未来主さん×若ニールくんな主ニルです。うっかり恋に落ちたニールの話。
基本的にひたすら甘いし、ニールが乙女みたい。初夜。
ボスが怪我をした。
何をどうしたのか、単独任務だとだけ言い残してふらりと消えたかと思うと、昨夜遅くに血だらけになって帰ってきた。すぐに救護班が治療に当たったため命に別状はないが、その肉体は回復のためにほとんどの時間を睡眠に費やしている。
ふぅ、と息を吐き、読んでいた本を閉じて腕時計を見る。円盤の中の針が午後十一時を示していることを確認して立ち上がり、ボスが眠る部屋に向かう。待機中の人員が交代で様子を見ることになっていて、次は僕の番だった。
目的の部屋のドアをそっと開けると、ベッドサイドの明かりがぼんやりと室内を照らしていた。それを頼りに、物音を立てないように注意しながらベッドに近付く。部屋の主は眠っているようで、目を閉じていて動かない。
ベッドまで辿り着き、脈拍と呼吸に異常がないことと、最後に鎮痛剤が投与された時間を確認する。まだしっかりと効いているようだから、しばらくは穏やかに眠れるだろう。
ほっと息を吐き、ベッドのすぐ横に用意された椅子に腰かけて、目の前の男をまじまじと眺める。
こんなに近くで一方的に見つめるなんて、出会ってから初めてのことだ。閉じられた目蓋を少しだけ残念だな、と思う。どこまでも遠くを見ているような、あの瞳が面白いのに。
そんなことをぼんやりと考えていると、男の手の甲を覆うガーゼに血が滲んでいることに気が付いた。用意されている医療キットの中から新しいものを取り出し、起こさないようにそっと手を取る。他の傷に響かないよう、慎重に清潔なガーゼに取り換えた。
ちょうど作業を終えたところで男の目蓋が震えた。ゆっくりと目蓋が持ち上がり、まだ焦点の合わない瞳が姿を現す。
起こしてしまったことに多少の申し訳なさを感じつつ声をかけようとしたが、それは適わなかった。
緩慢な動きでこちらの姿を捉えた男が、見たこともないような顔で微笑んだからだ。
「え」
「――……ル」
脳がそれを処理できないでいる間に、伸びてきた男の腕の中に閉じ込められていた。抱き寄せられ、されるがままにベッドに突っ伏す。男はそれきり何かを言う様子はなく、あっという間に眠りについたようで、静かな呼吸音が聞こえてきた。
これじゃ抱き枕だ。そう思うのに、ばくばくと脈打つ鼓動を止められない。触れている箇所から体温が上がっていくのがわかる。きっと顔は真っ赤になっているだろう。早く起き上がらなければと思うのに、どうやってこの腕を払いのけたらいいのかわからない。
だって、あんな表情は初めて見た。
あんな、優しくて、大事なものを見るような。
初対面から半年かそこらの相手に向ける視線じゃない。そう思うのに、耳に届いた声は自分の名前を呼んでいた気がして、余計に混乱してしまった。
耳元まで鳴り響く自分の鼓動にある予感を覚えながら、必死にそれを否定する。そんなことはない、今は驚いているから、突然のことに緊張しているからだと言い聞かせる。
ところがそんな努力もむなしく、男の腕の力が強まって肌が密着した瞬間、すとん、とその感情は僕の中心に落ちて、きれいに納まってしまった。
ぶわ、と肌が粟立つ。怪我人に寄り掛かることもできず、重くのしかかる腕から抜け出すこともできず、僕が戻ってこないことを訝しんだアイヴスが部屋を訪れるまで、おとなしく抱き枕になっていることしかできなかった。
*
すっかり快復した男は寝込んでいたときのことを覚えていないようだった。正直なところ、それには少しだけ安堵した。小さく芽生えた感情などすぐに消え去るだろうと思っていたからだ。
だが、ひと月、ふた月経ってもそれがなくなる気配はない。それどころか、なんの進展もないというのに、いつの間にか僕の中心にしっかりと根を張り、半年が経過しようとしていた。
消える気配がないそれは、ティーンのような感情だ。最近はそれを持て余していることも自覚している。時折だが、あのときのような表情を向けられる瞬間があり、その度に彼から目が離せなくなった。
例えば、ふたりで酒を酌み交わしているとき。並んで作戦会議をしているとき。彼を助手席に乗せて運転しているとき。
そんなふとした瞬間に、彼は普段は見せない感情を乗せて僕を見る。こちらが苦しくなるようなそのまなざしを見てしまうと、とても大事に思われているのではないかと錯覚しそうになった。
目が合うだけで心臓が跳ねるなんて、子供の恋だ。自分よりも年上の男に相手にされるなんて思わないけれど、隣には並んでいたい。その願いは少しずつ叶うようになり始めていて、ほんの少し、他の人より多くのことを許されている気がしていた。
薄暗い路地に倒れ込み、赤く染まった視界に、失敗した、と思った。額が熱を持ち始めたことに小さく舌打ちする。
