両片思いな主ニルの、例のコインにまつわる話です。逆行前のあれそれ中心。
※ニール逆行説
「それで?」
ニールが唐突に呟いたのは、初めての仕事を終えて装備を外し、逆バンジージャンプのために用意した機材を片付けている最中だった。ニールが発した脈絡ない言葉に、男は手を止めて顔を上げる。なんの話かわからず目を瞬かせた男が疑問を口にしようとしたところで、ニールも顔を上げて男の顔を見ながら言葉を続けた。
「仲介役として僕は合格?」
「……ああ、十分だ。よろしく頼むよ」
しっかりと目が合い、何を訊ねられていたのか理解した男がそう告げる。よかった、と返事をしたニールはすぐに視線を手元に戻したが、実のところ、それは安堵と共に緩んでしまう頬を隠すための行動だった。ぎこちなくなかっただろうかと少しだけ心配したが、男は特に気に止めた様子はなく、自分の作業に戻っている。それを視界の端で確認し、静かに息を吐いた。
ここで見限られるわけにはいかなかった。ニールが知っている男なら気に入ってくれるだろうとわかっていたが、目の前にいる男とは初対面なのだ。絶対に大丈夫だという保障はない。全てが水の泡になるような事態は避けなければならなかった。
些か乱雑に機材をまとめて鞄にしまう。鞄の口を閉めて顔を上げると、男もちょうど片付け終えたところだった。重くなった鞄を持ち上げ、建物を後にする。
「次の予定は?」
「情報提供者に会う。だが、行先はまだだ」
「なるほど」
「いつでも動けるようにしておいてくれ」
今まで、そして、これから進めていくであろう任務の中でも随分と簡単な依頼にニールは頷き、二人は夜の街で別れた。
一人になったニールは宿泊しているホテルの自室に帰った途端、ろくに着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。高揚して目が冴えている。久しぶりに――いや、初めて会う友人は若く、その瞳はニールが知っているものよりずっと鋭い光を宿していたが、根底にある力強さも、エージェントとしては余計とも言える優しさも、知っている男と変わりなかった。
隣に座った男の姿を思い出す。あのとき、ニールは自身でも驚くくらい緊張していた。通常の任務ではありえない緊張だった。彼のことを自分だけが知っており、初めて会う友人はまっさらな状態でニールを見ていた。たったそれだけのことがこそばゆく、両手でぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。
そうやってベッドの上で丸まり、ぎゅうっと自分の髪を掴んでいると、唐突にスマートフォンが震えた。着信を知らせる画面をタップして応えると、簡素な板の向こう側から次の目的地が決まったことを知らされる。聞き馴染んだ声にわずかに動揺したが、それを悟られないように平静を装って待ち合わせ場所と時間を決めて、通話を終えると同時に大きく息を吐き出した。
心臓がうるさい。再び身体を支配した高揚感は、吐き出した息と共に去ってはくれないようだ。この状況に完全に慣れるまではまだ少し時間がかかりそうだったが、一先ず無理矢理にでも振り切ろうとバスルームに向かった。
翌日、目が覚めたニールは、ようやく落ち着きを取り戻した気がしていた。
強引に眠りにつき、予定していた時刻に起きる。少しばかり過激な日常に戻るためのルーティーン。のそりと起き上がったニールがカーテンを開けると、力強い光が室内に射し込んだ。これなら飛行機は問題なく飛ぶだろう。そんなことをぼんやりと考えながら身支度を整える。最後にジャケットを羽織り、荷物を手に持ってフロントに向かった。
カウンターでにこやかに出迎えてくれたスタッフに声をかけ、チェックアウトの手続きを終わらせる。すると、対応していたスタッフが「良い旅を」と言葉を添えて、小さな飾りを差し出した。ニールは笑顔で「ありがとう」と答えてカウンターに背を向ける。
外へ向かって歩きながら、腕時計で時刻を確認しようと視線を落とした先、手のひらに収まった飾りに既視感を覚えて不意に足が止まった。小さな違和感の正体を探そうと記憶を手繰り寄せると、もう会えない男の姿が脳裏に浮かぶ。
