Translucent

本編から一年後、ニールを失った主さんがパラレルワールドのニールと出会う話。シリアスです。Twitterで公開していた話を完結させてまとめました。年齢とかは捏造です。
直接的な描写はありませんが、途中ほんのり行為を匂わせてるのでご注意ください。

 1

 一年だ。前を向く背中を見送るしかなかったあの日から、ちょうど一年。正確に言うと暦の上では、だが。自分にとっての一年はとうに経過してしまったはずだ。
 懐かしささえ感じる風景を前にして小さく苦笑する。一年ぶりに訪れたスタルスク12は何も変わっていなかった。乾いた大地と砂埃。かつての住居の残骸。そして、あの日俺のすべてを変えた穴ぼこもそこにあった。
 穴から目を離さず、まっすぐにその場所を目指す。少し離れた場所で立ち止まって地べたに座り、手にした小さな鞄からグラスを二つ取り出した。地面に置いたグラスにウォッカとトニックウォーターを流し込み、一つを穴の方へ寄せる。自分の側にあるグラスを手に取り、ちびちびと飲みながら穴の方を眺めていても、もう一つのグラスの中身は一向に減っていかない。当然だ。ここには自分しかいないのだから。
 ニールの墓はない。出会う前の本人が生きているかもしれないと思うと、墓を建てることはできなかった。かといって、今日という日を何も感じずに過ごせるかというと、そんなこともない。あの日見た笑顔を、きっと一生忘れられない。だから、ここに来ることにした。彼を最後に見た場所に。
 花は用意しなかった。そもそもまともに弔いもしていないのに、そんな神妙ないでたちではおかしい気がした。だから、彼が好んでいた酒を。本当に好きだったのかどうかも知らないが。そう考えると、改めて自分は何も知らなかったのだと自嘲する。
 目の前に置かれた減らないウォッカトニックを眺めながら、グラスの中身を少しずつ飲み込んでいく。その間も風景は変わらず、ただ乾いた風が頬を撫でていた。
 飲み始めてから三十分ほど経ったところで最後の一口を勢いよく口内に流し込み、自分のグラスを軽く拭いて、タオルごと鞄に放り込んだ。立ち上がり、地面に置かれたままのグラスを見下ろす。わずかに泡立つ半透明の液体は、グラスの中で陽光を取り込んで煌めいている。何か言うべきことがある気がしたが、それを口にするのはここではない気がした。いや、きっとどこでもないのだろう。
 随分と感傷的になっていることに苦笑しつつ、顔を上げて切り替える。地面に置いた鞄を手に取り、爆心地に背を向けようとしたそのとき、ぐらりとバランスを崩した。そんなに酔っていないはずなのに、と思うのと同時に、ドンッと突き上げるように大地が揺れた。突然のことに驚き、とっさに地面に膝をつく。しばらくは続くだろうかと身構えたが、それきり揺れは襲ってこなかった。
 ゆっくりと立ち上がって周辺を見回してみるが、何かが倒壊した様子はない。移動しても大丈夫だろうと判断し、待機させていたヘリコプターへと向かった。
 ヘリコプターのところまで戻ると、待たせていた操縦士が降りて機体の様子を確認していた。焦ってはいないようだが、困惑しているのは見て取れる。
「ダニエル、こっちは大丈夫そうか?」
「ええ。でも妙ですね。ロシアは地震が少ないはずなのに」
 ダニエルと呼ばれた操縦士は、心配そうにこちらを見ていた。しかし、すぐに切り替えて安全確認を済ませてヘリコプターに乗り込む。俺もそのあとに続いた。
 彼の言うとおりなら、市街地はパニックになっているかもしれない。そう考えて移動している間にスマートフォンで調べてみると、奇妙なことに、先程の揺れは大小の差はあれど、世界的に起こったことのようだった。全世界で同時に地震を観測することなどあり得るのだろうか。そういった方面は詳しくないが、それでも妙だということはわかる。
 まさか、またアルゴリズムや逆行に関する陰謀でも企てられていたのか。そこまで思考が至った瞬間血の気が引いたが、少なくとも自分も操縦士も生きている。ニュースが更新されているということは、人類滅亡ということもないだろう。なら、自分の知らない何かが起きているんだろうか?
 そうやってしばらくの間考えてみたが、何一つ結論は出なかった。地震の件は一旦諦めて市街地へ戻る。ヘリコプターを降り、操縦士と別れて街中を歩いてみたが、多少の混乱はみられるもののおかしな様子はない。ひとまずは安堵し、ロシアのセーフハウスに足を向けた。

