さよなら、エッシャー

六郎の誕生日の話。本編後、初の誕生日で、勘当されて初めての誕生日で、中堂と二人で過ごす初めての誕生日でもある。孤独と孤立とぬくもり。なんとなく「1人と1人で365.2425日」から続いてます。読んでなくてもたぶん大丈夫。

 木の葉の色が変わり、落ちた葉の乾いた音がそこらじゅうから聞こえるようになり、そろそろ防寒着も本格的なものに変えなくちゃな……なんて考え始めていた十一月初頭。UDIからの帰宅途中、並んで歩いている中堂さんに「どうするか決めたのか?」と尋ねられて、意味もわからず隣に立つ人物の顔を見上げた。その顔はきっと怪訝そうだったんだろう。俺の顔を見た中堂さんの顔も怪訝そうに歪む。
「考えとけって言ったろう」
「えーと……何を……」
 そうっと探りを入れてみると、中堂さんの眉間に刻まれたしわがますます深くなる。
「誕生日」
 それだけ答えた中堂さんの声には多分に呆れが含まれていた。自分の誕生日のことなど頭からすっぽりと抜けていた俺は、おそらく彼が想定しているとおりの間抜けさで「あ」とだけ呟いた。
 たんじょうび――誕生日。一年に一度やってくる、生まれた日。
 二か月前の彼の誕生日は張り切って――デパ地下の総菜ではあったが――評判のいい店を事前に調べて、プレゼントだってちゃんと用意したのに。彼はお返しとばかりに「どうしたいか考えておけ」と言ってくれていたのに。先月から夜勤が加わったことで変わった生活リズムに振り回されて、あっという間に時間が過ぎてしまっていた。
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
 そう言って立ち止まり、慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。
 慌てて操作して開いたアプリのカレンダーの中から、十一月十四日の文字を探す。四角いマスが並ぶ画面の、ちょうど中心のあたり。ひと月のど真ん中。それは毎年のことだが、なんと、今年は週のど真ん中でもあった。
 水曜日。遊ぶにしても飲むにしても微妙な、一週間における折り返し地点。
「あー……」
「どうした」
「……十四日、水曜すね」
「今ごろ気付いたのか」
「たった今……」
「お前な……」
 はは、と半笑いで答えると、隣からまた呆れた声がした。だが、律儀に立ち止まって待ってくれているあたり、怒ってはいない気がする。もしかしたら困っているのかもしれない。確信は持てなかったけれど、どちらにしても、中堂さんにこんな声を出させた原因が自分にあることには変わりない。
 申し訳なさを感じて声のする方をちらりと見上げると、中堂さんと目が合った。まなざしから察するに、やはり怒ってはいないようだ。困っているという感じでもない。遠くに視線を動かすその姿は、どちらかというと何か迷っているかのようだった。
 俺は黙って中堂さんの言葉を待った。
 だって、言いにくい。忘れてました……なんてことは、非常に言いにくい。この様子ならきっと、俺が誕生日のリクエストか何かを言い出すのをぎりぎりまで待ってくれていたんだろう。だとしたら気まずいし、何より申し訳ない。
 しかし、このとき俺は、もっと申し訳ないことを伝えなければならなかった。ぎゅっと奥歯を噛み締めて、ひとつ大きく息を吸う。
「あの、大変言いにくいんですが」
「なんだ」
「……怒りません?」
「そんなもん聞かなきゃわからん。いいから言ってみろ」
「あー……それがですね……」
「ああ」
「火曜の夜から水曜の朝まで夜勤でですね、そのまま朝から講義も、ありまして……なので、十四日にちゃんとした時間が作れるか、どうか……」
 ごにょごにょと言葉を濁し、自分の計画性のなさに少しばかり凹んでいると、中堂さんはあっさりと「そんなことか」と言い放った。
 それがあまりにも気のなさそうな声に聞こえて、思わず目をまるくする。すると、さらに続けて中堂さんはこう言った。
「講義が終わったら、そのままうちに来たらいい」
 それもまた、当然だと言わんばかりのあっさりとした物言いだった。さすがに理解が追い付かず、首を傾げて中堂さんの顔を覗き込む。
「あの、中堂さん? 俺の話、聞いてました?」
「当たり前だ。だから答えてる」
「俺、夜勤なんすよ」
「ああ」
「そのまま講義出るんで、午後はたぶんフラフラです」
「うちで寝たらいいだろ」
「え」
 言葉に詰まった俺を見下ろして、中堂さんが首を傾げる。
「何か問題でもあったか」
「いや、家主がいない家に入って寝るのはさすがに……」
「休みだ」
「え?」
「有休を取った。だから俺は一日休みだ」
 そこまで聞いた瞬間、その場に崩れ落ちそうになった。通りすがりの人の目がなかったら、ここがよく通る道じゃなかったら、間違いなく両手を地面について膝から崩れ落ちていただろう。でも、ここは往来のある夕方の公道だったので、呆然と中堂さんの顔を見上げるだけで済み、俺の名誉は守られた。
「有休を? 取ったんですか? 俺の誕生日だから……?」
「ほかに理由があるか?」
「ない……です、ね……」
 何をおかしなことを、という視線を向けられて、本当に自分がおかしいのではないかと思い込みそうになったが、おかしいのは一言の相談もなく、俺のために丸一日確保したこのひとの方だと思う。週のど真ん中なんて、忘れていなかったとしても講義の予定を変えられはしないのに。
「俺が『一日実習です!』とか言ったらどうするつもりだったんですか」
「別にどうもしない。俺が勝手にやってることだからな。それに、一人には慣れてる」
 これもまた当たり前のように中堂さんは告げた。ぎゅうっと胸が締め付けられて、思わず視線を逸らす。
 このひとは、ときどきこういうことをする。俺を優先して自分のことは後回しみたいな、そういうことを。当然それはいいことばかりではなくて、俺が拒絶することもあるし、簡単にはわかりあえずに喧嘩になりかけることもある。そういうとき中堂さんはまず驚いて、それから困ったみたいに気まずそうに目を逸らす。そうして時間をかけて自分の中で何かをぐっと飲み込んで、ただ『勝手をして悪かった』と言うのだ。
 普段はほかに類を見ないくらい尊大なのに、その瞬間だけは子どものように思えてしまって、俺はいつも心臓を掴まれる。今日だってそうだ。中堂さんは俺が提案を飲まないこと自体に怒ったり、不機嫌になったりはしない。自分がやりたいからやってると、それしか言わない。
「あの」
 そう言って再び足を動かす。中堂さんも同じ速度で歩き出し、黙って続きを待っている。
「少し、時間をください。ちゃんと考えるんで」
「ああ」
「……いいんですか? せっかく休みまで取ったのに」
「お前の誕生日なんだ。好きにしたらいい」
「……はい」
 ほら、また胸が痛む。ぎゅうぎゅうと、疼くみたいに、体の中心が締め付けられている。
 ああ、手を握りたいな。
 ふと、そんなことを思った。

