ラグナロク後のソーロキです。声が出なくなったロキの話。ヨトゥンなロキの描写もあります。R-18はほんのり。
違和感はあった。
普段うるさいくらいに饒舌な弟が、ろくに嫌味も言わずにふらりと姿を消す。
こちらが騒いでいるところに通りかかっても、ちらりと視線を寄越すだけで通り過ぎていく。
違和感はあったが、気にしなかったのだ。弟は元々何かに興味を持つと没頭するタイプで、城に住んでいた頃にも、調べものや魔術に集中しすぎて自室に籠ることは何度もあった。
だから今回も似たようなものだろうと思って深くは考えなかった。逃げ出す様子は無く、最低限の仕事はしていたし、悪さをするのでなければ問題ないだろう、と。
問題はそんなことではなかったというのに。
「どうしてこうなったんだ」
目の前に座らせた弟は、いかにも不機嫌だという表情で視線を逸らせた。答えるつもりはないらしい。
いや、正確には“答えられない”というべきか。
数十分前。
自室へと戻る途中、ロキとすれ違った。
ここ2、3日まともに同じ時間を過ごしていなかったと思い、一緒に食事でもどうかと声をかけたが、嫌そうな顔を見せてそのまま去っていこうとしたので慌てて掴まえた。
「いいだろう、少しくらい。何をそんなに根をつめてるんだ」
キスもまともにしてない。
廊下でなければその言葉も足したいところだったが、さすがにやめた。
腕を掴んで話しかけても返事はなく、じろりと睨み付けられただけだった。
そんなに悪いことを言っただろうか。ただ食事をしたいと、そう言っただけだ。休めと。
そんなに睨まれる理由が思い付かない。無視をするほど不機嫌になる理由もわからない。
どうしたものかと続く言葉を探していると、近くで遊んでいた子供たちの手からボールが離れ、勢いよくロキの後頭部にぶつかった。
子供の力だ。衝撃はあっただろうが、激痛とまではいかないだろう。ロキを見ても眉間の皺が深くなったくらいだ。
子供たちはパタパタと駆け寄ってきて、勢いよく頭を下げて謝罪の言葉を述べる。
それを見たロキは掴まれていない手をヒラヒラと振り、構わないという意図をそれだけで伝えてこの場を去ろうとした。
「おいロキ、ちゃんと言葉で返事くらい……」
「……っ」
引き止めようと、反射的に掴んでいた腕に力が入る。思いの外強く力が入ってしまい、ロキが息を飲むのがわかった。
「おっと、すまない」
ギッとさっき以上にきつく睨まれる。
失敗した、と思ったが後の祭りだ。
睨み続けるロキから一度視線を外し、転がっていたボールを子供たちに返す。廊下での遊びは気を付けるようにと伝え、走り出した子供たちを見送った。
小さく息を吐いて視線を戻すと、睨みつける視線は変わらずこちらを向いている。
「あー、その、悪かった。つい、な」
わざとではなかったのだと言外に伝えて様子を窺うが、じっとりとしたその視線以外の反応がない。
おかしい。
普段なら、こんなことがあろうものなら「馬鹿力」「脳筋」「これだから体力馬鹿は……」と次々と文句の言葉が飛び出るはずだ。
それなのに一言も発することなく、こちらを睨みつけるに甘んじている。
なにが弟をそうさせているのかがわからない。
睨みつけてくる視線に構わず、見つめ返す。が、待ってみても文句も暴言も出てこなかった。
やはりおかしい。
そういえば、と、ふと違和感が頭をよぎる。
先程子供たちにボールをぶつけられたときも、何も言わなかった。
「気にするな」も「何をする」も、なんの反応も示さなかった。いや、子供たちに向けてだけではない。ボールが当たった、その衝撃にさえ反応がなかった。
違和感の正体を探そうと、その表情を探る。
掴めているのだから幻影ではないだろう。
魔術か?しかし何の?
沈黙のなか観察されることに耐えられなかったのか、ロキは掴んでいる腕を無理矢理引こうとした。だがそれも阻止する。
ぐっと力を込めて逃げられないように引き寄せると、痛みに顔をしかめて再びきつく睨まれた。
だが、それだけだ。
何も言わず、ただただ睨みつけてくる弟。
違和感。何も言わない弟。言葉――声?
