本編後ニール生存設定な主ニルの誕生日の話。作戦の日は5月14日説を採用してます。
男が目を覚ますと、広いベッドに一人だった。スマートフォンを手に取り、時刻を確認する。アラームをセットしていた時刻はとうに過ぎており、昨夜、間違いなく設定したはずのアラームは起動した様子がない。それを認めて、男は顔をしかめた。
不審に思いながら隣の空白に手を伸ばす。シーツも枕も人の形にしわを残しているが、布の表面は冷え切っていて、ぬくもりがそこを離れてから時間が経っていることを示している。
妙だ。いつも隣で眠る恋人はどちらかといえば寝汚く、男より早く目覚めることの方が少ない。それに、男は普段ここまで寝起きは悪くない。どんなに疲れていたとしても、アラームの音で一度は目が覚める。仕事柄、気配にも敏感だ。昨日の午前中に大きな仕事を終えたばかりだったとはいえ、こんなにも珍事が重なっている状況を偶然で片付けるほど、男は楽観的ではなかった。
目が覚めないように細工をされて、家に侵入されたのかもしれない。恋人も、何らかの危害を加えられた可能性がある。最悪の状況を想定した男は、ベッドサイドから拳銃を取り出し、そっとベッドを抜け出した。
室内に争った形跡はない。窓は侵入の痕跡もなし。めぼしい箇所を確かめてから静かにドアまで近付いていく。そして、部屋の外から異音がしないか確認し、音を立てないようにそっとドアノブを回した。ほとんど音を立てずに開いたドアに半身を隠し、廊下の様子を窺い見る。周囲に見張りはいない、と確信した男は、銃を握り締めたまま足を進めた。廊下を進み、ゆっくりと階段を下りる。一階からは人の気配がする。壁に背を預けながらリビングへと向かい、室内を見ようとしたときだった。パンッ、と乾いた音が響き、微かに火薬のにおいが漂ってくる。男は銃を構えてリビングに足を踏み入れ、標的を探した。
「ストップ!」
鬼気迫る表情で男が足を踏み出した直後、リビングに響いたのは、男の恋人の声だった。男が向けている銃身の先で両手を上げている。
「そんな気はしてたんだ」
そう言って、ニールは苦笑を浮かべた。ニールの手には、先端が開いたクラッカーが握られている。どうやら音の発信源はそこらしい。
男は困惑の表情を浮かべたまま、リビング全体を見渡した。
まず、カラフルな風船が部屋中に浮かんでいるのが目に入る。椅子の背に括り付けられているものもあれば、浮力のままに天井をさ迷っているものもあった。床には未使用のクラッカーがいくつも転がっており、極めつけが、壁に飾られている『HAPPY BIRTHDAY』の文字だ。
たっぷりと時間をかけて考えたあとで、男は壁の文字を見ながら疑問を口にした。
「誰の誕生日なんだ?」
「きみのだよ!」
満面の笑みを浮かべてそう言ったニールは、床に転がっているクラッカーのひとつを手に取り、ためらうことなく紐を引いた。パンッ、という音と共に、キラキラと輝く紙が勢いよく飛び出す。反射的に驚いてしまった男は、それを誤魔化すように怪訝そうに恋人を見た。
「何の話をしてる?」
「今日はきみの誕生日だって話」
「……なに?」
「今日は十四日だぞ? 君が生まれ直した日だ。つまり、誕生日」
そう言われた男は納得したのか、していないのか、あいまいな表情をした。今日は作戦の日からちょうど一年。それは間違いない。ニールと男が共に暮らし始めて一年目の日でもある。それはわかっているが、どうにもニールの言葉を理解しきれなかった。
男の微妙な顔を見たニールは、苦笑と共に肩をすくめる。
「言っとくけど、言い出したのは君だからな。正確にはこの先の、だけど」
「俺が?」
「そう。僕を雇った君だよ」
困惑の視線を向けられたニールは、過去の出来事をかいつまんで説明した。
かつて、未来の男と行動を共にしていた頃、『そういえば、祝い事はしないのか?』と訊ねてみたことがある。クリスマスや誕生日などの、家族と過ごすようなイベント事はやらないのか、と。
男は、ぱちりと目を開いてニールの顔を見た。それからゆっくりと『十四日だ』と答えたのだ。今度はニールが首を傾げる番だった。
『十四日って、いつの?』
『今月の』
すぐじゃないか、とニールは驚いて文句を言い、男は苦笑を浮かべていた。
男が過去のことを教えてくれること自体が珍しく、奇妙に思ったニールはどうして教えてくれるんだ? とも訊ねた。それに対する答えが『テストに合格した日だ。どっちにしろ、いずれ知られる』というものだった。
