そして、ドアは開かれる *

  Ⅵ

 革靴が床を踏む音がする。その足音の持ち主が教室の中に入ってきたことには気付いていたが、アルバスはあえて振り向かずに目の前にいる生徒に言葉をかけ続けた。今日の授業で失敗続きだったと気落ちしている少年にコツを教え、いくらかやる気を取り戻した姿を笑顔で見送る。少年は教室の出入口近くに立っている男の存在に気付き、すれ違いざまに挨拶してからドアを開けて出て行った。少年に挨拶を返した男は、二人きりになったことを確認して、アルバスのもとへと足を進める。
「やあ、テセウス。よく来たね」
「お久しぶりです、アルバス」
 二人は向かい合って笑顔を見せ、握手を交わした。その手が離れたところでアルバスは踵を返し、話を始めながら教卓に浅く腰掛けて、テセウスの方へ向き直る。
「それで、今日は闇祓い局局長として? それとも、テセウス・スキャマンダーとしてかな?」
「両方です。どうして僕がここまで来たのか、あなたならわかっているでしょう?」
「……おそらくね」
 アルバスが肩をすくめてみせても、テセウスは表情を変えなかった。畏まった様子で姿勢を正し、少しだけアルバスとの距離を詰める。
「魔法省からあなたに協力を依頼します。ゲラート・グリンデルバルドの信奉者の解呪、もしくは治癒について」
「手紙でも伝えたが、私にできることはないよ。解呪も治癒も、一流の識者が君のもとにいるだろう。専門家の意見を聞くべきだ」
「確かにあなたの言うとおりだ。でも、あなたしか知らないこともあるでしょう、アルバス。あの男の癖や、好む技術、手法……あなたの専門だ。それらが解決の糸口になるかもしれない」
 〝恋人だった〟あなたの――という言葉を使わなかったのは、彼なりの気遣いだろうか。秘密を打ち明けたあともアルバスの意思を尊重してくれていた相手にそう言われては、返す言葉もなかった。
「……わかった、改めて時間を作ろう。あとでフクロウを飛ばすよ。ああ、ただし、この件は内密に」
「ええ、ご協力に感謝します」
 テセウスは慇懃に頷く。
 事務的な用件が片付くと、そこで会話は途切れてしまった。だが、テセウスはまだ何かを考えているようだ。わずかに視線を落として思考している様子が見て取れるが、話し出そうとはしない。
 アルバスとしてはこのまま待っていても構わなかったのだが、それでは一向に話が進まなさそうだと判断して、こちらから口を開くことにした。
「仕事の話はまとまったようだ。では、君個人としての用件を聞こうか」
 そう言うと、テセウスは視線を上げてアルバスを見た。それからさらに何かを思案して、ゆっくりと窓の外に目線を移す。そして、窓の外に続く青空を眺めながら静かに話し始めた。
「……鳥を、飼い始めたとか」
「なんだって?」
「さっき、中庭を歩いてるときに珍しい鳥が飛んでいるのを見ました。生徒が言ってましたよ。『ダンブルドア先生の鳥だ』って」
「ああ、少し前に、怪我していたところを世話したんだ。そうしたら、なつかれてしまってね。ときどきやってくるんだよ」
「あなたが鳥を飼うとは、意外でした」
「それについては自分でも驚いてるよ、今でもね」
 テセウスは、その言葉にはすぐ応えなかった。やはり何かを考えているようで、時間をかけて視線を室内に戻し、まっすぐにアルバスを見据える。そうしてからも、少しの間、言葉を選んでいるようだった。アルバスは急かすことなく、正面から視線を受け止めて次の言葉を待つ。やがて、テセウスの口は再び動き出した。
「……アルバス、僕は、愛する人を奪われるなんて経験は、誰にもしてほしくないと思ってます。誰であってもです。でも、そのためなら犠牲を払ってもいいとは思わない。誰かの愛する人を奪うことになったとしても、より多くの人を守るためなら、僕は杖を抜きます」
「テセウス、君は正しい。……私も同じ考えだ」
 二人はそれきり黙って、しばらくの間、互いを見合っていたが、やがて緊張を解いて姿勢を崩した。テセウスの顔にわずかばかりの笑みが浮かぶ。
「それを聞いて安心しました。すみません、本当は私的な用件なんてなかったんです。ただ、少しあなたと話したいと思っただけで」
「謝ることはないさ。君とのおしゃべりならいつでも歓迎するよ」
「ええ、でも、それはまた別の機会に。もう戻らないと。仕事が山積みなんです」
「わざわざすまなかったね。気を付けて」
 礼をして教室を出て行くテセウスの後ろ姿を見送ってから、アルバスは軽く息を吐き、ゆるゆるとネクタイを撫でた。
 お目こぼしに預かった……ということなのだろう。テセウスがどこまで正確に把握しているのかはわからないが、鳥がゲラート本人だとは考えていないにしても、アルバスがゲラートと繋がっていることは察しているに違いない。
 加えて、私的な用件はなかったというのも嘘だとアルバスは考えていた。おそらくは、ゲラートの行動に心当たりがないか調べるために来たのだ。アルバスの秘密が万が一にも漏れることがないよう、手紙ではなく、わざわざ個人的にホグワーツに足を運んでまで。そして、何かに勘付いた。
 テセウスは優秀で思慮深い男だ。闇祓い局局長の立場は伊達じゃない。それなのに、アルバスのために口をつぐんでくれている。そうやって友人の優しさに甘えていることに自嘲しながらも、アルバスの指先はやはりネクタイの上を滑る。