嫌な予感がした。
違和感の正体を確かめるため、弟が激怒することを覚悟で掴んでいた腕をしっかりと握り直す。
見つめあっていた表情に疑問符が浮かんだところで、手元からバチッという音がした。
「……っ!!」
なんの予告もなしに電流を流されたロキは、反射的に手を引こうとして失敗し、バランスを崩してよろけた。
なんと踏みとどまり、次いで怒りのままに怒鳴り付けるために閉じられていた口が大きく開けられたが、そこはパクパクと形を変えるだけでなんの音も出すことはない。
思わず顔をしかめてしまったのだろう。
こちらの変化に気付いた弟は、自分の失態に再び口をつぐみ、この場から離れるため体の向きを変える。
だがそんなことを許すはずもなく、掴んだ腕を引き寄せた。
「ちょっと来い」
話したくないという意思表示を無視して、自室に向かって足を進める。
ロキは全く納得していないと表情で訴えながら、しぶしぶ後をついてきた。
弟が逃げ出さないように気を付けながら自室へと辿り着き、椅子へと座らせてから向かい合うように自分も腰をおろした。
「お前、声が出ないのか」
そう問いかけるが反応なし。
先程の様子を見る限り間違ってはいないだろう。現に違うと言わないことがその証明になっている。
隠しても無駄だろうに、素直に話すつもりはないらしい。
「黙っていても何も進まないぞ、ロキ。お前が答えないなら、俺もここを動かない」
そう宣言して深く座り込むと、本気でやるつもりだと観念したのか、ため息を吐いて小さく頷いた。YES。
やはり、という思いと、隠されていたという事実になんとも言えない複雑な想いがよぎる。
共に行動するようになっても、この弟は弱さを見せようとはしてくれない。
その素直になれない姿は愛しくもあると同時に、越えられない壁があるようでどこか悲しくもあった。
「どうしてこうなったんだ」
「……」
「ロキ」
「……」
「……ロキ」
話したがらない弟に、こちらは聞くまで動かないぞと示しつつ答えを促すと、長い沈黙のあと、ようやく弟は動き出した。
舌打ちも聞こえたが、まぁ、それはいいことにしておこう。
椅子から立ち上がったロキは、適当な紙を取り出すとさらさらと文字を綴っていった。内容はこうだ。
“3日前、目が覚めたらヨトゥンの姿になっていた。
おそらくオーディンとアスガルドの力を失って魔術が解けたのだろう。
だから自分の力でヨトゥンの姿を封印しようとしたのだが、上手くいかなかったらしい。声まで封印されてしまった。
自分の力だけでこの姿を保つのは初めてのことで勝手がわからない”
ぶすくれた顔で差し出された紙を読んで納得した。
「魔術の失敗なんて珍し……っいて!」
つい漏れてしまった感想に憤慨したロキが脛を蹴りあげてきて、痛みが走った。
脛をさすりながら見上げると、腕組みをしてきつく睨み付けてくる視線とぶつかった。
こちらが思いの外痛がっていることに満足したようで、少しばかり口元が弛んでいる。痛みという代償はあったものの、機嫌は浮上したようで一先ず胸を撫で下ろした。
「それで、いつ治るんだ?」
そう問いかけると、ニヤついていた顔がぴたりと止まる。そして逡巡した後、首を横に振った。
“わからない”
さっき渡された紙に新たに文字が追加された。
「……わからない?」
こくりと一つ、頷く。
自分の力だけで姿を変えるのは初めての試みだと言っていた。普段使っている変身術とはきっと違うのだろうが、自身が魔術には明るくないため詳しいことはわからない。
「魔術に詳しい者を集めよう。何かわかる者がいるかもしれん」
文字が並んだ紙に目を落として提案すると、先程とは逆にロキに腕を掴まれた。
ぎり、と音がしそうなほどきつく握りしめられる。
睨むのとは違う、鋭い視線に射抜かれていた。
“い う な”
薄い唇がゆっくりと時間を形作られる。
音を発さないそこが、明確な意思を持って一つずつ形を変えていく。
“い う な。だ れ に も”
いつ戻るかもわからないものを隠し通そうというのか。
誰とも関わらずに過ごすなど、そんなことは不可能だ。
そう思ったが、その翡翠の瞳の揺らぎに勝てず、ただ頷くことしか出来なかった。
それからは出来るだけ今まで通りに生活できるように意識して過ごした。
ロキには紙とペンを持ち歩くようにしてもらい、見付からないように筆談で話し、他の者とは直接話さなくていいように仲介するようにした。
不自然な場面もあった気がするが特段問題にはならなかったので、とりあえずは上手くいっていると言っていいだろう。
仕事は滞りなく進んだし、違和感を感じた者には、ロキは調子が悪いと言っておけば収まった。ヘイムダルにはとうに気付かれているかもしれないが、口を出してこないのだから問題ない。
なんとかなっている。が、なんとかなっているだけだ。
気付かれないようにと思うと気苦労は絶えないし、それに何より、弟のあの口うるささが恋しくなってしまっている。