それ以来、ニールは毎年、男の誕生日を祝ってきた。だから、今年もそうするのは、ニールにとっては当たり前のことなのだ。サプライズとはいえ、少々やりすぎた感は否めないが。
「理由はわかったが、薬を盛るのはやりすぎだろう」
「あ、バレた?」
「当たり前だ」
「君は絶対に起きちゃうと思って。大丈夫、安全な薬だよ。警備も万全」
そういう問題じゃない、という言葉が男の頭をよぎったが、ひとまず置いておくことにした。ニールが大丈夫だと言うのだから、大丈夫なのだろう。
さっきは間違えてクラッカーの紐を引っかけちゃって、と先程までの出来事を説明していたニールだったが、一通り話し終えると、申し訳なさそうに肩を落とした。声も少し小さくなる。
「……それで、実はプレゼントが用意できてなくて……ごめん」
しょんぼりと下がってしまった眉尻を眺めながら、男はどうするべきか考えていた。ニールが言っていることは、当然と言えば当然だ。昨日まで二人とも同じ任務に就いていたのだ。買い物に行く余裕などなかったことは、男自身がよくわかっている。むしろ、秘密裏に装飾品を用意していたこと自体がすごいのだと思う。
男はしばらく何かを考えてから「それなら」と口を開いた。
「今日は一緒に出掛けてくれないか」
「え、それは、構わないけど」
「誕生日プレゼントに、俺とデートしてくれ」
直接的なお誘いを受けたニールは、緩んでしまう頬を隠そうとはしなかった。ほんのりと頬を赤く染めて笑みを浮かべる。そして、こう答えた。
「喜んで」
身支度を整えてから、二人は出かけることにした。普段着よりは少しおしゃれに、しかし、気取り過ぎないように服を選び、装飾だらけの家を後にする。行き先は決めていない。出発してから考えよう、ということになっている。
外は晴天だ。このところは、日によっては肌寒さを感じることもあるが、今日は春らしい陽気に満ちていた。青々とした葉を伸ばしている木々がやさしい木陰を作り、頭上から鳥の声が響く。優秀なエージェントも今日は休業だ。世界も未来も関係なく、ただの男が二人、並んで歩いている。
せっかく晴れているから、と食事は外で食べることにした。そして、どうせなら食べたいものを、と色々な店に立ち寄り、あれこれ買い込んだ。ホットドッグ、チュロス、プレッツェルにドーナツ。それらを買い込んで公園のベンチに座って食べる。隣に座った老夫婦と、スコーンとドーナツを交換し、結婚してもうすぐ五十年になるという話を聞いた。先方も二人を夫夫だと思ったのか、長く暮らしていると起こるあれそれの話を聞かされ、少しの間は根気よく付き合っていたが、長引きそうになったところで退散した。にこやかに別れを告げて、公園の中を歩く。
しばらく進むと石畳の開けた場所に出た。円状の広場の端にはベンチや花壇が並んでおり、人通りが絶えない。その広場中心にパフォーマーを見つけた。きっちりとベストを着こんだ男を中心にして、人々が周りを囲んでいる。パフォーマーが音楽に合わせて様々な道具を取り出すと、周囲からまばらな拍手が起こり、いくつものピンが軽やかに宙を舞う。その様子をしばらく堪能してから、パフォーマーの前に用意してあるケースにニールが紙幣を入れる。すると、パフォーマーは笑顔を浮かべてピンを回し、ちょこんと一礼した。
ニールと男は顔を見合わせて笑い、あてもないまま公園の外に出る。時刻は、まだ昼を過ぎたところだ。今日という一日はたっぷり残っている。これからどうしようか、と訊ねるニールに、男は迷うことなく「海に行こう」と提案した。ニールは一瞬驚いた様子を見せたが、拒否することはなかった。
共に暮らすようになり、生活が落ち着く頃には夏を過ぎていたせいで、クリスマスや新年はそれなりに祝ったものの、去年の夏は休暇らしいことはできなかったのだ。だから、いつか海にも行きたい、と話したことがある。男がそれを覚えていたのだと、ニールにもわかっていた。
目的地を一番近い海に定めて、急行電車に乗り込んだ。いくつかの駅を通り過ぎ、都心から離れるごとに、少しずつ窓の外の風景が変わっていく。巨大なビルが少なくなり、代わりに木々や広々とした平野が続くようになり始めていた。