 そのまま日常の会話に戻り、駅前で別れて帰宅して、荷物を床に放り出してベッドにダイブした。上着も脱がずに掛け布団の上に倒れ込んで、大きく長い息を吐く。
 ――俺は、どうしたいんだろう。
 誕生日……子どもの頃は家族から祝ってもらった記憶がある。無駄に全員正装で、子どもには味も理解できないような店に食事に行っていた。その頃は誕生日が来るのが待ち遠しくて仕方なかった気がする。
 プレゼントはなんだろう。ケーキはどんなに大きくてキラキラしているんだろう。
 ワクワクした。笑顔の家族に囲まれて、この日だけは自分が誇らしかった。
 でも、それも子どもの頃だけの話だ。勉強に追いつけなくなって、理想の息子ではなくなって、それでも毎年祝ってくれてはいたが、嫌味と大差ない小言もセットでついてくるようになったのはいつからだったか。この数年なんて、誕生日を待ち遠しく思ったこともなかった。何者にもなれず、どこに向かえばいいのかもわからず、無為に時間が過ぎているだけだと思い知らされる日になっていた。ただ惰性のように生きて、歳だけ重ねて、この先もくだらない大人のふりをしていくのだと、そう思っていた。
「……何がしたいんだろう、中堂さんと」
 ぽつり。口をついて出た。
 たったひとりの静かな部屋では反響すらすることなく、声はどこへともなく消えていく。それは一見無意味な行為でしかなかったが、口にしたことで自分の中にある気持ちが形を得た気がした。
 夜勤と講義のあと、まともに会えるとしたら夜だろう。普通なら少しいいレストランでディナーとか、バーに行く。今の時期なら夜景がきれいな場所もあるはずだ。デートでは定番の夜景を中堂さんが見たいのかはわからないけど。
 中堂さんと二人でレストランや夜景の見えるバーに行くところを想像してみる。
 きっと料理は美味いんだろう。子どもの頃とは違って酒も嗜めるし、それなりに食材の味の違いだってわかる。楽しめるに違いない。でも……でも。俺にとっての〝特別〟は、そんなところにあるんだろうか?
 ――決めた。善は急げだ。
 がばっと勢いよく起き上がって、ポケットから取り出したスマートフォンで中堂さんの番号を呼び出す。
 数回のコール音が途切れて、さっきまで聞いていた声が耳元で囁いた。
『どうした?』
「あの、さっきの話なんすけど」
『もう決まったのか』
「はい。まず中堂さんの提案に甘えさせてください。大学からまっすぐそっちに行って、仮眠を取ります」
『それは構わないが、お前はどうしたい?』
「それなんですけど、その、いつもどおりがいいです」
『……? どういう意味だ?』
「なんか特別なとこに行ったりとか、したりとか、そういうのじゃなくて、なんつうか……〝日常〟が、ほしいです」
『……それが久部のやりたいことか』
「はい」
『わかった』
 中堂さんがあっさりとそれだけ答えたから、思わず口から出た言葉はわずかに揺らいでしまった。
「なんで、とか、聞かないんですか」
『お前が決めたんだろう? ならいい』
 中堂さんの声はぶっきらぼうで、それなのにやわらかい。
 まただ。また胸が苦しい。今日だけで何度目か、もう数えきれない。
「中堂さん」
『なんだ』
「すきです」
『……』
 返事はなかった。でも、スマートフォンを握ったまま照れた表情で固まっている姿が想像できて、俺は電話の向こうに聞こえてしまわないようにこっそりと笑う。
「それじゃあ、また、UDIで」
『……ああ』
 音声が途切れ、画面が切り替わったスマートフォンをベッドの上に放り投げて、もう一度からだを横たえる。
「あっつ……」
 頭全体に熱が集中しているみたいに顔が火照って仕方ない。少しでも熱を逃がしたくて、ひんやりと冷え切った枕を引き寄せて、両腕できつく抱きしめて顔をうずめた。

