きみが魔法(書き下ろし)

 半分に欠けた月が煌々と輝く、限りなく黒に近い色をした夜空に紛れて羽音が響く。その音は紛れもなく自分の体から発せられているものだ。こうして鳥の姿に変化してホグワーツを訪れるのは、実に一週間ぶりになる。
 広い城の敷地内を満たしていた子どもの声が鳴りを潜めた頃を見計らい、自慢の白銀の尾羽に風を受けながら腕を動かしてアルバスの部屋を目指す。そうして辿り着いた目的の部屋の窓の前で、大きく広げていた翼を折りたたみ、コツコツと音を立ててくちばしでガラスを叩いた。それからいくらも待つことなく、ひとりでに窓が開く。そこから室内に入って天井近くをぐるりと一周し、自分以外誰もいないことを確認してから人の姿に戻った。
「まったく、私を使い走りにするのは君くらいのものだぞ、アルバス」
 風を切る翼から五本指に戻った手を一振りして、入ってきたばかりの窓を閉める。ついでに廊下に続くドアの鍵もかけて、少々の不機嫌さを隠さずにそう呟いた。その声に含まれた不満を感じ取ったらしく、アルバスは吐息だけで苦笑したが、羽根ペンを握っている手を動かしたまま、机に向かう姿勢を変えようとはしなかった。カリカリとペン先が紙の上を滑る音が鳴り続けている。
「悪いが、このとおり手が離せなくてね。どうしても君に見てきてもらいたかったんだ。私と同じように物事を見て、考えられるのは君だけだから」
「……そう言えば私が納得するとでも思っているのか?」
「まさか、ただの本心だ」
 その言葉を聞き届け、ふん、と息をついて空いている椅子に腰を下ろす。任された役割に不満があろうとも、それだけ頼られているのだと思えば悪い気はしない。足を組み、肘掛けに軽く体重を預け、頬杖をついてアルバスの方へと目をやる。
 アルバスは手元に視線を落として答案用紙と向き合っていた。相変わらずこちらを見る気配すらないが、それは大きな問題ではない。毎年、この時期のアルバスは机と向き合いっぱなしになるのが常だ。昔はこういった状況によく苛立っていたが、今ではすっかり慣れてしまった。今さら、積み重なっている紙の束や、その紙に書き込まれている、のたくったようなインクの羅列を忌々しく思うことに意味はない。では、なぜこうしてじっと見ているのかというと、アルバスの顔に見慣れない物体が乗っていたからだ。
 いつもなら惜しげもなく晒されているブルーの瞳――それを覆っている大きな丸いフレームの眼鏡が、遠目からでもわかるほどに存在を主張していた。
 サイズが合っていないのか、俯いていると少しずつずれてしまうらしく、アルバスは短い時間の中で何度も鼻当ての位置を正し、なんとかレンズの中心に視界を収めようとしている。だが、どうにもうまく集中しきれなかったようだ。しばらくは無言で作業を続けていたが、やがて不慣れな様子で眼鏡をわずかに持ち上げ、ペンを置いて、目頭を緩く指先でつまんだ。ふう、と疲労が滲む息がこぼれ落ちる。
「合ってないんじゃないのか」
「ああ、これかい?」
 積もり始めた苛立ちを隠しきれないまま問いかけると、アルバスは眼鏡を外し、目線より少し高い位置に掲げてみせた。手の中の大きなレンズをランプの灯りに透かして苦笑する。
「どうしても細かい字が見えにくくて、物置きから引っ張り出してきたものだからね。ないよりはましって程度だが、間に合わせだから仕方ないさ」
 決して満足しているわけではないと言いながらも、アルバスは再び眼鏡をかけて机に向き直る。羽根ペンを握る手の動きは一定の速度を保っているが、少しのおしゃべりくらいでは疲れがとれた気配はなかった。時折、きつく目を閉じたり、細めたりしながら、なんとか仕事を続けているという様相だ。
 紙をめくる音と、ペン先が紙を引っかく微かな音だけが部屋の空気を震わせている。私はそれ以上話しかけることなく、俯き加減で手を動かし続けるアルバスのことを眺めていたが、やがて堪えきれずに立ち上がった。機嫌の悪さを隠す努力を投げ捨て、紙の束が積み重なっている机に歩み寄る。そして、椅子の横に立ち、手を伸ばして、アルバスの目元から眼鏡をそっと奪い取った。
