Ⅲ
次の日、もしかしたら事態が動くかもしれないとアルバスは身構えていたのだが、これといった騒動も報道もなく、午後には肩透かしをくらったような気分になっていた。
ホグワーツはいつもと変わらず堅牢で、あちらこちらで沸き起こる生徒の笑い声と、時折発生する事故へのざわめきで満ちている。アルバスも普段通り生徒たちに呪文を教え、疑問に答え、教師としてきっちりと大勢の前に立っていたが、そうしている間もあの鳥のことが頭から離れなくなっていた。頭の片隅には常に鳥の姿があり、その行動から想像しうる限りの可能性がぐるぐると回り続ける。
何か対応を間違えただろうか。昨日、暖炉の前で椅子に乗りながら、あれは何を判断したのだろうか――。
そんな杞憂を抱えたまま一日を過ごし、夕食後、若干の疲労を抱えて自室に戻ったアルバスを待っていたのは、朝からずっと頭の中を占拠している例の鳥だった。アルバスが戻ってくるのを窓の外で待っていたらしい鳥は、部屋の主の存在を認めると、その硬いくちばしで窓をノックした。
鳥が訪ねてくるようになって初めての出来事に驚いたのは、ほかでもないアルバスだ。内心の動揺を押し殺してそろそろと歩み寄り、鳥が求めるがままに窓を開ける。
鈍く軋む音を立てて開いた窓の外から鳥がアルバスを見上げる。その瞳は昨日とは変わって、左右で違う色をしていた。右の眼が、薄い金にも銀にも見える色になっている。
そのことに気付いたアルバスは、訝しむよりも先に笑ってしまった。こんなもの、策士なのか、ただいじらしいのかわからない。だが、この変化のきっかけが、昨夜、アルバスの口からこぼれ落ちた言葉にあるということは確かだろう。そんな些細な事実にアルバスの胸は甘く痛む。そして、その痛みが生み出す衝動に突き動かされるまま、鳥の頭に手を伸ばしていた。
つるりとした羽が指先によく馴染む。おとなしく撫でられている鳥の様子にまなじりを下げたアルバスは、続けて鳥の背までゆっくりと手を伸ばした。そのときだ、首に何か引っ掛かっていることに気が付いたのは。
アルバスは手の動きを止めて、傷つけないように慎重に鳥の首元をまさぐった。すると、羽毛に紛れて隠れている細身のチェーンを見つけた。輪になっているそのチェーンを辿っていった先で、ペンダントトップの代わりに揺れる、小さな鍵に辿り着く。鳥は、ネックレスのように身に着けているそれがアルバスによく見えるように姿勢を正した。
「これが目的か?」
鍵を指に引っ掛けながらそう尋ねたが、鳥はうんともすんとも言わず、アルバスを見上げるばかりだ。
それをイエスと解釈し、アルバスは鳥の首からチェーンを外していく。そうして小さな鍵がアルバスの手のひらに収まると、鳥は窓辺から飛び立ってどこかに行ってしまった。あまりの素早さに声をかけることもできず、アルバスは、すっかり見えなくなった鳥の姿を追って虚空を眺めるしかない。しばらくはそうやって暗闇を眺め続けていたが、やがて、そろりと手元に視線を移した。乾いた手のひらに乗っている、鳥から託された小さな鍵。それに魔法がかけられていることは明白だった。
アルバスが手を動かすたびに金属がこすれる音がする。その音にほんの少しの懐かしさを感じて指の腹で鍵を撫でたが、すぐに思い直してこぶしを握り、きつく目を閉じる。
このとき、すでに心は決まっていた。
週末になるのを待ってアルバスは動いた。
ポートキーでもある鍵を使うと決めて、決行前夜にミネルバのもとへ赴き、少し出かけることを伝えてから最後にこう付け加えたのだ。
『日曜の夜になっても帰ってこなかったら探してくれ』
案の定、ミネルバにはたいそう怪しまれたが、のらりくらりと躱していると、やがて観念して聞き入れてくれた。滅多にないほど大きなため息も一緒についてきたが、事情を明かすわけにはいかないのだから致し方あるまい。その場を笑顔で収めてから自室に戻り、万が一、戻ってこられなくなったときのための手がかりを入念に仕掛ける。
そうして迎えた土曜日の朝、身支度を整えたアルバスは、机の引き出しから取り出した小さな鍵を握り締めて目を閉じた。ひとつ呼吸する間に肉体は自室を離れ、一瞬にして肌で感じる空気が変わる。次に目を開けたときには、見知らぬ家の前に立っていた。
アルバスの目の前に現れたのは、『家』というよりも、『小屋』といった印象を見た者に与える、小さく古い一軒家だった。周辺は閑散としていて民家もなく、どこまでも続いていそうな一本道は人っ子一人通らない。冷たい雪と、枯れた枝葉が目立つ木々があるばかりだ。
