧が入り混じった、楽しいだけとはとても言えない内容だったが、その小さな痛みは私たちにはよく似合っていたように思う。
私たちは並んであてもなく歩き、それに飽きたら腰かけて話し込んだ。記憶や感情が姿に反映されるらしく、語る内容に合わせて姿は変わり続けた。周囲は相変わらずはっきり風景だと呼べるようなものはなかったが、青年の頃から老人までの年齢を行ったり来たりしていると、不思議なことに、時折、都会の街なかにいるように感じることも、ゴドリックの谷の草はらにいるように感じることもあった。
そうして長い長い後悔の日々と、それでも成し得たことへの称賛と、変わらず有り続けた愛について語らい尽くした頃、アルバスが不意に顔を上げて頭上を見上げた。地べたで隣に腰かけていた私も同様に頭上を見上げてみたが、これといった変化は見受けられない。だが、隣のアルバスは、何かを探しているかのようにじっと天を仰いでいる。
「どうかしたのか?」
「……時間だ」
「なんだって?」
「わからない。でも、どうやら私の番らしい」
「番……? なんのことだ?」
「わからないが、おそらく……もうここにはいられないということだろう。行かなければ」
「待て、アルバス! どこに行くつもりだ」
自分の意見を言うだけ言って立ち上がろうとしたアルバスの手を掴み、その場に引き留める。そのときには、アルバスはすでに死ぬ直前の老人の姿になっていた。老いた男が中腰のまま、真っ白なひげの中で困ったような笑みを浮かべている。
「さてのう……こればかりは、わしにもはっきりとしたことは言えんのじゃ。じゃが、ゲラート、いずれ君にもわかる瞬間が来る」
「いずれ……? それまでまた君と離れろと言うのか」
「すべて、我々には計り知れぬことじゃ」
掴んでいるのとは逆の手でそっと私の手をほどき、完全に立ち上がったアルバスは、迷うことなく背を向けて歩き始めた。世界はやはり白いばかりで、アルバスの視線の先に何があるのか私にはわからない。
私は黙っていられずに勢いよく立ち上がったが、不思議と追いかけて捉まえようとは思えなかった。その場でアルバスの背を見つめ、声を張り上げる。
「また見つけ出す! 必ず!」
喉を震わせた声はどこまでもこだまするかのように空間全体に響いた。
アルバスは驚いた表情を浮かべてゆっくりと振り向き、そっと笑みを浮かべたが、言葉を返しはしない。少しの間、しん、と二人の間に静けさが降りる。
そのとき、その静けさを突き破って、どこからか、幾重にも折り重なって響く言葉のような音が耳に届いた。
『――……ート』
その音はアルバスには聞こえていないのか、変わらず静かな笑みを湛えて私を見ている。
『――……ート』
「必ずだ、アルバス!」
一方的な約束を取り付けようといっそう声を張り上げると、アルバスは笑みを深くした。しわに囲まれた目がゆったりと細められ、それからゆっくりと振り返って再び背を向ける。その合間に小さく頷いたように見えたが、本当のところはわからない。
『……ート、ゲラート』
アルバスの後ろ姿が少しずつ小さくなっていき、ここで最初に見つけたときと同じ大きさになるまで、私はその背を見送り続けた。
その間にも、音は段々とはっきりとした言葉のかたちをとり始めていた。その音は、間違いなく私の名を呼んでいる。
『ゲラート』
繰り返されるその音は声になり、重なっているせいで輪郭がぼやけていた声はひとりの男の言葉になった。私は白い空間を見つめたまま、間近で響くその言葉の方へと意識を奪われていく……。
* * *
「――ゲラート、そろそろ起きないと。さすがに間に合わなくなるぞ」
柑橘の香りと、こめかみに微かな感触。肌に直接触れているその物体は、肌の上をなぞるようにして頬に向かってするすると移動していく。
「本当ならいくらでも寝かせてあげたいところだけどね、今日ばかりはそうはいかない。かわいい姪っ子の晴れの舞台に遅刻するわけにはいかないだろう?」
上方から降り注ぐ、歌うようなリズムを刻む声が耳に心地よく、そのせいでどうにも目を開けようという気にならない。声の主は呆れた調子でため息をつき、もう一度こめかみをなぞって目元にかかる前髪を除けた。
「ほら、君の教え子も来るんだろう? ちゃんとセットして行かないと」
「……教え子じゃない」
「たとえ数ヶ月でも君から学び、君を慕っているなら、立派な教え子だよ。……おはよう、ゲラート」
「ああ……おはよう、アルバス」
