Ⅳ
あの家からの帰り際、アルバスはゲラートの言葉に応えなかったが、結局、次の週も古びた一軒家を訪れていた。
アルバスの足をあの家まで運ばせたのは、ゲラートが玄関先で言ったように、『自分が彼を見張らなければ』という使命感だ。だが、これは理由の半分に過ぎない。もう半分は、『彼がこれまでの行いを悔い改めてくれるかもしれない』という希望だった。それから、ただ『会いたい』と思ってしまった気持ちがほんの少し……。こうしてゲラートの言葉に従っているのは、それが世界のために必要なことだからだと自分に言い聞かせてはいたが、胸の内に渦巻く想いはすべて真実だということも知っていた。ゲラートを危険だと思う自分も、恋しいと思う自分も、どちらも自分であることには変わりない。そうして完全には信用できないまま、週末がやってくるたびに、アルバスは一軒家を訪ねるようになっていた。
当のゲラートは、そうなると知っていたかのごとくアルバスを出迎えた。最初の日に宣言したとおり、アルバス好みの甘い菓子を用意して茶を振る舞う。会ってすることといえば、対面して、あるいは隣り合って座り、話し込むだけ。二人は、出会ったばかりの頃とも違う静かな時間を過ごしていた。
そんな休日だけの逢瀬が二度、三度と続き、ゲラートが自分に危害を加えることはないと確信したアルバスは、ミネルバに後始末を頼むのをやめた。万が一のときのために、自分の行き先を知らせる手がかりとなる自室の仕掛けまでは解除しなかったが、それが使われることはないだろうとも思っている。
少しずつ、少しずつ、アルバスの中の、改心を期待する心の方が大きくなってきている。それほどまでに、ゲラートが水面下で動いている気配がないのだ。いつ訪ねるか伝えていないのに、あの家のドアを開けると必ずゲラートがいたし、アルバスが訪ねることのない平日は鳥の姿でホグワーツの近くを飛んでいることもあった。多少距離があろうとも、あの美しい尾羽を持った姿を見間違えたりはしない。
目立った事件もないまま、静かに、緩やかに、時間が過ぎようとしていた。そんな状況に変化が訪れたのは、アルバスがゲラートの家を初めて訪問してからちょうど一ヵ月を過ぎた頃だ。
その日のアルバスは、朝から授業をこなし、子供たちのいたずらに対処し、同僚の話を聞いてはさりげなくアドバイスを伝える、繰り返される毎日の中でも少しだけ忙しい一日を過ごしていた。ときは水曜日、週のなかば。大人は日々の疲れを感じ始める頃だが、子どもたちはまだエネルギーが有り余っている。授業終わりの教室でその差異を感じてこっそり息をついたアルバスは、ふとした瞬間に、ゲラートの家に行く日のことを考えている自分に気付いて苦笑した。
見張りに行っているはずだった。賭けの結果を確かなものにするために、義務感から毎週あの家に通っている……そのつもりだったのに、いつの間にかゲラートの隣は、ほかの誰といるよりも安らぐ場所になってしまっていた。
――あの夏から何も変われていないじゃないか。
そう改めて突き付けられているようで、自嘲せずにはいられない。アルバスを正しく知っているのも、自然と通じ合えると感じるのも、結局、ゲラート・グリンデルバルドという男だけなのかもしれない。その事実にどうしようもなく胸が震える。そして、その感覚がまた、アルバスの心を強く苛んだ。
同じ過ちを繰り返すわけにはいかないと覚悟を決めて、アルバスは週末までに己の感情を切り離すことにした。抱え続けている情を完全に消せはしなくても、押し殺すことくらいはできるはずだ。ブータンでもそうしたように。
……せっかくそう決めたというのに、タイミングが悪いことに、その日の夜に鳥が部屋にやってきた。机に向かっていたアルバスは、もはや定位置になってしまった窓際に鳥の姿を見つけたが、すぐに目を逸らし、そしらぬふりで仕事を続けた。ゲラートの家に赴くようになってからも、ホグワーツにやってきた鳥を毎回自室に招き入れているわけではなかったし、満足すれば勝手に帰るだろうと思ったのだ。だが、この日はそうならなかった。
アルバスが書類を処理していると、コツ、と窓ガラスを叩く音がした。ゲラートが窓を開けるように要求したのは鍵を受け取って以来初めてのことで、アルバスは思わずペン先を走らせていた手を止めた。だが、今関わるのは得策ではないと判断し、緩く頭を振って仕事に戻る。それきり室内は静かになり、ゲラートも諦めてくれたのだろうと安堵しかけたそのとき、再び窓を叩く音が室内に響いた。しかも、今度はコツ、コツ、と窓を叩き続けている。
それを無視できるほどアルバスは悪人ではなかったし、さすがに何か理由があるのだろうと察せられた。小さくため息をついて、気休め程度に頭を整理してから立ち上がる。心を強く持て、と己に言い聞かせて窓際に立ち、鳥の姿を認めて窓を開ける。
窓は相変わらず鈍い音を立ててゆっくりと開いた。外にはいつもどおりの暗闇があり、窓際では鳥が蹲っている。そんな普段と変わらない風景の中に異物を見つけて、アルバスは思わず息をのんでいた。鳥の右側の翼の付け根が赤く染まっていたのだ。血痕の周囲の羽毛は毛羽立っており、明らかに外部から傷付けられた痕跡がある。それに気付いた瞬間、アルバスの顔から血の気が引いた。
