ジョン・ドウの帰る場所

逆行兄弟1212での無配でした。既刊「Days」のずっと未来の引退後の主ニルの話です。番外編的な感じです。
「Days」は本編の作戦の少しあとに、七歳ごろのニールと主さんが短期間同居していた話です。当然のように過去捏造してます。
ニール逆行説で書いてますが、作戦後も一部のテネメンバーと合流していた謎の平和な世界です。

 白い壁を基調とした一軒家の庭先で、褐色の肌を持つひとりの男が草木の手入れをしている。その男はたった今帰宅した隣家の住人とにこやかに挨拶を交わし、相手の息子の話を一通り聞き終えてから再び作業に戻った。
 都心から離れているこの土地は穏やかだ。住人は家族連れが多く、通り沿いにはずらりと一軒家が並んでいる。少し離れた場所には学校や図書館、小さなカフェがあり、喧騒とはほど遠い土地柄といえるだろう。それに加えて、今は春と夏の間。今日は特に日射しがやわらかく、気温は暖かく、道行く人々の表情はいつもより穏やかだ。数軒先の家からは子供たちのはしゃぐ声と犬の鳴き声が聞こえている。
 男は少しの間、手を止めて空を仰いだ。ついさっきまで手を入れていた樹木の葉の間から見える、空の鮮やかな青。その合間を真っ白な雲がゆっくりと流れていく。雲の流れに合わせて穏やかな風が頬を撫でるのを感じて、男は静かに目を細める。
 そうして今日という日に想いを馳せていると、玄関ドアが開く音がした。
 家の中から姿を現した上背のある白人の男は、ドアを開け放ったまま新聞を片手に持ち、庭先に立つの男の方を向いた。玄関先に立っているその男のくすんだブロンドはいささか乱れており、着ているパーカーの裾や袖口のゴムは伸びきってしまっている。そんな格好を誰かに見られる可能性などこれっぽっちも気にせず、かけている眼鏡の位置を直しながらその人物は笑みを浮かべた。そして、空を見ている男に声をかける。
「そろそろランチにしないか?」
 そう声をかけられた男は、すぐさま玄関先へと視線を向けた。そして、その場で立っている同居人の姿を見て苦笑を浮かべる。
「ニール……仕事熱心なのはいいが、眼鏡は置いてきた方がよかったんじゃないか?」
「大丈夫だよ。こうすれば……ほら、君の苦笑いだってはっきり見える」
 玄関先に立っている白人の男――ニールは眼鏡をわずかに下方へとずらし、極端な上目遣いでレンズを避けて、樹の下に立つ男のことを見ておかしそうに笑う。そんなものぐさな様子を見て、男はもう一度苦笑した。
 加齢に伴って落ちた視力を補うために使い始めた眼鏡を、ニールは面倒くさがって外そうとしない。男も初めの頃はこまめに注意していたが、いざ外すと、決まった場所に置かないせいで見失うので口うるさく言うのはやめた。二人揃って家中を探すはめになったのも一度や二度ではなく、その労力のことを考えると「まあ、いいか」という気分になるのだ。
 男は庭作業に使っていた道具を手に取って顔を上げる。
「これを片付けたら中に入るよ」
「じゃあ、先に準備しておく」
 男の答えを聞いて、ニールは家の中を軽く指さして中へと入っていった。
 それを見送った男は家の玄関ではなく、家のすぐ隣にあるガレージへと向かう。敷地内に停めてある車の横を通り過ぎ、開け放たれているガレージの中に入り、わきに置かれている自転車を避けて一番奥にある棚に道具をしまう。最後にぐるりと周囲を見回し、異常がないことを確認してからガレージを出てシャッターを下ろし、鍵をかけた。
 片付けを終えて家の中に入った男がキッチンに向かうと、そこには眼鏡を外したニールの姿があった。ニールの目の前には野菜が盛られた大きな木製のボウルがあり、ニールはその野菜とドレッシングを混ぜている最中だった。
「眼鏡はどこにやったんだ?」
「大丈夫、今日はテーブルに置いた」
 男の疑問に、ニールは顔を上げずに答える。
 男がキッチンから身を乗り出してリビングを確認すると、ローテーブルの上に、さっきまでニールが持っていた新聞と一緒に眼鏡が置いてあった。男はそれにひとり頷き、手を洗ってから食材に手を伸ばした。カットしたパンの間にハムとチーズを入れてホットサンドメーカーで挟み、焼きあがるのを待つ。
 一足先に野菜との格闘を終えたニールは、食器棚からマグカップを二つ取り出して、すでに淹れてあったコーヒーを注いだ。それらをダイニングテーブルに運び、自分の席に座って、日射しが降り注ぐ庭を眺める。
 二人は何を話すでもなく、静かに食事の時を待った。パンが焼ける匂いやコーヒーの香りに身をゆだね、開いている窓の外から聞こえてくる日常の音に耳を澄ます。
 近頃は家の傷みが目立つようになってきた。リビングの壁の色は真っ白とは言い難く、水回りには落ちない汚れもある。窓も軋みやすくなっているし、前に買ったソファはへたってしまって少し前に新しいものに買い替えたばかりだ。だが、それも当然だろう。この一軒家がまともに〝家〟として機能するようになったのはここ五年の間のことだが、購入したのは十八年も前になる。
 十八年前、男が幼いニールとの同居を終えて少したった頃――ちょうど今と同じくらいの季節に、二人でこの家を買った。使命のためにほとんど根無し草のような生活をしている中で、ちゃんと『帰れる場所』をつくろう、という話になったからだ。
 そうして家を購入したのはいいものの、人類を救うために世界中を飛び回る二人は十三年もの間、まともにひとところに住み着くことはなく、この家も別荘といっていいような扱いだった。
 では、五年前に何が変わったのか。