*
ニールはそれなりに生きてきた中で、大体のことはそつなくこなせるタイプだと自負している。子供の頃の勉強も運動も、少しの努力で人並みのことができたからだ。だが、器用だということは、ニールにとっては必ずしも幸福なことではなかった。
ニールが生きる世界の大半は、いつの頃からか色褪せていた。自分が知らないことを見つけると世界は輝いたが、習得してしまうと途端に色褪せてしまう。その繰り返し。そして、そのサイクルが早かった。だから、ニールはいつだって新しいことを求めていた。勉強も、運動も、少しばかりのリスクを負うものも。
それを見ていた友人に“アドレナリン・ジャンキー”と呼ばれたこともあったが、それには苦笑するしかなかった。そこまで危険な人間だとは思っていないが、ニール自身もはっきりと否定することもできなかったからだ。
それでも一応は真っ当な道を進もうと大学にも進学した。勉強は嫌いではない。科学ははっきりとした答えがあり、同時に未知の世界でもあったから学び続けることができた。だがそれも、それなりに理解したとき、解明したい謎も明確な目標もないことに気が付いてしまい、ニールは途方に暮れた。再び世界を彩る何かを探さなければならなかった。
そんなときだった。その男が現れたのは。
その日、ニールは大学の職員に呼び出され、空き教室で一人外を眺めていた。自分などになんの要件だろうかと机に腰掛けていると、扉が開く音と足音が響いた。
ニールは職員か、教授の誰かだろうと予想していたのだが、そこにいたのは見知らぬ人物だった。
目の前に突然現れたのは、ニールよりも年上で、瞳の奥に底光りするような輝きを持った黒人の男だった。一目でわかるやたらと整った身なり、その視線。どう見てもキャンパスには似合わない。
それを認めたニールの頭に最初によぎったのは『終わった』という一言だ。人生か命かわからないが、自分でも認識していない何かをやらかしていて、なんらかの形で消されるんだろう。
そんなことを考えていたニールを見て、男は小さく笑い出した。いよいよやばい相手なのかもしれない、と固まるニールに対し、男は笑いを堪えたままこう言った。
「別に殺しにきたんじゃない。ああ……いや、ある意味そうかもしれないが、危害を加える気はないから安心してくれ」
そう告げる男のまなじりがあまりにも柔らかく、先程までと一致しない印象にニールは混乱した。そして、その混乱のまま、ふらりと男についていってしまったのだ。
自分では決して入らないような高級な店に案内され、様々な人材をスカウトしているのだと説明を受ける。詳細はまだ話せないが危険な仕事であること、今の生活には戻れないこと――ひとつひとつを丁寧に説明していく男の顔から、ニールは目が離せなかった。
どうして自ら声をかけておきながら、その澄んだ瞳に情を滲ませているんだろう。
それは両親が自分に向けるものとも、友人とも違う。ましてや職場の同僚なんてものとは程遠い。彼が話す内容以上にその視線の意味が知りたくて、ニールは平穏な日常を捨てた。
その先で男がニールに与えたのは、鮮やかな世界なんて生易しいものではなかった。この世界でも限られた人間しか知らない技術、概念。学んでも学んでも果てがない、自分が関わることなどなかったはずの世界。
その日から、ニールの世界は鮮やかに輝き、色褪せることはなくなった。
組織に参加することになってから行う訓練は、どれもこれも初めてのことばかりで苦戦したが、それはニールにとっては幸福なことだった。簡単にできることなどつまらない。色褪せることのない世界はニールが初めて手にしたもので、彼の心を昂らせた。
そうやって知識を学び、戦闘訓練を行い、任務に参加できるようになる頃には、組織のトップに立つ男は、ニールの世界で一等輝くものになっていた。
少人数での任務を終えて、組織が所有する建物に帰還する。