 外観は一般的な一軒家のセーフハウスは、人の出入りはあまりない。今日滞在しているのも自分一人だ。この一年の間に得た協力者とは、アメリカかイギリスでコンタクトを取ることが多かった。
 グラスとボトルが入っている鞄をキッチンのテーブルの上に置き、そのまま自室として使っている部屋に向かう。片付けはあとでも構わないだろう。心当たりはないが、やけに目が疲れていた。真っ正面から日差しを受けたことと、久しぶりにアルコールを飲んだこと、それに疲れが重なったせいだろう。帰り道では時折、ひとが二重に見えた。
 大きく息を吐き、服を脱いでベッドに潜り込む。少し休めばよくなるだろう。そう念じながら目を閉じた。

  *

 目を覚ますと、室内は暗くなっていた。枕元に置いたスマートフォンで時間を確認する。ちょうど夕飯時という時刻だ。
 のそりと起き上がり、適当なTシャツを身に着ける。食品のストックは何があっただろうかと考えながら立ち上がろうとして、体が硬直した。暗い部屋の中に、白い影が浮き上がっていたからだ。
 その影は立っているように見えるが、性別や人種はわからない。ぼんやりとしていて、壁が透けて見えている。正に影だ。その影は窓際に立ったまま動く気配がない。とりあえず攻撃はされないようだが、思わず頭を抱えてしまった。
 ゴーストだなんて、そんなものを目にする日が来るとは思わなかった。逆行も十分にファンタジーな話だとは思うが、物理学として説明されれば、理解度とは別に納得はできる。だが、ゴーストなんてものは、物理的対処とは真逆のような存在ではないだろうか。肉体を持った相手ならそう簡単に負けたりしないが、物理攻撃が効かない存在への対処法など知らない。
 とりあえず刺激しないように、そうっと部屋を出る。キッチンで食事をとり、シャワーを浴びて、明日からの動きを確認し終えてから部屋に戻ると、影は姿を消していた。
 静かに開けたドアを、今度は音を立てて閉めてほっと息を吐く。恐怖に怯えることはなかったが、見知らぬ存在の気配を感じながら過ごしたくはない。アラームを早朝にセットし、念のためベッドサイドに塩を置いて眠りについた。