 年若いニールを逆行の旅に送り出したのだ。若いニールと、指導役を買って出たアイヴスを含むチームが過去へと旅立つのを見送って、男とニールは主だった役割をようやく終えた。
 もちろんすべてを手放したわけではなく、今でも把握している設備や道具を悪用されないように管理してはいるが、以前のように時間に追われて走り回ることはなくなった。今は情報収集を兼ねて、傭兵業のコンサルタントをして生活している。仕事の種類も時期も選べる。それは、人生を任務に捧げてきた二人に訪れた大きな変化だった。
 男は完成したホットサンドが乗っている皿をダイニングテーブルに置いて、ニールの視線を追いかけた。
 ニールの瞳は庭を離れ、キャビネットの上に飾られている写真に向けられている。ニールの向かい側の席に座りながら、男がぽつりと呟く。
「もう五年になるのか」
「ああ、そっか。いろいろ増えるのも当然だ」
 そう呟いてから、ニールはそっと笑みを浮かべた。その表情が視界に入り、男は首を傾げる。
「何を笑ってるんだ?」
 ニールは疑問を口にした男の顔を見て、ますます笑みを深める。そして、からかうような音を含んだ声で答えた。
「君が〝僕〟を送り出した日のことを思い出してた」
「それは、今思い出さなくてもいいだろう……恥ずかしい」
「そんなことないよ。僕は嬉しかった」
「あんな姿が?」
 そう答える男は複雑そうな顔をしていたが、ニールは表情を崩さなかった。
 その日のことは、男もニールもはっきりと覚えている。

 その日、予定通りにチームを送り出した男は、帰宅した途端、着替えもせずにニールと並んでソファに座った。そして、隣にいるニールにも聞こえるか聞こえないかという程度の小さな声で「すまない」と呟き、一筋だけ涙を流したのだ。
 ニールは驚き、その言葉が今日送り出した過去の自分に向けられたものなのか、今の自分に向けられたものなのか判断がつかず、何も言えないまま男の肩に腕を回して寄り添った。
 男はそれ以上なにかを嘆いたりはしなかったが、ニールは少しばかり動揺していて、まともに男の顔を見れなかった。隣にいる男の様子が、ニールの記憶の中にある姿とはかけ離れていたからだ。
 ニールの記憶では、チームを見送る〝ボス〟はわずかな動揺すら見せなかった。いつものように鋭く、それでいて穏やかさもはらんだ瞳で一人一人を見つめて、「任せたぞ」と、揺らぐことのない声でそう言った。ニールはそれが誇らしかった。ボスに会えなくなるのは寂しかったが、彼の人生をかけた仕事の一番大事な部分を任されるのは嬉しかったし、自分が知らない若いボスに会えるのは楽しみだった。だから、ほんの少しも悲嘆することなく回転ドアの中に入ったのだ。
 自分がそんな調子だったから、男がそんなに胸を痛めているとは思わなかった。挟撃作戦を終えて十年が経過し、あらゆる意味でパートナーとなった男が〝ボス〟として若い自分と出会ってからも、男自身の手で鍛え上げる心苦しさはあっても、どこかできっぱりと割り切るのだろうと考えていた。
 だが、そうではなかったらしい。男はチームの前では上手に嘘をつき、ニールの隣で初めて胸の内をさらけ出したのだ。
 二人とも何も言わないまま、沈黙が室内を支配する。時計の針が動く音がやけに響く。だが、息苦しさはない。
 ニールは時計の針の音に耳を傾け、男の体温を手のひらで感じながら、かけるべき言葉を探していた。そうしてしばらくの間、同じ姿勢のままキャビネットの上にある色あせた紙粘土の人形とスノードームを見つめていたかと思うと、唐突に、静かな声で「一緒に行きたい場所があるんだ」と告げた。
 男は話の切り口が急に変わったことに驚いて隣を見た。ニールの意図を探り出そうと間近にある顔をじっと見つめてみるが、そこには迷いもなければ、おどけた様子もない。ニールは至極真剣に、凪いだ表情で男の顔を見返している。
「どこに行くんだ?」
「行ったら教えるよ」
 ニールの真剣さに応えるように男がまっすぐに問うと、ニールは静かに笑みを浮かべて返事をした。それきり、再び沈黙が訪れる。
 ニールがそれ以上の情報を与えるつもりがないことは明白だったため、男はそっと息を吐いてから「わかった」とだけ答えた。その返答を聞いたニールは、もう一度小さく笑みを浮かべる。
「それじゃあ、週末にでかけよう」
 なぜわざわざ週末なんだ? と男は疑問に思ったが、きっと答えは返ってこないだろうと、問いかけるのはやめて頷いた。
 そして、宣言したとおり、土曜日になるとニールは男を家から連れ出した。
 普段の買い物は車で済ませているが、この日は珍しく電車で行くという。詳しいことは相変わらず説明されていなかったが、男は文句を言うこともなく、おとなしくニールについていった。あたたかい陽光のもと、電車を乗り継いで都心に向かう。雑談を交わして並んで歩き、軽い小旅行のような距離を移動する。やがて首都のはずれに着くと、ニールは慣れた様子で行き先を案内し始めた。
 電車を降りて歩き、ニールの話を聞きながら、男はゆっくりと辺りを見回した。
 住宅と小さな店が入り混じる街並み。休日だからか、出歩いている人々の姿が多く、老若男女問わず様々な人とすれ違う。週末に賑やかになるのはどこの街でも変わらないらしい。小さな公園を通り過ぎ、子供たちの声を聞きながら歩き続ける。ニールは迷うことなく公園を過ぎた先に現れた大きな通りの角を曲がり、「ここに入ろう」とだけ言って、こぢんまりとしたカフェのドアを開けた。
 店内に入ったニールはいくつかの空いている席を確認し、窓際の席を選んだ。大きな窓からは目の前の道路がゆったりと見渡せる。向かい合って席についた二人は、コーヒーを注文してようやく一息ついた。