実地訓練を繰り返していくうちに、最初ほど焦ることもなくなった。代わりに油断するなと言われるようになったが、それは少しだけ彼に近付いたということだろう。ニールはずっと、自分に新しい世界を与えた男の背中を追いかけている。
大きなトラブルもなく帰還できたことに安堵の息を漏らし、ニールが装備品をチェックしていると、男は同行した上官として「よくやった」と言いながら、ぽんと背を叩いてくれる。その瞬間に鼓動が跳ねるのは、任務で高揚しているからなのか、彼が背に触れたからなのか、ニールにはもう判断がつかない。咄嗟に簡素な返事をして不格好な笑顔を浮かべている間に、男は横目でそれを確認して通り過ぎて行ってしまった。後はもう、他の班員に指示を出している背中を見つめることしかできない。
それでも目を離せずにいると、不意に男が振り向き、ニールと視線がぶつかった。ニールが驚いたのと同じように、男もわずかに目を見開く。つい先刻まで話していたはずなのに急にいたたまれなくなり、ニールは視線を外して装備の手入れに戻る。
男の視線の行方を確認することはできなかった。
そそくさと割り当てられた部屋に戻ったニールは、汚れを落とそうとシャワーを浴びた。その後、しばらく次の任務に駆り出されることはないだろうと踏んで、外食しようと部屋を出る。予想外だったのは、同様に外出しようとしている男とばったり鉢合わせたことだ。
「やあ」
目が合ってしまったからには仕方がないと諦め、ニールは笑顔で声をかけた。男は後からやってきたニールが追い付くのを待っているようだ。ゆっくりと近付きながら話しかける。
「帰ってきたらお腹すいちゃってさ。あなたは?」
「俺もだ。……この辺りは詳しいのか?」
「いや、実はほとんど知らないんだ」
一瞬思案した男に尋ねられ、ニールは苦笑と共にそう答えた。生まれ育った街から離れた滞在地に馴染みの店などなく、適当な店で済まそうと考えていたところだったのだ。男がもし食事処を訊ねようとしていたんだとしたら申し訳ないな、と思ったが、次いで耳に届いた言葉は予想していなかったものだった。
「それならいい店を知ってる。来るか?」
その言葉を頭が処理するよりも先にニールは頷いていた。
男は勝手知ったるといった風で、少しも迷うことなく歩いていく。よくよく考えてみれば当然だ。二人がいるのは組織が所有する建物で、その組織はこの男のものなのだから。浅はかな自分を恥じ入りつつ、ニールは男の隣に並んだ。
すっかり日が落ちた街を、街灯を頼りに歩く。数時間前まで任務で駆け回っていた身には、頬に触れる夜風が心地よかった。少しの緊張感と共にぽつりぽつりと話をしながら石畳の道を歩く。十分ほど歩いて辿り着いたのは、洒落た装いのバーガーショップだった。
男の後に続いて店に入り、メニューの中でもシンプルなものを注文する。向かい合って席に着き、そこでようやくニールは落ち着いて男の姿を見た。そして、見慣れないポロシャツ姿を目の前にして、どんな顔をしたらいいのかわからなくなった。
ニールが見る男の姿は、任務のための重装備かスーツ姿がほとんどだ。急に訪れた非日常にそわそわと落ち着きがなくなる。それなのに、話している内容は仕事には慣れたのか、だとか、同僚の誰がどうした、なんていうありきたりなもので、それが余計にニールをふわふわとした心地にさせた。
そんなことを知ってか知らずか、目の前の男はいつもどおりの振る舞いを続けている。ニールもそれに合わせようと、彼のおすすめのバーガーにかぶり付いた。バンズと具材のバランスがよく、ほどよくソースが絡む。男が勧めたのも納得の味だった。
「あ」
男の話に相槌を打ちながらバーガーを口に含むと、ぼたりと音を立ててソースがテーブルに落ちた。それに気付いたニールが小さく声をこぼす。やらかした、とは思うが、ニールにとっては日常茶飯事だ。特に慌てることでもなかったが、今は上司である男が一緒であることを思い出し、そろりと視線を上げたその瞬間、ニールの時間は確かに止まった。
男は、くしゃりと目尻に皺を作って笑っていた。白い歯を見せて、声を殺して笑っている。
