そして、ドアは開かれる *

  Ⅱ

 異変が起きたのはそれから間もなくのことだ。魔法省としてはその情報を隠しておきたかったらしいが、メディアの方が動きが早く、アルバスのもとに第一報が届くまで時間はかからなかった。

〝ゲラート・グリンデルバルトの信奉者が大勢出頭した〟

 しかも、なんらかの魔法によってろくに証言もできない状態にされて、集団でふらふらと魔法省に押し掛けてきたというのだ。おかげで魔法省は各種手続きに追われており、部署を飛び越えててんやわんやの有り様らしい。そのうえ、肝心のゲラート本人と、今回出頭していない一部の部下たちは行方をくらましたままだというから、余計に世間は混乱し、各国のお偉方は頭を悩ませていた。
 その証拠に、アルバスのもとには何通もの手紙が舞い込んできている。届いた手紙のほとんどは何が起きているのかと原因を尋ね、協力を求めるものだったが、アルバスの返答は一貫していた。
『わからない』
 そう、事の仔細などアルバスにもわからないのだ。あの日、マグルの街でゲラートと対面したときに仕掛けた賭けが原因だとは思っているが、彼がどんな未来を選んだのかまでは知るすべがない。アルバスにできるのは、二人の賭けを表沙汰にせず〝結果〟に備えることくらいだ。
 手紙への返信を一通り終えたアルバスは、最後のフクロウが飛び立つのを見送って深く息を吐いた。目と目の間を緩く揉んで解し、崩れ落ちるようにして椅子に腰掛ける。
「どうなってるのかなんて、知りたいのは私の方だ」
 吐き出した言葉は、誰にも聞かれることなく霧散した。
 ゲラートの目的は、アルバスをホグワーツから引き離すこと、あるいは、その眼で視たという将来殺人者になる男を排除することだろう――アルバスはそう考えていた。ところが、予想していなかったことに、ゲラートはなぜか突然、あっさりと軍隊を手放してしまったのだ。目的がなんであるにしろ人手は必要だろうに、これでは革命は放棄したと言わんばかりだ。それとも、そう思わせることこそが目的なのか……。
 あらゆる言葉と可能性がアルバスの頭の中を飛び交い、糸のように繋がっていくつもの道筋を導き出す。そのうちのいくつかはアルバスが望んでいる未来に繋がっている気がしたが、残念なことに、大半は残酷な現実を突き付けるだけのものだった。
 だが、そんなことで気落ちしてはいられない。無謀な賭けは始まったばかり。しかも、大穴狙いで賭けたのだ、勝算が低いことなどはなからわかっていたはずだ。その結果、この手でゲラートに引導を渡すことになったとしても一縷の望みにかけるのだと、あの路地でそう決めた。
 アルバスは目を閉じて、最後に見たゲラートの姿を思い浮かべる。あの路地での出来事を何度も回想しては取るべき手段を考えてきたが、ほかのどんなことよりも強烈に頭にこびりついてしまっているのは、彼の苛烈ともいえる熱情だった。
 アルバスはそれを振り払おうと、机の上に飾ってあるガラス瓶の中から飴玉を取り出し、口の中に放り込む。固いレモン味の飴が歯にぶつかって、口内で小さく音を立てた。