 * * *

 予定どおり、誕生日はバイト先の病院で迎えた。
 日付が変わったのは、ちょうど仮眠を取っている最中だった。深夜一時ごろに急患で叩き起こされることになって、大したことのできない俺は指示されるままに駆け回った。結局、慌ただしいまま朝を迎え、まともにスマートフォンを開けたのは病院を出たあとだ。
 大学に向かうために乗り込んだ電車の出入口付近に突っ立って、あくびをこらえながらスマートフォンを操作する。
 メッセージはいくつか届いていた。大半は友人からで、祝福の言葉と一緒に『今度飲みに行こう』――とかなんとか。実現する気があるのかもわからないそれらのメッセージに簡単に返信し終えて、最後に家族からのメッセージを開いた。
 送り主は母親と次兄。父親と長兄からはメールのひとつも届いていなかった。わずかに視線を落とし、ゆっくりと機械的な文字を読む。母親のメールも兄からのメッセージも、内容は似たようなものだった。

 誕生日おめでとう――これはほとんど定型文のようなものだ。
 プレゼントは送っておく――兄からは何か現物が、母親からは金が直接振り込まれるんだろう。
 勉強をがんばれ――母親のメールには一応『体に気を付けて』も追記してあった。
 
 どれだけ眺めても二つのメッセージの中からは『会おう』も『帰ってこい』も見つけられなかった。
「わかってましたけどね」
 ぼそりと呟いた声は口元を覆うマフラーの中に消えた。
 友人たちへの返信と同じように適当な文章を打ち込んで送信し、役目を終えたスマートフォンをポケットにしまう。すると、ちょうどよくドアが開いて、目的である大学の最寄駅に着いて電車を降りた。人ごみに紛れながら朝のひんやりとした空気を吸う。
「さむ……」
 小さく身震いして、上着のポケットに両手を突っ込んだ。ポケットの中のスマートフォンカバーに手が触れて、さらに指先が冷える。
 勉強を頑張る。後れを取っている分、人一倍努力して医師免許を取る。そう決めた。でもそれは、あのひとたちが望んだ存在になるためじゃない。
「今日もがんばりますか」
 息を吸って、大きく足を踏み出す。見慣れたはずの駅のホームがいつもより広く見えた。