 カフェの中は静かだ。ほかの席から談笑している声が聞こえてくるが、音楽は流れていない。そんな中、ニールは何も言わず、頬杖をついて窓の外を眺めている。コーヒーが運ばれてきてもその姿勢は変わらず、男はニールの様子を窺いながら熱いコーヒーに口をつけた。
 この場所に来たいと言い出したときと同様に、今日のニールはいつもと違うように男には見えていた。言葉数少なく、やけに表情が穏やかで何を考えているのかわからない。言われるがままにカフェに入ったが、ここが目的地なのかどうかも知らないのだから、男の中はいまだに疑問だらけだ。だが、男はニールが説明してくれるのを黙って待った。
 向かい合ったまま無言で座っている二人組は、傍から見たら奇妙な人間だったのかもしれない。ちらり、と、ときどき向けられる視線を無視して、男はコーヒーを飲み続ける。そうして、カップの中身が半分ほどになったときだ。「あれだ」と、ニールが静かに口を開いた。
 普段よりもいくらか低くひそめられた声につられるように、男も「何がだ?」と小声で答える。すると、ニールは一組の家族を目線で示して「あれ」と言い、ゆっくりと言葉を続けた。
「あれが、僕の〝ちち〟と〝はは〟」
 予想外の単語に驚いた男が慌ててニールの目線を追いかける。
 ニールが見つめる先、車道を挟んで向こう側の道を子供連れの男女が歩いていた。男性も女性も、おそらく男やニールと同じ年頃だろう。二人の間には十歳くらいの女の子が歩いており、その手はしっかりと男女と繋がれていた。
「土曜日はいつも公園に行くんだ。さっき通り過ぎたとこの。だから、ここからなら見えると思って」
 ニールは独り言のように、説明にもなっていない説明を呟く。
 男は何を言っていいのかわからず、言葉を詰まらせた。窓の外を見つめ続けるニールに倣うように、男も家族の行く先を視線で追ってしまう。しかし、いくら眺めてみても、目の前を歩いている女性と、男の記憶の中にあるニールの母親の姿は重ならなかった。
 どこから問えばいいのか迷っている男を尻目に、ニールはぽつぽつと言葉を続ける。
「ずっと昔、ジョンと別れたあと、彼らが僕の里親になったんだよ。家を出るときに正式に養子になったから、あれが僕の両親。僕が独り立ちしたあともああやって里親を続けてるから、実はきょうだいがいっぱいいるんだ」
 全員と会ったことがあるわけじゃないけどね、と語るニールの目尻が優しく下がる。まぶしいものを見るように、ニールは目を細めていた。
 男は一瞬だけ視線をニールに戻し、再び窓の外を見て、最も疑問に思っていることを口にした。
「どうして急に来ようと思ったんだ?」
「どうしてかな……本当は、君に知らせるつもりはなかったんだ。でも、昔の僕を見送った日の君の顔を見てたら、僕は物心ついてから初めて、この世界で誰とも重複してない〝たった一人の僕〟になったんだって気付いて、そうしたら……なんか、もういいかなって。僕は母と同い年になっちゃったから君を紹介はできないけど、君に知っていてほしいと思った」
 歩いていく家族の後ろ姿を見送ってから、ニールは正面に顔を向けた。真剣なまなざしで男に向き合い、芯の通った声で告げる。
「僕は君が示した道も、自分の選択も、後悔したことなんかないんだ。本当に、少しもね」
 ニールが知っていてほしいと言った内容が、幼いニールに対して男が選んだ行動の結果のことを指しているのか、それとも家族のことをいっているのか、男は図りかねていた。だが、男のことを見つめるニールの瞳を見ているうちに、きっと、どちらの意味も含んでいるのだろうと理解した。先日、情けなくも涙した自分に対して語っているだろうことも。
「優しそうなご両親だ」
「少し口うるさいけどね。二人ともきっちりしてるから」
 そんなふうに、ニールは今まで話したことのない家族の話をした。そして、両親の人となりや子供の頃の習慣のことをしばらく語ったあとで急に黙り込んだかと思うと、「実は……」と、ニールは少しだけ申し訳なさそうに秘密を打ち明けた。ときどき両親に手紙を送っていたんだ、と。
「家を出た息子がいきなり消息不明になるのは申し訳なくて……。もちろん、発送元がわからないように細工はしてるよ」
 そう告げるニールは苦笑いを浮かべていたが、どこか照れ臭そうでもある。長年の秘密を語るニールの言葉の中にわずかな戸惑いを感じて、男は気付かれないように目を見張った。
 男は最初、先日の自分の姿を見たニールが気を遣ってくれているのだと思っていた。しかし、会話を続けていくうちにそれだけではないのだと、ようやく正しくニールの行動を受け止めることができた。
 ニールは人生の半分以上を年齢が違う自分がいる世界で過ごし、もう一人――あるいは複数の自分の行動を意識しながら生きてきた。つまり、男が別れに涙したあの日、ニールもまた、長年抱えてきたものを手放したのだ。そうして初めて、過去もすべて男と共有することを自分に許した。
 ニールの口からこぼれ落ちる言葉は楽しげではあるが、どこか平たんな穏やかさがある。
 ゆったりと話す声を聴き、ブロンドに混じる白髪が日に透けるのを見つけて、男も初めて〝終わったのだ〟と実感した。自分の決断に罪悪感を覚えるのは、目の前で話し続ける男の人生を否定することにもなりかねないのだということも。
 そこまで思考が行き着いて、男はこの数日で初めて心の底から微笑んだ。