ニールの粗相を笑う人間は多くいたが、目の前にある笑顔はそれらとは違う気がした。小ばかにするような気配はなく、むしろ優しさが滲んでいる。
ニールはこのとき、初めてちゃんと男の顔を見た気がした。男の視線の秘密を知りたいとついてきたくせに、組織の中の姿ばかり見ていて、この瞬間までこの男がこんな風に笑うことなど知りもしなかった。
そんな自分も、こんな些細なことで笑う男も、なんだかおかしくなってきて、男につられるようにニールも笑い出す。口を開けて、顔の中心に皺を寄せ、顎にソースを付けたまま、久しぶりになんの偽りもなく笑った。
ひとしきり笑った男に紙ナプキンを差し出され、ニールは受け取るために手を伸ばした。そして、紙の端を掴んだところで視線がぶつかった。ニールに向けられる視線は、やはり部下を思いやる色とは違う気がする。だが、それがなんなのかはわからない。わからないのに、目が離せない。好奇心と憧れがない交ぜになり、ニールの指先がじわりと熱を帯びた。
それには、気付かなかったことにした。
その日からニールは目指すべき方向を変えた。彼の後を追うのではなく、彼の隣に並べるように。
任務外でも積極的に話しかけに行くと、案外と拒絶されることはなかった。これまでそうしなかったことを少しだけ悔やんだが、共に過ごす時間を増やし、その中で情報を拾い上げていく。彼が何を好み、何を得意としているのか。
ボスである男に不得意なものがあること自体、ニールからしてみれば意外だったのだが、凹凸を埋めるように訓練内容を強化した。男の足りない部分をカバーするようにニールが知識を増やしていく。その度に共に過ごす時間は増え、お互いに様々な表情を見るようになっていった。
その中には、それだけでは納まらない感情が見え隠れしていることもわかっていたが、二人ともそれを口にしようとはしなかった。
その頃には、大規模な時間移動が必要な任務がやってくると知っていたからだ。
一緒にいられるだけで幸せだ、なんて偽善めいたことを言うつもりは全くない。だが、近い将来に会えなくなるとわかっていて、今だけでも通じ合いたいと思えるほど感傷的でもなかった。
会えなくなるなら、せめてもの思い出に――なんて、そんなものはご免だった。少なくとも、ニールは。
現在での準備が整い、逆行開始まで残り一週間。組織内は朝から晩まで騒がしかった。記録や作戦の確認、必要な資材の補充、やるべきことは山積みだ。特に逆行班はこの時間でやるべきことを全て終わらせなければならなかった。
この時間に戻ってこられるのか、戻ってきたところで自分がいくつになっているのかもわからない。ニールも他の班員と同じように荷物をまとめ、持ち出さなければならないものや処分するものを選り分けていく。自分の全てはこの作戦のために費やしてきたのだから、惜しいものなどない気がしていた。ただ一つを除いて。
昼間と比べて随分と静かになった廊下で立ち止まり、ニールは目的の部屋の扉をノックした。しばらくの沈黙の後、扉が開いて友人が顔を覗かせる。ニールの姿を認めた男は、驚いた表情をしていた。
「ニール、どうしたんだ?」
「一緒にどうかと思って」
その言葉と共に、ニールは持っている紙袋とペットボトルを持ち上げてみせた。その意図を理解した男は、笑顔を浮かべてニールを室内に招き入れる。
「君が教えてくれた店には敵わないけどね」
ニールはそう言いながら紙袋の中身をテーブルに並べていく。二人分のバーガーとポテトフライ、コーラ。それらを並べ終わると、ニールは迷うことなく椅子に座り、ベッドの上で半端に広げられていた服を片付けている男を席に促した。男は苦笑を浮かべてニールの向かい側の席に着く。
「一応俺の部屋なんだけどな」
「でも、ここは僕の席みたいなものだろ?」
堂々たる居ずまいで頬杖をついて笑うニールに対し、男は曖昧な笑みを浮かべただけだった。それが、彼が受け入れてくれている証拠だとニールは知っている。へらりと笑みを返し、用意した食事に手を伸ばした。