 ふと目が覚めてしまったのは、小さな物音が聞こえたからだ。きぃ、と何かが軋む音がする。横になったまま目だけを開けて室内の様子を窺っていると、それは姿を現した。
 暗闇の中で浮かび上がる白い影。夕方と違うのは、今の方がはっきりと姿が見えるということだ。いや、最初に見たものと同じ存在なのかも怪しい。今、室内をうろついているのは、車椅子に乗った男のようだった。さっき耳にしたのはクローゼットを開閉した音のようだ。こちらのことは気にしていないのか、何もない空間をきょろきょろと見回している。
 影に気付かれないように、そっとベッドサイドに手を伸ばす。置いておいた塩を手に取り、勢いよく起き上がって影に向かって塩をぶちまけた。伝承だとこれで退治できるというが、現実は床が塩まみれになっただけだった。影はリアクションの一つもなく、何もない空間に手を伸ばしている。
「なんなんだ今日は……。近所で誰か亡くなりでもしたのか」
 ため息と共にそう呟くと、影の手の動きがぴたりと止まった。反応があったことに驚いている間に、影がこちらを振り向く。
『え?』
 影が、俺を見て小さく呟いた。ノイズが混じったような声が耳に届く。だが、それよりも、初めて影の顔を認識して動けなくなった。
『どうして君がここに?』
「……ニール」
『うん、僕だけど……。どうしてそんな姿なんだ?』
「今の今まで寝てたからだ。お前こそ、どうして今更化けて出るんだ」
『うーん……』
 そういう意味じゃないんだけど、と続けてニールらしき影は苦笑する。それから首を傾げ、肩を竦めてこう言った。
『僕には、君がゴーストみたいに見えてるよ』
 はぁ? と、随分間抜けな声が出た。頭が真っ白になってうまく働かない。呆然としたまま動けないでいる俺を見かねたニールが、車椅子の手元にある機械を操作して少しずつ近づいてくる。
「……俺は死んでない」
 なんとかそれだけを喉から絞り出すと、ニールが車椅子を止めて小さく笑った。
『君が死んでたら、僕が困る』
「……」
『……僕は?』
「え?」
『僕は死んだ?』
 その問いに答えは出てこなかった。ぎこちなく唇が動いたが、うまく言葉にならない。
 だが、ニールはそんなことには構わず、自分の死など気にしていない様子で会話を続けようとしている。
『さっき〝化けて出た〟って言ったよな?』
「……ああ」
『そうか。でも、残念ながら僕は生きてる』
 どくりと心臓が跳ねた。期待と混乱が胸を締め付ける。思考を整理しきれないまま、では、今どこに? と尋ねようとした矢先、影は『僕の世界ではね』と冷静に言い放った。
 ニールが何を言おうとしているのかまったく理解できなかった。僕の世界……つまり、死後の世界とでも言うのだろうか。だが、今さっき、ニール自身が生きていると断言したばかりだ。
「悪いが、言っていることがわからない」
『君が死んだっていうなら、君の世界の僕は死んだんだと思うよ。たぶんね』
「じゃあ、お前はなんなんだ? ゴーストじゃないのか」
『違う。言っただろ? 僕は生きてるって』
「それなら、どうしてここにお前がいる」
 段々と問い詰めるような物言いになっていることはわかっていたが、止められなかった。一瞬の期待が打ち砕かれたことで焦燥感に苛まれ、内側からじわじわと苛立ちが浮き上がってくる。
 ニールはそれを咎めるでもなく苦笑を浮かべ、『仮定なんだけど』と前置きして話し始めた。
『前にパラレルワールドの話をしたのを覚えてる?』
「いや……」
『変わった未来を知ることはできない』
「ああ、祖父殺しの話か」
『そう。僕らは違う未来が発生しても、それを知ることはできない。自分たちの世界しか観測できない。それが基本ルールだ。だけど、それが崩れたらしい』
「崩れた?」
『原因はわからないけど、たぶん地震があった時刻から』
「世界中が揺れたあれか」
『その瞬間から、僕の世界と君の世界は、ほんの少しだけ重なってしまったのかもしれない』
「あー……つまり?」
 説明されても理解できずに結果を求めると、ニールは少しだけためらう様子を見せた。わずかな沈黙ののち、再びノイズ交じりの声が室内に響く。
『つまり、僕は、スタルスク12で救出されて、今もリハビリ中のニールだ』
 ニールはそう言い切ってから、ここはセーフハウスの資料室、と付け加えたが、そんなことはどうでもよかった。〝救出されて〟という言葉だけが脳内をぐるぐると駆け巡る。
 一年。ちょうど一年だ。救えていたら、車椅子で動き回れるくらいになっていたのか。そう理解してしまうと、巨大な後悔が押し寄せて息ができなくなった。方法はあったのだ。もっと足掻いていれば。諦めなければ。
 今にも足元が崩れ落ちそうな気がしたが、残った理性で踏み止まる。それと同時に、今ならまだ逆行できると、頭の片隅で誰かが囁いた。
「お前はどうやって」
『ダメだ』
 震える声でどうやって助かったんだと訊ねようとしたが、核心部分を口にする前にニールの鋭い声に遮られた。
『君の世界の僕は死んで、僕の世界では生き残った。それが事実。起きたことは変えられない』
 知ってるだろ? と囁く声は、子供をあやすような響きを帯びていた。その穏やかさに余計に胸を締め付けられる。
 言葉を失った俺を見て、ニールは『だから、お互いに観測できない方がいいんだ』と独り言のように呟いた。俺は、やはり何も言えなかった。昼間、穴ぼこの前で何も言えなかったように、喉元でつかえている言葉は山ほどあるのに、目の前にいる影に言うべき言葉ではない気がした。
 ニールは眉尻を下げて視線を外す。そして逡巡のあと、しっかりと目を合わせて微笑みを浮かべ、ゆっくりと手を差し出した。
『まあ、いつまでこの状態かわからないけど、僕のことはゴーストだと思ってさ。よろしく頼むよ、相棒』
「……ああ、こちらこそ。相棒」
 差し出された手に引き寄せられるように自分も手を伸ばす。重なった手のひらは、触れ合うことはなかった。

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