 *

 昼休憩はほとんど仮眠に費やして、どうにかこうにか眠気を誤魔化して午後の講義を終えて中堂さんの家まで辿り着き、見慣れた部屋の前に立ってインターホンを押した。
 呼び出し音が一回。
 待つ。日の入らない、寒々しいアパートの廊下で、シンプルなドアをじっと見つめて、ただ、待つ。
 やがてインターホンから聞き慣れた声がして、ガチャ、と鍵が開く音がした。

 ドアを開けると、そこには何もなかった。
 周囲には人がまばらに集まっていて、前方から後方まであちらこちらを行ったり来たりしている。天井はない。壁もない。空と呼ぶべき空もない。あるのは白くてだだっ広い、ちょっとしたホールくらいの大きさはあるのではないかという正方形の床と、遥か下へと続く目の前の階段だけ。開けたはずのドアもいつの間にか消えていた。
 変だ。突然立たされた場所で棒立ちのまま目線だけで周囲を窺う。だから、自分の後方は見ていない。それなのに、背後の、遠く離れた場所に棺があることだけはわかっていた。
 俺も含めた全員が身に着けているのが喪服だから、これは誰かの葬式なんだろう。けど、誰のものなのかわからない。周囲を見回してみても知っているひともいない。それなのに、焦燥感だけがある。

 ――行かないと。

 どこへ? わからない。でもここじゃない。行かないと。探さないと。
 葬式の空気を壊してしまわないように、そっと、音を立てないよう慎重に階段を下りる。真っ白い階段。全体的に灰色がかった色の世界。なんだっけ……こういう風景を知っている気がする。
 風景を観察しながらしばらく考えて、ああ、とひとつの絵画を思い出した。エッシャーだ。無限に続く階段で繋がった、迷路のような建物の絵。その中に入り込んでしまったみたいな、そんな印象を受ける世界だ。
 ひとり納得して、どこに続いているのかもわからない階段を下り続ける。人は絶え間なく行き来していて、それぞれ好き勝手に話しているようだった。ただ、身に着けているのが喪服である、という点だけが共通している。
 この世界の奇妙さに戸惑いながらも先に進む。
 しばらく階段を下りていると、途中で踊り場のような場所に出た。いや、踊り場というには広すぎるだろうか。柵のないテラスといった方が近いかもしれない。だが、柵はないのにところどころに壁があった。天井は相変わらず存在せず、黒い壁がやけに目立つ。階段の高所側に存在するその黒い壁は、きっちりと正確な角度で折れ曲がって、曲がりくねりながら奥へと続いている。それぞれの壁には額に入っている絵が点々と飾ってあって妙な趣きがあった。
 テラスの中心には小型の丸テーブルがあり、壁とは反対側の、テラスの端には長方形のベンチがあって、まるで小さなギャラリーだ。そのせいか、立ち寄っている人々の雰囲気も先ほどより明るい。
 ここにいるひとなら何か知っているかもしれない。そう期待して、ベンチにひとりで腰掛けている女性に近付いた。肩に触れるか触れないかくらいの長さのウェーブがかった髪の持ち主で、髪の隙間から見え隠れする耳飾りがきらりと揺れているのが印象的だった。座っていても長身だとわかるそのひとの脇に立ち、そっと声をかける。
「あの、すみません」
「え?」
「あの、――がどこにいるか知りませんか?」
「――って誰?」
「いや、それが、わかんないんですけど……」
「わかんないの?」
「はあ」
「わかんないのに探してるの?」
「ええ、まあ……」
「ふうん、それはまた……あっ、夕希子ー!」
 話の途中だというのに、俺の背後に誰かを見つけたその女性は大きく手を振りながら立ち上がり、声をかけた人物の元へ駆けていってしまった。
 つられて振り向いた先で、夕希子と呼ばれた女性が先ほどの女性の力強いハグを受け止める。
