Ⅴ
次の週末までの二日間は、アルバスにとって、ここ数ヵ月でもっとも長く感じる期間になった。人前では普通に振る舞っているが、その実、心は遠くにあることを自分自身が一番よく理解している。
――白黒はっきりさせるべきなのかもしれない。昔のように互いに深手を負う前に。ゲラートが裏で革命を進めていても対処できるうちに……。
一人でそう心を決めて、金曜日の夜にミネルバのもとを訪ねたアルバスは、一ヵ月前と同じように「万が一、私が戻らなかったら部屋を探してくれ」と頼んだ。それを聞いた途端にミネルバの顔色がさっと変わる。数週間前に途絶えたはずの頼みごとを改めてされたのだ。これまでとは何かが違うと察したのだろう。みるみるうちに眉間にしわが集まっていき、アルバスを見上げるまなざしが険しくなる。
「アルバス、あなた、一体何をして……」
「言えないんだよ、ミネルバ」
「他人に言えないようなことを、私にさせるつもりなんですか?」
「……そうなるかな」
アルバスが諦めとも懇願ともつかない表情であいまいに笑うと、ミネルバの視線はますます厳しいものになった。もはや、ほとんど睨み合っているといっても過言ではない。ひりつく空気の中で、アルバスはそれまで浮かべていた笑みをしまい込む。
「すまない、私のわがままに付き合ってくれないか」
それは誤魔化しのない、アルバスの本心からの言葉だった。だが、ミネルバからの返答はない。沈黙が二人の間を支配し、取り囲んで、周囲の空気を冷やしていく。
そんな、いつまでも続くかと思われた静けさを破ったのは、諦めを含んだミネルバの囁きだった。視線は外すことなく、向き合ったまま、険の取れたまなざしがアルバスに降り注ぐ。
「……わがままだと、わかっているのね」
「ああ」
「それでも、それを選ぶんですね」
「……ああ」
アルバスが静かに頷く。ミネルバはその姿もじっと見つめて、やがて小さくため息をついた。
「日曜の夜、夕飯前には絶対に部屋にいてください。それ以上は待ちません」
「……ありがとう、ミネルバ」
「お礼はあなたが帰ってきてから改めて受け取ります」
「ああ、まったく、そのとおりだ」
年下の友人に随分甘えているな、とアルバスはそっと苦笑する。そして、その場でミネルバに寝る前の挨拶をして自室に戻り、パジャマに着替えて、ろくに眠れないだろうとわかっていながらベッドに入った。
案の定、その日はまんじりともしないまま夜が明けてしまった。朝日がカーテンの向こうから射し込んでくる頃に起き出して支度を済ませたが、早朝から他人の家に押しかけるわけにもいかず、何をするでもなくそのときを待つ。そうしてアルバスが動き始めたのは、午前十時を過ぎたところだった。
万が一のための仕掛けが正しく設置されていることを確認し、引き出しから例の小さな鍵を取り出して、すっかり手に馴染んでしまったそれを握りしめる。
そのまま移動してしまおうとしたのだが、ふと思い立って握っているこぶしを開いた。手の中の鍵と机を交互に見て、机の一番下の引き出しに手を伸ばし、中から、木で作られた繊細な彫刻が美しい小箱を取り出す。そっと開けられたその箱の中には、真っ二つに割れた血の誓いの残骸が収められていた。もはやなんの効力もない、壊れた銀細工。未練がましく捨てられずにいるそれが、ゲラートをこちら側に留める一助くらいにはなるかもしれない――そう思ったのだ。
アルバスは壊れたペンダントトップをきつく握りしめてから胸ポケットに大事にしまった。そして、再び鍵を握って目を閉じる。次の瞬間には、一週間ぶりに見るゲラートの家が目の前に建っていた。
小さな鍵を握り締めたまま足を踏み出すと、さく、と雪を踏む音がした。近隣に目立った家屋も人通りもないせいで、いつ訪れてもこの場所に変化は見られず、ここだけ時間が止まっているのではないかと錯覚しそうになる。