このポートキーがそこらの魔法使いが用意したものなら移動先の設定を間違えた可能性も考えるところだが、この鍵を用意したのは〝あの〟ゲラート・グリンデルバルドだ。しかも、アルバスのために用意された品。行き先を間違えるなんてことはありえない。
アルバスはその場で一旦、辺りをぐるりと見渡してから再びボロ屋に向き直った。玄関ドアに向かって歩き出し、何が起きてもいいように腹を決めて、手にしている鍵を傷だらけのドアの鍵穴に差し込む。すると、カチ、と金属が引っ掛かる音がして鍵が開いた。役目を終えたポートキーを上着のポケットにしまい、ドアノブに手をかけて慎重に回す。そうして開いたドアの向こうには、別世界が広がっていた。
一軒家の外観よりも明らかに広く、ボロ屋の内装としては似つかわしくない、傷一つない部屋がそこにはあった。足元には、厚みのある、細かな刺繍がなされた絨毯。いたるところに置かれている、高級品と思われる家具や調度品。部屋の軸として堂々と居座る、本やランプが飾ってある大きな暖炉……。その暖炉によってあたためられた部屋がアルバスを出迎える。
――そして、部屋の中心には、笑みを浮かべて立っているひとりの男。
「やあ、アルバス。よく来たな」
「自分で仕組んでおいてよく言うよ」
「そうだな。だが、大事なのは、君が自分の足で来たという事実だ」
ゲラートはそう言うと、満足げに目を細めてキッチンに向かって歩き始めた。上着はそこに、と言われたとおりに、コートと帽子は玄関口にあるコート掛けにかけて、アルバスは部屋一帯を見回す。
室内は手入れが行き届いているようだった。外から見たときは人の気配が感じられず、まるで廃墟のようだったが、実際に中に入ってみるとその印象は一変した。使い込まれた食器や暖炉に残っている灰からは、人の営みの断片が見て取れる。これらの痕跡をすべて外からは見えないようにしているのか……と考え始めたところで、窓から見える景色は先程と変わらないことに気が付いた。雪と枯れ木に囲まれた、閑散とした風景が続いている。どうやら、外から中は見えないが、中からは外の様子が見えるように細工してあるらしい。家の内部をどこか別の空間に繋げているのではなく、条件を満たさなければこの部屋に入れないよう、家自体に魔法が施してあるのだろう。アルバスでさえ、正しい鍵で開けていなければ、どこに飛ばされていたかわからない。
家の中に入るだけでこうなのだ、ほかに何が仕掛けられているかわかったものではない。そう考え、何か見落としてはいないかと、アルバスは神経を張り巡らせる。しかし、室内に罠らしきものは見つけられず、ただただ困惑するしかなかった。
「朝食は?」
「済ませてきたよ」
「そうか。なら茶を淹れよう」
突っ立ったままのアルバスに声をかけたゲラートは、滑らかな動きで杖を振った。すると、開いた戸棚から飛び出してきたカップがふわりと宙に浮かんで、キッチンへと移動し始めた。ゲラートの指揮に合わせてケトルが火にかけられ、茶葉が入った缶が浮遊する。そのさまを、アルバスは奇妙な心持ちで眺めていた。数えきれないほどの信奉者を抱え、悪の頂点に立とうという男の所帯じみた姿がなんとも面映ゆい。
アルバスは、コンロと向き合っている男の背中をつい見つめてしまっていた。それに気付いたゲラートが、振り向かずに声だけをアルバスに投げる。
「珍しいか?」
「ああ……少し意外かな」
「私にも、こういうことが必要な時期があった」
「……そうか」
あの夏の事件のあと、ゴドリックの谷を去ったゲラートがどう日々を過ごしていたのか、アルバスは知らない。それはゲラートも同じだろう。表立って話題になった事柄以外、アルバスがどう暮らしていたかは知らないはずだ。共に過ごした時間は一瞬で、そのあとの時間の方が人生の大半を占めてしまった。
アルバスは少しばかり感傷的になりかけていたが、それを引き止めたのはゲラートだった。振り向いたゲラートの手によって、浮遊している食器たちがダイニングテーブルの上に並べられていく。
「座らないのか?」
「まさか。君が用意してくれる紅茶は久しぶりだ。喜んでいただくよ」
「毒なんか入れてないから安心してくれ」
「そんなこと、したことないだろう」
アルバスが思わず笑うと、ゲラートの顔にも笑みが浮かぶ。
