今日も何かが終わり、始まっている

ラブ&サンダーのずっと未来の年老いたソーとヴァルハラとロキの話。恋愛関係ではないソーロキ

 すべて終わったのだ――そう思い静かに目を閉じたあと、気が付いたときにはソーはそこに立っていた。すべての痛みや苦痛が消え去ったその身は決して重くも軽くもなく、全身は見慣れぬ装束に包まれており、そのうえ、先程まで共にいたはずの知人たちの姿は見当たらない。ソーはただひとりでその場に立っていた。
 見覚えのない道だった。ビフレストを彷彿とさせる、まっすぐに伸びた一本の平らな道。遠くには古めかしくも荘厳な建物らしきものがちらほらと見えており、世界はどこまでもうつくしい。ソーは少しの間、その場に立ったまま景色を一通り見渡した。青々と生い茂った木々に、透き通るような青い空。その合間に点々と存在し威厳を保つ、白を基調とした、端々を黄金で彩られた建造物の数々。それらの構造は今は亡き故郷に似ているように思えたが、知っている場所はどこにもなさそうだ。仕方なく小さく息を吐いてゆっくりと足を踏み出し、遠くに見える建物同様の装飾がなされた道の上を歩き始める。
 不安はなかった。見知らぬ場所にいるにしては奇妙なほどにソーの心は穏やかだ。なぜなら、見覚えはなかったとしてもここがどこなのか自分は知っていると、そう言える自信があった。
 平らな道を進んだ先で、一段ずつ、踏みしめるようにして階段を上る。すると、足の動きに呼応してひらりと装束のすそが舞う。思わず足元に目をやり、風もないのに妙な……と思って間もなく、視界の端に自分が纏っているものとよく似た色の布が見えた。地面を走る黄金を遮る布を視線で追いかけ、ゆっくりと顔を上げていく。
 見上げた先には小柄な手があった。少しばかりしわが目立つ小さく美しい手だ。そして、その手に見合った細い腕と肩。ゆるゆると巻かれた長いブロンド。懐かしい、穏やかなまなざしと微笑み――。
「お疲れ様、ソー。よく頑張りましたね」
「……母上」
「あらあら、まあ、大きな子供のよう」
 堪える間もなくくしゃりと顔を歪めたソーの立派なひげに手を伸ばしながら、フリッガがくすくすと静かに笑う。
「見ていましたよ。あなたがどれだけ立派だったか」
 手を濡らすことも厭わずフリッガはソーの頬を撫で、しわだらけの、自分よりも遥かに年上になった息子を両腕でそっと包み込む。ソーはそろそろとその背に手を伸ばし、存在を確かめるかのように力を込めて母を抱きしめた。
「母上もここにいたのですね」
「私もアスガルドの女ですもの。戦場での死は誉れだわ」
「さすが、俺の母上です」
 微かに震える声で笑うソーの背中を撫で、腕の中から解放したフリッガは、再び両手でひげだらけの頬を包み込んでゆったりと目を細める。
「さあ、行きましょう? お父様にも顔を見せてあげて」
「父上もここに?」
「もちろん。あの人だって戦士ですからね」
 そう言うフリッガに背を押されてソーは歩き出す。ゆっくりと、かつて王宮でそうしていたようにふたり並んで、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら足を進める。
 道中でソーが己の外見を指し「まだ息子と言ってくれるのですね」と呟いたが、フリッガはそれまでと変わらぬ様子で微笑んだだけだった。細い編み込みで飾られた真っ白な長髪も、全身にくっきりと刻まれたしわも、筋肉よりも脂肪が目立つようになった腕や腹も、ついと視線で撫でて目を細める。
「いくつになっても、私より年上になっていても、あなたが私の息子であることに変わりはないわ。あなただってそうでしょう?」
「ええ……ええ、そうですね」
 ソーの脳裏にひとりで戦えるほど強くなった養い子の顔が浮かぶ。今ではソーの手を煩わせることはすっかりなくなり、それどころか世話を焼かれるのはソーの方になっていたくらいなのだが、どれだけ立場が変わろうとも子を愛しく思う気持ちに変わりはない。それに気付いてようやく、きっとこの母も同じなのだろうと思い至る。胸から込み上げてくるものをぐっと堪え、ソーはフリッガに微笑み返して前を向いた。