まるで自分たちのようだな――と、アルバスはぼんやりと考えた。時間だけは確実に流れているのに、本質は少しも変われていない。そのせいでここまで事態を長引かせてしまった。だが、そんな日々も今日で終わるはずだ。どんな結果が待っていようと、何かは変わる。
そう腹を決めて、アルバスは小さな鍵を鍵穴に差し込んだ。鍵を回すと、カチャ、という音と共に、錠が動くわずかな振動が手に伝わってくる。役目を終えた鍵をポケットにしまい、深呼吸してからドアノブを回す。ゆっくりと開いたドアの向こう側にある部屋は、これまでと同じようにあたたかくアルバスを迎え入れた。冷えた頬に熱が集まり、無意識に入っていた力が抜けていく。
アルバスがドアを閉めると、同じタイミングでゲラートが奥の部屋から現れた。
「よく来たな、アルバス」
「君が用意した鍵のおかげで一瞬だよ」
「それもそうか」
勝手知ったる他人の家とばかりに、案内されるまでもなく、アルバスは玄関先で脱いだコートをかける。ゲラートはそれを気にも留めず、キッチンに立った。そして、こちらも手慣れた様子でポットと二人分のカップを用意し始める。
アルバスは立ったままその後ろ姿を眺め、問題なく腕が動くところを見てほっと胸を撫で下ろしていた。そのまま準備が終わるのを待ち、浮遊するティーセットを連れて歩き出したゲラートのあとについていく。
ゲラートが今日のティータイムの場所として選んだのはリビングのソファだった。絨毯と同じように繊細な刺繍がなされている、肘掛けの木目が美しい、二人で座っても余裕があるほど大きなソファ。浮遊しているティーセットをローテーブルの上に乗せながら、ゲラートがソファに腰掛ける。続いて、アルバスも隣に座った。
それぞれの前に置かれたカップに熱い紅茶が注がれる。そして、アルバスの前にだけ、クリームがたっぷりと乗ったケーキと小さなフォークが置かれた。ゲラートは紅茶に、アルバスはケーキに手を伸ばす。
「……うまい」
「それはよかった」
甘いクリームとふわふわのスポンジを味わいながら、アルバスは呟いた。次々と口内に運ばれていくケーキは、動き出すこともなければ、しゃべったりもしない。ゲラートがアルバスのために用意する菓子は、大抵がマグルの店のものだった。マグルの菓子を好んで食べるアルバスにとっては嬉しい歓待だったが、それは同時に、ゲラートが行方知れずの部下とまだ繋がっていることを示していた。そこから導き出される可能性を考えると、アルバスの心は曇る。
これらの菓子は、彼のもとに残った部下が買いに行ったものなのだろう。そう判断したのは、ゲラートがマグルの店に精通しているとは考えにくく、自ら足を運んでいたなら、その手柄を隠すとも思えないからだ。顔も知らない信奉者の仕事がこんなかわいいお使いだけならなんの問題もないが、自由に使える〝手足〟を持つゲラートが、今後も悪巧みに利用しないという保証はない。
ケーキを半分ほど食べたところで、アルバスはフォークを置いた。ゲラートが淹れた紅茶を飲み、カップもテーブルの上に戻す。
「ゲラート、話をしよう」
アルバスは上半身を隣に向けて、できるだけ向き合える姿勢を取って語りかける。ゲラートはそれをちらと横目で見てから、ゆっくりとカップをソーサーの上に置いた。
「話ならずっとしてきただろう?」
「そうじゃない。……わかるだろう」
「……いいだろう、アルバス。話をしようじゃないか」
うっすらと笑みを浮かべて、ゲラートも同じようにアルバスに向き合った。ソファの背に肘を置き、足を組んで、余裕たっぷりといった様子でアルバスの顔を見つめて、相手が話し始めるのを待っている。
アルバスは負けじとゲラートの顔を見つめ返して、時間をかけて言葉を選んだ。