「個展開催おめでとー! もう、どれも最高! 私、あれが好き、あの端の、花の絵」
「本当? うれしいなあ。念願だったから」
 そう言って、本当に嬉しそうに笑って、夕希子と呼ばれるそのひとは長い髪を耳にかけた。そのひとだけは喪服ではなく、きれいなワンピースを身に着けていた。華やかな色合いがよく似合っていて、笑顔が際立つ。
 俺はただ、半端に振り向いた姿勢のままふたりのやりとりを眺めていた。
 わからない。絵のことも、このテラスのことも。二人は会話に夢中で、俺なんて始めから存在していないみたいに思えてくる。だから、ここを去ることにした。だって、探さないと。早く見つけないと。
 テラスのような踊り場を出て再び階段を下りる。広々とした階段の行き着く先は見えないのに、絶えず人は行き来し続けていて、いくつもの話し声が重なって聞こえてくる。
 すべてを把握できるわけではないが『写真』『撮る』『撮られる』といった単語が頻繁に使われていることを知った。
 それでもやっぱりわからない。どこに向かっているのか。自分は誰に会いたいのか。
「あ、ねえ、きみ」
 わからないと思っているのに足は勝手に動き続ける。一歩一歩、確実に階段を下りていく。
「きみ、ねえ」
「え、あ、おれ? ですか?」
「そう、きみ。写真撮らない?」
「は?」
 階段の途中で声をかけてきたのは細身の男だった。色の濃いサングラスをかけているせいで、いまいち表情がつかめない。その男も例に漏れず喪服に身を包んでいて、全体的に黒い印象が強い。妙なことだが、ほかの喪服の人々よりも、だ。
 その男は一段高い場所に片足だけ引っ掛けて、両手をポケットに突っ込んで、へらりとした笑顔で軽い口調で語る。
「写真、撮ろうよ。みんな撮ってるよ」
「何を撮るんですか?」
「いやいや、なに言ってんの? きみが撮られる方。ていうか、みーんなそう」
 男が俺を指さす。口元には変わらずゆるい笑みが張り付いていて、そのくせ何もかもどうでもいいとでもいうような口調で話すからどうにも気味が悪い。
「いや、俺は……」
「いいから撮ってきなって、あっちに……」
「あの、それより、――を知りませんか?」
「――?」
「探してるんです。どこにいるか知りませんか」
「あー、――ねえ」
 男は意味ありげに空中へと目線を上げてゆったりと顎を撫でた。
「知ってるんですか?」
「知らないこともない、かも、しれない」
「教えてください」
「ええ? そんなこと言われてもなあ。どうしよっかなあ……そうだな、きみが……」
「そういうのはいいです。あなたが何を言っても何も変わらないんで、早く教えてください」
 はっきりとそう告げると、男の顔から表情が消えた。顔を逸らし、小さく舌打ちして小ばかにしたように片方だけ口角を持ち上げる。
「つまんない奴になっちゃったねぇ」
 ひとりごとのようにそう言ったあとで、男は階段の下を指さした。
「下りってったらいるんじゃないの? 知らないけど」
「下りてって……この階段を?」
「ほかにあるように見える?」
「この階段の先は、どこに……」
「どこか。みんなが行きたがる、どこかだよ」
 最後にそう言った男はどこか楽しそうで、やはり気味が悪かった。
 ろくに礼も言わずに男の横を通り過ぎて階段を下りる。何か文句でも言われるかと思ったけど、とっくに興味をなくしていたのか、男はすぐに別の誰かに声をかけていた。遠ざかっていく男の軽薄な声を背に、ひたすら階段を下り続ける。
 階段の先はもやがかかっているみたいに何も見えなかった。底がないようにも思えたが、人が行き来しているということはちゃんと行き着く場所があるんだろう。そう信じて足を動かし続ける。
 随分と長いこと下ってきた気がするのに、不思議と疲労感はない。ただ、焦りと不安だけがある。