 さすがのアルバスもそれには驚いたらしく、手を止めて顔を上げた。私を見上げ、わずかに顔をしかめて睨むような視線を向けてくる。だが、こちらもそんなことで怯みはしない。私の眉間には、アルバスの顔にあるものよりずっと深いしわが刻まれているはずだ。互いに一歩も引かずに見合う。
「ゲラート、これじゃ仕事にならない」
「これをかけているときの方が負担がかかっているように見えるぞ」
「確かに疲れはするが、仕事が進まないのも困るんだよ」
「だが、目が赤い。仕事のためにここまでしなくてもいいだろう」
 アルバスの顔から奪った眼鏡を空中に放り出して魔法で浮かせ、自由になった指の背で疲労の滲む目元をなぞった。ほんのりと熱を持ったまぶたに冷えた指先が触れると、目尻の下の、皮膚の薄い箇所がぴくりと震える。
 アルバスは何事かを訴えようとしてわずかに唇を動かした。これまで何度もそうしてきたように、今進めている仕事の重要さを説こうとしたのかもしれない。だが、少しの逡巡ののち、うっすらと開いた口を閉じて目を細めた。私が続けて指先を動かし、目尻からこめかみの間をそっと撫でると、ついに諦めたように体の力を抜いて、羽根ペンを机の上のペン立てに戻す。それを合図に、私は手のひらをかざしてアルバスの両目を覆い隠した。すると、アルバスはこの手が生み出した影の下でそっと目を閉じた。ほう、と吐き出されたやわらかな吐息が空気をくすぐる。
「このまま……少しだけ、こうしていてくれないか」
「それは構わないが、どうせならこのまま休んでしまったらどうだ?」
「いや、少し……少しだけでいいんだ。このままでいてほしい」
「君の頼みなら」
 仕方がないな、と言外に声音で伝え、呆れの混じった息をつく。この仕事馬鹿を相手にするときは、少し強引にでも休ませてやらねばならない。こうして同じ時間を過ごすようになる前は自分で管理していたのだろうが、いつの間にか、これも私の役割の一つになってしまっていた。まあ、甘えられているのだと考えれば、そう悪い気はしないのだが。
 私とアルバスは少しの間、黙ったまま動かずにいた。熱を持ったまぶたと冷えた手のひらの体温が少しずつ混じり合い、ゆっくりと境目が消えていく――そんなふうに感じ始めた頃、椅子の背に上体を預けて目を閉じていたアルバスが、不意にぽつりと呟いた。
「君の手は気持ちいいな」
「そうか?」
「ああ、昔からずっと不思議に思っていたんだよ。……君の手は、魔法みたいだなって」
 脈絡なく告げられた言葉に首を傾げる。眼鏡を浮遊させている以外は、今はなんの魔法も使っていない。当然、自分の手にもだ。そんなことはわかっているはずのアルバスがこの行為を魔法に結びつけたこと自体にも疑問を抱いたが、それ以上に『手が魔法』という言葉の選び方のほうが引っかかった。
「呪文で変化させても、肉体そのものが魔法になるわけではないだろう。必要なら、もう少し冷やす程度のことは可能だろうが……」
「ああいや、違う、そうじゃない。このままの君の手が、魔法そのものみたいだってことだよ」
 アルバスの中では会話が成立しているらしいが、理論立てて考えてみようとしても意図がわからず、疑問が募るばかりだ。なんとか思考を整理しようとして、宙を睨んで首をひねる。
 目元を覆い隠されているアルバスにはそんなしぐさは見えないはずなのに、こちらの表情まではっきり見えているかのように、唐突にくすくすと笑い出した。そして、楽しげに言葉を続ける。
「君が触れた場所から体温が変わるんだ。君の手の中にあるだけで、見慣れているはずのものがまったく違って見えてくる。まるで魔法をかけられたみたいに」
「ああ、なるほど。そういうことなら私にも覚えがある」
「君も?」
「そうだ。私の場合、手ではないが」
「へえ、何かな」
 そう尋ねるアルバスの声は明らかに弾んでいた。その期待に応えるため、予告なしに、これまで動かさずにいた手を退ける。
 いきなり光の下に目元を晒されたアルバスは、眩しさから身を守ろうとしてぎゅっと目を閉じた。眉根を寄せた表情のままなんとか目を開けようとして失敗し、そのすぐあとで、今度は己の手を傘にして影を作ろうと試みる。しかし、その手が実際に影を生み出すことはなかった。私の影の方が先にアルバスの頭部全体を覆い隠したからだ。片手で椅子の背もたれのふちを掴み、上体を屈め、覆い被さるようにして顔を覗き込む。目を傷めないようにゆっくりとまぶたを持ち上げたアルバスは、不思議そうな表情で私を見上げた。