電車に揺られ、着実に普段住んでいる場所から離れていることを感じながら、男はそっとニールの様子を窺った。電車に乗ってから、時間経過と共にニールの口元は少しずつへの字になっている。不機嫌、というよりは、拗ねているときによく見る表情だ。
「どうしたんだ?」
見かねた男がそう訊ねると、ニールはちらりと男の顔を見た。それから視線を正面に戻し、しばらく考えていたらしいことをゆっくりと声にした。
「前に、海に行きたいって言ったのは僕だろ?」
「ああ」
「さっき食べたのだって、僕が気になってた店ばっかりだ」
「それがどうしたんだ?」
「僕は嬉しいけど……きみの誕生日なのに。これじゃ、僕が祝われてるみたいだ」
「それは間違いじゃない」
唇を尖らせたニールに男がそう答えると、ニールは眉間にしわを作った。じとりと細められた瞳が、言っていることがわからない、と訴えている。
それを見た男は小さく笑い出した。笑われている理由がわからず、男が笑うほどにニールの眉間のしわは深くなる。
わずかな時間、一人で楽しそうにしていた男は、ふと笑うのをやめて、ニールのことを見つめた。ニールがほんの少し身構えたが、それを意に介さず言葉を続ける。
「ニール、お前の誕生日でもあるぞ」
「え?」
「それまでの人生を置いてきた日、という意味なら同じだろう」
ニールの眉間からしわは消えたが、代わりに口がぽかりと開いた。男は再び笑みを浮かべて、ニールの唇がそろそろと動くのを見ている。
「……それは、考えてなかったな」
ぽつり、と、電車の音にかき消されてしまいそうな声でニールは呟いた。そして、男の顔を覗き込むように見て、改めて「誕生日? ぼくの?」と訊ねる。ニールが聞きこぼすことのないように、男がはっきりとした声で「そうだ」と答えると、ニールは顔を窓の方に向けて、口元を手のひらで覆い隠した。
「……やられた」
そんな、かすかな声が男の耳に届く。ニールは景色を見たまま男の方を向こうとしない。男がニールの名前を呼ぶが、ニールの頭は固定されたままだ。もう一度、名前を呼ぶ。ぴくり、と肩がわずかに動いたが、やはりニールは男の方を見ようとしない。男が「ニール」と三度呼んで、ニールはようやくゆっくりと向きを変えた。ゼンマイ仕掛けのおもちゃのようなぎこちなさで、ニールは男の顔を見る。顔の下半分は手で隠されていたが、見えている目元はじんわりと赤くなり、顔から力が抜けてしまいそうなのを堪えているのが、男にもわかった。
男は目を細め、変化を少しも見逃すまいと距離を詰める。
「俺は何もしてないぞ」
「いいや、君だよ。今じゃないだけだ。……おかしいとは思ったんだ。昔のことはほとんど話そうとしないのに、このことだけ理由まで説明して……このためだったのか」
「俺も今朝は驚かされたからな。おあいこだ」
「一緒にしないでくれ。仕掛けられてる年季が違う」
はあ、とニールは大きく息を吐いたかと思うと、顔を隠すことをやめ、もう一度窓の外を見てから立ち上がった。
「降りよう。海が近い」
そう言ってドアに向かったニールに倣い、男も電車を降りる。
そこは、都心と比べると、随分と殺風景に見えた。電車に乗る前とは明らかに空気が違う。男が息を吸い込むと、車のガスのにおいに混じって、草や土のにおいがした。
男が立ち止まって風景を眺めている間に、少し先に進んでいたニールは足を止めた。そして、振り向く。先程までと違い、ニールはちいさく微笑んでいた。
「それで、君のサプライズはおしまい?」
「俺は君の時間を一日もらったからな。まだプレゼントしたいと思ってるんだが、何がほしい? ニール」
男の言葉を最後まで聞いて、ニールは顔を綻ばせた。いたずらを思いついたときのように、瞳に光が宿る。
「それなら、やりたいことがある」
そう言ったニールは、内容は告げずに歩き出した。駅から海岸までは距離があるため、タクシーで移動することにした。狭い車に揺られ、目的地に一番近いコンビニの前で降りる。ニールは迷わず店内に入ったかと思うと、インスタントカメラを買って出てきた。まだニールからの説明はない。
タクシーと別れ、定期的に現れる看板を頼りに、車がときどき通るだけの広々とした道を二人で歩く。コンビニを出てしまうと、ぽつぽつと距離を開けて飲食店やガソリンスタンドがあるだけだ。歩いている人の姿はない。
そんな道を歩きながら、ニールはカメラの包装を破り、ごみを無造作にポケットに突っ込んだ。男が小さく首を傾げる。
「それがほしいプレゼントか?」