大がかりではあったが、難しくはない仕事だった。ターゲットが所有するビルに侵入し、各フロアの警備員を隔離。フロアごと占拠している間に別動隊が目的の品を奪取、交渉が上手くいけば撤退。彼が計画した見事な無血開城。
それは滞りなく進み、撤退の合図を聞いた僕は今回の相棒と共に、用意してあった脱出路から飛び下りた。ところが、その先には予定外の景色が広がっていたのだ。このビルの中でそんなことが行われているとは知りもしない誰かが、着地地点を駐車場にしてしまったらしい。咄嗟に大きな音を立てないように着地しようとして、バランスを崩した。地面にぶつかる直前に受け身を取ったが、運悪く倒れた先に割れた瓶が転がっていて、額を裂いた。
あっという間に血が流れだし、視界を遮る。駆け寄ってきた相棒はすぐに何があったかを察知し、僕が傷口を押さえて視界を確保している間に、血痕を誤魔化してくれていた。
目立たないよう気を付けながら集合場所に向かう。予定より少し遅れて黒いバンに乗り込むと、僕ら以外の隊員の視線が集まる。僕らが最後だったようだ。
「遅かったな」
今回の指揮官でもあり、僕の雇い主でもある男がこちらを向いてそう言った。その瞬間、男の表情が固まり、さあっと血の気が失せていくのがわかった。
「……ニール、それは」
「大丈夫だよ。少し切っただけだ」
額は切ると派手に血が出る。そんなことは僕らにとって常識のはずなのに、彼が動揺していることに驚いた。先に戻ってきていた仲間から放られたタオルを受け取り、頬まで流れた血液を拭い、傷口を押さえる。傷が痛むことよりも、血液が入り込んだ目を洗いたい。そう思うくらいには、重要視していなかった。
動き出した車内でしばらく揺られて、車を降りる頃にはボスもいつも通りに戻っていた。先に治療をするように言われ、おとなしく従う。なにしろ、まだやることは残っているのだ。明日は今日の成果を元に、より広い区画を牛耳る組織を訪れることになっている。貴重な彼との仕事だ。不謹慎かもしれないが、この任務への参加が決まってからずっと楽しみにしていた。
医療班による治療を終えたところで『ボスが呼んでる』と伝えられた。
何か必要な情報の受け渡しでもあっただろうか。少し様子がおかしかったから、怪我の程度を確認したいのかもしれない。そう当たりを付けて指定された部屋に向かう。
そして、随分とのんきに部屋を訪ねたことを後悔した。
「……なんだって?」
「君には明日の任務から外れてもらう」
どこか無機質な会議室で立ち尽くす。自分が聞き返したというのに、静かに繰り返された言葉を飲み込めないでいた。二人きりの室内には張り詰めた空気が満ち、微かな空調の音だけが響いている。
突然の指示に納得がいかず、真っ直ぐに男を見据えて息を吸い込み、対峙した。
「待ってくれ。こんな傷、なんともないことくらい貴方だってわかるだろ?仕事はできる。問題ないよ」
「決定事項だ」
「サポートくらいできる」
「命令だ、ニール」
男の有無を言わさぬ物言いに、ぐっと言葉を飲み込む。この人の下で働くようになって、初めて不当だと思った。怪我の程度も、その影響も、彼ほどの人物がわからないはずがないのに。
ほとんど睨むように黒黒とした瞳を見つめる。同じように僕を見ていた瞳がわずかに動いて額に向かい、一見わからないくらいに、微かに歪む。やはり傷のことを気にしているから任務を外されるのだと思った。だが次の瞬間、再び視線が交わったときに気付いてしまった。
その瞳が表していたものも、今まで心動かされていた表情の意味も、察していながら無視してきた違和感の正体も。
胸が痛い。ぐるぐると回る思考はまとまる気配がない。
男は僕が何も言わないことで話は終わったと判断し、明日は休むようにと伝えて部屋を出て行こうとした。ドアに向かう足音が近付いてくる。それが僕の横を通り過ぎるその瞬間、咄嗟に男の腕を掴んでいた。驚いた男と間近で目が合う。勢いのままに吸い込んだ息も、開いた唇も、微かに震えている気がした。
「誰を見てるの」
「……何?」
「僕は僕だ。誰かの代わりになんかならない。ちゃんと、僕を見てくれ……!」
途中で彼が息を飲んだのがわかったが止まらなかった。
ずっと、不思議でならなかった。たいして親しくもない相手に向けるまなざしの柔らかさが。名前を呼ぶ声の穏やかな響きが。
不思議だと思いながら、流れるままに受け入れてきてしまったものの残酷さに心臓が締め付けられる。
そこまで言い切ってから、やっと目の前の男の表情を認識した。頭に上っていた血がさっと引いていく。
目の前の男はひどく驚いて、傷付いているように見えた。
掴んでいた腕を解放し、後退して距離を取る。嫌な緊張感が走り、心臓は早鐘を打っている。だが、口角を無理矢理上げて、いつも通りの笑みを作ってみせた。
「……なんてね。ごめん、意味がわからないね」