「これからどうするつもりだ」
「どうする、とは?」
「私を家に招いて茶を飲んで、ホグワーツを調べて、どうするつもりなんだ」
ゲラートは『何をわかりきったことを』と言わんばかりに吐息だけで笑う。そして、姿勢ひとつ変えずに聞き返した。
「当初の目的を忘れたのか? アルバス」
「……私が死ぬ未来を変える」
「そうだ。そのための過程は半分は終えている」
その言葉と同時に、ゲラートはアルバスの手を取った。急に他者の体温に触れて、ぴくり、とアルバスの指が微かに動く。だが、抵抗はしない。それを同意と受け取って、ゲラートは掬い上げた指で遊びながら話を続ける。
「アルバス、私はマグルが嫌いだ。あれのせいで我々が虐げられているなど、反吐が出る」
言葉の荒さには似合わない優雅さで、ゲラートが握り込んでいる指先に口付けた。今度はアルバスの指にもわずかばかり力が入る。しかし、それを気にすることなく、息がかかる距離に手を引き寄せたまま、ゲラートはアルバスを鋭く睨み付けた。
「だが、それ以上に堪えられないことがあると知った」
「それは……」
「それは、君が! どこぞの知らない男なぞに殺されることだ……!」
そう吐き捨てた瞬間、ゲラートの手に強く力が入り、握られているアルバスの手がわずかに痛んだ。だが、それくらいではゲラートの怒りは収まらない。
「あの男……! 〝最強〟とうたわれる君があんな男に殺されるなど、到底許せるものではない……っ!」
ゲラートは記憶の中の、その眼で視た男と対峙しているようだった。瞳の奥が燃え上がり、今にもその男を殺さんばかりに目つきが鋭くなる。それに合わせて指の力もますます強くなり、アルバスは小さく息を詰めた。ぎり、とゲラートの指先が手のひらに食い込む。痛みについ顔をしかめてしまったが、手を預けたまま、平常心で苦痛を隠してもう一度問いかける。
「それが、どうして私をここに招くことになるんだ? どうしてこんな、共に過ごすだけの時間を……」
「示すためだ」
「……何を」
「君を優先すると。私が口で何を言ったところで、君は信用しないだろうからな。なら、行動で示すしかない」
「そのために、わざわざ危険を冒したのか?」
「だが、そうする価値はあった。現に、君はこうしてここにいる」
アルバスの瞳が、期待と不安のはざまで揺れる。
「……私はもう、君と同じ道は歩めない」
「そうだな。君は私のもとへ来てはくれなかった。私たち二人が揃っていれば、世界はとっくに変わっていただろうに……残念だ。だが、仕方がない。言っただろう? 優先すべきものが変わったんだ。君が来てくれないなら、私が君のもとへ行くしかない」
「君が――私たちが掲げた革命を捨てて?」
「そうでもしなければ、君は死に抗おうとしないだろう」
ゲラートは手の力を弛めて、いたわるように指先でアルバスの手のひらを撫でた。
アルバスの体に緊張が走る。武力を介さずゲラートを止めるという、長年の願いが叶うのだと期待せずにはいられない。唾液を飲み込んで、急に感じ始めた喉の渇きを誤魔化しても、覗き込んでくるオッドアイから目が離せず、身動きが取れない。
「どうしてそこまで……」
「わからないのか?」
ゲラートの手のひらがアルバスの手のひらと合わさり、かつての再現のように指が絡む。アルバスから目を離そうとしないゲラートの瞳は、熱をはらんで揺れていた。怒りとも憎しみとも違うその熱が、アルバスを内側から焼いていく。鼓動が勝手に速くなり、唇が微かに震える。
それを尋ねるのは恐ろしかった。だが、そうであってほしいとも願っていた。
アルバスは細く息を吸い込み、震える声で、一語一語を確かな音にしていく。
「ゲラート、わたしを、あいしていたのか……?」
こぼれ落ちたのは、ひどく弱々しく、掠れた声だった。