 次にアルバスが異変に気付いたのは、騒動が少しばかり落ち着きを見せ始めた頃だ。一日のすべての授業と夕飯の時間を終えて、自室で子どもたちの顔を思い浮かべながら、明日の授業の準備をしているところだった。
 机の脇に立っているアルバスがつい、と指を一振りすると、部屋の至るところでざっくばらんに散らばっている、参考資料として利用した本たちが宙に浮かび上がる。そして、机の上に次々と行儀よく降り立って小さな塔を作り始めた。アルバスは、本との戯れを楽しみながらそれを眺める。そのときだった。机の周囲を浮遊しているそれらの本のさらに奥――この部屋の中で一番大きな窓の、その向こう。わずかに曇った窓ガラス越しに、一羽の鳥が佇んでいる姿がアルバスの目に入った。
 それは、大きく美しい鳥だった。鷹の一種なのだろう。先の曲がったくちばしと、美しい白銀の尾羽が特徴的な大型の鳥。その鳥はいつからそこにいたのか、ガラスに寄り添うようにして、窓のふちのわずかなスペースに身を置いていた。
 鳥の存在に驚いたアルバスは、思わず指の動きを止めてしまっていた。指揮者を失った最後の一冊が鈍い音を立てて本の塔のてっぺんに落ちる。その音を頭の片隅で認識していながらも、アルバスの意識は鳥にだけ向いていて、本の状態を確認しようとは思えなかった。
 そのとき、室内に後頭部を向けて遠くを見ていたはずの鳥が不意に振り向いた。そして、アルバスと目が合うと、その双眸をゆったりと細めたのだ。
 アルバスは気付かれないようにそっと息をのんだ。部屋には自分一人しかいないのに誰に隠そうというのか、と自問したが、やはりその場から動くことができなかった。確かにあの鳥と目が合った――そう思ったはずなのに、次の瞬間にはもう、鳥の顔から表情は消え失せていた。まんまるに開いた二つのまなこでじっとアルバスを見ているだけだ。
 どくどくと心臓が動く音がする。自分が冷静ではないことを、アルバスは正しく理解していた。だからこそ、その場から動かずに鳥と向き合い続けた。鳥は感情の乗らない瞳でアルバスを見返すばかりで、逃げようとも、室内に侵入してこようともしない。
 息が詰まりそうな数分の膠着状態ののち、先に動いたのはアルバスだった。鳥から視線を外して、バランスを崩しかけている本の塔を積みなおし、さっさと片付けて机を離れる。そうして部屋を出る前に、アルバスはもう一度、視線だけを鳥に向けた。
 鳥は先程と変わらぬ姿勢で、アルバスのことをじっと見ていた。

      *

 その日を境に、鳥は定期的にアルバスのもとを訪ねてくるようになった。それは昼だったり夜だったりと、訪問の間隔は決まっておらず、ほかにこれといった法則もないようだ。
 アルバスは鳥がいることに気が付くと、しばらくの間、様子を見てから日常に戻ることにしていた。鳥はアルバスが紅茶を楽しんでいようと、仕事に励んでいようと、窓辺に佇んだまま微動だにしない。作業を終えたアルバスが顔を上げたときには姿を消していることもあったし、何時間も同じ場所に居座っていることもあった。
 ……だが、それだけだ。一人と一羽の間にあった交流は、ただそれだけ。ほかには何もない、奇妙な逢瀬だった。

      *

 大広間のテーブル席で、使い終えたばかりのスプーンを皿の上に置いて、ふう、とこっそり息を吐く。そのため息は苦悩から出たものではなく、体の力を抜いたことでつい漏れ出てしまったものだ。
 ――というのも、このところ、自室でゆっくり休めていないのが原因だった。鳥が窓辺にいる間は互いを監視しているかのような感覚に苛まれ、気を休めることもできず、自分の部屋だというのに頻繁に緊張状態に陥っている。したがって、こうしてひらけた場所で大人数と過ごしているときの方が気が紛れる、というわけだ。そこら中に響き渡る大勢の子供たちの賑やかな話し声が、アルバスにわずかばかりの安らぎを与えてくれている。しかし、その安心感からつい油断しすぎてしまったことを、ため息をついてすぐに後悔するはめになった。
「どうかしましたか? アルバス」
 隣に座っているミネルバが食事の手を止めて、唐突にそんなことを尋ねてきたのだ。アルバスのため息が聞こえていたのだろう。真実を見抜こうとしているその瞳は、確かな鋭さをもって隣の友人に向けられている。
 アルバスは、年下の友人に気取られるほど気を抜いてしまっていた自分を内心で叱咤し、しかし、それを表に出すことはなく、もう一度小さくため息をついてみせた。
「いやなに、昨夜、珍しい鳥を見つけてしまってね。つい観察してしまったせいで、情けないことに寝不足なんだ」
「鳥? 魔法動物ではなく?」
「ああ、特殊な能力はなさそうだったよ。珍しい、ただの野生の鳥だ」
「……珍しいもの好きなのは構いませんが、ちゃんと休息も取ってもらわないと。あなたに倒れられたら困ります」
 その言葉にアルバスが肩をすくめて応えても、ミネルバの眉間にはくっきりとしたしわが刻まれたままだった。アルバスのささやかな嘘などお見通し――といったところだろう。だが、それ以上問い詰めたりはしない。今詰め寄ったとしても、こうやって何かを誤魔化しているアルバスが正直に答えるはずはないと知っているのだ。
 聡明な友人の判断に感謝しつつ、空いた皿を眺めながら、アルバスは再び鳥のことを考える。
 鳥がアルバスの部屋にやってくるようになって約三週間。相変わらずゲラートとその腹心は身を隠したまま見つかっていない。出頭してきた者たちの記憶はぐちゃぐちゃに搔き乱されていてまともな証言は得られず、ゲラートの目的も、居所も、皆目見当がつかないというのが現状だ。世間には先が見えない不安と、魔法省を無能と罵る声が広まってきている。
 それらすべてを承知の上で、アルバスは口をつぐんでいた。アルバスとて、部屋に通ってくるあの鳥の正体にはとうに気付いている。だからこそ、気が抜けないのに追い払いもせず、静かに観察し続けているのだ。何が狙いなのか探り出せれば……と考えているのだが、鳥が怪しい動きを見せる気配は一向にない。アルバスのもとへやってきては黙って姿を眺め、また黙って飛び立っていくだけなのだ。
 窓越しに見るその有りようは、どこか懐かしい姿を思い起こさせた。