上手く笑えているかはわからない。もしかしたら引きつっているかもしれない。それでも、黙るわけにはいかなかった。
「大丈夫。明日はおとなしくしてるよ。貴方の指示に従うから安心してくれ」
それじゃおやすみ、と付け加えて、返事を待たずに部屋を出た。ドアが閉まる音が廊下に響く。そのまま振り返ることなく自室に向かい、部屋に入った瞬間、大きく息を吐き出した。半ば茫然と、よろよろと歩いてベッドに倒れ込む。成人男性の体重を受け止めたベッドが軋む音がやけに耳についた。
ずりずりと這い上がり、枕に顔を埋めてもう一度盛大なため息を吐く。そうすると、自然と目蓋が濡れた。じわりと枕にシミができていく。
情けなくて仕方がなかった。勝手に勘違いして、子供のように喚いて、恋愛としても仕事としても失格だ。せめて今後も仕事の相棒として使ってもらえることを願うしかない。
僕が焦がれたまなざしは、とうに誰かのものだった。それなのに、僕はそれを自分に向けられているものだと勘違いしていた。それだけのこと。そう言い聞かせて、きつく目蓋を閉じる。
「あー……さいあくだ……」
喉から絞り出した声は、枕に吸収されて消えた。
結局、ぐずぐずと枕に埋もれている間に夜が明けてしまった。半端に微睡み、覚醒しては後悔するという時間を繰り返したせいで、ひどい顔をしているに違いない。しかし、いつまでもこうしていたくても誰かが訪れるかもしれない。集団行動の面倒なところだ。どうしたのかと訊ねられたら、答えられない気がした。
重い身体を無理矢理起こし、あちこちに跳ねる髪を撫でつける。さっとシャワーを浴びた後は、誰にも会いたくなくて外に出た。ふらふらと目的もなく街を歩き、適当に目に入ったカフェで食事を済ませる。本でも読んでいれば時間は過ぎていくだろうと思っていたのだが、文字が滑っていくばかりで全く頭に入らなかった。
読書を諦めて店を出る。再びふらふらと街をさまよい、陽気に誘われるように公園のベンチに腰を下ろした。何をするでもなく景色を眺める。
目の前を行き交う散歩する人々。自由に歩く犬と、鳥の鳴き声。普段接している血生臭い世界が遠くのことのように思えた。だが、昨日のことは紛れもない現実で、眩しさに目を閉じると彼の顔が浮かぶ。昨日の、ひどく傷付いた彼の顔。
はあ、と重い息を吐き出す。胸の奥で詰まってしまった想いをどこに捨てればいいのかわからなかった。時間が解決するなんて楽観視はできない。なにしろ、そう思っている間に抱えたものはより重くなってしまったのだから。
すぐに憂鬱な気分になるが、それでも考えた。何が最善で、自分が何を望むのか。
最悪なのは、彼との繋がりを絶たれることだ。そんな安易な関係ではないと思いたいが、彼が解雇だと言ってしまえばそれで終わりだ。それは避けたい。そう思うくらいにこの仕事も、彼の計画も気に入っている。
そう思うと答えは簡単だった。僕は、彼の相棒でいたい。それを失うことこそ、最も恐ろしい。
辿り着いた答えに妙に納得して、ベンチから立ち上がった。腕時計を確認して、来た道を戻る。今から戻れば彼の出発には間に合うだろう。そう予測したとおり、セーフハウスの玄関をくぐると、彼が率いる数名が準備を終えたところのようだった。
かっちりとした上等なスーツに身を包んだ男と視線がぶつかる。
「やあ」
「ニール」
「心配しなくても、ちゃんとおとなしくしてるよ」
「いや、そうじゃない」
彼が気にしているだろうことを先に伝えたつもりだったのに、返ってきた否定の言葉に首を傾げる。男は僕の顔を見上げながら近付いてきて、周りには聞こえないような声量で言葉を続けた。
「今夜、時間をくれないか」
「……今夜?」
「ああ。今日の仕事はそんなに時間はかからないはずだ。君と話がしたい」
予想外の展開に喉の奥が詰まる。本当は逃げ出してしまいたかったが、そうしないと決めたばかりだ。声が裏返らないように注意深く「わかった」と答えて頷く。男はそれに笑みを浮かべて頷き返し、部下を連れて歩き出す。僕は、夕陽の中に消えていく背中を見送った。
そこからの数時間は拷問のようだった。昨日のことを問われても、自分でも昇華している途中なのだから困る。悪い考えが何度も頭の中を過ぎり、それを強引に打ち払った。時間の経過と共に落ち着いてはいられなくなり、自室をうろうろと歩き回る。
もう何度目の徘徊かわからなくなった頃、部屋のドアをノックされた。思わずびくりと飛び上がる。深呼吸をしてからドアを開けると、約束どおり仕事を終えた男が立っていた。
「あー……と、お疲れ様。この部屋でいい?それとも会議室?」
「いや、食事にしよう。レストランを予約した」
「……うん、ちょっと待ってて」
驚いたせいですぐに言葉が出てこなかったが、なんとか笑顔を浮かべてドアを閉めた。淡いグリーンのタイを選んで結び、ジャケットを羽織る。それからもう一度深呼吸をしてドアを開いた。