だが、ゲラートはその声をしっかりと拾い、わずかに目を見開いて表情を歪ませた。ゲラートの表情を変えたものが胸の痛みなのか、あるいは悔しさなのか、アルバスにはわからない。うっすらと口角を上げた唇が時間をかけて動くさまを、黙って見ているしかなかった。
「……わからなかったのか?」
ゲラートの声もまた、わずかに掠れていた。その声を聞いた途端にアルバスの視界が滲み始める。
わからなかった。わからなくなっていた。あの頃、アルバスの中にいた恋という名の怪物はあまりにも強大で、多くのことを自分に都合よく解釈していたんじゃないかと、あの事件のあとはそう考えるようになっていた。彼を愛するあまり何も見えなくなっていて、そのせいで、ゲラートのまなざしやしぐさから必要以上の意図を読み取り、『愛されている』と思い込んでいたのではないのかと。本当は、アバーフォースがすべて正しかったのだと。次第にそう考えることの方が多くなった。
だが、どうだろう。今、目の前にいる男は、アルバスと同じように緊張から声を枯らし、昔と同じ熱のこもった瞳でアルバスを見つめている。それを知って、アルバスはようやくゲラートの手を握り返した。されるがままになるのではなく、己の意思でその手を取ったのだ。
アルバスの青い瞳からこぼれ落ちた雫をゲラートの唇が掬い取る。頬に触れた熱は、そのまま唇へと重なった。
そっと触れて一度離れる。続けて、互いに言葉を交わすことなくもう一度唇を重ねた。すると、どちらからともなく繋いでいた指がほどけて、今度は互いの顔に触れた。頬を撫で、耳をくすぐり、唇が離れてしまわないよう引き寄せる。
アルバスの頭の片隅には『本当にこれでいいのか』と囁く自分もいたが、その声は、唇に触れる吐息の熱さで溶けて消えてしまった。アルバスは自らの唇を押し付けて、侵入してくる舌を受け入れる。ゲラートの舌先が口内をくすぐるだけでどうしようもなく体温が上がり、あふれ出る唾液を無意識に飲み込んだ。
ごくり、と喉が動く音がしたのをきっかけに二人は離れた。唇を合わせていただけなのにわずかに息が上がっている。ぶつかる視線はどちらも熱に侵されていて、このまま引き下がることなどありえなかった。ゲラートの腕がアルバスの背中を力強く抱き込む。次の瞬間には、二人揃ってベッドの上に座っていた。
そこは、それまでいた部屋とよく似た内装の個室だった。床を覆う質のいいカーペットに、木製のクローゼットとサイドチェスト。座っているベッドもスプリングがきいていて、明らかに上質なものだ。先程の部屋とドア一枚を隔てて繋がっていた、リビングの奥にある部屋だろう……アルバスがゆっくりとものを考えられたのはそこまでだった。初めて入る寝室をじっくり見回す余裕もなく、ゲラートに押し倒されたのだ。
アルバスに覆い被さったゲラートが再び口付けを落とす。そして、服の上から全身を撫でさすった。太もも、腰、脇腹と順番に大きな手のひらが這い回り、まだ直接体温を感じているわけでもないのに、アルバスはぶるりと震えた。
それを部屋が寒いからだと思ったのか、ゲラートが指を鳴らすと暖炉に火が灯った。パチパチと炎が弾ける音が口内に響いている水音に混ざる。それにまた興奮して、アルバスはゲラートの首筋に両腕を回して強く引き寄せた。抱きしめているのとほとんど変わらない体勢で自ら舌を絡ませる。吐息と鼓動の音がうるさい。互いの熱に夢中になって、急くように服を脱がし合う。ベストがただの布の塊になり、滑らかな肌触りのネクタイが手のひらをすり抜けて落ちていく。ボタンがひとつひとつ外されていき、シャツの前がはだける。そうして互いの肌があらわになったとき、ようやくゲラートの手が止まった。