 背もたれを掴んでいるのとは逆の、空いている方の手でアルバスのまなじりを撫でる。つう、といくつか刻まれたしわのあたりをなぞりながら「この目だ」と、やわく囁いた。
「この瞳に映っているのは、私が見ているものとは似て非なるものではないかと、そう考えたことがある。君は、私が思うよりもずっと美しい世界を見ているんじゃないか、と」
「私の目が、君にとっての魔法?」
「ああ、そうだ。君の瞳の中にあるものは、現実で見るよりもずっと特別に思えた。この私自身でさえもだ」
「そんなことはない、と言いたいところだが……最後のは、きっと勘違いじゃない」
 その声に含まれる甘さに気付いた瞬間、思わず、ふっ、と微かな笑みをこぼしていた。さらに身を屈めてアルバスとの距離を縮めると、体重を受け止めている木製の椅子が小さな悲鳴をあげる。アルバスは何をされるかわかっていながら、この行動を諫めることなく目を閉じていく。ほどなくして、私たちの間に存在していた距離が完全になくなり、吐息が混ざって唇が重なった。
 そうして欲を伴わないふれあいを楽しみ、ゆっくりと顔を離すと、目の前でアルバスの瞳がきらめいた。間近で見たその瞳の中にいる小さな自分自身は、やはり鏡で見るものとは違って見える。
 つい先程そんな話をしたばかりだからか、私がじっと瞳の奥を覗き込んでいることに気付いたアルバスが小さく微笑んだ。たった今、その瞳の魔力に取り込まれている最中なのだと知っているのだろうか。アルバスは微笑みを湛えたまま何も言わず、私も目を逸らさない。
 少しの間、穏やかな沈黙が流れる。
 私はブルーの瞳に映り込んだランプの灯りに誘われるようにして、もう一度顔を寄せようとした。そうするのが自然な流れだったはずだ。しかし、アルバスの「……さて」という声が二度目のキスを遮った。そのさっぱりとした声色から、これまでの穏やかな時間は終わりを迎えたのだと悟って、小さなため息と共に身を起こす。アルバスはそれを気に留めた様子もなく、ひとりで大きく伸びをして息をついた。 
「君のおかげで休憩もできたことだし、もうひと頑張りするとしよう。悪いが、こっちをきりのいいところまで進めたいんだ。報告はもう少し待っていてくれないか」
「もとよりそのつもりだ。カップは勝手に使わせてもらうぞ」
「ああ、もちろん。少しごちゃついてるが、適当にくつろいでてくれ」
 ふわふわと空中を漂っていた眼鏡を捕まえて、アルバスは再びペンを取り、机に向かう。その様子を尻目に机に背を向けて、私は壁沿いにある棚を物色し始めた。
 この部屋のどこに何が置いてあるのかは、ある程度把握している。こういった暇つぶしも随分と慣れたものだ。棚からシンプルな柄が描かれたティーポットと揃いのカップを取り出し、茶を淹れて、適当な本を拾い上げ、少し前まで座っていた暖炉近くの椅子に戻る。
 アルバスはもうこちらを見てはいなかった。丸眼鏡越しに紙を見下ろし、真剣な表情でペンを走らせている。その姿からあえて目を逸らすために、私はぶ厚い本に視線を落とす。椅子の近くにあるサイドテーブルにカップとポットを置き、一枚ずつ本のページをめくっていく。
 そうやって、アルバスから声がかかるまでおとなしく待ち続けるつもりだった。だが、一杯目の紅茶を飲み干したところで、視界の端に映る光景が我慢ならなくなって顔を上げた。少しばかり乱雑に閉じた本をサイドテーブルに置き、足を組んで、肘掛けに腕を預けて頬杖をつくという、先程とそっくり同じ姿勢でアルバスを見る。
 室内にはペンが紙の上を走る音だけが響いている。アルバスは決して鈍感な人間ではないから、自分に向けられているあからさまな視線には気付いているはずだ。だが、知らないふりをして仕事を続けている。
 わざと無視されているのだと思うと余計に腹が立った。胃の腑の底から段々と膨れ上がってくる苛立ちを抑えきれなくなって、自分を中心に黒く重い気配が広がり始める。アルバスはそれでも手を止めなかったが、さすがに無視しきれなかったのか、俯いたまま口を開いた。