 ニールの幼い頃の姿を思い出し、昔は尋ねることもできなかった過去の話を聞く。男は聞き役に徹していたのだが、一通り話し終えたニールは男の過去の話も聞きたがった。男は一瞬だけ驚いてすぐに破顔し、自分の家族のことを話し始める。
 男が語る子供の姿を想像してニールは目を輝かせ、それに気付いた男は気恥ずかしさから苦笑した。そうやって、二人は初めてお互いの生い立ちを知った。

「次に送るハガキは決めたのか?」
「それが、あんまりいいのが見つからなくて。来週の出張先で探そうと思ってる」
 ホットサンドをかじりながら尋ねた男に対し、ニールはサラダをつつきながら答えた。ボウルに押し付けるようにしてフォークに刺さっているレタスにドレッシングを塗りたくり、口の中に放り込んで「ついでに新しい写真立ても探してくるよ」と続ける。
 写真立てのことなどすっぽりと頭から抜け落ちていた男は、一瞬食事の手を止めた。それに気付いたニールがボウルから視線を上げて「必要だろ?」と言葉を重ねる。男はそれには即答せず、両手でホットサンドを持ったまま視線を動かし、キャビネットの上に並んでいるものを見た。
 そこには色あせた紙粘土の人形とスノードームと並んで、いくつかの写真立てが置いてある。小さな額の中にあるのはすべて、男とニールの姿だ。一番左端、スノードームの隣にある写真立ては、家を買って間もない頃にニールが手ずから加工したもので、装飾はいびつで古びているが、中に飾られている二人の姿は今とそう変わらない。写真立ての中身はどれもそうだ。
 男とニールがこうして自らの姿を残すようになったのもまた、五年前からだからだ。

 後始末の手はずを整え、前線を離れてこの家に正式に引っ越してきた日、二人は初めて自分たちのためだけに写真を撮った。
 晴れてはいたが、雲の厚い日だった。家の中に二人分の荷物を運び入れ、荷ほどきを始める前に庭に出た。まだ人の手が入っていない庭でニールの端末を三脚に設置し、少し離れて家を背に立つ。そして、シャッター音が聞こえるのを待ってから端末のもとに歩み寄り、二人揃って画面をのぞき込む。
 そこには、平凡な家庭には必ず飾ってあるような家族写真を真似て、家の前に並んで立っている二人の男の姿が写っていた。
 ぎこちなさが垣間見える画面の中の自分たちの姿を見て、男は小さく笑い出し、ニールは気恥ずかしそうに口をつぐむ。ニールが年齢に見合わず幼く見える表情をしてみせたことに気付いて男が笑い声を大きくすると、笑われた本人はじとりと男をねめつけて撮り直しを要求した。
「別にいいんじゃないか?」
「いいや、初めてのちゃんとした写真なんだ。もう一回撮ろう」
 笑ってしまったことを男が謝罪してもニールは譲らず、結局同じ構図で何枚も撮ることになった。まともに写っているものもあったが、変なタイミングで笑ってしまっていたり、鳥の声に気を取られてあらぬ方向を向いているものもある。それらを一枚ずつ確認した結果、自分たちの不格好な姿に二人とも微妙な表情を浮かべるしかなくなり、うまく写るのにも慣れが必要だ、という結論に辿り着いた。
 その散々な結果にわずかに抱えていた羞恥心も消え去っていき、男とニールは自然と顔を見合わせていた。ニールが大きくため息をつく。
「写真に関しては要練習かな」
「賛成だ。さっさと休める場所をつくろう」
「夜はゆっくり寝たいからね」
 そんなことを言って、ぽんぽん、とお互いをいたわるように軽く肩を叩き合って家の中に入り、荷ほどきに精を出した。
 このとき撮った写真がキャビネットの上に並んだのは、それから一週間後のことだ。早朝に目覚めた男がリビングで水を飲んでいる最中、ふと、長い間空白のままだった写真立ての内側が色鮮やかになっていることに気が付いた。男はコップをテーブルに置いてキャビネットに歩み寄り、そっと写真立てを手に取る。そして、しばらく黙って朝日の下で写真をまじまじと見つめていたかと思うと、今度は一人で笑い出した。写真立ての中に収まっていたのが、一週間前、一番最初に撮った一番不出来な写真だったからだ。
 ひとしきり笑ってから、男は写真立てを元の位置に戻してランニングに出かけた。満足するまで走り込み、さわやかな空気を堪能して帰宅し、朝食の準備を進めてニールを待つ。
 デスクワークだからとのんびり起きてきたニールにコーヒーを渡して「あれでよかったのか?」と写真のことを尋ねると、ニールはソファに腰かけ、ちらりと写真を見てからこう答えた。
「うーん……飾るのに向いてないとは思うけど、君との初めての写真だから、やっぱり本当に〝初めて〟のものがいいなって」
 撮り直してもらったのに申し訳ないけど……とニールは続けたが、悪びれる様子は一切ない。文句を言われるなどとは少しも考えていないその様子に、男は小さく笑みを浮かべた。自身もコーヒーを片手にニールの隣に座り、一緒に新しい写真を眺める。
「いいんじゃないか? 俺たちらしくて」
「僕は、君との思い出ならなんだっていいよ」
「間違いない」
 男がそう言い終わると、二人同時にカップを口に運んだ。その動きがあまりにも一致していて、堪えきれずに笑い出す。最初に笑ったのは男だったか、ニールだったか、二人ともわからなかった。だが、やがてそんなことはどうでもよくなり、完璧でもなんでもない朝に、ただ笑っていた。

 男は口の中のパンを咀嚼しながら、ひとつひとつ確認するように写真を順に見ていく。
 五年前よりも増えた写真立てに飾られている二人の姿は、少しずつ自然な様子へと変化していっている。それらの背景は様々で、近所で撮ったものもあれば、旅先で撮ったものもある。右端に飾られている一番新しい写真は旅行先で撮ったものだ。真っ白な雪山で、二人とも全身を防寒具に包まれ着ぶくれした状態で、スキーのストックを手に持って笑っている。吐く息の白さまで伝わってきそうな風景だが、それ以上に浮かれているのが伝わってくるようだった。