「おまたせ。行こうか」
先程と変わらない様子で立っている男に声をかけて、共にセーフハウスを後にした。
彼が運転する車の中は静かだった。エンジンの音だけが、ふたりの間の奇妙な空気を埋めてくれる。だが、それもわずかな時間のみで、そう時間はかからずに目的地に到着した。
案内されたのは、席のほとんどが半個室になっている店だった。その中でも入り口から遠い奥まった席に案内される。高級そうな仕切りを視界に捉えながら、男と向かい合って座った。
笑顔で注文を取るウェイターにいくつかの料理の名称を告げて、運ばれてきたドリンクで気休めのように乾杯する。
彼も僕も、今日はアルコールを選んだ。僕は素面でなんか話せないと思ったからだし、彼にとってこれは仕事外のやりとりだからなんだろう。変な酔い方をしないよう、ちみちみとアルコールで口を湿らせる。男は手にしたグラスをテーブルに置き、そっと手を組んだ。
「突然悪いな。あそこじゃ誰が来るかわからないと思って」
そう言ってこの店を選んだことを告げた男に、僕は苦笑を返す。聞かれたい話ではないという点では僕も一緒だったから。
黙っているうちに男の口元から笑みが消えていく。じっと僕の顔を見つめていたかと思うと、静かに口を開いた。
「すまない」
「……なに、が?」
そう訊ねる自分の声が震えている気がした。聞いてしまうのが怖い。心臓が痛む。様々な可能性が一瞬にして頭の中を駆け巡った。解雇通知だったら最悪だ。
グラスを握り締めて返事を待っていると、男は苦虫を嚙み潰したような顔で笑った。
「色々と」
「いろいろ?」
「まずは今日の仕事のことだな。君は何も悪くない。俺が原因だ」
「え?」
「俺が、平静じゃいられないかもしれないと思ったんだ。君の傷を見たら」
視線に誘導されるように、つい自分の額に触れていた。傷を覆うざらりとした感触を指先で感じながら、苦笑を浮かべる男の顔を、困惑したまま見つめている。もっと痕が残るような傷を負ったこともあるのに、どうして今回だけ彼が動揺しているのかわからなかった。
男は僕の困惑も理解した上で、そっと目を細めた。そして、わずかな躊躇いと共に言葉を紡ぐ。
「君は――古い友人に似てる」
どくりと心臓が脈打つ。僕が知りたくて、同時に知りたくなかった部分に踏み込もうとしているのがわかった。グラスを口元まで運び、詰まりそうになる呼吸ごとアルコールで流し込む。
「自分じゃ、もっと割り切ってるつもりだったんだが、そうでもなかったらしい」
もう『何を?』とは聞けなかった。アルコールのせいではなく、血液が末端まで勢いよく巡っていく。すがるようにグラスを握り締めていると、男の手も行き場を求めて自分のグラスのふちをなぞった。
「そういうふうに見ているとは、自分でも気付いてなかったんだ。昨日まで。君には失礼なことをした」
「いや……」
それきり、続く言葉は出てこなかった。『気にしないでくれ』『僕の方こそごめん』そう言えば解決すると頭では理解しているのに、喉でつっかえたように音にならない。そうだろうとは思っていたものの、彼の口から直接“誰かを重ねていた”と告げられるのは、あまりにも苦しかった。
静まり返ったテーブルにウェイターはゆっくりと近付いてきて、料理の説明と共にいくつかの皿を置いた。温かい料理に手をつける気にはなれなかったが、いくらか空気が和らいだのをきっかけに手にしていたグラスに口を付ける。溶けた氷で少しだけ薄まった液体が胃に落ちていく。その焼けるような感覚だけが、やけにリアルだった。
ウェイターが席から離れるのを見送っていた男はグラスを手放し、こちらを見据えていた。けれど、僕は顔を上げられない。手にしたグラスの中の液体が照明で煌めくのを眺めながら、今にも飛び出してしまいそうな胸の痛みを誤魔化している。
「……だが、間違えないでくれ。一緒に仕事をしたいと思っているのも、こうして話したいのも、君なんだ」
ぴくり、とグラスを握る指が震えた。言われていることが飲み込めないまま、期待と不安が同時に押し寄せる。一呼吸おいてそろそろと視線を上げていくと、男と視線が交わった。
「君だよ、ニール」
そう告げた男の声に迷いはなかった。明かりを反射した男の瞳は黒曜石のように美しく、絡めとられて身動きがとれない。なんとか返事をしようとして失敗し、わずかに動いた唇から音にならなった空気だけが零れ落ちた。
その一部始終を見ていた男の瞳がゆっくりと細められ、僕が何度も恋に落ちた表情を描く。
「ちゃんとこう言えるまで、一年もかかった」
そう呟いた男のまなざしは何度も見てきたものだったが、今この瞬間は、間違いなく僕を見ていた。僕を通した誰かではなく、僕だけを。
高揚感が全身に広がっていく。だが、震える指先に力を込めて、勘違いするなと自分に言い聞かせた。彼は相棒として望んでくれているんだ、自分勝手な感情に流されるな、と。