 そうしてしばらく歩き続け、これまで遠くに見えていた建物が近付いてくると、最初に立っていた場所とは打って変わって周囲に生き物の気配があふれ始めた。いくつもの息遣いやささやかなざわめき。それらは間違いなくひとの気配だった。遠巻きにではあるがちらほらと視線も感じる。それらの気配に敵意はなさそうだったが、かといって近付いてくることもない。そんな状況にどことない居心地の悪さを感じながらもソーは歩き続ける。
 フリッガは隣に並ぶ息子が周囲を気にしていることをわかっていながら小さく笑うばかりだ。彼らが何者なのか、この状況がなんなのか教えない代わりに、まっすぐに見据えた先を整えられた指先で示す。
「ソー」
 声をかけられたソーは母が示した方向を見た。
 遠目から見えていたいくつかの建造物の中でも一際立派な、神殿に近いかたちの建物がそこにはあった。その建物の入り口へと続く階段の手前、歩いてきた道が続く先に、見覚えのあるひとりの男が立っている。幼い頃からずっと見てきた、そしてもう随分と見ていない男の顔だ。
 ソーは母と再会したときよりもしっかりと胸を張り、力強い足取りで足を進める。そして、男の正面に立ってまじまじとその姿を眺めた。ソーの視線を受け止めて、男は黄金の瞳を細めてにやりと笑う。
「皆、一足先に始めてますよ」
 そう言われたソーは、わずかに目を開いてから堪えきれないというように口を大きく開けて笑い出した。
「お前以外にもいるのか? ヘイムダル」
「ええ、懐かしい顔がいくつも」
「そいつは楽しみだ。俺抜きで楽しんでるなんて、ひとこと言ってやらないとな」
 笑いながらそんなことを言っても咎めたりはせず、ヘイムダルもふっ、と小さな笑い声で応えた。ためらうことなく階段を上り始めたソーのうしろにフリッガとヘイムダルが続き、一同は建造物の中へ入っていく。
 その建物の内装はやはりアスガルドの神殿に近い造りになっており、大きな柱が並ぶひらけた廊下がいくつかの部屋に繋がっているようだった。そのひとつひとつの入り口を順番に覗こうとするソーの前にヘイムダルが立ち、無言でついてくるように促す。ソーは黙って従った。
 宮殿内に響き渡っている、先程よりも大きなざわめきの中を歩いていると、幾人もの人々とすれ違った。ソーが知っている顔もあれば知らない顔もあった。見覚えがある人物は慇懃に礼をし、知らない人物は笑みを浮かべ会釈をして通り過ぎていく。
 すれ違ったいくつかの懐かしい顔は、ソーを現実と幻のはざまにいるかのような気分にさせた。地球につくられたアスガルドで話したことがある青年が駆けて行ったかと思えば、幼少期に憧れた、若かりし頃は戦士だった老人が丁寧に礼をしていく。
 時間を超越した空間を目の当たりにして、自分の魂の在り処がおぼろげになりそうになった頃、その腕をあたたかな手がそっと撫でた。
「間違えないで。あなたが何者で、どこにいるのか」
「ええ、はい……ただなんだか、ひどく不思議で……」
「初めはみんなそう思うものよ。そのうち慣れるわ」
 そうなのだろうか、と疑問を拭えずうまく頷けないでいるソーにフリッガが微笑みかける。その静かな瞳の奥に深い優しさを見つけて、ソーはひとまず母の言葉を信じてみることにした。ここでは己が新顔なのだから、知らないことも多いのだろう、と。
 そうして何分歩いただろうか。いくつかの部屋を通り過ぎて辿り着いた、廊下の一番奥に位置する部屋。入り口からしてほかの部屋よりも一回り大きく、ここだけ格が違うのだろうと察しがついた。ヘイムダルに促されるまま部屋の中へと足を踏み入れ、賑やかな声がする方へと視線を向ける。