 夏のある日、静まり返った夜に黒衣をまとった腕が自室の窓を叩く。何事かと窓辺に立つと、鮮やかなブロンドを風になびかせ、身を屈めて屋根の上にしゃがみ込み、室内を覗き込んでいる青年がいるのだ。そして、アルバスと目が合うと、大きなオッドアイを細めて笑う。翼を広げた鳥のように、軽やかに――。

 忌まわしくも美しい記憶は、いまだにアルバスの中から消えてくれない。だが、昔のようにただ翻弄されているわけでもない。もとより物事を正しく見定める目は失っていないつもりだ。
 例の鳥を見つけて以来、アルバスは常よりも注意深く校内を見回っていた。しかし、鳥がホグワーツの内部に侵入した痕跡もなければ、教師や生徒からの目撃情報も存在しない。どうやら本当にアルバスの部屋を見ているだけのようなのだ。この事実は、生徒を守るという点では有利に働いているが、事態が動かないという意味ではアルバスを悩ませてもいた。
 ――こうして自分がだんまりを決め込んでいるのも限界なのかもしれない。
 そんなふうに考えたアルバスは、少しばかり険しくなった表情で大広間をあとにした。
 朝一番の授業の準備を済ませるために、早めに教室へと向かう。その途中、ふと廊下で足を止めて、雪が降り始めた空を見上げた。厚い雲が辺り一面を覆い、陽射しを遮っている。やけに寒いとは思っていたが、雪が降るとは知らなかった。ただでさえ冷え込むというのに、ひらひらと舞う白い結晶がいっそう寒さを強調している。こんな日は誰もが暖炉のそばに寄りたがり、外を歩くときは身を縮こまらせずにはいられない。しかし、ゆっくりと暖炉の恩恵に与れるのは、すべての授業を終えてそれぞれの寮に戻ったあとだ。廊下ですれ違う生徒たちは小さく身震いし、鼻先を赤く染めながらも、笑顔でアルバスに声をかける。アルバスはそれに笑顔で応えて、授業の準備に取り掛かった。
 やがて、すっかり陽が落ちた頃、一日分の業務を終えて自室に戻ったアルバスが部屋の明かりをつけると、窓辺にはすでに鳥の姿があった。鳥はアルバスを見てわずかに目を細めたかと思うと、いつもどおり窓に寄り添うようにして蹲る。アルバスはそれを視界の端に捉えはしたが、こちらもいつもどおり、鳥と接触することなく暖炉に火を灯した。それから自分のために紅茶を淹れて、イージーチェアに腰掛け、読みかけの本を取り出してその世界に没頭した。
 そうして本を読み始めて一時間ほど経った頃だろうか。アルバスはページをめくる手を止めてゆっくりと顔を上げた。読みかけのページにしおりを挟み、緩く首を動かして凝りをほぐす。本をサイドテーブルに置いて、冷たくなってしまった紅茶の最後の一口を飲み込み、ちらりと窓の方へ視線を向けると、もう見慣れてしまった鳥の影がそこにあった。
 暖炉の近くにいるアルバスはそこまで冷えていないが、火のそばから少しでも離れれば、途端に寒さが身に染みるはず。外ならばなおさらだ。アルバスがいる場所から外の様子は窺えないが、白く曇った窓ガラスが外気との気温差を表している。
 いくら羽毛があるといっても、冷たい風を浴び続ければ体は冷えるだろう。鳥がああして凍えているのは己がけしかけた賭けが理由なのかもしれないと思うと、アルバスの胸が小さく痛んだ。