動揺から言葉を失ったアルバスを見上げた鳥は、周囲にほかの人間がいないことを自身の目で確認してから、大きく翼を動かして主の許可なく室内に飛び込み、着地する寸前で人間の姿へと変化した。翼は二本の腕に収納され、鋭いくちばしは薄い唇となり、鳥と同じオッドアイを持った長身の男が現れる。
部屋の中心に立ったゲラートの肩は、鳥と同じように赤く濡れていた。ジャケットの肩口が裂けており、そこを中心にじわ、と血が滲んでいる。
「ゲラート……!」
窓を閉めることも、冷たい風が入り続けていることも忘れて、アルバスはゲラートに駆け寄った。慌てて杖を取り出し、傷の具合を確かめて、血が滲む場所に向かって先端を向ける。そうして呪文を唱えると、みるみるうちに血が止まって、裂けていた服まで元通りになっていった。
ゲラートは抵抗することなくその様子を見守り、服まで修復されたことを確認して「さすがだな」と呟いた。アルバスはそっと胸を撫で下ろし、腕を回して動作を確かめているゲラートの顔を覗き込む。
「誰とやりあった?」
たった今、治癒したのは、少しぶつかったなんて程度の傷ではなかった。ゲラートに明確な敵意を向けた相手がいるはずだ。鳥の姿をとっていたせいでろくに反撃できず、これだけの傷を受けたのだろうが、人の姿に戻ったとあればそうはいかない。自分を傷付けた人間をこの男が見逃すとは思えない。ゲラートのことも心配だが、それ以上に、その誰かの今後を思うと肝が冷えた。
ゲラートは、焦りが滲むアルバスの真剣な表情を横目でちらりと見て、暖炉のそばにある椅子に腰掛けて息をついた。肘掛けに置いた手を一振りすると、開いたままになっていた窓がいささか乱暴な音を立てて閉まる。
全身から滲み出る不快感を隠そうともせず、ゲラートはもう一度息を吐き出した。
「〝誰〟ではないな。あれが〝何〟かと聞かれても答えられないが」
「それはどういう……」
「森で襲われた。人ではない、野生の何かだ。あそこに何がいるのかは、君の元生徒の方が詳しいだろう」
そう言われて、アルバスは木々が生い茂った暗い森の風景を思い浮かべた。ゲラートが言っているのは、ホグワーツの敷地内にある禁じられた森のことだろう。確かに、あそこには多くの種族が共存しており、中には外敵に敏感なものもいる。ゲラートの話はおそらく真実だ。
相手が人間ではなかったことにアルバスは安堵したが、同時に別の懸念に襲われてもいた。ゲラートが森に入った理由に心当たりがなかったのだ。これまではホグワーツの周囲を飛んでいても見過ごしてきたが、子どもたちに害が及ぶようならもう看過できない。ゲラートが森に何か仕掛けを施そうと企んでいるなら、それを暴かなければならなかった。
「あの森には、君の興味を引くようなものはないだろう」
「ああ。だが、ホグワーツを知っておかなければ、いざというときに君を守れない」
当然のようにゲラートがそう言ったものだから、アルバスは思わず目をまるくしてしまった。多くの可能性を考えているアルバスだったが、その言葉は予期していなかったのだ。
アルバスから意外そうな視線を向けられたゲラートが苦笑する。
「私だって未来のすべてを知ってるわけじゃない」
「それは……そうかもしれないが」
「それとも、私がなんのためにこんなことをしているのか、忘れていたのか?」
ゲラートの双眸に射抜かれて、アルバスの心臓がぎくりと跳ねた。気まずさからうまく言葉を紡げなくなる。
問いかけに答えず沈黙してしまったアルバスのことを、ゲラートは色違いの瞳でじっと観察していた。それは心の奥底まで暴けそうな鋭いまなざしだったが、やがて、ふっと笑みをこぼしてゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……まあいい。そろそろお暇するとしよう。君以外の誰かに見つかるのは本意ではないのでね」
「もう大丈夫なのか」
「ああ、君の治癒術は完璧だ」
「ならいいんだが……気をつけて」
アルバスがそう声をかけると、ゲラートはわずかに目を見開いた。それからゆったりと目を細めて優しく微笑む。
「ではまた、あの家で、アルバス」
その言葉にアルバスが答える前に、ゲラートは窓を開けて、一瞬で姿を変えて飛び去っていた。
彼がこの部屋にいた痕跡は何も残っていない。だというのに、いまだにアルバスの心臓はばくばくと音を立てて大きく脈打ち、その存在をうるさいくらいに主張している。
……だめなのだ。あの瞳で見つめられ、微笑まれると、とうの昔に殺したはずの感情が顔を出す。顔に熱が集まるのを感じて、アルバスは手のひらで目元を覆い隠した。そして、大きくため息をつく。ゲラートのまなざしが、声が、脳裏に焼き付いて離れない。
ゲラートは『なんのためにこんなことをしているのか、忘れていたのか?』と問うてきたが、自分の命を使って仕掛けた賭けを忘れるはずがなかった。問いかけに答えられなかったのは、一連の行動には何か裏があるのでは……という考えを捨てられずにいるからだ。もちろん、未来を変えるための行動だと信じたいとは思っているが、実際に手放しで信じられるかというとそうではなかった。彼は、あまりにも多くの人間を犠牲にし過ぎている。
――未来への賭けを忘れることと、覚えていながら疑っていること、果たしてどちらがより残酷なのだろう。
何ひとつ答えを見つけられないまま、アルバスは部屋の中心で立ち尽くしている。鼓動が落ち着きを取り戻し、顔の熱が引いていっても、視界を覆う己の手を除けることができなかった。