意識して肩の力を抜き、いつも通りの笑みを浮かべる。
「よかった。このまま働けなくなったら、どうしようかと思ってたんだ」
「そんなわけないだろう」
「それを聞いて安心した、よ……」
これで望みは叶ったと安心したのも束の間、僕は再び言葉を詰まらせた。男の腕が伸びてきて、動いたことで落ちて額にかかった前髪を除ける。その指先が肌に触れて、息を飲んだ。
伸ばされた腕は壁側にある方で、仕切りで外からは見えない位置にある。彼はわかってやっているはずだ。するりと額を撫でた指が主の元に戻る。それと入れ違いに、足先に硬いものがぶつかった。動いていない足に触れるものなんて、一つしかない。
足を除けることもできず硬直したまま、余裕の表情で笑う男を見つめる。もう平静なふりなんてできなかった。
「それだけか?」
「まさか、知っ、て……」
「君は、自分で思っているよりわかりやすい」
かっと顔が熱くなる。上手いこと隠しているつもりだったのに、とうに知られていたなんて恥ずかしすぎる。何もかもを受け止めきれず、テーブルに肘をついて両手で目元を覆い隠した。髪がくしゃりと乱れたがそれどころではない。
こつ、こつ、と小さな音を立てて靴をノックされた。明らかな意図を持って動く男の足を払いのけることもできず、自分の髪を掴む手に力が入る。
「無理だ……」
「ニール」
「いや、無理だって」
小声で意思を伝えてみたが、男は諦めることなく自身の靴で僕の足先をノックし続ける。恐る恐る両手を開いてみると、ずっとこっちを見ていたらしい男は一瞬にして破顔した。
「首まで真っ赤だな」
「っ、からかうのは程々にしてくれないか」
「いいや?そんなんじゃない」
「嘘だ」
「これでも、君はすごいと思ってるんだ」
「は?」
「君は早々に自分の感情を受け入れていた。俺は、昨日君に怒鳴られてようやくだ」
男の顔に浮かんだ苦笑とその言葉の意味を理解しようと、脳がフル回転する。そんなはずはないと思いながら、僕の頭は自分に都合のいい答えを導きだそうとしていた。緊張のあまり、額に触れたままの指先が震えている。
動揺のままに視線を泳がせていると、また靴をノックされた。口内に溜まった唾液を飲み込み、今度はそっと、ノックを返してみる。こつ、と足元から微かな音が聞こえる。すると、一度だけノックが返ってきた。
たったそれだけのことで、全身が熱くなった。目の前の男は姿勢を変えないまま微笑んでいる。
テーブルに顔を伏せて、わざとらしく、長く長くため息を吐く。仕方がないだろう。たった一日の間に気分は上ったり下がったり、まるでジェットコースターだ。昨日の夜にこの男に声を荒らげ、数時間前にこの感情を手離すと決めたばかりだというのに。
「こんなの、キャパオーバーだ……」
「ちゃんと言葉にしようか?」
「……遠慮するよ」
喉の奥でくつくつと笑う男が恨めしい。せめてもの抵抗に睨んでみたが、向けられている視線の想像以上の甘さに負けを認めるしかなかった。
その後もどこか落ち着かないままではあったが料理に手を伸ばし、舌鼓を打った。
食事を終えて席を立つ僕の前に男が立ち、乱れた髪を整えてくれる。これまで何度も経験したはずの行為なのに、どうやって笑えばいいのかわからなかった。挙動不審ではないだろうかと些か心配しながら店を出る。
外に出てしまうと、世界が何も変わっていないことになぜか驚いた。街も、通り過ぎる人々も車も、見知ったものと変わりない。さくさくと歩いていく男の後をついていき、来た時と同じように助手席に座る。隣に座った男の横顔も見慣れたものと同じで、店の中で見聞きしたと思っているものは幻なんじゃないかとすら思った。
現実味がない、というのが正しいのだと思う。彼が僕に手をかけてくれることも、こうして食事に行くことも、今までもあったことだ。
自分の願望と現実の狭間があいまいになっている気がして、じっと男の横顔を眺めた。視線に気付いた男が振り向く。不思議そうに目を瞬き、名前を呼ばれた。
「どうした?ニール」
「いや、なんか、夢なんじゃないかと思って」
問い掛けにそう答えると、男はしばらく思案して、それからゆっくりと近付いてきた。どうしたのかと声をかけようとして、それよりも先に唇に触れたものに思考が停止する。僕が固まっている間に、柔らかな感触は小さなリップ音と共に離れていった。
そっと息を吐くと、もう一度唇が重なった。今度は目を閉じて、しっかりと感触を確かめる。顎に手を添えられ、口内に潜り込もうとする舌を受け入れた。湿った舌が絡み合い、唇の隙間から息が零れる。運転するからとアルコールを控え、代わりにデザートを食べていた彼の唇からバニラの香りが広がり、堪らなくなって手を伸ばした。てのひらに触れたうなじが熱い。ふたりの間から濡れた音が響いて、ぞくりと背筋が粟立った。