開いたシャツの合間から覗くアルバスの肌をゲラートの指先がなぞる。呼吸の乱れを表して上下する胸元を撫でられたアルバスは、動き回る指先を目で追ってしまっていた。ゲラートの手は胸元の毛をくすぐり、胸の肉をそっと押し潰す。そのどちらも、昔、肌を合わせたときにはなかったものだ。
互いに歳を取った。青年だった頃の線の細さは消え失せ、しわができて皮膚はたるんだ。どうしたって肉は付くし、全身の体毛にも白いものが混ざっている。それらすべてに、互いが知らない年月が存在していた。それを確かめるかのように、ゲラートは少しずつ、アルバスの肌に触れていく。先程までの勢いが嘘みたいな、慎重な手つきだった。
性感を煽るような動きではないはずなのに、ゲラートの指が新しい場所に触れるたびにアルバスの肌は震えた。じくじくと内側から熱に蝕まれていくのを感じながらも、早く、と求めるのも違う気がして堪える。だが、体の反応はそう簡単に抑えられるものではなかった。
するするとアルバスの腹部を撫で回していたゲラートが不意に笑った。それを不思議に思ったアルバスが「どうしたんだ?」と尋ねるより先に、ゲラートの指がアルバスの局部を引っかいた。とっさに息を詰めると、それを見たゲラートが楽しそうに笑う。アルバスのそこはしっかり主張して布を押し上げていた。
「……久しぶりなんだ、仕方ないだろう」
「へえ? 久しぶりなのか」
「意地が悪いぞ」
「そんなことは知っていただろう」
不敵に笑われ、ぐ、と言葉に詰まる。
そうだ、そんなことは知っている。この男は昔からそうだった。あの頃も、アルバスが困ったり恥ずかしがったりするところを楽しそうに見ていたものだ。そのくせ、自分の弱みは見せたがらない。今だって、自分のことは話そうとしないのだから、本当に意地が悪い。だが、アルバスはゲラートの経験を問いただそうとは思わなかった。知ってしまったら、きっと平常心ではいられない。別の相手がいても仕方がないと頭ではわかっていても、それと感情は別物だ。
胸の内を侵食しようとしてくるもやを払おうと、アルバスはゲラートのシャツの襟を掴んで引き寄せ、いささか強引に口付けた。腰を揺らし、布の表面に触れているだけのゲラートの手に性器を押し付ける。その刺激でわずかな快感が体を駆け抜けて、はあ、と息を吐くと、ゲラートがまた笑った。そして、今度はすべてを飲み込むようなキスが与えられる。無遠慮に口内を貪られるさまは、まさに喰われているようだった。どちらのものともわからない唾液がアルバスのひげを伝ってシーツに落ちる。近付いたことでゲラートの硬くなった性器が布越しに腿に触れて、また体温が上がるのを感じた。
ゲラートは口付けたままアルバスのシャツの中に手を潜り込ませて、すでに尖り始めている乳首を指先で引っかいた。それをじっくりとつまみ、押し潰し、その感触を愉しむかのように何度もこねくり回す。そのたびにアルバスの体は小さく跳ねて、合わさっている口内に微かな喘ぎ声を注ぎ込み、いっそうゲラートを愉しませた。
やがて、息苦しさを感じたアルバスがシャツを繰り返し引っ張り続けたことで、ようやくキスから解放された。唾液で濡れたふたつの唇が荒い呼吸を繰り返す。
「……アルバス」
呼吸を整えようとしているアルバスを見下ろしながら、ゲラートはひげに覆われている頬に手を伸ばした。指先でひげにまとわりつく唾液を拭い、顎のラインを確かめるかのように手のひらで頬を包み込む。
ゲラートのまなざしを正面から受け取ってはいたが、その瞳が何を見ているのか、アルバスには読み取れなかった。自分がそうであるように、彼もまた、激情と感傷がない交ぜになっているのだろうか――そうだといい。そう願って、アルバスもゲラートと同じように手を伸ばす。