ゆっくりと目を開けて眩しさに目を細める。
私が横たわっているベッドのふちに腰かけたアルバスは、窓から射し込む陽光を全身に浴び、半身で振り返りながら私を見下ろしていた。白髪混じりの髪は後頭部に向かってゆるく撫でつけられており、同じく白いものが混じるひげが、弧を描く唇の周囲を覆っている。そして、私に向かって伸ばされている左手の上では、シルバーの指輪が光を反射して輝いていた。その手が頬骨のラインをそっとなぞる。そうして指先が動くたびに、微かな柑橘の香りが鼻腔をくすぐる。
「朝からレモンキャンディを食べてたのか?」
「残念、はずれだ。レモンカードを作ってたんだよ。お茶会には必要だろう?」
「ああ、どうりで砂糖のにおいがすると思った」
「君は本当に、よく鼻が利くな」
苦笑するアルバスの手を捉え、指先に口付けて息を吸い込むと、微かにレモンと砂糖、それからバターのにおいがした。それを十分に堪能してから、いつまでも寝転がってはいられないだろうと手を解放してのそりと起き上がる。ベッドに腰掛け、乱れて顔にかかっている前髪をかき上げたところで、アルバスがわずかに首を傾げた。
「何かあったのか?」
「……なんのことだ?」
「いや、なんとなくそんな気がしてね」
アルバスはそれ以上何も言わず、すべてを見通すかのようなその瞳で私をじっと観察している。ほんの少しの気まずさを覚えた私は、その視線から逃れようとわずかに視線を落とし、数分前までの記憶を手繰り寄せた。
ついさっきまでどっぷりと浸かっていたのは、生まれ直してから何度も繰り返し見てきた、かつての記憶だ。それを見ること自体はおかしなことではないのだが、妙なのは、初めて見る記憶が混ざっていたことだ。これまで夢に見てきたのは死ぬまでの記憶であって、そのあとのことを知る機会はなかったはずだ。いつだって、目覚める直前に視界を覆っていたのは緑色の閃光だった。
あの白い世界はなんだったのだろうか。本物の記憶かどうか確かめる手段もないが、脳が勝手に捏造した風景だとも思えない。
ひとつだけ言えるのは、あれが真実だとするならば、私は生まれ直したことで確かに約束を果たしたのだ――ということだろう。
「……夢を見ていた。古く、懐かしい夢を」
すべてを話すのは余計なことのような気がして、返事を待っているアルバスにはそう答えて微笑みかける。すると、アルバスも「そうか」とだけ答えてゆるりと微笑んだ。そのまま私の額にキスを贈り、立ち上がる。
「さて、そろそろ支度を進めないと」
「ああ、すぐに行く」
その返答に満足げに頷いて、アルバスは寝室を出て行った。
アルバスがこうして私を急かしているのは、今日が姪の功績を祝う日だからだ。なんの因果か、アルバスの姪――アルバスの兄の娘だ――は魔法族として生を受けた。その姪がホグワーツ在籍中から続けていた研究がついに実を結び、このたび晴れて論文で賞をとったのだ。その祝いの席として、親族や友人一同――この中に私が短期間指導した者もいる――が集まることになっている。おかげで、今日の茶会に向けてのアルバスの気合の入れようは尋常ではない。
この茶会は、本来なら私にとってはさして重要ではない出来事だが、こうして死後のことを知った今、すべてに妙な繋がりがあるように思えてくる。
マグルとして生まれたはずのアルバスは、結局、魔法族に連なる者になった。覚えてなどいなかったというのに、私は最後の約束のとおりに動いていた。巡り巡って一周してしまったようなこの関係を縁と呼ばずになんと表現すればいいというのだろう。
そんなことを考えていると頭が痛くなりそうになり、魔法でも科学でも言い表せないものもあるのだろう、と諦めることにした。軽く首を回してほぐし、アルバスのあとを追うように部屋を出る。
冷えた水で顔を洗って目を覚まし、普段身に着けているものより少し質のいいシャツとトラウザーズ、ベストに袖を通して身支度を整え、アルバスが待っているリビングに足を踏み入れる。
住み慣れたリビングも寝室と同様に、窓から明るい日射しが降り注いでいた。日光に照らされたチェストの上に並んでいるのは、動くものと動かないものが半々の、複数の写真立てだ。旅先や特別な日を記録したそれらの写真からは、再会した頃から現在までの移り変わりが見て取れる。そして、その中に混ざって一枚だけ飾られているフクロウの写真――天寿をまっとうしたセリーニの姿を一瞥してからキッチンを覗くと、アルバスが手慣れた様子でオーブンを操作しているところだった。