 はやく、見つけないと。捉まえておかないと、――が行ってしまう前に……。

 順調に下り続けていたそのとき、コツ、と足先が固いものに触れた。
 奇妙に思って下を見ると、いつの間にか段差はなくなっていた。今の今まで階段が続いていたはずなのに、足元にあるのは平らな大地だ。珪藻土のような、どことなくざらりとした、土とタイルの中間のような感触の地面。そこにも人の気配はあった。これまでと同じ喪服の人々があちらこちらで明るく話し込んでいる声がする。
 だが、人々の雰囲気がなにか違う気がして顔をあげて、俺は少しだけ後悔した。目の前に広がる光景にぞっとして、思わず足がすくみ、息が詰まる。
 立っている場所から周囲数メートルくらいの位置では人々がぱらぱらと立ち話をしていて、さらに端の方へと続く奥まった道には行列ができていた。写真がどうのと言っていたのはあっちの方だろう。列の奥から帰ってくる誰もが白い和服姿に変化している。そこに俺の探しものがないことは直感でわかった。
 おれが、俺が目指してきたのは、目の前にどこまでも広がる、人っ子ひとりいない灰色がかった大地の方だ。
 顔をあげた先では、ざらりとした地面が果てもなくどこまでも続いている。人の影どころか、植物も建物も、物質と呼べるものは何ひとつ見当たらず、視界全体に広がる地平線があるばかりだ。そこに足を踏み入れようとするひとはいない。
「……あの嘘つき野郎」
 悪態をついて一歩を踏み出す。
 みんなが行きたがる場所なんかじゃないじゃないか。でも、それでも、ここを進むしかない。この先に――を行かせるわけにはいかない。だって……だって、なんだろう。わからない。でも、もはや理由なんてどうでもよかった。
「――! ――‼」
 呼べない名前を叫ぶ。何もない世界をひとりで走りながら叫び続ける。返事はない。それでも。
 汗が滲んで、体が重くてうまく走れなくて、足がもつれて躓きかけて、息が苦しい。それでも止まるわけにはいかない。
「頼むから、っ返事、して……! ――!」
 遠く、遠くに、黒い点と変わらないくらいの大きさの何かが見えた。
「ッ、――、――!」
 いくら呼んでも、もう声がかすれて届かない。
 そのとき、ついに足がもつれた。ぐらりとバランスが崩れて前に倒れる。黒い点に向けて伸ばしたはずの手が地面に向かって落ちていく。だめだ、まだ……!

 はあっ、と大きく息を吸って目を開けた。
 視界はぼやけていたし、暗くて何も見えなかったが、そこが真っ白いだけの世界じゃないことはわかる。
「……ゆめ」
 体をくるんでいるのは毛布と掛け布団。顔に触れているのは最近使い慣れてきた枕だろう。
 暖房がきいているのか、布団から手を出しても肌寒くはない。手を伸ばしてぺたぺたと周囲を探ると、つるりとした畳の目が手に触れた。少し腕をずらして枕の上の方を探り、畳の上から眼鏡を見つけ出してかける。もぞりと布団を抜け出して、感覚を頼りに壁のスイッチを探し当てて明かりをつける。そうすると視界がクリアになって、一気に安堵が押し寄せてほっと息をついた。
 中堂さんの部屋だ。リビングと繋がっている、寝室として使われている和室。
 布団の近くに戻って枕元に置いてあるスマートフォンを手に取って確認すると、セットしたアラームが鳴り出す十分前だった。つまり、午後六時手前。どうりで室内が暗いはずだ。最近はすっかり日が落ちるのが早くなって、窓の外にはちらほらと、人工の星のような街灯が見えるばかりだ。
 誰も見てないからと大きく口を開けてあくびをして、スマートフォンは布団の上に置いておき、リビングに足を伸ばす。乱れたスウェット着を直しもしないで、和室からこぼれる灯りだけを頼りに暗いリビングを覗き込む。
「中堂さん?」
 返事はない。暗闇の中に人影も見当たらない。
「中堂さーん。起きましたよ?」
 やはり返事はない。そろそろと足を進めてリビングの明かりをつけてみる。ぱっとリビングが照らされて、家具の少ない無機質な部屋が現れた。わかっていたのに、誰もいないことに胸の芯が冷える。
 暖房はついていて、部屋の中は間違いなく暖かいのに、夢の中の感覚がよみがえってきて、どくどくと心臓が嫌な音を立て始める。
「中堂さん?」
 トイレのドアをノックしてみても、バスルームを覗いても暗闇しかない。