その頬に触れた途端に、なぜか胸が締め付けられた。長い、長い年月を感じる。こうして再び触れ合えるようになるまで随分と時間がかかってしまった。普段ならいくらでも言葉を巧みに操れるのに、今ばかりはどうしたらいいのかわからなくなって、アルバスはゲラートの髪をそっと撫でた。ひと房だけ色素の薄い白銀の前髪。それがアルバスの指をすり抜けて落ちると、ゲラートの表情が苦しげに変わる。そして、そのままアルバスの首元に顔をうずめた。
さっきはアルバスを喰らい尽くそうとしていた唇が、今度は遠慮がちに首筋に触れる。ちゅ、と音を立ててやわく肌を吸った唇は少しずつ移動していき、鎖骨から胸へ、そして腹部へと向かっていく。
さっきまでとは打って変わって優しい愛撫と、微かに肌をくすぐるゲラートの髪の感触に翻弄されて、アルバスは口元を手の甲で覆い隠した。少しでも違う刺激を与えられたら、あられもない声を上げてしまいそうだったのだ。
そんなアルバスの思惑を感知したかのようなタイミングで、ゲラートが脇腹を嚙んだ。そのあとで、とっさに声を殺したアルバスを咎めるみたいに同じ場所を舌でなぞる。ぬるりとした弾力のある舌の感触に、アルバスは堪えきれずに息を吐く。
「っ、ゲラート……、もう、脱がせてくれ」
くるしい、と続けようとしたが、それを口にする前に触れるだけのキスを与えられた。笑みを湛えたゲラートの手がアルバスのスラックスのボタンをくつろげて下着の中に潜り込み、すでに形を変えているペニスを撫でる。
待ち望んでいた刺激にアルバスの腰が揺れる。それにまた笑みを深くして、ゲラートはスラックスと下着、靴下までもをアルバスの脚から取り去った。剥き出しになったアルバスの下半身をゲラートがまじまじと見下ろしている。次の瞬間、じっとりとした視線に晒されたペニスがひくりと震えて上向いた。それに気付いたアルバスが顔を赤く染めると、ゲラートはうっそりと目を細める。そして、膝の裏を支えて大きく足を開かせて、肉付きのいい太ももに歯を立てた。
「ゲラート……ッ、いいから、早く続きを、」
「どうして? 前戯は大事だろう?」
「っぁ、今日は、もたない、から……っ」
ペニスの先端を一舐めされて、アルバスは腰を揺らしながら上擦った声で訴える。すると、その瞬間を目の当たりにしたゲラートの視線が変わった。それまでは自身の興奮をよそにアルバスの反応を愉しんでいたというのに、余裕は一瞬にして消え去り、飢えた獣のような鈍い光が瞳の奥底を支配する。
体を起こしたゲラートが手をかざすと、壁際にある戸棚の中から小瓶が飛び出してきてベッドの上に転がった。ゲラートはその青みがかった、手のひらに収まる大きさの瓶を拾う。
「それは?」
「ただの潤滑剤だ。体に害はない」
なんの感慨もなくゲラートはそう言ったが、アルバスは心中面白くなかった。黒いものが胸の中心に広がり始める。寝室にそんなものがあるということがどういうことか、わからないほど子供ではない。そんなことを考えたせいで顔をしかめてしまっていたのだろう。アルバスの表情の変化に気付いたゲラートは、少しの喜色を滲ませて再び覆い被さり、鮮やかなブルーの瞳を覗き込んだ。そして、低い声でそっと囁く。
「君のために用意した」
「……こうなるのも織り込み済みだったのか? 用意周到だな」
「どんな事態にも対処できるようにしておくのが、優秀な魔法使いだろう?」
宥めるようにかわいらしく唇を吸われて、アルバスは思わず笑ってしまった。
本当かどうかもわからないこんな言葉で、事実はどうでもいいと思わされている。なにしろ、ゲラートが今見つめているのはアルバスで、しかも、アルバスの機嫌を損ねないように気を配っているのだ。この傍若無人な男が、だ。それを『かわいい』と思うことがなければ、そもそもあの夏も間違った道を選ぶことはなかっただろう。