私の気配を察知したアルバスは手を止めず、背中越しに話しかけてくる。
「朝食っていうには遅いけどトーストくらいは食べていくだろう? あ、お茶会の軽食は食べすぎないようにしてくれ。ディナーを予約してあるんだ」
「予約?」
「ああ、みんなには申し訳ないが、祝いの席は途中で抜けさせてもらおう。大丈夫、デイヴィッドにはもう伝えてある」
アルバスが話す内容に心当たりがなく、姪っ子の受賞祝いというめでたい席から抜け出すほどの出来事があっただろうか? と、顔には出さないように注意しながら思考を巡らせる。だが、いくら考えてもそれらしい祝い事は思い出せない。アルバスと付き合い始めた日を忘れたことはないから違うし、結婚した日も然りだ。
答えに辿り着けないまま自分のマグカップを手に取って何食わぬ顔でコーヒーを淹れようとしたところで、私がまだ考えているらしいと勘付いたアルバスがぴたりと動きを止めて振り向いた。
「まさか、君、忘れてるんじゃないだろうね?」
「あー、いや……」
「まったく……そんなことだろうと思ったよ。最近は出張も多かったから仕方ないといえばそうだが、いつまで経ってもこれだけは習慣付かないんだな、君は」
「……ああ、誕生日か」
「そうだよ。ゲラート、君のね」
呆れたようにそう言って、アルバスはカットされた野菜が乗った小さな皿を冷蔵庫から取り出した。
私は、今日夢を見た原因を理解して堪らなくなり、調理台に皿を置いたアルバスを背後から抱きしめた。腹部に腕を回して身を寄せると、アルバスがわずかに戸惑った様子で声をあげる。
「ゲラート?」
「少し、このままで……」
「仕方ないな」
くすくすと笑うアルバスの少し冷えた指先が手に重なる。互いの指先で遊びながら、私は思い出したばかりの白い世界での出来事を思い起こしていた。
なぜ今さらあんなことを思い出したのかと疑問だったが、今日が自分の誕生日だとわかって謎が解けた。今日で私は、前にアルバスと殺し合ったときの年齢を超えたのだ。
前とは違う道を進んだから、こうして記憶を持ったまま生きていることへの『答え合わせ』のつもりなのだろうか。だとしたら、この世界を司る存在も意地が悪い。今さら死後に和解していたことを知っても、どうなるものでもあるまいに。……それとも、私の魂が、あの叫びを忘れるなと言っているのだろうか。約束を――願いを忘れるな、と。
白い世界の中、去っていくアルバスの後ろ姿を思い出して、つきりと胸が痛む。
いつか、そう遠くない日に、アルバスは先に終わりを迎えることになる。チェストの上のセリーニのように、写真の中でしか会えない日々が訪れるだろう。だが、その未来から逃げようとは思わない。マグルと魔法族ではそもそもの寿命が違うのだから、私がアルバスを看取るのは自然の理であり、死は恐れるものではない。私もアルバスも、もうそれを知っている。だから、私にできるのは、最期の瞬間も『また会いたい』と言ってもらえるように、これからの日々を過ごすことくらいなのだろう。
アルバスの首筋に顔をうずめて耳にキスすると、アルバスがくすぐったがって身をよじった。私の腕の中でもぞもぞと体をひねり、反転して向かい合う。
「ゲラート、本当に今日はどうしたんだ?」
「なに、どうしたら君に惚れ直してもらえるかと思ってね。こうして試行錯誤中だ」
そう告げて額にキスを落とすと、アルバスはいよいよ堪えきれないというふうに息を噴き出し、くつくつと笑って、両手で私の頬を包み込んだ。
「なんだ、そんなことか。答えは簡単、〝今でも毎日惚れ直してる〟だよ、ゲラート。……怖いくらいにね」
「そうなのか?」
「ああ、私が見ている君の姿を見せてあげたいくらいだ」
「してもいいならそうするが」
「……前言撤回だ。君は本当にやりかねない」
「それは残念だな」
軽口で笑い合い、唇を重ねると、アルバスの両腕が私の首のうしろに回り、また菓子の残り香が周囲を包み込んだ。アルバスは「準備しないと」と言いながらも強く抵抗はせず微かに笑っている。そして、ひどく甘やかな声で、
「誕生日おめでとう、ゲラート」
と囁いた。
私は、その声に胸の奥深くから満たされていくのを感じながら、もう一度唇を味わうために目を閉じる。
首筋を辿る指先から香るのはレモンとバター、砂糖が混ざった涼やかで甘いにおい――永遠に求めてやまない、運命の香り。