 部屋の中央に位置する巨大な長机には彩り鮮やかな果物や料理、いくつものコップが並び、香ばしいにおいと酒の香りが周囲に満ちている。その芳醇な香りは、出入口にいてもわかるほどだ。だが、ソーの意識を奪っていたのは豪華な料理でも酒の香りでもなかった。それらを取り囲んでいる、怒鳴り声にも似た、部屋一帯に響くほどのいくつもの笑い声だ。
「――ヴォルスタッグ、ファンドラル、ホーガン、シフ、ヴァルキリー……」
 テーブルの端からゆっくりとひとりひとりの顔を確認しながら、ソーは誰にともなく名前を口にしていく。その声はあまりにも小さく、その場にいる誰にも届きはしなかった。しかし次の瞬間、呼ばれることを知っていたかのように顔を上げたホーガンが、立ち尽くすソーの姿を見つけて手を上げた。そうすると、その動作のおかげでソーの存在に気が付いた面々からわっと歓声が上がる。
「なんだ! 随分と遅かったな!」
「おいおい、そんな言い方はよせよ。遅いのはいいことだろ?」
「そうだな。ソーが遅いんじゃなくて俺たちが早かっただけだ」
「それにしたって……」
「ああもう、いい加減にしなさいよ。せっかくの再会なのに」
「お前は遅かった組だろう、シフ」
「今はここにいるんだから一緒でしょ」
 アスガルドが滅びる前に見た記憶のままのウォリアーズスリーと、白髪交じりでソーより少しだけ若い姿のシフとヴァルキリーがひとつのテーブルを囲み、やいのやいのと騒いでいる。自分の幻覚ではないかと疑うほど奇妙な光景に引き寄せられ、ふらふらと足を進めてテーブルの前に立つと、騒ぎがぴたりと収まった。代わりにどっと大きな笑い声が響き渡る。
「なんだその腑抜けた顔は!」
「まさか俺たちが真っ白な顔でその辺をさまよってるとでも思ってたのか?」
「残念だが、こっちに来てから宴三昧だ」
「お前たち、まさかずっと飲んだくれてるのか?」
「いいや? 飲んでる日もあれば決闘してる日もあるさ」
「ああ、時間だけはたっぷりあるからな」
 豪快に、あるいは含みを持たせて、それぞれが思い思いに笑い声をあげる。ソーは自分の視界が揺れていることを知りつつもそれには言及せず、三人に負けないほど大きく笑ってみせた。胸の奥はつきつきと痛んでいたが、不快な痛みではない。
 そんな男たちの様子を呆れ顔で見守っていたシフがソーの背後に回り、背筋を伸ばせと言わんばかりに力強く背中を叩く。その衝撃に咳き込みそうになったのと、しわがれた声で名前を呼ばれたのはほとんど同時だった。
「ソー」
 それだけの声に全員が姿勢を正し、騒がしかった笑い声がおさまって静寂が訪れる。
 友人たちが並ぶテーブルの向こう、少し離れた場所から近付いてきたオーディンもほかの者と同じ装束を身にまとっていたが、これまで再会してきた者たちのようにあれこれと言葉をかけてきたりはしなかった。ただひとつ、ゆっくりと深く頷き、部屋の奥に位置するテラスを指し示す。
 初めは父王が何を言わんとしているかわからずにいたソーだったが、しばらくの思案ののち、ゆっくりと目を開いてこう尋ねた。
「……いるのですか?」
「アイツが素直にお出迎えなんてすると思う?」
 ソーの疑問に囁き声で答えたのはヴァルキリーだ。思わず勢いよく振り向いたソーに向かってヴァルキリーは肩をすくめてみせる。次の瞬間、ソーは返事も忘れてなりふり構わず走り出した。テーブルの脇を抜け、父の横を通り過ぎ、テラスに躍り出た勢いのままその先に広がっている庭に入る。
 そこは庭園というにはいささか閑散としていた。いや、閑散というより素朴といった方が正しいだろう。華々しい大輪の花こそなかったが、ぽつぽつと並ぶ木々はきちんと剪定されている。そんな木々の間を抜け、大地を覆うみずみずしい草を踏みしめて、ソーはさらに先へと向かう。
 庭に出てすぐにソーは目的地を定めていた。迷いはなかった。加えて言うなら理由も根拠もない、ただの勘だ。だが、その勘は正しいと確信している。良くも悪くも、幼い頃から誰よりも近くにいたのだ。今さら間違うことなどあるものか――そう信じて、遠く、庭園の先に見えている大樹の足元を目指す。