あればあるでうるさいのに、無いと寂しい、なんて、我ながらどうかしていると思うのだが、事実なのだから仕方がない。
人気のない部屋の暗がりの中、紙に文字を並べていくロキを眺めながら、そんなことを考えていた。
もう声を出さないことに慣れてきたのか、その口は動く気配はない。
声が無いということが普通になっていくのが嫌だと、そう思った。
視線を落とし、手を動かしているロキの首に手を添える。
するりと絡みつく髪で遊んでいると、文章の途中で手を止めて“なんだ”と言わんばかりに勢いよく顔が上がった。
視線がぶつかる。
ロキの顔から一瞬表情が消えて、ゆらりと瞳が揺らいだ気がした。
そこに何を見たのだろうか。自分の表情のことはよくわからない。
指を滑らせて、耳の下から喉仏までゆっくりと凹凸をなぞっていく。
こくり、とそこが小さく上下したのを合図に、首の後ろを押さえつけるように手を回し、唇に噛みついた。
驚いて開いた隙間に舌をねじ込み、全て奪うかのように吸い上げる。
微かな抵抗を感じたが無視して何度も口付けを繰り返し、濡れた音が響くようになる頃にはほとんど抵抗はなくなっていた。
伸ばされた舌を甘噛みしてやると、抱き締めた身体がふるりと震え、吐息が漏れる。
素直に反応する身体が愛しい。
なのに、物悲しかった。
舌を噛むと吐息と共に小さく声を漏らすのはロキの癖だった。それが無い。
この腕の中にいるのは間違いなくロキなのに、何かが足りない。あの声が聞きたい。
「ロキ……」
唇を離し、見つめ合いながら、再び喉元をなぞる。
そこにあるはずのものを求めて。
すると意図に気付いたのか、それまで蕩けた表情をしていたのに急に厳しい表情へと変えて、ぐいっと体を押しやって出ていってしまった。
こちらを振り向きもせずに。
急に温もりを失った両腕はどこにもいけず、宙をさ迷った。
胸の奥にじりじりとしたものを抱えたまま、休憩室になっている部屋に入ると、ヴァルキリーとバナーが並んで座っていた。
一先ず忘れようと適当に座って伸びをする。
息を吐いたところでヴァルキリーがこちらを見ていることに気が付いた。
「なんだ?」
「なんだって……弟のところに行ってきたんじゃないの?」
「ああ……そうだった」
忘れていた。補給先の件をロキに確認するために会いに行ったんだった。
肝心のメモを貰うのを忘れた。
感情に囚われて仕事もままならないなんて、情けない。
「で、なんだって?」
「いや、聞けなかった」
「はぁ?」
「話せる状況じゃなくてな」
「へぇー」
じっとりと見てくる目は何もかも見透かしているようで、どうにも落ち着かない。
ヴァルキリー程ではないが、バナーもこちらの様子を窺っているのがわかる。
沈黙。
いたたまれず天を仰ぐと、先に口を開いたのはバナーだった。
「何があったんだい?」
「いや、別になにも」
「あのさぁ」
なんとか誤魔化さねばと知恵を絞っていると、鋭い声に遮られた。
ヴァルキリーは真っ直ぐにこちらを見据えている。
「あんたが勝手に気を使ってるのか、あいつが頼んだのか知らないけど」
ひとつ、呼吸をする。
ああ、もう逃げることは出来ないだろうという予感がした。
「隠されてちゃ、こっちも何も出来ない」
進展もないみたいだし、と付け加えて、更に深く覗き込まれる。
どう答えるべきか、言い淀んでいると、横からおずおずとバナーが言葉を続けた。
「二人の行動がおかしいとは思ってたんだ。でも君たちは知られたくないみたいだったから、しばらくは様子を見ようって言ってたんだけど、変化は無いみたいだし……その、君は色々きつそうだったから」
「気付かないほうがおかしいでしょ」
二人から断言されて、思わず苦笑してしまった。
当然だ。気付かれないだなんて、何を自惚れていたのか。
ましてや心配までかけてしまっているなんて。
気を使わせていることを申し訳ないと思いつつ、ロキがいない場を選んでくれた優しさに感謝する。
「すまない。ちゃんと伝えるべきだったな」
「別に。ロキのことだから、知れ渡ったなんて気付いて暴れられてもめんどくさいし」
ああ、確かにそうかもしれない。黙っていろと言ったのにと、また刺されるかも。
その画が容易に想像できて、小さく笑いが漏れた。
二人もいくらが空気をやわらげ、小さく息を吐く。
「で?どうなってんの?」
「ああ、そうだな……」
順を追って説明していく。
ヨトゥンの姿、父の魔術、アスガルドの崩壊と魔術の綻び、失われた声。
最後まで話し終えると、二人そろって大きなため息を吐いた。
ヴァルキリーの顔にはいかにも厄介だと書いてある。
「なるほどね」
テーブルに肘をつき、再び大きなため息を一つ。
俺もヴァルキリーも魔術に関しては専門外だ。そもそもロキが高位の魔術師なのだから、そう簡単に解決するとも思ってはいなかったが。
一方バナーは神妙な面持ちでテーブルの上で組んだ手を見つめていた。
何か悩む部分でもあっただろうか?