 男は、雪まみれになって鼻先を真っ赤に染めていたニールの姿を思い出してゆったりと目を細める。
「また旅行に行くのもいいな」
「僕は、次は南の島を希望するよ」
「スノースポーツはもういいのか?」
「あれはあれで楽しかったけど、若い頃より寒さが堪えるんだ。しばらくは、行くならあたたかいところがいい」
 わざとらしく眉尻を下げ、男の視線を追いかけてニールもキャビネットへと視線を向ける。先程の男と同じように端から端まで順番に写真を眺め、最後に、最初の写真に目線を戻した。
「次の写真立ては久しぶりに細工してみようかな」
 ニールの言葉に男は頷く。
「ああ、それはいい」
「君もやってみればいいのに」
「楽しそうではあるが、うまくできる気はしないな」
「それもいいじゃないか。記念になる」
「わかった。覚悟しておいてくれ」
 ホットサンドの最後のかけらを口の中に放り込み、男は肩をすくめた。男に続いてニールもサラダを口に入れる。特別何を言うわけでもなかったが、その口元には笑みが浮かんでいた。それを視界の端でとらえて、男もまた笑みを浮かべる。
 二人は写真から視線を外して、次の旅行について話し始めた。今抱えている案件は今月で一区切りつくから、来月には長い休暇がとれるだろう。そう想定し、お互いに旅先の候補地を出し合う。ここはもう任務で行ったから飽きた、食事は美味しいところがいい、どうせなら名所を回ろう――そんなふうに話し合っているが、目的地は一向に定まらない。だが、それで構わなかった。他人が見れば不毛極まりないかもしれないが、二人はそんな会話自体を楽しんでいる。
 来るべき〝いつか〟を実現するために夢想するのは、二人の昔からの楽しみだ。すべてが自由にならない日々の中で、そうやって少しずつ未来を現実のものにしてきた。この家だって、初めはほんの夢物語のようなものだったのだ。二人にとっては十分に意味がある。
 そうして結論に至らないまま、テーブルの上の皿は空になってしまっていた。男は冷めたコーヒーを飲み干し、壁にかかっている時計を見る。時刻はまもなく午後二時になろうとしていた。
「そろそろ出た方がよさそうだ」
「ああ、本当だ」
 男の言葉に頷いたニールが立ち上がった。食器をシンクまで運び、寝室へと向かう。続けて立ち上がった男も食器を食洗器に入れてからニールのあとを追った。
 男が寝室に入ると、ニールはシャツを着終えたところだった。さっきまで着ていたよれよれのパーカーは大きなベッドの上に放り出されており、ニールの手はクローゼットの中のスラックスに伸びている。
 男も庭の手入れをしているときに少し汚れてしまった服を脱ぎ、スラックスとポロシャツを取り出した。
 上下とも着替え終わると、ニールはきっちりとネクタイを締めジャケットを羽織り、男も自身のジャケットを手に持ち、お互いの身なりを確認し合う。
 最後に男がニールの髪を整えると、二人とも、さっきまで薄汚れていると言っても過言ではない服装だったのが嘘のようにきちんとした印象になる。しかし、堅苦しくはなく、アイテムはあくまでもカジュアルだ。
 向かい合い、お互いの姿を見て微笑み合う。
「行こうか」
「ああ」
 そう言うと、二人は端末や財布などの必要な荷物を持って家を出た。その足でガレージの前に置いてある車に乗り込む。
 男が助手席に座ると、運転席に座ったニールが車に設置してあるディスプレイを操作した。目的地をナビで設定してから、音楽プレーヤーをいじる。
「この前はお前のやつにしたから、今日は俺の番だな」
「了解」
 小さく笑って頷いたニールが再生ボタンを押すと、軽快なドラムの音が聞こえ始める。音楽の盛り上がりに合わせるように車は動き出した。

 この音楽プレーヤーにはいくつかのプレイリストが入っている。その中のひとつが、男にとって懐かしい曲ばかりが詰め込まれている、二〇〇〇年代の曲を中心に集めたこのプレイリストだ。このほかにもニールにとっての懐かしい曲を集めた二〇二〇年代のプレイリストもある。
 共に暮らし始めて様々なものを共有するようになったとき、好き嫌いとは関係なく、どうしても噛み合わないものが存在するということに二人は気が付いた。懐かしいと感じるものがまったく違ったのだ。食事や衣類なども多少の影響はあったが、音楽や映画といった時代を表すものへの反応のずれの方が顕著だった。
 男が懐かしいと思うものをニールは知識でしか知らなかったし、ニールが懐かしいと言うものは、男にはついこの前の出来事のように感じられた。そのたびに二人は思い知ることになった。男がジョンと名乗り、幼いニールと暮らしていたあのときの関係が本来あるべき姿なのだと。
 それは奇妙な感覚だった。本来なら対面するはずのない人間が目の前にいる。その感覚を男が言葉にできずにいると、ニールは「奇跡なんだ」と言った。それから、「僕にとってはね」とも。
 若い頃なら幼いニールの姿を思い出して罪悪感に胸を痛めたかもしれないが、今の男の胸には、その言葉がすとんと入り込んだ。なんの違和感もなく男のこころの中心まで落ちて、ふわりと馴染む。胸に馴染んだその感覚はするりと音になり、男は自然と「俺にとっても同じだ」と呟いていた。
 ニールは、それには何も答えずにただ頬をゆるめた。
 それからだ。二人がその違いごと楽しむようになったのは。
