いつかを待っている

本編前半の主ニル。カプ感は薄め。細かい設定はふわふわしてます。

 人生において、忘れられない瞬間というものは、何度訪れるのだろうか。僕にとってのその瞬間とは、ほとんどが君に関するものだ。
 手元の資料を確認している横顔をただ眺める。張りのある肌、黒々とした髪。僕の目線に気付き、怪訝そうに視線を寄越す瞳は鋭い。まだ見慣れない君の姿に心躍らせながら、僕は必死に記憶を呼び起こしていた。
 僕が知る最も年長の君は、肌に刻まれた皺も傷痕もずっと多く、髪には白髪が混じり、瞳は力強くもどこか丸みを帯びていた――気がする。そう。気がする、なのだ。
 世界を救うのだと息まいて君に別れを告げた日、絶対に忘れたりなんかしないと思っていた。君の体温も、匂いも、僕の名を呼ぶ声も、絶対に忘れたりなどするものか、と。だが、今になって、どうして君がただ困ったように微笑んだのか、ようやく理解した。何度も時間を行き来してきた君は知っていたんだろう。人間とは、そういう風にはできていないのだということを。
 どう抗おうとしても記憶は風化してしまう。最も年長の君と話したのはもう何年前になるのだろうか。正確な年数はわからない。強く脳に刻み込んだはずなのに、今の君を見る度に、話す度に、記憶は少しずつ上書きされて、脳裏に刻んだはずの姿が朧気になっていく。
 またひとつ記憶を塗り替えながら、静かに向けられた視線に対してへらりと笑ってみせると、男の眉間の皺が深くなった。
「ニール」
「ん?」
「言いたいことがあるなら口にしてくれ」
 彼はいたって真剣にそう言った。真面目な男だ。まっすぐな男だ。たとえその声が聞き馴染んだものよりわずかに高く、澄んでいても、その意志は変わらない。君は間違いなく僕が知っている男なのだと思うと、どうしようもなく高揚する。だが、それをぐっとこらえて手に持ったカップを揺らして見せた。
「勉強熱心な男に淹れてあげようかと」
 なんの裏も含まない言葉を聞いた男は瞬間的に目を見開き、それから呆れを含んでゆっくりと細める。一瞬だけ言葉を選んだ男は、結局「頼む」と告げて資料に視線を戻した。僕は「了解」と答えて立ち上がる。
『君の頼みなら、なんだって』
 その言葉は飲み込んだ。空のカップにインスタントコーヒーの豆を乱雑に放り込み、湯が沸くのを待ちながら、君の気配を背中で感じている。彼から見えないのをいいことに、表情筋からそっと力を抜いた。胸の奥の小さな痛みと共に、頬が自然と緩む。もう会えない人への憧憬も、自分だけが知っているというむず痒さも、どちらも紛れもない本心だ。

 今思えば、初めて会ったときの君も同じような気持ちだったのだろうか。僕にとっての過去、君にとっての未来で会ったとき、君は今まで出会ってきた誰とも似つかない表情をしていた。どんなに記憶を上書きしても、あの瞬間のことは色褪せない。驚きと、困惑と、隠しきれない高揚にわずかに揺れる瞳。それでいて、しっかりと形作られた微笑みは、どこかアンバランスだった。その表情に気を取られてしまったせいで「初めまして」と言った声がどんな声音だったのか、正直あまり覚えていない。
 僕が技術を習得したときや、訓練で成績を上げたとき、時折見せるその表情の意味はついぞ教えてはくれなかった。
 肌を重ねた相手に対して薄情だと言ってみたこともあるが、彼は困ったような微笑みを崩さなかった。エージェントとして当然だ。そして個人的にも、そうしてくれてよかったと、今は思う。おかげでもう一度、君と同じ時間を生きていられる。

 突然耳に届いた音に、微かに肩が跳ねた。沸騰したことを知らせるためにケトルから鳴った音に、ぼんやりと浮遊していた意識が現実に引き戻される。熱くなったケトルを手に取り、インスタントコーヒーの豆だけが入ったカップに向けて傾ける。勢い付いたケトルの口から熱湯が溢れ出て、ぼたぼたと音を立ててカップの周りを濡らした。
「おっと」
 自分の身体にかからないよう熱湯を避ける。ケトルを持ったまま下半身だけ引いた、妙な体勢になったところで背後から声がかかった。
「……ニール?」
 たったそれだけの文字数に込められた意味を汲み取り、姿勢を正して笑顔で振り向く。
「大丈夫。何も問題ない」
 怪訝そうな表情は変わらなかったが、僕の表情が動かないことに諦めたのか、男は再度視線を手元に戻した。僕はそれを見届けてからカップへと向き直り、先程より慎重に湯を注いだ。彼に気取られないように、ひっそりと笑う。
 これは、僕が初めて見る反応だった。僕がこうして粗相をすることは珍しくないのだと、君はまだ知らないから。僕が知っている君は、僕がやることの大半はもう知っているような顔をしていたから、これは新鮮だった。僕らにはまだ積み上げられるものがあるのだと、そう思うと心が躍る。
 長い逆行の旅に出た日、あそこが僕らの終わりなのかと思ったりもしたけれど、僕らの道はまだ続いているらしい。
 豆がしっかりと溶けたことを確認し、カップを手にして席に戻る。邪魔にならないようにカップを差し出すと、礼を言って伸びてきた手が取っ手を掴んだ。代わりに僕は手を離す。その一瞬の間に触れる指先だけが、今の僕らにあるものだ。体温とも言えないほどの肌の感触。君が気にも止めないその感触を、僕は後生大事に覚えていようとしている。
 君はまだ知らないから。触れ合う肌の熱も、重みも、掠れた声にどれだけ煽られるのかも。僕がそれを知った日、それが僕の忘れられない瞬間のひとつだということも。全部、僕だけが知っている。
 置きっぱなしにしていた自分のカップを手に取り、温くなった液体を口に運ぶ。その途中で視線がぶつかった。その瞳に宿る光には、仕事の付き合い以上の感情はない。まだ信用しきってはいないといったところだろうか。構わない。こちらの奥底を探るような視線を向けられることも。
 今どう思っていようとも、近い将来、それ以上の感情を宿す日がやってくるのだから。胸を張って相棒だと言える日が、きっとそう遠くない未来に。
 それ以上のものが生まれるのはいつだろうか。僕の“初めて”が君にとっても“初めて”だったのかどうか、僕は知らない。知らなくていい。起こることは起こるのだから。 

 僕に向けられる不思議そうな表情に笑みを返す。その瞳が呆れを含み、柔らかな弧を描くようになるのはいつだろう。
 僕の人生における忘れられない瞬間は、ほとんどが君に関するものだ。君にとってはどうだった? もう会うことのない僕の友人。君は何も語ってはくれなかったけれど、きっと似たようなものだろうと確信している。
 だから、いつ君に“忘れられない瞬間”を刻めるだろうかと、僕はたくさんの甘い痛みと共にその時を待っている。

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