 ――ひとりだ

 急に空恐ろしくなって早足で和室に駆け込む。スマートフォンで中堂さんとのメッセージ画面を開いてみたが、俺が大学を出たときに送った『これから行きます』に対する『わかった』という返事で止まっていて、それ以降はメッセージを消した痕跡すらない。
 少しの間スマートフォンの画面を睨み付けて、なんて入力するべきか考える。
『今どこにい』
 そこまで打ち込んだところで、ガチャリと玄関の鍵が回ってドアが開く音がした。
 俺は慌てて顔をあげてスマートフォンを放り出した。畳で滑りそうになりながらリビングのドアに駆け寄り、勢いよく開ける。瞬間、目に飛び込んできたのは、驚いた顔で俺を見下ろしている中堂さんだった。
「起きれたのか」
「あ、はい、アラームの前に……じゃなくて! なか、なかどうさん、どこに……」
「あ?」
 話の合間に俺の横を通り過ぎ、手に持っていた大きな買い物袋をキッチンに置きながら俺を見た中堂さんは、あからさまに訝しそうな視線を向けてきた。思わずひるみそうになったが、負けじと言葉を続ける。
「あの、だから、中堂さんは今までどこに……、……鍋? ……と、ガスコンロ……」
 仮にも恋人を放置して出かけるなんて、と、文句のひとつも言ってやろうと口を開いたのに、買い物袋の中身に気を取られて、箱に書かれた文字を読み上げただけになってしまった。家族用サイズの土鍋と新品のガスコンロの箱が袋の中で並んでいる。中堂さんに向けるはずだった剣呑な視線もそこに吸い取られた。
「お前が食いたいって言ったんだろうが」
「……俺が?」
「うちに来て、シャワー浴びさせたらもう寝かけてたから、夜飯なに食いたいんだって聞いた。そしたら言ったぞ。『なべ』って」
「俺が言ったんすか……?」
「間違いなくな」
「それで、これ、わざわざ買いに?」
「ないと出来ねえだろう」
 開いた口がふさがらなかった。自分が『鍋が食いたい』といった記憶がないこともだけど、そのために俺が寝てる間にわざわざ道具を買いに行ってたなんて。でも――。
「……でも、連絡くらい入れといてくれてもいいのに」
 そう呟くと、中堂さんはとんとん、とカウンターを指先で叩いた。言いたいことがわからずに、ちらりと視線だけでカウンターを見る。すると、スツールがある辺りに小さな真四角の紙を見つけた。嫌な予感を覚えながら近づき、恐る恐る手を伸ばす。
〝買い出しに行く 着替えて待ってろ〟
 端的に、それだけ書かれたメモを握り締めて一気に脱力して崩れ落ちる。しゃがみ込んだ俺の頭上からは、なんだか楽しそうな中堂さんが鼻で笑う声が聞こえてきた。
「周囲をよく観察するべきだったな」
「も、申し訳ございませんでした……」
 顔も上げられず蹲ったまま弱々しく応える。言葉どおりの申し訳なさが半分、残りの半分は、自分でも驚くほどに恥ずかしかったからだ。
 夢に引きずられたとはいえ、あんなにわかりやすく置いてあるメモにも気付かないほどの不安に襲われて動揺したことに驚いていた。中堂さんが俺を置いていなくなるなんて、そんなはずはないのに。
 動けずにいると、目の前に人の気配を感じた。目の前に立ったそのひとはその場にしゃがんだらしく、間近から微妙に浮付いた声がする。
「ちなみにだが」
「えぇ……まだ何か……?」
「念のためな、出かけるときに声をかけたんだが、そのときお前、はっきり『うん』って言ったぞ」
「それはさすがに嘘――」
「人間ってのは、あんなにはっきり寝言を言うんだな。なあ? 久部」
「嘘だー……」
 くっくっと楽しそうな笑い声が頭上から聞こえてきて、もしかしたらからかわれてるだけかもしれないと期待を込めて顔をあげる。
 中堂さんは自分の膝を支えにして頬杖をつき、頬をゆるめ、目を細めて俺を見ていた。でも『冗談だ』とは言ってくれない。
「そんな目で、み、見ないでください……」
「いいから着替えろ。出かけるぞ」
「え、出かけるって」
「メモに書いといたろう」
 ぽんと俺の肩を叩いて立ち上がった中堂さんは、上着も脱がずに和室に消えていく。俺は言われたとおり、握り締めたせいでくしゃくしゃになったメモを開いて文字を読み直した。確かに〝着替えて待ってろ〟と書いてある。
 首を傾げながらも部屋着を脱いで、デニムと薄手のセーターに袖を通しながら「どこに行くんすか?」と和室に向かって尋ねると、「鍋の材料」と声だけが返ってきた。そして、その声が「『なべ』とだけ言って寝落ちた奴がいたからな」と続ける。
「それはその、なんていうか、まじで眠気の限界値だったんすよね……」
 セーターから頭を出して、静電気で浮いた髪を手櫛で整える。最後にハンガーに引っ掛かっているコートを羽織ったところで、中堂さんが和室から戻ってきた。その手には見慣れない紙袋が握られている。