ニールが買ってきたバーガーを咀嚼して「美味い」と男は呟いた。それに「だろ?」と応えてニールは笑う。食べている最中に具材を噛み切れず零したが、目の前の男はもう驚いたりはせず、ただティッシュを差し出した。それを受け取り、汚れた手を拭う。
そうしながら、思えば、あのとき初めてこの男の仕事以外の顔を見たのだと、ニールは思い出していた。今では互いの態度を気にしたりはしない。意見が分かれ、どんなに揉めても、そのうち自然と笑い合える。
ティッシュを丸めてニールが顔を上げると、見慣れた顎髭にパンくずがついていた。定期的に粗相をする自分とは違い、男のそんな姿が珍しくてニールは小さく噴き出す。怪訝そうな表情を浮かべる男にパンくずの在り処を伝えると、男は些か恥ずかしそうにパンくずをつまんだ。
男の節くれだった指が触れた箇所は、わずかに白くなっていた。細かな逆行を繰り返している男の実年齢は、もはや誰にもわからない。いつの間にか、黒々とした髪にも髭にも、白いものが混じるようになっていた。
ふと、残念だな、と思う。過去に向かうことに抵抗はないが、この友人がこの先重ねていくはずの時間を共に歩めないことだけは惜しかった。
そんなことを考えていたせいで、じっと見てしまっていたらしい。ニールの視線を受け止めた男の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。それに気付いたニールの鼓動が小さく跳ねる。きっと男はニールの瞳も同じように揺れたことに気付いているのだろうが、それについて言及しないこともニールはわかっていた。
室内に沈黙が落ちる。
この感情を隠そうという努力はとうに捨てた。それが、ただそこにあるということだけを、男もニールも知っている。
何を言うでもなく、どちらからともなく自然に目線がずれて、元の空気に戻っていく。ほんの一瞬だけ重なり、戻る。この数年の間に何度もそうしてきたのだ。何度も。
気を取り直して残りのバーガーとポテトを食べながら、思い出話に花が咲いていく。ニールの強引な作戦にホイーラーが怒っていたとか、少し前の逆行では車酔いしたとか、そんな他愛もない話だ。
ささやかな思い出は尽きなかったが、日付が変わる前にニールは男の部屋を後にした。そして、次の日も同じように男の部屋に訪れた。
二人きりの晩餐は一日の締めくくりに毎日行われた。テイクアウトの品を持ち込むこともあれば、連れ立って店まで足を運ぶこともあり、二、三時間の会話と食事を楽しむ。
そうして、ニールは出発前夜を迎えた。
この数日間で繰り返してきたように、ニールは男の部屋を訪れた。違うのは、今日はニールの両手が空いているということだ。昨日、男が『明日は俺が用意する』と言ったとおり、迎え入れられた部屋のテーブルにはすでにいくつかの料理が並んでいる。
ニールは用意された料理を褒めそやし、定位置となった席に座った。すぐに男も席に着くだろうと思っていたのだが、今日は違った。男はもう一つの椅子には座らず、ニールの真横に立つ。ニールは不思議に思って見上げたが、ニールを見下ろす表情がひどく柔らかいことしかわからなかった。
「手を出せ」
突然そう言われ、何もわからないまま言われたとおりに右手を出した。男は自分のポケットから取り出したものを、ニールの手のひらに乗せる。男の挙動を追っていたニールが見たものは、自分の手のひらに乗った小さな飾りだった。
「……これは?」
「お守りみたいなものだ」
そう答える男の声を聞きながら、ニールはじっと、そのお守りとやらを見ている。円状の小さな金属はコインだろうか。金属部分は表面に傷がついており、本来刻まれていただろう文字は上手く読み取れなかった。だが、コインを結んでいる朱色の紐は真新しい。紐の上部を持ち上げると、ニールの目の前でコインがゆらゆらと揺れる。
「僕に?」
「ああ。無事に向こうまで辿り着けるように」
ニールはこれまで生きてきた中で、神や運と言ったものはたいして信じてこなかった。きっとこの友人も似たようなものだろう。だから、この男がこういったものを後生大事に持っているのは少し意外で、きょとんとした表情で揺れるコインを見てしまう。