      *

 数十年ぶりにゲラートと体を重ねたあの日、行為を終えてもベッドを出る気になれず、結局、アルバスがホグワーツに戻ったのは次の日――日曜の昼頃だった。
 まず初めに、自室に戻ったその足でミネルバのもとを訪ね、無事と礼を伝えた。最初は怪訝そうな顔を見せていたミネルバだったが、アルバスが丁寧に感謝の言葉を述べると、ようやく安堵の笑みを浮かべてくれた。その笑顔を見て、自分が考えていた以上に心配をかけてしまったらしいと深く反省したのは記憶に新しい。
 そうして、アルバスは何事もなかったかのように教師として過ごす日々に戻ったのだが、以前とは少しばかり心境が変わっていた。
 あの日、ローブを身にまとい、疲れた体を横たえてふたりで過ごしたベッドの中で、アルバスとゲラートは様々な話をした。共に過ごした夏の思い出や、会えなかった日々の記憶を共有していくさなか、アルバスはふと思い立ち、改めてゲラートの思惑について尋ねたのだ。
 アルバスのもとに通い、アルバスを家に招くことが、なぜ目的達成に繋がるのか。過程を半分だけ終えているとはどういうことなのか――その疑問に、ゲラートはこう答えた。
『私だけが未来を変えようとしても意味がないからな。君自身に抗おうとする意思がなければ』
 つまり、この男は、アルバスがその手を取るのを待っていたのだ。アルバスがゲラートの話に耳を傾け、共に生きようと思えるようになるのを待っていた。
『……ということは、君の目的は達成されたことになるのかな?』
 そう言って笑うアルバスに、ゲラートはにやりと笑うことで応えた。
 アルバスはゲラートの仕掛けた罠にまんまと嵌まったらしい。しかし、賭けに勝ったのはアルバスの方だ。己の命を盾に、ゲラートから革命という選択肢を奪った。その眼で視たアルバスは老人だったというから、ゲラートが〝アルバスが殺される未来を変える〟という計画に飽きない限り、今後、世界がひっくり返ることはないだろう。そして、ゲラート・グリンデルバルドという男は執念深く、ちょっとやそっとのことで飽きたりもしなければ、誓いを違えることもないということを、アルバスはよく知っている。
 こうして同じ未来を見据えている今なら、過去の痛みを共有できるのかもしれない。そう思ったアルバスは、持ってきていた壊れた血の誓いをゲラートに見せた。
 二つに割れた銀細工を見て、ゲラートはわずかに表情を曇らせた。アルバスから受け取ったペンダントトップの残骸を哀愁が混じるまなざしでじっと眺めて、その手でそっと握り締める。しばらくそうしたあとで、ゲラートはもう片方の手に杖を引き寄せ、杖先をゆらりと振り始めた。
 ゲラートがこぶしを開くと、手の中にあった二つの銀細工が宙に浮かび上がり、するするとほどけて形を変えていく。それはやがて、繊細な細工が施された揃いの銀の指輪になった。空中を漂う指輪を戸惑いながら見上げて、アルバスがおずおずと口を開く。
『ゲラート、私は、互いを縛るようなものは、もう……』
『これはもう魔力もない、ただの飾りだ。何も誓えないし、なんの意味もない。だが――』
 ゲラートが言葉を区切ったタイミングで、浮遊していた指輪がゆっくりと降りてきて、ゲラートとアルバス、それぞれの手にひとつずつ収まった。
『――なんの効力もないこれが、あの頃は欲しくてたまらなかった』
 ゲラートの声を聞きながら、アルバスは手のひらに乗った銀の指輪をそっと撫でる。
 あの頃、ゲラートと直接そんな話をしたことはなかったが、きっと思っていることは同じだった。本当に欲しかったのは、不戦の誓いなどではなく、男女のように生涯を共に生きるための誓いだ。若さゆえに随分と歪んだ形で実行し、そのうえ悲劇しか生まなかったが、今なら違う受け止め方ができるだろうか……。
 アルバスは指輪を大事に握り締め、隣に座るゲラートの顔を引き寄せて口付けた。ゲラートもそれに応えて、触れるだけのキスを交わす。それぞれに指輪を握り締めてはいたが、それ以上、言葉を交わしたりはしなかった。