「バナー、何か思い当たることでもあったのか?」
「ああ、いや、僕も魔法のことは詳しくないし、どうしたらいいのかは思いつかないんだけど、ちょっと違うことを考えちゃって……ごめん」
焦ったのか、バナーは早口で一気に喋り終える。
そして解決策に行きつかなかったことに申し訳なさそうに眉を下げた。
「いや、構わない。気になることがあったら言ってくれ」
「あー、でもその、本当に関係ない話だから」
「それはそれで気になるんだけど」
二人から当時に問われて、バナーは眉を下げて視線をうろうろとさ迷わせる。
うーん、と唸り声をあげながらしばらく悩み、本当に関係ないからね?と前置きしてようやく重い口を開いた。
「人魚姫みたいだな、って思っただけなんだ」
気まずそうにぽつりと投げ出された言葉に、ヴァルキリーと二人で顔を見合わせ、首を傾げる。
「なんだそれは」
再び二人からの視線を浴びたバナーは、やっぱり知らないよね、と息を吐いて話を続けた。
「地球のおとぎ話だよ。人魚っていう、下半身が魚の種族がいて海で暮らしてるんだけど、人魚姫はある日沈没しかけた船から王子を助けて、一目惚れしてしまう。そして王子様に会いに行くために魔女と取引をして人間の足を貰うんだ。でもその代わりに人魚姫は声を失ってしまう。人魚姫と王子は地上で再会するんだけど、王子は彼女が自分を助けてくれた相手だとは気付かない。そして違う相手と結ばれる。恋に破れた人魚姫は海の泡になってしまうんだ」
「うわ、王子サイアク」
「かなり端折った気もするけど、大体こんな話」
ヴァルキリーは随分気分を損ねたらしい。
だらしなく体を椅子に投げ出している。
「人間の姿と引き換えに声を、ってところで連想しちゃって」
「ああ、なるほど」
本来の姿と理想の姿。
声を失ってでも叶えたい望みがあった人魚姫。では、あいつはどうなのだろう。
「まあ、グダグダ言っても変わらないか」
沈みそうになった思考が引き上げられた。
確かに本人抜きでここで話していても何も変わらないだろう。それには同意見だと頷きで答える。
それを確認して話しを切り上げようとしたヴァルキリーをバナーの声が遮った。
「ねえ、僕は魔法のことは詳しくないからなんとも言えないんだけど」
再度バナーを見て首を傾げる。
「オーディンがかけてた魔法はともかく、ロキがかけなおした魔法はロキ自身でも解けないものなのかい?」
ぴたりと場の空気が止まった。
盲点だった。
普通の変身術なら自分で操作できるだろう。今回も勝手が違うとはいえロキ自身が使った力だ。根源は同じはず。
なぜそこに思い至らなかったのか。
いや、問題はそこではない。それにロキが気付かないはずがないのだ。ならば意図的にそれをしていないということだ。
声を失ってでも叶えたかった――望み。
本人抜きで話しても進展しないという点は同じだったので、あの場はそのまま解散となった。
まもなく消灯。全ての仕事を終え、自室でくつろげる貴重な時間だ。
ロキと同室になって久しいが、ここしばらくの静かな部屋にはどうにも慣れない。
どこからか持ち込んだらしい本のページをめくる音だけが聞こえる。
今までなら心地よさがあったその音も、今はどこか不安にさせる音になっていた。
「ロキ、まだ寝ないのか」
椅子に座ったまま声をかけると、ひらひらと手を振って返事が返ってくる。
おそらく“もう少し”だろう。
この、ロキの声だけがないという環境は落ち着かない。
返事があるということが、どれだけ安心感を与えてくれていたのかを今更ながら感じていた。
「ロキ」
手が揺れる。
「ロキ」
もう一度。
「ロキ」
今度は乱暴に。
「ロキ」
うるさいと言わんばかりに、今度は手は上がらなかった。