くすくすと笑いながら、アルバスからもゲラートにキスを贈る。
「はやく、それを使ってくれ。君と繋がりたい」
「っ、君はずるいな……!」
唸るように呟いて、ゲラートはアルバスの唇に噛みついた。勢い付いたまま上体を起こし、小瓶からとろりとした透明の液体を出してアルバスの後孔に塗り込み、固く閉ざされているそこに丁寧に潤滑剤を馴染ませる。
まだ入り口を撫でられているだけだというのに、指の感触にアルバスは身悶えた。久しぶりにその場所を使う感覚を呼び起こし、スムーズに受け入れられるように力を抜く。その瞬間に合わせて、ゲラートの指が体内に潜り込んできた。
「……っ、ぅ」
「痛むか?」
「いや、慣れないだけだ……」
はあ、と大きく息を吐き、ベッドに体を預ける。そうすると、少しは楽に受け入れられるようになった。
アルバスの反応を観察しながら、ゲラートがゆっくりと指を動かす。内部を探り、時間をかけて狭い腸壁を拓きながら、たっぷりと潤滑剤を足していく。しばらくすると指がすんなりと動かせるようになり、アナルからはぐちゅぐちゅと粘着質な音が聞こえ始めた。ゲラートの指がアナルのふちを擦るたびに、アルバスの脚が跳ねて甘ったるい声がこぼれ落ちる。挿入する指を増やしてさらに奥を探ると、アルバスが一際大きく体を震わせた。
「あっ、……そこ、っ」
「ああ、気持ちいいな、アルバス」
腹側のしこりを指の腹で押し潰されて、アルバスの腰がシーツから浮いた。ペニスを挿入するときのように、ゆらゆらと腰が前後に揺れる。全身から一気に汗が噴き出して、過ぎた快楽に眉根を寄せ、枕をきつく握ることしかできなくなる。掠れた声がひっきりなしにあふれて止まらない。
アルバスを視線で刺し続けているゲラートが自らの薄い唇を舐める。それを視界に捉えたアルバスの肌が急激に粟立った。快感が全身を駆け抜けて止まらない。ペニスは完全に勃ち上がり、先端からとろとろと先走りをこぼしている。
「げら、ゲラートッ、も、いい、っ……もう、いいから、いれてくれ……!」
「一度出しておけばいいだろう」
「もう、そんな、若くない……っ」
息も絶え絶えにアルバスがそう伝えると、ゲラートは少しだけ目をまるくしてから苦笑した。
仕方がないだろう。若い頃のように一度に何回も、というわけにはいかないのだ。君だって似たようなものだろうに……アルバスは視線だけでそう訴える。
ゲラートはその視線を無視して、最後にペニスをもう一舐めしてから指を引き抜いた。離れて行く舌とペニスの間を繋ぐ先走りを見せつけながら、羽織っていたシャツを脱ぎ、スラックスと下着も脱ぎ捨てる。
それを見たアルバスも腕に引っかかるだけになっていた自分のシャツを脱ぎ始めた。汗で湿って張り付くシャツを引き剥がそうと、のろのろと手を動かす。そうしていながらも、アルバスは目の前にいる男の裸体に見惚れてしまっていた。
――あの頃も今も、この男より美しいと思えるひとをしらない。
意図せず、熱のこもった吐息がアルバスの口からこぼれていた。それをキスで掬い取って、ゲラートは再びアルバスの脚を持ち上げた。自身のペニスにも潤滑剤を垂らし、先端を後孔に押し付ける。すると、刺激を求めて、入り口がひくひくと震えた。
ゲラートがつい小さく息で笑うと、アルバスの顔が真っ赤に染まる。
「はやくって、ずっと言ってたのに、きみが……っ」
「そうだな、私のせいだ」
こんなときばかり、ゲラートはあっさりと自責を受け入れる。そう言われてしまっては文句も言えず、アルバスは黙り込んだ……はずだったのに、その隙にゲラートが腰を進めたことで、アルバスはちっとも黙っていられなくなってしまった。
「ぅ、あ……っゲラート、ッ」
「はあ、っすごいな」