 どうせ動き出す頃合いだと思っていたのだ――そう自分に言い聞かせて立ち上がり、ゆっくりと窓辺に近付いていく。
 窓の前に立ったアルバスは、ひとつ深呼吸してから慎重に窓に手を伸ばした。腕に力を込めると、金属が軋む音がしてゆっくりとガラスが動き、外との境目が消えていく。
 窓の向こう側では、白い雪が暗闇の中を舞っていた。吹き抜ける風がアルバスの頬を叩き、急速に体温を奪っていく。そして、窓際に積もっていた雪が崩れ落ちるのと同時に、鳥の姿もあらわになった。
 初めて間近で見る鳥は、静かにアルバスのことを見上げていた。どれほど長い時間ここにいたのか、頭から背中にかけて積もった雪が黒い羽根を覆い隠し、全身を尾羽と同じ白銀に染め上げている。
「馬鹿だな、まったく……」
 誰にともなく呟いて、アルバスはそっと手を伸ばした。慎重に鳥に触れて、全身に積もった雪を優しく払ってやる。体温で溶けた雪がシャツの袖を濡らしたが、アルバスは最後のかけらを落とすまでその行為をやめなかった。鳥は抵抗することなく、じっとアルバスの顔を見つめ続けている。
 そうして、すべての雪を払い落としたアルバスは、改めてじっくりと鳥の顔を見た。鳥のまるまるとした黒い瞳が絶えずアルバスを見続けていることにほんの少しだけ目を細めて、悲喜の読み取れない表情であいまいに笑う。
「なにも、こんなになるまで我慢しなくてもいいだろう」
 話しかけても返事はないことをわかっていながら声をかけ、案の定ひとりごとになってしまったことに苦笑しながら、アルバスは鳥の体の下に手のひらを潜り込ませた。
「おいで」
 そう声をかけて抱き上げても、鳥は無抵抗のままだった。アルバスは服が濡れるのも構わず、その腕に鳥を抱き、窓を閉めて、先程まで座っていたイージーチェアのもとへと向かう。そして、鳥を椅子の上に降ろしたかと思うと、手を一振りして、勢いよく開いた引き出しの中から飛んできたタオルをかけてやった。ぱちぱちと音を立てて弾ける暖炉の炎が鳥の横顔を照らし出す。頭部を覆う羽はまだ濡れて艶めいており、黒いふたつの瞳の中で赤い炎がゆらゆらと揺れていた。
 アルバスは椅子の傍らに立ち、少しの間それを見ていた。急に訪れた沈黙を不思議に思ったのか、アルバスの顔を見上げたまま鳥が首を傾げる。そのしぐさを見るともなしに見て、アルバスは小さく口を開いた。
「……目は再現しなかったのか」
 ぽつりとこぼれ落ちた声は、少しの落胆をはらんで鳥の耳にも届いた。しかし、アルバスにとってその言葉はただの独り言に過ぎず、鳥の反応を見ることなく踵を返してしまう。仕事をこなすときのように机と揃いの椅子に腰を下ろし、読みかけの本を魔法で手元に呼び寄せて、しおりを挟んだページを開いて目を落とす。それきり、鳥に話しかけることはなかった。
 暖炉の火が爆ぜる音と、紙をめくる音だけが聞こえている部屋で小一時間ほど過ごしたあと、鳥は自力でタオルの下から抜け出し、窓を開けるようアルバスに催促して、いつものようにどこかへと飛び立っていった。

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