微かな声が零れたところで男が離れる。唾液で唇を濡らしたまま、指の背で僕の頬を撫でた。
「これでもまだ夢だと思うか?」
囁くような声に、首を横に振る。触れた箇所全てが生々しい熱を残したままだ。瞬きしても変わらない光景が、確かに現実だと訴えている。
それを理解した瞬間に、今度は手放すのが惜しくなった。このまま帰れば日常が戻ってくる。僕らは上司と部下、同僚に囲まれて次の仕事に備える日々。その中に紛れ込んだら、この時間はどこへ行ってしまうのだろう。
「帰りたくないな」
微かなため息と共に零れ落ちた声を拾った男の眉が上がる。困らせたいわけではなかったし、子供じみたことを言っていることはわかっていたから、苦笑で終わらせようとした。だが、僕が謝るより先に男が口を開く。
「帰らない、っていう手もあるぞ」
どうする、と問いかける男の表情が先程までと少し違って見えるのは気のせいだろうか。その瞳がやけにぎらついて見えるのは街灯のせいだと思わなければ、きっと心臓が破裂してしまう。ディナーでの出来事だけでも混乱しているのに、そんなに欲張っていいのだろうかと迷ったのは一瞬で、僕はすぐに「そうしたい」と答えていた。
車はゆっくりと動き出した。そこから僕らは何も話さなかった。彼は行き先も告げず、僕も聞かない。彼が選ぶ場所ならどこでもよかった。
途中でドラッグストアに寄り、僕に車で待っているように指示した男は数分後、何食わぬ顔で戻ってきた。その手に小さな紙袋が握られているのに気付いたときはどうにもいたたまれず、ただ窓の外を眺めるしかなかった。少しずつ、緊張感が高まっていく。
すっかり時間の感覚を失い、ひどく長い時間をかけて移動しているような気になった頃、ようやくホテルに辿り着いた。
男は慣れた様子でフロントで手続きを済ませる。僕は少し離れた場所で座って待っていた。ホテルの格に見合った上質なソファの感触が落ち着かない。何度も指先を握りしめ、手を組みながら床を睨みつける。
そうしている間に視界にきれいに磨かれた靴が現れ、僕が立ち上がるのを待って歩き出した。僕はやっぱり黙ったまま後をついていく。
エレベーターに乗り込み、そっと吐き出したはずの息がやけに響いた気がして体が強張る。心臓の鼓動も呼吸音も、必死に抑えているのに全部聞こえてしまっているんじゃないかと思った。
ちらりと隣に立つ男の横顔を盗み見てみるが、平素と違う様子は見られない。自分ばっかりが動揺しているんじゃないかと思うと気が気じゃない。
彼に気づかれないように息を吐いたところでエレベーターは止まった。開いたドアの先に足を進めて、導かれるまま、規則的に並んだドアの中のひとつに辿り着く。男が開けたドアの中に足を踏み入れると、引き寄せられてキスをされた。驚いて目を見開いている間に、背後で鍵が閉まる音が聞こえる。なんの抵抗もできないままやんわりと唇を吸われ、わずかに離れた唇に吐息がかかる。
「シャワーは?」
「っこのままでいい」
それだけ言うと、男の性急さに応えるように首に手を伸ばし、噛みつくみたいなキスをする。止まりたくなかった。ほんの少しでも離れている時間が惜しい。
お互いの唇を啄み、吸い上げながら、縺れるようにベッドに倒れ込む。彼と食事に行くために選んだ淡いグリーンのタイを、彼の指がほどいていく。その光景だけでぞくりと快感が駆け抜けた。布ずれの音とともに床に落ちていくタイを見送る。そのまま彼の手がシャツの上から腹部を撫でた。僕も彼からジャケットを奪い、自分のジャケットを乱雑に脱ぎ捨ててから、シャツ越しの鍛えられた筋肉をなぞる。
たったそれだけなのに、もう随分と体温が上がっている気がした。飲みきれなかった唾液が顎を伝い、シャツを濡らす。それに気付いて唇を離すと、二人ともすっかり息が上がっていた。
普段見ることのない欲に濡れた瞳にまた心臓が騒ぎ出す。男は自らの唇を舐めて、ためらいがちに口を開いた。
「その、男の経験は?」
「ないよ……あなたは?」
その質問には、男はあいまいに笑っただけだった。初めてではないのだろうと察しはついたけれど、彼がぼかした返事をしたのは正しかったのだと思う。はっきりと聞いてしまっていたら、なんとなく、暴れてしまいたくなる気がした。
自分の中の小さな子供を宥めて、もう一度口付ける。そっと離れて男の頬を両手で包み、瞳の奥を覗き込んだ。
「あなたがしたいようにしてよ。僕はどっちでもいい」
「どっちでもって」
「いいんだ」
「お前は、本当に……っ」
ほんの少しだけ、男が顔を歪めた気がした。しかし、それに言及するより早く、口付けと共にゆっくりとベッドに押し倒された。身体を這う手のひらを感じながら、彼の首に腕を回して肉厚な舌を味わう。