立ち上がってロキの目の前まで足を進める。
視界が影に覆われて、ようやくロキは顔をあげた。
「ロキ」
そして今度は反応を待たずに、身を屈めて口付けた。
ロキの顔を両手で支えて角度を合わせる。
苦しい姿勢で上を向かされているロキは抗議の意味を込めて腕を叩いてきたが、無視して口付けを続けた。
啄むように何度も何度も、角度を、場所を変えながら口付けを繰り返す。
ひとしきり唇を堪能し、ようやく二人の間に隙間が生まれる。
吐息が重なる距離で見つめ合ったまま、首、耳の裏、うなじと順番に撫でていく。
「お前を感じさせてくれ」
お前はここにいるのだと。ここにいるのは間違いなくお前なのだと。
どう受け取ったのか、少しばかり困った顔で、ロキはゆっくりと腕を伸ばして首へと絡ませてきた。
声を失くしたその唇からはなんの言葉も読み取れなかった。
「…っ、…、っ…!」
仰向けになった身体中に口付けを落としながらナカをえぐると、布を取り払われた身体がシーツの上ではねた。
指を動かす度にぐちぐちといやらしく音を立て、柔らかくなった肉が絡み付いてくる。
乱れた呼吸が小刻みにこぼれて、ロキが感じていることがわかる。
足の付け根に口付けて吸い上げ、赤い痕を残す。目の前で性器が勃ちあがり、とろりと雫を零していた。
それには直接触れず、ナカのしこりを押してやる。
「――っ」
一際大きく体が跳ねて、はっはっ、と吐息だけが部屋に響いた。
そこにロキの声が無い。
快感を得るとかすれていく声が、そこには無い。どれだけ昂っていても、欲しいものだけが無かった。
足りない。触れても触れても足りない。
ロキの声が聞きたい。
ふるふると震える膝を撫でて、ほぐしていた指を抜き取る。
内臓を埋めていた感触を急に失くしたロキは、疑問を顔に浮かべてこちらの様子を窺っている。
挿入する気配もないことに困惑し、潤んだ瞳で続きを求めているように見えた。
その訴えを無視して、横たわるロキの顔の横に手を置き覆いかぶさる。
普段よりいくらか赤みを帯びている頬を撫でると、ロキはくすぐったそうに身を捩った。
「なあロキ、お前本当は自分でかけた封印は解けるんだろう?」
そう問うとぴたり、とロキの動きが止まった。
視線がぶつかる。だが、その瞳の奥にあるものが見えない。
「なあ、ロキ」
すい、と視線を逸らされた。特に焦った様子が無いところを見ると、いつか言われると思っていたのかもしれない。
「封印を解いてくれないか」
ベッドに散った黒髪を撫でて返事を待つ。
逸らされていた視線がゆっくりと戻ってきて、再びぶつかる。
こういう時の弟の瞳はひどく雄弁だ。
揺らぎが全てそこに映る。
困惑と、怯えと、否定と、疑いと、いろんなものがない交ぜになって、ゆらゆらと揺れているようだ。
「お前の声が聴きたい」
そっと、できる限り柔らかくその言葉を囁いた。
だがロキは首を横に振る。
視線は繋げたまま、顔を近付けていく。
「頼む」
ウェーブのかかった髪を持ち上げて、ちゅ、と音を立てて口付けた。
緑の瞳に少しばかり動揺が見えたが、首は横に振られる。
「声よりも大事なことか?」
そう尋ねて額を撫でながら返事を促すと、眉根を寄せ、暫し悩んでから口を開いた。
唇が音もなく言葉を紡いていく。
“みにくい”
たった一言、それだけ言うと、再び口を噤んでしまった。
伏せられた目はこちらを見ようとはしない。
みにくい。醜い。
一瞬、その言葉が何を指しているのかわからなかったが、すぐにヨトゥンの姿のことだと思い至った。
ああ、それでか。途端に納得がいった。
敵だった巨人の姿になるのだから、気分のいいものではないだろう。
己の姿だからこそ醜いと評してしまうのもわからなくはない。ロキは声を失ってでもアスガルドの民でいることを望んだのか。