ゆっくりと、確実に奥深くまで拓かれる。アルバスが細く声を上げるたびに、内壁が勝手にきゅうきゅうとペニスに絡み付く。おかげで、熱い粘膜に性器を包まれているゲラートも、快楽に飲まれないように気を張っていなければならなかった。
下腹部がぴったりとくっつくまで深く挿入されて、アルバスは、ほう、と甘やかな息を吐いた。快楽よりも、圧倒的な圧迫感よりも、ゲラートをこの身に受け入れているという事実に満たされている。ゆっくりと視線を上げていくと、そこには、全身に汗を滲ませて自分を見下ろしているゲラートの姿があった。赤く染まった白い肌が、彼も快楽を感じているのだと伝えている。たったそれだけのことに視界が揺れた。
恐る恐る手を伸ばすと、ゲラートの顔が近付いてきた。両手で頬を包み、髪を撫でてから、首に腕を回して熱い背中に縋り付く。ゲラートの両腕もアルバスの体を抱き込んだことで、互いを包み込んでいるような体勢になった。
その状態のまま、ゲラートは動き出した。激しい抽挿ではなく、ゆったりとした動きだったが、その分だけ粘膜が密着しているのがわかる。ゲラートのペニスが腹の奥を突き、前立腺を擦るたびに、アルバスの中は離れたくないとばかりに絡み付く。
事実、少しも離れたくなかった。体の内も外も、心まで、すべて溶けてしまえばいいと思うほどに、この瞬間を待ち望んでいたことにアルバスはようやく気が付いた。
じわりとまなじりが濡れる。きつく抱きついているせいで顔が見えないのをいいことに、アルバスはそっと涙を流した。は、と震える息がこぼれてもゲラートが顔を上げなかったのは、彼もまた涙していたからなのかもしれない。腕の中にあるゲラートの背中がほんの少しだけ震えた気がしたが、半分快楽にのまれている頭では、はっきりとしたことはわからなかった。
潤滑剤が擦れる独特の水音と、二人分の荒い呼吸、囁くような喘ぎ声が室内に満ちている。アルバスがゲラートの名前を呼ぶのと同じだけ、ゲラートもアルバスの名前を呼んだ。
「アル、ッアル、アルバス……っ」
耳をくすぐる切羽詰まった声に、アルバスの胸はどうしようもなく締め付けられる。その声に応えようとして、頷く代わりにゲラートの耳にキスをした。何度も何度も、やんわりと耳を噛んで唇を寄せて、愛するひとを受け入れる。
そうしていよいよ限界を迎えようというときに、ゲラートがゆっくりと頭を持ち上げた。真上からアルバスの瞳を覗き込み、そっと額同士を触れ合わせる。そして、一際小さな声で囁いた。
「愛している、アルバス」
その言葉は、この一ヵ月の間に交わしてきたどんな言葉よりも大事に紡がれていた。脳に届くよりも先に心に響く声音が、アルバスの涙腺を再度緩ませる。
「私も……私もだ、ゲラート。ッ、愛している、愚かなほどに……っ」
絞り出した声は、情けないくらいに揺れていた。溢れ出した涙がシーツに沁み込んで消えていく。
ゲラートはアルバスの唇を啄んでから、わずかに体を浮かせて下腹部へと手を伸ばした。二人の間で限界を訴えて震えているペニスを握り込み、先走りを塗り込んで刺激する。
「あっ、ゲラート……っ、だめだ、も、いく……ッ」
「ッ、ああ、わかってる……!」
「あっア、ッ――……!」
びくり、と大きくアルバスの体がしなり、吐き出された精液が腹を汚した。
射精したばかりの波打つ体を押さえつけるように抱き込み、開きっぱなしの唇に噛みついて、ゲラートもアルバスの中に欲を吐き出す。すべて体内に擦り付けるかのようにしばらく腰を揺らしてから顔を上げると、腕の中のアルバスは、ぼんやりとゲラートの顔を見上げていた。
二人とも全身が汗と唾液にまみれ、髪もぐちゃぐちゃに乱れていたが、互いに、これ以上に素晴らしいものはないと感じていることだけは確かだ。それがわかると自然と笑みが込み上げてきて、二人は随分と久しぶりに屈託なく笑い合った。