挿入する側でもされる側でも、本当にどちらでもよかった。あなたが与えてくれるものならなんだっていい。それが苦痛を伴うものであったとしても、あなたがくれるなら受け入れる。そう思うくらいには、とっくに彼に参っていた。
まだ服も脱いでいないのに、止まないキスと、ばくばくと脈打つ鼓動のせいで酸欠になりそうだ。初めて女の子としたときだって、こんなふうにはならなかった。彼といると知らない自分に出会ってばかりだ。そう思うと少し笑いそうになった。
その気配を察知した男が顔を覗き込んでくる。なんでもないと伝えて笑みを向けたが、やんわりと首筋に噛みつかれた。シャツのボタンを外し、噛み痕を舌でねぶる。
「っ、は……」
身体に溜まっていく熱をなんとか呼吸として吐き出しているうちにシャツのボタンはすべて外され、素肌の上を手と唇が這っていた。余すところなくキスを落とされ、羞恥心を煽られる。
それでも一方的にされるのは嫌で、男のシャツに手を伸ばした。震える手で一つ一つボタンを外していく。時間がかかってしまい、それこそ子供じみた意地と変わらない気がしたが、彼は黙って待っていてくれた。
僕がボタンを全て外したシャツを男が脱ぎ捨てる。褒めるように、絡め取られた指先に唇が触れて、顔が熱くなった。
あらわになった男の肌にはいくつもの傷痕が刻まれていた。手を伸ばして褐色の肌の、わずかに盛り上がった部分に触れる。男は何も言わずに好きなようにさせてくれていた。
思えば半年前、この傷から始まったのだ。そう思うと、ここまでこの男を創り上げてきた傷痕全てが愛おしくなった。この中のどれかがなかっただけでも、今、この瞬間には辿り着いていなかったのかもしれないのだから。
上体を起こし、男の首筋から腹まで、傷痕を辿るように口付けていく。男は僕の頭を撫でながら、くすぐったそうに笑った。
そのまま羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると、男の手が僕のベルトを外してトラウザーズを脱がせた。既にしっかりと反応しているものを握り込まれて、下着にじわりと染みができる。
何度も揉まれ、擦られ、勝手に腰が揺れてしまう。感じている顔を間近で見られることに耐えられず、ベッドに倒れ込んで口元を腕で隠した。僕が横になったのをいいことに、ついに下着も取り払われる。直接握られ、先走りを塗り込むように擦られて、腹筋が勝手に痙攣してしまう。
彼が上手いとか下手だとか、そんなことを考えている余裕はなかった。彼に触られている。それだけでこの身体は勝手に上り詰めてしまう。ペニスの先端に男の指が絡み、くち、と粘着質な音がしてシーツを握りしめた。
「っ、ぅ……ぁ、はぁッ」
あともう少しで頂上が見える、というところで、男の手が離れていく。思わず恨めし気に見上げてしまったが、男は笑顔でいなして身体を寄せた。優しくキスを落とされて何も言えなくなる。
唇の端や頬に口付け、男は汗ばんだ僕の額をそっと撫でた。今度は僕が、覆いかぶさる男にどこまでも覗き込まれている。
「大丈夫か?」
「うん。……したい」
僕がしっかりと頷いたのを確認して唇にキスをしてから、男はベッドの下に転がった紙袋に手を伸ばした。小さな袋の中からスキンとワセリンが取り出される。
「悪い、これしか用意できなかった」
そう言いながら中身をたっぷりと手に取り、僕の一度も使ったことのない場所を撫でる。さすがに緊張して上手く力を抜けないでいると、膝や太ももを何度も食まれた。ちゅ、と音を立てて唇が吸いつく光景を眺めていると、段々と力が抜けていく。その瞬間を狙って、ゆっくりと指が侵入してきた。
「はっ、ぁ、……ん」
意識して息を吐くと、それに合わせて体内の指が動く。襞を広げるように入り口を往復し、内壁をゆったりと押し広げていく。そこから感じるのは痛みというより違和感だ。異物が体内で蠢いているということが感じ取れて、同時に身体の準備は整っていないこともよくわかった。なのに、もう繋がってしまいたかった。
はやく挿れてくれ、と言ってしまわないように唇を噛み締める。それを苦痛だと捉えたのか、男の指はより一層慎重に動いた。内部でぐるりと回され、引き抜かれては潤滑剤を足して再度挿入される。あらぬ場所からぐちぐちと耳慣れない音が聞こえてきて、めまいがしそうだった。
そして、違和感がなくなってきた頃にそれはやってきた。
「あっ?ぅ、……あ、っ」
それまでのふわふわとした違和感とは違う、明確な快感だった。一気に全身が汗ばみ、男の指がそこを掠める度に脚が跳ねる。男はどこか安心した様子で、探るようにそこを押し上げた。
与えられる理解できない感覚に悶えることしかできないでいる間に、体内の指が増やされていく。二本、三本とこれ以上ないくらい時間をかけてほぐされて、ぐったりとシーツに沈んで、ようやく解放された。