 相手の若い頃に流行っていた曲を集めてプレイリストを作り、聞きながら曲にまつわる思い出話や当時のうんちくを聞く。そこには少なからずお互いの知らない姿があったから、飽きるなんてことはなかった。曲を覚えても、思い出話を覚えても、記憶を語る恋人の姿は何度見ても幸福を与えてくれるものになった。まるで、子供がおとぎ話を聞きたがるときみたいに。
 そうして語っているといつの間にか、それぞれ別の記憶だったものが、お互いが存在している記憶へと変わっていく。ニールが幼い頃の同居生活。成長したニールと雇い主である男が過ごした友人としての日々。それと同時に存在していた、中間地点を過ぎてから今に繋がる毎日――。そういったこれまでの日々について、答え合わせをするように、それぞれの視点で見えていたことを話すようになったのも比較的最近になってからだった。
 それは、ニールも男も、相手にどこまで話していいものか図りきれずにここまで過ごしてきたからだ。逆行する必要がなくなってから、ようやく記憶を共有することを自分たちに許し始めた。

 ニールの運転で三十分ほど走り、目的地まで道半ばというところに差し掛かったところで、スピーカーからギターが中心のイントロが流れ始めた。男性の切なげな歌声が車内に満ちる。それを聞いたニールが、ふと小さな声でメロディラインをなぞった。
 女神の名前でもある花の名を冠したその曲は、相手がいるから自分が存在していられるのだとうたう。その歌詞はニールの声によく馴染み、彼の言葉として男の耳に届いた。
 ニールが突然歌い始めたことに驚いた男が目をまるくして隣を見ると、驚かせた本人はまっすぐ前を向いたまま、小さく微笑んだ。遠く、前を見たまま。
「聞いてるうちに覚えちゃったんだよ」
 その言葉におかしなところなどなかったが、男はうまく応えられなかった。実際は安全運転のために道の先を見ているだけなのだろう。だが、こうやってニールがどこかを見つめている姿を見たとき、不意に考えてしまうことがある。
 自分がニールの存在を認識できなくなったら、自分の方が先にこの世界から消えたら、この男は何になるんだろうか。本来ならこの時間に存在せず、身元もバックアップしてくれる組織も存在しないこの男は何になれるのだろう、と。
 あるいは逆かもしれない。ニールが自分を認識できなくなったとしても、結果は同じだろう。ニールほど長期の逆行をしていないというだけで立場はそう変わらない。本来の自分の記録はとうに葬り去ってしまった。世界を救うと決めた瞬間から、何者にもなれないことはわかりきっている。そして、その日は着実に近付いていることも、よく理解している。
 男は黙って視線を窓の外に向けた。視線の先には家々が並んでおり、風景の静けさとは反対に、曲は終わりに向けて盛り上がりをみせている。
 胸にある鈍い感覚を拭えないまま歌を聴いていたそのとき、なぜニールがこの曲の歌詞を覚えたのかわかった気がした。男は先程のニールのようにメロディにのせて歌詞を呟く。
 同じフレーズを繰り返すヴォーカルに合わせて男も言葉を繰り返す。すると、そこにニールの声が重なった。
 相手に自分のことを知っていてほしいと願うふたつの小さな声は、間違いなく自分たちの本心そのものだった。
 間もなくその曲は終わり、続けてポップな女性ヴォーカルの曲が流れ始める。ニールは正面の道から視線を外すことなく、曲に合わせて指先を動かしてリズムを刻んでいる。
 歌詞を覚えてしまうほどにさっきの曲を意識していたニールのことが、男は愛おしくて堪らなかった。今すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られるが、運転手にそんなことはできない。だから、触れられない代わりに、そっと横顔を眺める。
「なに?」
「いや、なんでもない」
「そう? 今日は道が空いてたから、思ってたより早く着きそうだ」
「ああ、本当だ」
 ニールに言われて改めて風景を見ると、郊外である自宅周辺の街並みとは違い、一軒家の数が減り、様々な店が並んでいる通りが増えてきた。
 できたばかりらしい店を見つけては今度行ってみよう、と二人で話す。そうやって時間を潰し、車内に流れている歌がさらに三曲終わったところで目的地に辿り着いた。
 服屋に挟まれているその店は、建物自体は大きいとはいえない。落ち着いた色合いの外壁の真ん中に出入口があり、頭上に洒落た看板を掲げている。さらに、壁の一部がガラス張りになっており、中の様子が確認できるようになっていた。外観からは、店内に人影は見当たらない。男とニール以外の客はいないようだ。
 ニールは店の前に車を停めてエンジンを切った。一足先に車から降りた男はジャケットを羽織り、少し遅れて隣に並んだニールの手を取る。乾いた手のひらが重なり、指が絡む。すると、ニールはわずかに驚いた表情で男の顔を見た。
「珍しいな」
「せっかくだから構わないだろう」
「うん。実は、さっきからこうしたいと思ってたんだ」
 そう言って、二人はお互いの体温を感じながら歩き始めた。
 男が先頭に立って少しばかり重いドアを開けると、カウンターに立っていた年若い女性の店員が歩み寄ってきた。きっちりと髪をまとめて笑顔を浮かべている。
 出迎えてくれた店員と挨拶を交わした男は、上着のポケットの中から紙切れを取り出してそれを見せた。店名が印字された紙に書かれている内容を確認した店員は「少々お待ちください」と言って笑みを深め、店の奥へと姿を消す。
 男とニールはカウンターの前に立ち、店員が戻ってくるのを静かに待った。