      *

「大丈夫だ、テセウス。もしものときは、もうためらわない」
 広々とした一人きりの教室で、ぽつりとアルバスが呟いた。その手は変わらず、ネクタイのつるりとした生地を撫でている。正確には、シャツの下にある、チェーンを通して身に着けている銀細工の指輪を――だ。普段は服の下に隠しているその指輪にアルバスが誓ったのは、ただひとつ、
〝自分のわがままな賭けの責任は自分でとる〟
 ということだ。そして、この誓いが果たされる日が来なければいいと、心の底から願っている。
 アルバスがネクタイから手を離して窓の外を見ると、ついさっき話題にのぼったばかりの鳥が、周囲を警戒するかのように旋回している姿が視界に飛び込んできた。近くに何かあるのだろうかと気にかかり、窓際に立って地上を見下ろす。すると、ホグワーツを出発するために門に向かって歩いているテセウスの姿を見つけた。どうやら、ゲラートはいまだにスキャマンダー兄弟のことが気に食わないらしい。
「まったく……人の気も知らないで」
 テセウスの気遣いのおかげで咎められずに済んでいるというのに、やさしい友人にまで嘘をついているこちらの身にもなってほしいものだ。今度、ゲラートの家を訪ねた際には、気苦労が増えた分だけ、たっぷりと労わってもらわねばなるまい。
 そんなことを考えながら、アルバスは、優雅に飛ぶ鳥を見て大きくため息をつき、そのあとで、ふっと小さく笑みをこぼした。

    * * *

 それからしばらくして、ホグワーツの生徒たちの間で、とある噂がまことしやかに語られることになる。

『ダンブルドア先生は美しい鳥を飼っている』

 ときどきホグワーツの上空に現れる、白銀の尾羽を持つその鳥は、アルバス以外の人間がいるときは部屋に近寄らず、地上に降りてくることもない。そのため、鳥を間近で見た者は存在しない。
 だから、その鳥が色素の薄いオッドアイの瞳を持っていると知っているのは、アルバス・ダンブルドアそのひとだけなのだ。

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