運や偶然など関係なく、起こることは起こる。その考えは今更変わったりはしないが、ここまでニールの命を握ってきた男が信じるものなら、自分も信じられる気がした。
コインを再び手のひらに乗せて握り締める。コインに移った男の熱が伝染するように、胸の奥からじわじわと温かなものが滲み出てきて、ニールは顔を上げて微笑んだ。
「こういうのは初めてだ。ありがとう」
「……ああ」
男は一瞬だけ複雑そうに顔を歪めたかと思うと、顔を逸らして自分の席に着く。そして、次に向かい合うときにはいつもどおりの表情に戻っていた。
ニールは握り締めたお守りをポケットにしまい、料理に手を伸ばす。ほんの少しのアルコールと美味しい料理は二人に笑顔をもたらし、日付が変わる直前まで男の部屋には笑い声が満ちていた。
回転扉を前にして、ニールは最後の荷物を確認していた。数時間前に別れを告げた自室はやけに無機質で静まり返っていたというのに、ここは大違いだ。出発する人間と見送る人間の声で溢れ返っている。
「ニール」
背後から聞き慣れた声で名前を呼ばれ、ニールは手を止めた。姿を見なくても誰なのかはわかっている。ひとつ深呼吸をして振り返ると、予想通りの男の姿があった。動きやすい服装で統一されている逆行班とは違い、男はカジュアルなスーツを着て立っている。
彼はニール達には同行しない。曰く“後始末が残ってる”のだそうだ。
「いよいよだな」
「若い君に会うのが楽しみだよ」
「顔に出さないように気を付けろよ」
「大丈夫。こう見えても優秀なんだ。知ってるだろ?」
ニールがわざとらしく口角を上げて肩をすくめてみせると、男も大袈裟に鼻で笑う。事前にそうしようと決めたわけではないのに、特別な別れにしないことを選ぶ辺り、友人と呼べるのがこの男でよかったと心から思った。
中身を確認し終えたバックパックの口を閉めて肩に背負う。すると、男の瞳がゆっくりと開かれていくのが見えた。何か間違えていただろうかと男の視線を追っていくと、パックパックの下方でゆらゆらと揺れるコインの姿があった。
「ああ……これなら人の鞄と間違えないだろ?」
揺れるコインを手のひらに乗せたニールは「前にアイヴスの鞄を持っていきそうになって怒られた」と続けたが、返事はすぐに返ってこなかった。それを不思議に思い、ニールは視線を男に戻す。そして、酷く動揺した。
「そう……そうか」
返事とも言えない言葉を呟いた男は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。ニールの胸が、喉の奥が痛む。何か余計なことを言ってしまいそうで、ニールは唇を噛みしめた。
視線がぶつかる。一瞬だけ、溢れそうになる感情が重なる。
いつもならすぐに離れてしまうが、今日は違った。自然と手が伸びる。足が前に出る。そのままほとんど同時に、お互いの背中に手を回した。
分厚い布越しでは鼓動を感じることはない。だが、そこには確かに温もりがあった。
「気を付けろよ」
「君もね」
耳元で男の声を聞きながら、顔が見えなくてよかったと、ニールは思った。今は、なんでもない顔を上手に作れないような気がした。この男もそうなのだろうか。ニールの背中に触れている手にぐっと力が入り、それからゆっくりと離れていく。
向かい合ったまま、二人は無言だった。それなのに動くこともできず、ニールと男の間だけ静まり返っているような錯覚に陥る。
「ニール!」
突如名前を呼ばれてニールの肩が跳ねた。声の方向を向くと、準備を終えたアイヴスが立っていた。ニールは頷き、バックパックを肩にかけ直す。
「それじゃあ行くよ」
「GOOD LUCK」
背を向けようとしたニールに向かって、はっきりとした声で男はそう言った。男はもう泣きそうな顔などしていなかった。その姿を見て安心も感傷もごちゃ混ぜになったニールは、何も言葉にできずにただ笑って応える。そして、アイヴスの元に駆け寄った。
友人との別れを終えたばかりのニールをアイヴスは気遣ったが、ニールには立ち止まる理由などない。逆行する数名で当面の流れを確認し、回転扉の中に入る。男をはじめ、見送る人間は黙って扉が閉まるのを見ていた。