 なんだろう、と不思議に思っていると、中堂さんは静かにその紙袋を差し出した。
 よく見ると、それは紙袋ではなく、紙の包みだった。デパートで贈答用なんかに用意されている、あれ。といっても、これはクラフト紙に繊細な印刷が施されているシンプルなものだ。
「六郎、誕生日おめでとう」
 そう言われて俺はようやく、今日こうしてここにいる主旨を思い出した。
「あ、わ、あ、ありがとうございます。いま、開けていいですか?」
「ああ」
 緊張する。中堂さんが何を選んでくれたんだろうっていう期待で心臓が高鳴って、表情がゆるむ。
 受け取った包装紙の中には手袋が包んであった。バイク用のグローブではなく、普段使いするための、黒地にブルーで細かな模様があしらわれた手袋。模様はぱっと見ではわからないくらい繊細で、手触りがとてもよくて肌に馴染んであたたかい。生地からしていい品なんだろうとわかる品物だった。
「うわ、すげぇ……あの、嬉しいです」
「そうか……なら、よかった」
 中堂さんの声はやわらかくて、含まれた息が多い。どうやら安堵しているらしい。そのことに気付いてしまった俺の頬がさらにゆるむ。
 ばかなひと。何をもらったって、俺はきっと嬉しいのに。
 ゆるんだ顔も隠せないまま、もらったばかりの手袋は大事にカウンターに置いて、中堂さんを振り返る。
「行きましょう、晩飯買いに」
「それはいいのか」
「これは明日、出るときにつけていきます。今は中堂さんがいるから、いいです」
 自分で言っておきながら気恥ずかしくなって目を逸らす。中堂さんの顔が視界から外れる瞬間、その目がまるく開かれるのが見えた。じわりと顔が熱くなった気がして唇を噛む。平常心で顔をあげられない俺にはもう、中堂さんがどんな表情をしているのかはわからない。
「あー……ほら、さっさと行くぞ」
 中堂さんはすたすたと俺の横を通り過ぎてリビングを出てしまった。俺は慌ててあとを追う。
 突っかけるようにして靴を履いて、中堂さんが玄関の鍵を閉めるのを待って一緒に階段を下りる。
 外の空気はすっかり冷え切っていて、思わず身を縮めた。吐いた息が白くはっきり浮くようになるまでそう日数はかからないだろう。その日が少し、待ち遠しい。
 街灯を頼りにのんべんだらりと、徒歩圏内のスーパーに向かって中堂さんと並んで歩く。鍋の具は海鮮と肉のどっちにするかとか、出汁はどうするか、なんてことを話しながら数分歩いたところで、中堂さんがぽつりと尋ねた。
「本当にこんなんでよかったのか?」
 それは不安だとか心配だとか、そういうことではなく、純粋な疑問なんだろうと思う。言いたいことはよくわかる。俺の誕生日を中堂さんと二人で過ごすのは初めてだし、誕生日はやっぱり特別なものだし、彼にもやりたいことがあったのかもしれない。でも、俺には十分すぎるくらい、こうした意味があった。
 ――これが特別なら。こうやって大事なひとが俺を待っていて、ただ隣にいてくれることが、特別だってことなら。きっとこれからの毎日が特別になる。誰に何を言われたって、踏ん張れる。がんばれる。そのための大きなちからになる。
「これがよかったんです。誕生日、最高!」
 浮足立った気持ちのままに声を張ると、中堂さんが、ふっ、と本当にささやかに笑った。それがまた嬉しくて、そろりと手を伸ばして厚みのある手を握る。指を絡めると同じ動きが返ってきて、また胸がぎゅうと締め付けられた。
「寒いっすね」
「手袋してこないからだろ」
 そう言って中堂さんは、繋いだ手を自分の上着のポケットにそのまま突っ込んだ。ふたつの手が収まったポケットがこんもりと膨らんで限界を訴えている。それが妙におかしくて、つい笑ってしまった。
「せっま」
「うるせえな」
「はーい。黙ります」
 ひひ、と変な笑い声が漏れて、東海林さんの影響かなあ、なんて考える。そうしている間も手は中堂さんの上着のポケットの中のまま、指がほどかれることもない。あたたかい。寒空の下だって、ふたりなら凍えたりはしない。
 ろくに星も見えない都会の空を見上げて、わざと大きく息を吐いて白さを確かめる。
「なかどうさん」
「ん?」
「寝るときは湯たんぽ役お願いします」
「それはお前だろ」
「あれ? ……まあ、どっちでもいいすかね」
「言ってろ」
 中堂さんの返事は適当だったけど、代わりに繋いだ指の力が強くなった。熱いくらいにあたたかい。
 明日、中堂さんの家を出てひとりになっても、リビングにあるあの手袋が俺の手を包んでくれる。そうしたら、きっともう、あんな何もない世界を夢に見ることもない。隣にいる。ただ、それだけが――。

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