みっちりと収まっていた指が引き抜かれる感触に、ひくりと内腿が震える。男はどろどろに溶けたワセリンで服が汚れるのも構わず、トラウザーズと下着を脱ぎ、スキンをつけてペニスを後孔に押し付けた。確かな硬さを感じ、期待に胸が震える。いよいよだと思うと、ずっと堪えていた言葉がいつの間にか滑り落ちていた。
「はやくっ、きみの、いれて……!」
「ッ、ニール」
「あ……あ……」
両脚を抱えた男がゆっくりと腰を押し進めていく。真っ先に僕を襲ったのは痛み、というより圧迫感だ。それから、皮膚が限界まで引っ張られる感覚。指とは違う感覚に、自然と涙が流れた。ただの生理現象だったけれど、男は抱えた片脚を解放し、動きを止めて僕のまなじりに手を伸ばす。指先で涙を拭い、抱えたままの膝にキスをした。
「ニール、息を吐いて」
「ふ、ぅ……っはぁ、あ……」
「そう、いい子だ」
自分でも気付かない間に息を詰めてしまっていたらしい。促されるまま呼吸をすると、少し楽になった。
褒められると、反射のように胸の奥が温かくなる。痛みも快楽も、もうなんだっていい。そんなことを言ったら怒られそうだから黙っているけれど、もっと乱暴にされたって構わなかった。でも、彼がそんなことはしないと僕は知っているし、結局はそういう彼が好きなんだから、そんなことを考えても仕方がない。せめてもっと近付けるように、僕の脚を抱える彼の手に触れた。
「ねえ、もっと奥まで、さわって」
「でも苦しいだろう」
「今のままの方が、苦しいよ」
そう囁くと、男は喉の奥で呻くような声を押し殺し、再び脚を抱え直した。今度は慎重に息を吐きながら受け入れる。ゆっくりと中を進んでいくペニスが指で辿り着ける場所を通り越し、本当に初めて触れる場所に行き着いた。
自分でもどこかわからない、奥深くに彼自身の先端が触れる。彼の腰骨が臀部に当たり、ちゃんと繋がったのだとわかった。ゆったりと負担をかけないように揺さぶられる。こみ上げてくる快感は強烈ではないが、腹の奥からじわじわと全身に広がっていく。
抱えていた脚を下ろした男が覆い被さり、首筋や鎖骨に唇を這わせる。すると、そこからもじんわりと快感が広まっていき、時間をかけて全身が溶けていくような気がした。
男の頭を抱えてつむじや生え際に口付けていく。顔を上げた男と視線が交わり、どくりと心臓が跳ねた。任務のときとも違う鋭い光を湛えた瞳がふっと細くなり、どちらからともなく唇を合わせた。触れた口内が熱くて、彼も興奮しているんだとわかるとまた心臓が跳ねる。
力強い腕の中に閉じ込められて逃げ場がない。彼の腹筋でペニスが擦れてびくびくと腰が揺れるのを止められない。
「あっあ、それ、ッ……すぐ、いきそ……」
「ッああ」
「ん、ぅあっ、イく……っ」
一度限界まで連れていかれ、解放されなかった性器は呆気なく果てた。抱きしめてくれる男にぎゅうっとしがみ付き、びくびくと痙攣する身体に翻弄される。男は僕の顎に何度もキスをして、しばらく身体を揺すると、そのまま熱を吐き出した。その瞬間、僕の名前を呼びながら。
彼が僕の中で、僕の名前を呼んで達した。たったそれだけのことに胸を締め付けられて、なぜか無性に泣きたくなった。
「ニール」
彼の優しい声が僕を呼ぶ。乱れた呼吸の中で、まだ欲の色を孕んだまま。
近付いてきた唇は僕の唇を啄み、それから頬に触れる。柔らかな舌にこめかみを舐められて、初めて自分が涙を流していることを知った。
「ニール」
僕の涙を拭い、頬を、それから髪を撫でる手のひらに擦り寄る。その手のぬくもりの心地よさに酔ってしまいそうだったが、名前を呼ぶ声が最初よりもはっきりとした意思を帯びていることに気が付いた。
ぼんやりとした意識の中、視線を動かして男を見上げる。しっかりと僕を見下ろす男の瞳は、今日見た中でも特別甘ったるく、特別優しい。それを認識した途端に、僕は少しも動けなくなってしまった。心臓が早鐘を打ち、震える吐息がこぼれるままに見上げていることしかできないでいる。
彼自身はまだ僕の中にいる。こんな、限界まで近付いた状態で、これ以上何を言うのかと思うと少し恐ろしい。はく、と何も音にできずに口が息だけを紡いだ。それに気付いた男の唇が、そっと弧を描く。
「まっ、て……むりだ」
「何が?」
「わからないけど、む、むり」
初デートの少年じゃあるまいし、と自分でも思うのに、彼の肩に触れる指先は微かに震えていた。恥ずかしい。恐ろしい。そんな感情で片付けていいのかすらわからなくて軽いパニックに陥る。
「ニール」
再び名前を呼ばれて、彼から目が離せなくなる。全身を震わせるくらいうるさい心臓を抱えながら、もう逃げ場はないのだと悟った。
男の視線を受け止めているだけで、もう限界だと思っていた体温が更に上昇している気がする。そんな僕のことなど無視して、男はまっすぐに囁いた。
「好きだ」
ああ、ほら。これから先もきっと、僕は君に落ち続ける。