 手持ち無沙汰になった男は周囲を見回した。近くにあるガラス張りのケースにはきらびやかな宝飾品がいくつも飾られており、少しばかり目に痛い。隣に立つニールも男と同じように黙って店内を見ているが、どこか落ち着きがなく、時折小さな息を吐いている。
「大丈夫か?」
「どうかな。緊張するとは思ってなかったんだけど……君は平気そうだな」
「そうでもない」
「そうは見えない」
「そう見せかけるのが癖になってるだけだ」
 男が返事とともに苦笑したところで、先程の店員が戻ってきた。その手に小さなトレーを持っており、そのトレーの中では真新しいふたつの指輪がきらめいている。
 トレーをカウンターの上に置いた店員はにっこりと微笑み、商品を確認するように二人を促した。
 男とニールはカウンターへと手を伸ばし、指輪をひとつずつ手に取った。どちらも飾り気のないゴールドの指輪だ。
 男が手にしている指輪の内側には、
『Thank you for having discovered me.』
 の文字が。ニールが持っている指輪には、
『Your happiness is always wished.』
 の文字が刻まれている。
 男の指輪の刻印はニールが、ニールの指輪の刻印は男が考えたものだ。揃いの指輪を買おうと決めたときに、お互いに言葉を送ることにしたのだ。相手の想いをいつでも身に着けていられるように。
 そして、ささやかな楽しみとして、受け取るときまで内容はわからないように隠していた。だから、お互いに相手がどんな言葉を選んでいたのか、たった今知ったことになる。
 男は、ニールが選んだ言葉がこれまで何度も出会い続けてきたことを指しているのだと理解し、正に自分たちの奇妙な関係を表しているな、と考えて笑みを浮かべた。それから、自分の言葉をニールはどう受け取ったのか気になって隣を見て……どう声をかけるべきか迷ってしまった。
 ニールはじっと指輪を見ていた。その顔は無表情に近く、ほとんど感情が読み取れない。そんな様子だというのに、じっと指輪の内側を見たまま目を離そうともしない。確かなのは、そんな表情を浮かべている原因は刻印にあるのだろう、ということだけだ。
 わずかばかり妙な空気が流れたが、店員は笑みを湛えたまま動こうとしない。そのまましばらくは様子を窺っていたが、やがてしびれを切らしたのか「いかがですか?」とニールに声をかけた。
 その声をきっかけにニールは顔を上げ、自分の左手の薬指を指輪に通し、何事もなかったかのように男と店員に笑みを向けた。
「ぴったりだ。太らないように気を付けないと」
「お前の場合は瘦せる方を心配した方がいいような気もするが、まあ、気を付けるに越したことはない」
 男は自分も左手の薬指に指輪をつけて、サイズが合っていることを確認し、冗談のようにそう言った。
 問題ない旨を伝えて細々とした品を受け取り、店員に見送られて二人は店を出た。先に車の前に辿り着いた男が鍵を受け取ろうとして振り返る。だが、ニールの姿はすぐ後ろにはなかった。
 ニールは少し離れた場所で立ち止まり、じっと指につけた指輪を見ていた。
「ニール?」
 不思議に思った男が思わず名前を呟く。すると、それに呼応するようにゆっくりとニールの顔が上がった。ブルーグレイがしっかりと男の顔を映し出す。
 その視線ををどう捉えたらいいのかわからず、男はどうしたんだと尋ねようとした。しかし、それより先にニールの口が動いた。
「きみだったのか……?」
 男はやはり何を問われているのかわからず、ニールの言葉に応えることができなかった。
 そんな男の困惑など無視して、ニールは勢いよく歩み寄り、驚くほどに力強く男の体をかき抱いた。
「ほんとうに、君はどれだけ、僕を救うんだ……っ」
 絞り出すように囁いたニールの顔は男の肩に埋まっていて、表情はわからない。しかし、ジャケットにいくつものしわができるほど力が入っている指が、腕が、ニールが平常心ではないのだということを表していた。
 男はされるがままの状態で、そっとニールの背中を叩いた。身動きが取れないまま体温を受け止める。
 周囲にはあたたかい風が吹いているが、そのにおいは自宅付近のものとは少し違う。近所のような植物のにおいは薄まり、代わりにほこりと機械のにおいを強く感じる。その中にニールのにおいを感じて、男は静かに目を閉じた。年齢と共に少しずつ変化している慣れ親しんだ香りを嗅ぐと、自然と体の力が抜けていく。それを感じ取ってか、ニールはゆっくりと腕の力を緩めて男を解放した。
「平気か?」
「ああ……車の中で話すよ。さすがに視線が痛い」
 男はニールに言われて初めて、通りがかった人々が遠巻きに自分たちを見ていることに気が付いた。気まずさからわずかに俯き、ニールから鍵を受け取る。来たときとは様子が違うニールと席を交代してエンジンをかけ、ステアリングを握り、アクセルを踏み込んだ。
 運転していると、受け取ったばかりの指輪が自然と視界に入ってきて何やら照れくさい。ニールも慣れない装飾具が落ち着かないのか、しきりに左手の薬指を触っている。
 重苦しくはないがどことなく気まずい空気を保ちながら店を離れ、大きな道路に出たところで、ニールは前を向いたまま話し始めた。
「夢だと思ってたんだ。それか、僕の妄想の産物」
「何がだ?」
「……僕の、幸せを願ってくれる誰かの夢」
 意味深な言葉に男は息をのんだ。しかし、ニールはこれといって思い耽るでもなく話を続ける。
「ときどき夢に見てたんだ。でも、顔も声もあいまいだし、家族はそんな場面に立ち会ったことはないって言うし、子供の頃は環境も変わってばたばたしてたから、無意識に欲しい言葉を想像したんだと思ってた。……ありがとう」