だが、それでも。
「それでも、お前の声が聞けないことの方が、俺はつらい」
伏せていた瞳が驚きに見開かれる。
そんなに驚かれるようなことを言ったつもりはないのだが、どうも変なところで信用がない。
苦笑を浮かべ、自分が起き上がるのと一緒に、横たわっていた弟の手を引いて上半身を起こす。
「っ?」
向かい合ってしっかりとその瞳を覗き込む。
両頬を支え、顔を逸らされることがないように固定して、微笑んだ。
「ロキ、俺は間違えない」
「……?」
「蛇でも、馬でも――ヨトゥンでも。どんな姿でもお前はお前だ。俺はお前を見失ったりしない」
そう、あの愚かなどこかの王子のような間違いは犯さない。
何度も腕をすり抜けていったこの手が戻ってきたときに誓ったのだ。二度と離してなるものか、と。
泡になって消えてしまうなど、そんな思いはもうご免だ。
見開かれた緑の瞳に透明の膜が張っていく。
それがこぼれてしまう前に、啄むだけの口付けを交わした。
「だから、安心しろ」
そう告げてやると、ロキが目を閉じ、肌の色がゆっくりと変化していく。
青い皮膚と、幾重にも重なる紋様。
全身が変化し終わる頃に開かれた瞳は、鮮やかな赤。
頬に触れていた手は、じわじわと温もりを奪われていく。
それにロキも気が付いたのか、真紅の瞳が不安に揺れた。
触れている個所を離そうと身じろいだがそれを遮り、唇を重ねる。
ひんやりとした唇は心地よく、普段と変わらぬ弾力を保っていた。
「なんだ。美しいじゃないか」
そう囁くと、それまで不安の色を湛えていた瞳がまん丸に開かれた。
きょとん、と驚きに満ちた表情はどこか幼子のようで、こんな弟の顔を見たのはいつ以来だったかと、破顔せずにはいられない。
ロキもつられて口角を上げる。
「そんなことを言うのはあんたくらいだ、ソー」
皮肉めいた表情とは裏腹に、久しぶりに聞いた弟の声はひどく柔らかく響いた。
ああ、そうだ。これを求めていた。
足りなかったものが満たされていく感覚に、自然と笑みが深まる。
「美しいものには美しいと伝える主義でな」
「馬鹿だな」
「構わん」
どちらからともなく唇を合わせ、舌を潜り込ませた。
ぬるぬると粘膜を擦り合わせ、逃げようとする舌を引きずり出して噛みついていく。
体温の低い肉が口の中で震えた。
「ん、ン……ふっ」
吸い上げる度に声が漏れることに嬉しくなって、何度も何度も繰り返す。
ようやく解放するころには、欲情の色が戻ってきた瞳がそこにあった。
下半身に熱が集まる。
熱い息を吐き、同じ色を宿しているだろう瞳で見つめると、苦笑を浮かべた弟の長い腕が首へと伸びてきた。
「本当に、こんな愚か者は他にいないよ、兄上」
言葉に似合わない軽快さを持って発された声が耳をくすぐる。
冷たい皮膚が絡みついて、鮮やかな赤が視界いっぱいに広がった。
目が覚めて真っ先に視界に入ってきたのは、美しい青。
結局お互いの欲を発散させた後、扉に鍵をかけてそのまま寝てしまった。
まだ起床時間には早い。ゆっくりしても許されるだろう。
唯一アスガーディアンの姿のころと変わらない黒髪を手に取り、くるくるといじる。
「ん……」
無意識に漏れたロキの声に、つい笑みが浮かんでしまう。
これから封印しなおすのは大変かもしれない。
すぐに成功するかもわからず、時間がかかるならロキは部屋に籠りきりになるだろう。
だが、本当はそんなことはどうでもいいのだ。
鱗があろうと、氷を纏っていようと、もし身体の大きさが変わったとしても。
ロキがロキでいることが重要なのだと、あとどれだけ告げれば伝わるだろうか。
さて、どうしてやろうかと企んで、艶やかな黒髪に口付けた。