重厚な機械音と共に扉が動き、再び視界が開ける。ガラスの向こうに視線を向けると、回転扉から出ていく自分たちの姿が見えた。その様子を尻目に、用意していた酸素マスクを手に取る。口元にしっかりと固定し、出口へ向かうために足を向けたが、すぐにぴたりと止まった。
ガラスの向こうに佇む男と目が合う。ニールの心臓が大きく跳ねた。こんな瞬間があったことに驚いて自分の姿を探すと、ちょうどアイヴスと話しているところだった。男はこちらを見たまま目を逸らすことはない。その瞳の力強さに心臓を射抜かれているような気になって、ニールの顔が歪む。
僕の知らないところでこんなことをしていたなんて、君はずるい。
そう文句を言ってやりたいのに、それはもう敵わない。ガラスの向こうの自分が男の元に戻ってくる。拳を握り、足に精一杯の力を込めて、少し前の自分に気付かれないように、残酷なくらい晴れ晴れとした陽気の外へと向かう。
日光のもとに飛び出しても、ニールの鞄を見る男の顔が、囁かれた声が、自分を射抜いた瞳が、頭から離れなかった。
*
タクシーの後部座席で揺られながら、ニールは手の中にあるコインを弄んでいる。宿泊していたホテルを出発してからずっと、これが何を意味するのか考えていた。しかし、何度考えても同じ結論に辿り着き、結局何も言わなかった男の顔を思い出すのだ。
「本当、ずるいなぁ」
ため息と共に一人ごちる。車内は自分と運転手だけなのだから、これくらいは許されるだろう。
手の中のコインは刻印がはっきりと読み取れた。輪の部分に通された紐の色は、見慣れたものとは少し違う。だから、これを渡された瞬間はピンとこなかったのだ。
ニールはしばらくコインを眺めてから、それをどうするか決めた。手のひらのコインをしっかりと握り締めて、目的地に到着したタクシーを降りる。
待ち合わせ場所は、男が泊まったホテルにしていた。ロビーを見渡し、男の姿を探す。男は昨日よりいくらかラフな格好で椅子に座っていた。ニールは一度立ち止まって気合を入れ直し、ゆったりとした動作で近付いていく。
ニールの存在に気付いた男は、荷物を手に取り立ち上がった。挨拶を済ませ、合流してすぐに出て行こうとしたところを、ニールが引き止めようと声をかける。
「手、出して」
「は?」
「いいから、手だって」
ニールの要望に不振の眼差しを隠そうともせず、男は言われるがままに手を出した。その手のひらに、ニールが握り締めていたお守りをそっと置く。男は手のひらに乗せられた飾りを見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「……これは?」
「お守りだって。GOOD LUCKってね」
「なら、お前が持っていればいいだろう」
「僕はいいんだ。僕にはもう幸運の神様がついてる」
だから君に。そう言ったニールの顔を見上げてから再び手元に視線を落とし、男は所在を求めるように手の中でもぞもぞとコインを撫でた。
「いいだろ? これからよろしくってことで」
男の顔を覗き込むようにウインクしてみせたニールを見て、男も微かに笑う。そして、仕方がないという風にポケットにそれをしまい込んだ。そこまで見届けたニールがにんまりと笑う。
「“仕事”が終わるまでちゃんと持っててくれよ?」
「捨てられる場所もないだろ?」
だから仕方がない、と男は呆れ顔で続けたが、ニールは知っている。きっと、コインの文字が擦れ、今付いている紐が使い物にならなくなるまで、後生大事に持っていてくれることを。そうでなければ困るのだ。ニールが欲しいのは、たった一度言葉を交わしただけのホテルマンがくれた飾りではなく、神など信じていなさそうな男が寄越した幸運の残滓なのだから。
二人は空港に向かうため、並んでホテルを出た。ニールはコインがしまわれた男のポケットを横目で確認し、気付かれないようにそっと、静かに笑う。そして、少しだけ立ち止まって空を見上げた。
視界いっぱいに広がる空は、どこまでも青く鮮やかで、驚くほどに眩しかった。