「なんで俺に礼を言うんだ」
「だって君なんだろ? 子供の僕にこの言葉をくれたのは」
 そう言って左手をわずかに掲げて、ニールは男の横顔を覗き込む。そして、男が小さく頷いたのを認めてから、指輪に視線を落とした。
「両親も知らなくて当然だ。家族と出会う前の話なんだから」
「悪い、惑わせてしまってたのか」
「そうじゃない。僕は、夢の中でも君に救われてたってこと。だから、ありがとう」
 約二十年越しに――ニールにとっては四十年以上だが――その言葉が届いたのだと思うと、どうにも胸の奥がむず痒くなり、男は小さく咳払いした。
 そんな男の照れ隠しなど見越していたように、ニールは小さく笑い出す。
「指輪とか、あんまり興味なかったんだけど、買ってよかったな」
「まだこれから先、それなりに時間があるんだ。普通のことをしてみるのも悪くないだろう?」
「普通……ふつうか。やっぱり、まだときどき変な感じがする」
「何がだ?」
「これから先があることも、平凡な毎日も」
「俺はだいぶ慣れたぞ」
「君とは年季が違う」
 二人とも正面を向いたまま冗談を交わして笑い合う。
 そうしている間も車内には音楽が流れ続けており、曲順が一周し、往路でも聞いた曲が流れ始めた。一曲、二曲と流れるメロディが変わっていき、途中でニールがハミングを奏で始めると、男も小さな声で歌い始める。たまに調子が外れ、笑い声が混ざるふたつの声は、家の近くに着くまで消えることはなかった。

 男とニールが乗っている車が自宅に到着する頃には、もう日が落ち始めていた。
 色鮮やかな夕陽が庭一面を照らしており、男は眩しさに目を細める。昼間はうるさいくらいに響いていた子供たちの声は減り、代わりにどこからか懐かしさを感じる料理の匂いが漂ってくる。
 男がエンジンを止めて運転席のドア開けると、一足先に車を降りていたニールが玄関前に設置してあるポストの中身を確認していた。それはなんの変哲もない日常の風景に過ぎなかったが、やがて、男に背を向けたままいくつかの通知を確認していた手がぴたりと止まった。そして、ニールは目を輝かせて男の方へと振り向いた。その手には一枚のハガキが握られている。
「朗報だ。次の旅行先が決まった」
 ニールがやけに楽しそうにそう言ったことを怪訝に思いつつ、その理由を確かめるため、男は玄関先まで歩いていきニールの隣に並んで手元を覗き込んだ。
 ニールが持っているハガキの裏面には海の写真がプリントされている。一面に描かれているのは、透き通るような、鮮やかなエメラルドグリーン。その波間に堅苦しい文字でこう書いてあった。
『老後には最適』
 たったそれだけの、署名すらない文章だったが、男もニールも送り主が誰なのかすぐにわかった。ずいぶんと見慣れた、それでいて、この五年は見ていない文字。
 懐かしい顔が脳裏に浮かび、男は堪えきれずに笑い出した。
 ニールも懐かしさに目を細めていたが、唐突に何かを思いついて勢いよく顔を上げた。夕陽に向かって立ち、男にも同様に身体の向きを変えるように促す。
「手、出してくれ」
「手?」
「そう。あ、右じゃなくて左。そう、そんな感じで」
 男が疑問符を頭の上に浮かべたまま指示に従って左手を宙にかざすと、ニールは自身の左手も持ち上げて男の手の隣に並べた。そして、もう片方の手でポケットから端末を取り出し、ふたつの手を画面に収めて写真を撮った。
 ニールは撮ったばかりの写真を確認して「よし」と、満足そうに頷いている。男がニールの手元を覗き込むと、画面の中で、揃いの指輪をつけたふたつの手が橙色の光に照らされていた。
 ニールは男に写真を見せて、にんまりとイタズラな笑みを浮かべる。
「これだけでもあいつには通じるだろ?」
「ああ、なるほど」
「会ったら手紙がわかりにくいって文句言ってやらないと」
「喧嘩はほどほどにな。止めるのも大変なんだ」
「どうかな。それは相手次第だ」
 そんなことを言いながら、ニールは玄関のドアを開ける。口ではこう言ってはいるが、ニールはあからさまに楽しそうだ。彼らのじゃれ合いのような喧嘩は日常茶飯事だと知っている男は、気付かれないようにこっそりとため息をつく。そのとき、ニールがドアノブを掴んだまま振り返った。
 ため息を聞き咎めたのかと男は思ったが、どうやらそうではないらしい。ニールは手の中の端末を掲げて小さく揺らし、先程とは少し違う、期待に満ちた笑みを浮かべた。
「次はこれに合う写真立てを探そう」
「ああ、それがいい」
「じゃあ、旅のプランを立てないと」
 ニールは笑みを深めて軽い足取りで家の中に入っていく。男はその背中に続きながら、我が家の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 どんなにしわが増えても、白髪が増えても、あの笑顔も瞳の輝きも変わらない。すっかり慣れた家の中にはふたりの気配が満ちており、当たり前のように男を受け入れてくれている。
 いつか本来の自分のことを知る人間がなくなり、何者でもなくなっても、この家に満ちる生活の気配は消えたりしないのだ。きっと。
 来月にはさっき撮った写真が入った、少しばかり不出来な写真立てがキャビネットに並ぶのだろう。少し先の未来を想像して男は微笑み、自分たちよりだいぶ年上になっているだろう友人に会うため、旅の計画を立てているパートナーの元へ向かった。

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