 死んでも走れば息苦しくなるのか……なんて、そんな、今はさほど重要ではないことばかりが頭をよぎる。考えるべきことはもっと別のところにあるはずだが、激しく脈打つ鼓動がそれを邪魔していた。走っているからではない。胸が苦しいのは、肺に負担がかかっているからではない。重苦しい鈍い痛みが渦巻いているのは、胸のもっと中心に位置する、内臓の奥底にある場所だ。
 そうしてしばらく走っていくと、庭園を抜けて草原のようにひらけた場所に出た。その途端、視界を覆う眩しさに目を焼かれて、ソーはとっさに手のひらをかざして目元を隠していた。目的の大樹の手前には大きな泉があり、水面が光を反射してきらきらと輝いている。その光があたり一面を覆っているかのように見えたのだ。
 少しばかり速度を落とし、着実に足を前に進める。ソーは目元に影を作っていた手を下ろして、眩しさに耐えながらじっと目を凝らした。
 やがて、光に包まれているかのような世界の中、ある一点でソーの視線の動きが止まった。眼前に広がる泉の手前には長椅子のようなものがひとつ置かれており、そこに誰かが横たわっていた。肘をつき半身を起こして水面の方を向いている誰か。一歩ずつ近付くにつれて、その後ろ姿が段々はっきりとした形を取り始める。 
 ひどく――ひどく懐かしいかたちをしたその人物は、やはり白を基調とした、見慣れぬ装束を身につけていた。ソーの記憶にあるそのひとの姿は深い色をまとっていることがほとんどで、一瞬、違う人物と間違えているのではないかという不安に襲われる。しかし、投げ出された手足もかすかに風になびく黒髪も、確かに知っているはずのものだった。
「ロキ……?」
 どくどくとうるさく鳴っている鼓動を抑え込んでそう呼びかけると、はあ、という大きなため息がソーの耳に届いた。やたらと億劫そうに体を起こしながら、そのひとが立ち上がり振り返る。その動作がやけにゆっくりと、ソーの瞳に焼き付いていく。
「なんだ? その声は。雷神ソーともあろうものが情けない」
「……ロキ」
「一時とはいえアスガルドの王だった者がこの体たらくとは。この前の戦い方も無様としか言いようがなかったぞ。それに、近頃はラブにも先を越されていたな。まったく……その体型といい、普段の怠惰な生活が」
「お前、それは……」
 長椅子から立ち上がったロキが身振りを交えながらくどくどと嫌味ったらしく話し続ける中、ソーの視線は一箇所にだけ向けられている。それに気付いたロキも視線を追い、合点がいった様子で「ああ」と応えた。
「これか。これだけはどうしても消えなくてね」
 なんでもないことのように言うロキの首には青黒い、いくつもの太い線のような形の痣がくっきりと刻まれており、頭部を支えている首の骨はいくらか歪んでいるようだった。
 その痣から目を離せなくなったソーは青白い顔で静かに息をのむ。今にも足元の大地が消えてしまいそうな不安定な心持ちになり、うまく呼吸ができなくなっていた。
 明らかに顔色が悪くなったソーの様子を見たロキはぎょっと目を見開き、じろじろと顔色を伺ってからそろりと視線を外し、少しの沈黙のあとで苦々しげにため息をついた。そして、言葉も紡げず、動けないでいるソーの目の前でぱちんと指を鳴らす。
 すると、その音をきっかけにロキの首の周囲にかすかな光の線がうまれ、肌の上をゆっくりと移動し始めた。その線が通り過ぎた箇所からは青黒い鬱血痕も骨のねじれも消え去り、あとには傷ひとつない肌が残される。ソーはどこへともなく消えていく光の線を目で追いながら、うっすらと開いたままになっている唇を震わせている。
 ロキはそんなソーに向かって、わざとらしく鼻で笑ってみせた。
「よく思い出してみろ。ここに来るまでに会った者の誰かひとりでも腹に穴をあけている奴がいたか? まったく、兄上はいくつになっても洞察力というものが――」