「まだ何か気になるのか?」
「……似合ってない」
「……もしかして眼鏡のことか? 参ったな、これから必需品になりそうなのに」
「眼鏡がじゃない。〝それ〟が君に似合ってないという意味だ。……せっかくの目が隠れるだろう」
 その言葉を口にした途端、それまで滞りなく動いていたアルバスの手がぴたりと止まった。顔を上げ、大きく開いた目で私を捉える。互いの視線がぶつかると、アルバスはどこか戸惑った様子で眼鏡に手をかけた。私の顔を見たまま、眼鏡をわずかにずらしていく。丸いフレームが下まぶたの近くまで下がったことで、間にレンズを挟むことなく互いの目が見えるようになった。
 私はまっすぐにその瞳を見据えた。やはり、そのまなざしを歪ませている透明な壁は異物なのだと感じる。よりによって、あんな目元全体を覆うタイプのものを持ち出さなくてもよかっただろうに。
「そのフレームの形も大きさも、何もかもが君の瞳を邪魔していて台無しだ。そうは思わなかったのか?」
「それは……その、考えてなかったな」
 じんわりと赤みを帯び始めた顔を隠すかのように、アルバスは口元を手のひらで覆い隠した。一旦、私から視線を外し、ちらりともう一度こちらを見て、いくらか小さな声で尋ねる。
「まさか、それで不機嫌だったのか? ずっと?」
「ほかに何があるというんだ?」
 そう言うと、アルバスは気まずそうにひとつ小さく咳ばらいをした。私はそれに呆れて、冷め始めた紅茶をカップに注ぎ足す。
 ――ひとのことをなんだと思っているのだろうか、この男は。これまでも散々使いに走らせ、ときには学校行事があるからと後回しにしておきながら、今さらこの程度の待ち時間で私が不機嫌になるとでも? ……心外にもほどがある。
 内心でため息をつきながら紅茶を口に含んだ私を眺めて、アルバスはもう一度わざとらしく咳ばらいをした。わずかに姿勢を正し、眼鏡を元の位置に戻して、レンズ越しにこちらを見ている。
「あー……その、来週には時間ができるから、ちゃんとした眼鏡を買いに行こうと思ってるんだが……ゲラート、よかったら君が選んでくれないか?」
「構わないが、君はそれでいいのか? 長く使うものを私に一任して」
「もちろんだ。誰よりも私の〝魔法〟とやらのことを知っているのは君だろうからね」
「そういうことなら任されようじゃないか」
 満足のいく答えを引き出してにやりと笑う。ああ言って一応は遠慮してみせたが、断る気など初めからなかったことはアルバスとて気付いているだろう。私はそれも承知の上で、先程までより遥かに心穏やかに足を組み直し、読みかけの本を開いて手元に視線を落とす。
 そのほんの少しあとで、アルバスの微かな笑い声が耳に届いた。自嘲しているのだろうかと思ったが、それにしては少し妙だ。その息遣いは、笑い声にしては一瞬で、吐息と呼ぶには声が乗りすぎている――そういうたぐいのものだった。
 アルバスが何を考えたのか気になって、姿勢は変えずに視線だけを送る。横目で捉えたアルバスは、隠れてそっとはにかんでいた。どことなく落ち着かない様子で息を吐き、次に、目の前の用紙に向き合って手を動かし始める。初めはゆっくりと滑り出したペン先の動きは、アルバスが集中するほどに早くなっていく。
 そんな姿をこっそりと眺めながら、アルバスに気付かれないように口元だけで微笑んだ。先の予定ができたことを、私は思いのほか楽しみにしているらしい。その証拠に、頭の中にはすでに一つの形が浮かんでいる。
 私の頭の中にあるのは、あの、魔法を宿しているかのようなブルーの瞳を覆い隠すことのない、今夜、頭上に浮かんでいる月の形のフレームだ。
 アルバスに必要なのは、あんな無骨な装飾品ではない。優等生になりきれないこの男には、繊細かつアンバランスな品こそ似合うだろう――そんなことを夢想して、開いたままの本を腿に乗せて静かに目を閉じる。
 まぶたの裏側で、欠けた月の向こうで輝く、透き通るような鮮やかなブルーを思い描いた。

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