あの頃も、ゲラートが茶を注ぐことはあった。互いの部屋や、こっそり待ち合わせた納屋の片隅で、資料を漁ったり討論に熱が入ったりするさなか、ゲラートは器用にポットを操り、二つのカップに茶を注いでいた。その中身を用意したのがゲラートだったのかどうか、アルバスは知らない。そんなことはさほど重要ではなかったからだ。二人で一緒に口にするものは、どんなものでも、何よりも美味しく感じられた。たとえ、それが毒だったとしても、その感覚は変わらなかっただろう――そんなことを考える傍らで、先に席に着いたゲラートも同じことを思い出していると、アルバスは確信していた。二人で過ごした時間は短いが、その分、思い出を共有するのは容易い。
ゲラートに促されるまま、アルバスは向かい側の席に着いた。艷やかな表面が美しい、木製のダイニングテーブルの上にティーセットが用意されている。アルバスが椅子に座るタイミングを見計らって、目の前に用意されたカップに赤みがかった液体が注がれる。すると、ふわりと茶葉の香りがたった。次いで、正面の席に座っているゲラートのカップにも茶が注がれる。最後に、ポットがテーブルの上に腰を落ち着けるところを見届けてから、アルバスは用意された紅茶に口をつけた。
「……うまい」
「それはよかった」
カップの中で揺れる紅茶を見つめながら、ほう、と息を吐く。その音を聞いてから、ゲラートも自身のカップに手を伸ばした。アルバスはカップを手にしたまま、ゲラートの顔に視線を向ける。
「君にこんな才能があったとは」
「薬学と似たようなものだ。レシピがわかっていればそう難しくはない」
「そういえば、君は薬の調合も得意だったな」
「君だって苦手なことなんかないだろう」
ふふ、と吐息だけで笑い合う。二人の間に流れる空気は穏やかで、ここでは世間の騒動など存在していないかのように思えた。
こんな時間がいつまでも続けばいいと、ついそんなことを願ってしまう。だが、それが無理な願いだということも理解していた。アルバスは、自分の役割を忘れることなどできはしない。
アルバスは笑みをしまい込み、持っているカップをソーサーの上に戻した。テーブルの上で指を組んで、正面からゲラートと向き合う。
「なぜ私をここに呼んだ?」
まっすぐに顔を覗き込んでアルバスが訊ねた。
すると、このときを待っていたとばかりに、ゲラートは眉ひとつ動かさずにゆったりとした動作でカップを置いた。ソーサーが微かに音を立てて存在を主張したが、ゲラートは気にすることなくアルバスを見つめ返す。その口元にはうっすらとした笑みが浮かんでいる。
「ただ君と食事がしたいと、そう思っただけだ」
「……君が信者を手放したことは世界中が知っている」
「ああ、そのようだな」
「……何を考えてる?」
アルバスの声がそれまでより低く、密やかに語るときの音に変わる。ゲラートは内緒話をするかのようにテーブルに肘をついて身を乗り出し、同じように声を潜めて答えた。
「きみが、そうしろと言ったんだ」
姿勢は変えないまま、ゲラートの顔に浮かんでいる笑みがより深くなる。そして、アルバスが何事かを答える前に言葉を続けた。
「自分の手で未来を変えろ――と。君がそう言った。覚えがあるだろう? だから、私は選んだ」
「そのために、出頭させた者たちにあんな術を? むごいことを……」
「本来なら死んでも構わないところを、命を救って魔法省に保護させてやったんだ。寛大な処置だと思うがね」
「……肉体が生きていても、あんな状態で人として生きているとは言わないんだ、ゲラート」
語りかけるアルバスの言葉に少しの苦痛が混ざる。それも正確に聞き取ったゲラートは、元の姿勢に戻り、指先でカップを小さく弾いた。陶器に爪が当たり、カツ、という硬質な音が二人の会話を遮る。
「デザートを用意しておけばよかったな」
「え?」
「好きだろう、アルバス」
「いや……ああ、まあ、確かに好きだが、君はそうでもないだろう」
「君が食べる分には構わない。次は用意しておこう」
突如話題が変わったことへの困惑が、純粋な驚きに変化する。アルバスはぱちりと瞬きをした。大きな青い目がさらに大きく開いて、まじまじとゲラートの顔を見つめている。そして、少しの戸惑いと共にそろそろと口を開いた。
「次があるのか?」
「あるだろうな。君は確かめずにはいられないはずだ」
「……君がなぜ軍隊を手放し、この家を用意したのか」
「そして、視た未来をどうやって変えるつもりなのか」
互いの頭の中を覗き込んでいるかのように、するすると言葉が繋がっていく。ほかの人間とは起こりえない、意図せずとも共鳴していく感覚を思い出し、アルバスは笑みを浮かべずにはいられなかった。