 手のひらを天に向けて小ばかにした様子でつらつらと話し続けていたロキだったが、その途中で言葉を詰まらせた。ソーの手が己の首筋に触れたのだ。かつて一緒に暮らしていた頃そうしていたように、ソーの指先はロキのうなじに回されていたが、その手つきはこれまでの触れ合いでは感じたことがないほど慎重だ。わずかに震える指先が肩にかかる黒髪をかきわけ、痣があったはずの場所をそろりと撫でる。
 ロキはもう茶化したりはせず、黙ってソーの好きなようにさせていた。しわだらけになったソーの無骨な指先は、何かを探ろうとして肌の上をすべりかけるのに、いざ触れるとなるとためらいがちに引いてしまう。幾度かの逡巡の間、ロキはじっとソーの顔を見ていた。うろうろと所在なさげにロキの首と己の手元の間を行き来する色違いの双眸を眺め、ひとつ、小さく息をする。
「……いるよ」
 ロキがそう囁いた瞬間、ソーは思わず手を伸ばしていた。弟の体を両腕の中に抱き込み、きつくきつく抱きしめる。ぐっ、と呻く小さな声が耳元で聞こえた気がしたが、加減してやる余裕がなかった。やがて、弟の背に両手を回したまま動かずにいるソーの背中にも手が回り、とん、と微かな振動が与えられる。その瞬間、瞳の奥が焼けてしまいそうなほどに熱くなり、ソーは目を開けていられなくなった。腕の中にある肉体にぬくもりと呼べるものがあるのかはわからない。しかし、弟は確かにこの場に存在している。その事実が、ソーの肩を震わせている。
 しばらくの間、ソーは少しも動かなかった。ロキも兄を慮っているかのように黙っていた。しかし、一体どれくらいそうしているのかわからなくなり始めた頃、わずかな違和感を覚え、ソーは顔を上げてロキを解放した。背中に感じたちくりとした小さな違和感には覚えがある。まさかと思いながら視線を下げていくと、なんと己の胴体にナイフの柄が生えているではないか。腰の上、背中と腹の境目辺りに見覚えのある柄が突き刺さっている。
 同様に視線を落としたロキも「あ」と短くこぼした。妙なことだが、ソーの体に柄を生やした張本人もどこか驚いた様子でナイフを見下ろしている。それから、少しの沈黙のあとであからさまな“しまった”という表情を浮かべて兄の顔色を窺い始めた。
「……ロキ」
「いやあ、すまない兄上、あまりにも苦しかったからつい、手が勝手に……」
「お前というやつは……」
 ソーの体の周りを細かな雷電が走り始めたことに気付いたロキは、顔をしかめて距離を取り、慌てて身をひるがえした。
「くそっ、謝ってるだろう! こんな場所で力を使うな、この脳筋!」
「お前こそ気軽にひとを刺すんじゃない! もう子どもじゃないんだぞ!」
「力の使い方を覚えるべきなのはあんたの方だろう! ラブの方がよほど制御できてるぞ!」
「ラブは今関係ない!」
 胴から抜いたナイフを地面に投げ捨てたソーが走り去るロキのことを追いかけ始める。足を動かしつつちらりと背後を確認したロキは、心底嫌そうに表情を歪めた。そんなロキを追うソーの動きは若い頃に比べると格段に劣っていたが、二人の距離は縮まりも広がりもしない。ソーは怒鳴り声をあげながら、ロキに気付かれないようにそっと口元で笑みを形作る。
 老人と青年の義兄弟のおとなげない怒鳴り合いは泉から続く庭園まで響き渡り、何事かと顔を覗かせた両親や友人たちは互いに顔を見合わせた。そして、懐かしい声に苦笑を浮かべながらも頷き合い、当面は見守ることにした。
 ヴァルハラの片隅にたたずむ大樹のふもとに存在する、現世を生きる人々を映し出す泉は、今も養い子の顔を映しながら空からの光を反射してきらきらと輝き、周囲一面を眩いばかりの光で満たしている。
 泉の周囲を走り回るふたりの影は、いつまでも光の中を泳いでいるかのようだった。

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