「これがっていうか、記録かな」
「記録?」
二人にとっては不穏な意味も含む単語を口にして、男は怪訝そうな顔をした。男が訝しんでいることをわかっていながら、ニールはにんまりと楽しそうに笑う。
「そう。今日、この日、世界中を飛び回るエージェントでも、裏組織を牛耳るボスでもない、ただの僕らがいたっていう“記録”だ」
そう言いながら、ニールはカメラを構えてシャッターを押した。男に表情のことを考える間も与えずボタンを押したニールは、光が悪かったかなぁ、などと一人で呟いている。
突然の出来事に男は驚いていたが、すぐに持ち直し、咎めるでもなく、ニールの手元を覗き込んだ。
「スマートフォンじゃダメなのか」
「ダメ。デジタルは盗むのもコピーも簡単なんだから。これならいざというときの処分も一瞬だろ」
「確かに、待受画面にするわけにもいかないしな」
「そのとおり」
僕はそうしたいけどね、と、なんでもないことのように付け加えて、ニールは顔を上げた。その視線が男の肩を通り過ぎ、遥か彼方へと向けられる。ニールの表情が一瞬にして輝いた。
特に意味のない会話をしながら歩いている間に、頭上で輝いていた太陽は夕陽へと姿を変え、辺り一面を橙色に染めていた。波の音が耳をくすぐり、風と共に潮の香が運ばれてくる。
「ほら、海だ。行こう!」
男の返事を待たず、ニールは砂浜へと足を踏み入れた。男もすぐに後を追う。一歩踏み出す度に革靴が砂に埋まり、どこかゆらゆらと揺れているような、奇妙な感覚にとらわれる。砂浜の中ほどまで進むと、ニールは堪えきれないというように笑い出した。乱暴に靴を脱いで砂浜に投げ出し、靴下も同様に放り出す。
ためらうことなく水辺に近付いていくニールの背中を見て、男はそっとため息をつき、放り出された靴を整え、靴下をまとめ、自分の分も同じように並べる。一通り作業を終えてから、男も砂の感覚を噛み締めながら歩く。足の裏で砂の粒を感じていると、童心に帰るような気がした。
足元を見ながらそんなことを考えていると、小さくシャッターを切る音がした。男が顔を上げると、ニールが夕陽を背に立って、カメラを構えている。
「今度はきれいに撮れたよ。たぶんね」
ニールはそう言って笑っていたが、たった数分見ていなかっただけなのに、あちらこちらから潮風に吹かれたブロンドは、寝起きに勝るとも劣らない状態になっていた。だが、本人は気にしている様子がない。シャッターチャンスを逃さないように必死なようだ。
男はゆっくりと、正面からニールに近付いていく。間近まで迫ったところで再びシャッターが切られる。男はそれには反応せず、カメラを構えるニールの手を取った。
「レンズに夢中なのもいいが、せっかくここまで来たんだ。現実を楽しまないか?」
「……ああ、そうだね。そのとおりだ」
ニールはカメラを下ろして微笑む。男はそのままニールの手を握り、波打ち際を歩いた。
ゆっくりと、ニールの手が握り返してくる。興奮のためか、歩き詰めだったためか、触れている手のひらは常よりあたたかい。気温が高かったこともあり、二人の手はしっとりと湿り始めていたが、どちらも離そうとはしなかった。
季節外れの海岸、しかも日が落ちる寸前となるとほかに人影はなく、二人のことを気にする人などいない。海辺で手を繋いだまま写真を撮ろうとしていようと、スラックスのまま波を蹴り、大声で笑おうとも、世界にはなんの関係もない。名前を呼ぶのはお互いしかいない。辺り一面を鮮やかに彩る太陽と、夕陽を反射して揺れる水面が世界のすべてになったような気がして、男は笑みを浮かべる。
「誕生日おめでとう、ニール」
「きみも……また、祝わせてくれて、ありがとう」
男に応えるように発せられたやわらかな声は、波音に紛れることはなく、互いの吐息の中に消えた。
これは僕のプレゼントだから、とニールが主張したせいで、最後まで使い切ったフィルムのほとんどには男が一人で写っている。その中に、夕日に染まる海の写真が数枚と、偶然見つけた蟹が一枚、それと、騒ぎながら撮ったせいでブレた写真に、ニールの写真が数枚。そして、二人揃って写っているものが一枚。そのどれもが、このとき、この瞬間だけは、世界に二人きりだったのだと示しているようで、男はなんともむず痒い気持ちになる。
お互いに見たことのない自分の表情を見て赤面することになるのは、この日から少しあとの話。