それと同時に、自身の好奇心が高鳴っていることにも気が付いていた。楽しむような状況ではないとわかっていながらも、謎解きを前にして、心の奥底でうずくものを止められない。
「変えられそうなのか?」
「さて、私はそう考えているが……君はどう思う?」
「……君次第だ」
アルバスが一言そう告げると、「そのとおり」と答えて、ゲラートは満足そうに笑ってみせた。
「だから、まずは茶を楽しもうじゃないか。答え合わせには時間がかかる」
そこまで言い切ってから、ゲラートは再びポットを浮かせてみせた。二つのカップに紅茶が注ぎ足され、再び茶葉の香りが匂い立つ。
ゲラートはそれきり、核心に触れるようなことは言わなかった。続く会話の内容はそれは穏やかなもので、「最近はどう過ごしている?」「この前、おもしろい文献を見つけたんだ」といった、久しぶりに会う知人との話題としてふさわしいものばかりだ。
何十年も会っていなかったことが嘘のように空気が馴染んだ。無理に相手の意図を汲もうとしなくても自然と笑みがあふれる。互いの呼吸が心地よい。もっとも凶悪な魔法使い相手に完全に警戒を解くことはなかったが、会話が進むにつれて、肩の力が抜けていくのをアルバスは感じていた。それを情けなく思いながらも、ゲラートと目が合うたびに、あの夏の幸福がよみがえってきてしまう。
その感覚を押し殺して平常心を装っているだけで、時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。話は弾み、茶は進み、昼にはゲラートが用意した軽食をとって、気が付いたときには夕暮れ時になっていた。
「そろそろ帰るよ」
ベストから取り出した懐中時計の文字盤を確認してアルバスが告げる。ゲラートは「そうか」と言っただけで、引き留めようとはしなかった。最悪の場合、軟禁しようとするかもしれないと覚悟してきたアルバスは、これにもひどく驚いたのだが、すぐに考えを改めることになった。
コートと帽子を身に着けたアルバスを玄関先で見送りながら、ゲラートはこう言ったのだ。
「ではアルバス、また来週」
さも当然と言わんばかりの口調にアルバスは苦笑する。
「また私が来ると思っているのか?」
「来るだろう?」
「どうかな、約束はできない」
「来るさ。私が本当に部下たちを手放したのか、ここにいる私が本物か、見極められるのは君だけだ」
その言葉には答えられなかった。アルバスが黙り込んだことで、久方ぶりの沈黙が二人の間に落ちる。しかし、こうなることをわかっていたのか、ゲラートは少しも気まずいそぶりを見せなかった。口元にうっすらと笑みを湛えたまま「また来週」と繰り返し、やはり何も答えずにドアを開けて家を出て行くアルバスを見送っていた。
玄関のドアを閉めたアルバスは、一軒家を背に、白い息を吐いてわずかに顔をしかめた。ひとたび家を出てしまうと、先程までの出来事がすべて幻だったかのように思えた。目の前には、到着したときに見たものと寸分違わない、閑散とした風景が広がっている。
室内の様子とこの光景の差が、ゲラートの実力の表れだ。その能力で何をしてきたのか、どれだけ多くの犠牲を出してきたのかわかっていながら、彼が口にした約束をまともに拒絶できなかった。そんな自分自身を苦々しく思い、アルバスは帽子を深くかぶり直す。それからゆっくりと目を閉じて、一瞬のうちに姿をくらました。
自室に戻ったアルバスは、部屋に施した仕掛けが作動していないか確認してから、ミネルバのもとを訪ねた。そうして何食わぬ顔で無事に戻ったことを伝えると、昨夜よりもさらに怪訝そうな顔をされてしまった。週明けまでに戻れないかもしれないと示唆していた相手があっさり帰ってきたのだから、その反応は当然だろう。これまでアルバスの企み事には何度も目をつぶってきたミネルバだったが、今回はさすがに看過できなかったのか、鋭い視線でじっとアルバスの顔を観察してから大きくため息をついた。
「何をしているのか、言うつもりはないんでしょう?」
「いいや、何もしていないから言えることがないんだよ、ミネルバ」
「……せめて、手遅れになる前には言ってください、アルバス・ダンブルドア先生」
平然と嘘をつくアルバスにもう一度大きなため息をついてみせて、言外に「生徒たちと自分の立場を忘れるな」と釘を刺してから「仕方がない人ね」と呆れ顔を見せる。
ミネルバがそうやって見守ってくれていることに心の底から感謝したアルバスは、丁寧に礼を伝えてその場をあとにした。