Twitterタグ企画「主ニ毛アンソロ」に参加しました。
そのまんま主ニルの毛の話です。生存if逆行後の主ニル。若にるくんから成長したね…的な話。
「くっそぉ」
訓練のために用意された簡素な部屋の中心で、大の字に倒れたニールが情けない声を上げる。
ニールは乱れた呼吸を繰り返しながら、脱力して天井を見上げることしかできないでいた。止めどなく汗が流れて全身を濡らす。それによって、Tシャツの襟ぐりは色を変えていた。
男はそれを見下ろし、うっすらと汗がにじんだ自身の額を軽く拭う。
「基礎体力が足りないな。ワークアウトのメニューを変えるか」
「あなたの体力が化け物なんだよ……」
絶対に僕の問題じゃない……などとぶつぶつ言いながら、ニールは勢いをつけて起き上がった。武術の訓練を終えたばかりの今、ニールの汗は引く気配がない。流れる水滴がいくつもの髪の束を作り、雫が顎を伝って滴り落ちていく。
その感触に顔をしかめたニールは、床に座ったままおもむろにTシャツを脱ぎ始めた。そして、ぐっしょりと濡れたTシャツの乾いている部分で乱暴に顔を拭う。
「ニール、着替えるなら更衣室にしろ」
「僕たち二人しかいないんだから別にいいだろ? こんなに濡れてたんじゃ服の意味なんてないよ」
呆れた声で指示する男に対し、タオル代わりにしてしまったTシャツをぐしゃぐしゃに丸めながらニールは答えた。顔にまとわりついていた水滴を拭きとって少しは落ち着いたのか、大きく息をつき、両腕を支えにして上半身を傾けて、両足をだらしなく投げ出す。今すぐに動く気力はないらしい。
男はその姿を見て苦笑する。今すぐシャワールームに行けと言ってやりたいところだが、確かに今日はいつもよりうまく立ち回っていた。そのせいで消耗が激しいことも男は理解している。
仕方ないな、と呟き、呆れ顔でその場を離れた男は、部屋の隅にあるベンチに置いてあった水のボトルを手に取った。同じものを二つ持ってニールの元に戻り、手にした半透明のボトルのうちの一つを差し出す。礼を言ってボトルを受け取ったニールは、勢いよく中身を煽った。
顔だけ上を向いたことで、ニールの張り出た喉仏が繰り返し上下に動くのが男にもよく見えた。初めはただ、自身も水分補給をしながら、ニールの喉の動きに合わせて容器の中の水がどんどん減っていくのを見守っていただけだったのだが、ふと、ボトルを持つ手が止まった。その視線はある一点に向いている。
地べたに座ってボトルを煽るニールの喉は、肌を覆う汗が光っているせいでわずかにきらめいて見えている。それは額や肩も同様だったが、特に胸元が目立っていた。窓から射し込む光が白い肌をより一層際立たせるのだ。だが、男の視線を集めたのはそこではなかった。男がつい見てしまっているのは、その肌の上、胸の中心にあるものだ。
わずかに反らされたニールの胸には、汗と同じく、光を浴びて微かにきらめく毛が存在していた。ブラウンとブロンドの中間のような色合いのそれは、若者らしい柔らかさをもって胸元を彩っている。
男がそれに気を取られたのは、そこに性的な要素を見い出したからではない。光に透けてふわふわと肌を覆っている毛が、見慣れたものとは随分様相が違ったからだ。男が知っているそれはまじまじと見なくても目視できるもののはずなのに、今目の前にいるニールの毛は、ともすれば見落としてしまいそうな、産毛といっても差し支えない薄さだ。
「どうかした?」
思う存分に水を飲み干し、腕を下ろしたニールが男の視線に気付いて首を傾げる。
男は慌てて視線を逸らし、「いや」と否定の言葉だけを告げて、水を口に含んで誤魔化した。
これまでも同時に着替えることはあったが、わざわざそんなところを見ようとしてこなかったため、こんなタイミングで見入ることになってしまった。上司が部下の裸をまじまじと見るなんてハラスメントそのものではないか、と数秒前の行動を悔いる。
そんな男を見て、ニールはますます訝しげに顔をしかめた。エージェントとしてのニールの能力は男に及ばないとはいえ、雇い主の様子が普段と違うことくらいはわかる。ニールはもう一度「本当にどうしたんだ?」と訊ねようとしたが、それを察知した男がそれを遮った。
「ほら、体が冷える前に着替えてこい」
男はそのまま何事もなかったかのような態度で手を差し出し、ニールの腕を取り、体を引き上げ立たせる。
ニールは唇を尖らせて、変わらず納得していないと態度で示したが、やがて答えを得るのは諦めて更衣室に向かって歩き出した。
*
錠が開く音がして取手がスムーズに動き、玄関ドアが男を迎え入れる。
訓練のあと、ニールと別れて帰路についた男は、自宅のにおいを感じてほっと息をついた。ドアに鍵をかけて、室内に向かって「ただいま」と声をかける。すると、男がリビングに到着する頃を見計らって「おかえり」と声が返ってきた。
声の主はワーキングチェアをくるりと回して振り返り、かけていた仕事用のメガネを外してデスクに置いた。
男はまっすぐに声の主の元へと歩み寄り、上半身をかがめて頬にキスを贈る。そうすると、キスを受け取った人物も同じように男の頬にキスを贈った。それが二人にとっての日常で、習慣だ。
「首尾は?」
「上々だ」
「それはどっちが?」
「どっちも」
どっちも、というのが午前中の打ち合わせと午後の訓練のことを指していることは、具体的な言葉にしなくても互いにわかっている。
男は投げかけられる質問に答えながら上体を起こし、同居人であるニールを見下ろした。
ワーキングチェアに座っているこのニールは、スタルスク12から同じ時間を過ごしてきた男のパートナーだ。さっきまで訓練していた若いニールよりもしわが増えており、髪色もいくらかくすんでいるが、ブルーグレイの瞳とその意志を示す眉は変わらない。
だが、変わったこともある。長く共に暮らしていると、そうそう繕ってばかりはいられないもので、いまやニールは己のだらしなさを隠そうともしなくなった。共有スペースは互いに譲歩しつつ、個人の持ち物に関しては不衛生でなければ関与しない、という生活スタイルに落ち着いている。
そんなわけで、ニールは今日も着古したシャツで仕事をしていた。別に誰に見られるわけでもなし、というのがニールの言い分で、気に入っている服は袖口や襟がよれても着続けている。
すっかり見慣れたニールの私服姿はいつもと変わらない。半端な位置までまくられた袖と、ゆったりとくつろげられている襟元。そして、鎖骨の下まで開いているシャツの合間から覗くブラウンの体毛。
先程の再現のように、男の視線がそこでぴたりと止まった。ニールも訓練後の二人のやりとりを見ていたかのように怪訝そうに首を傾げる。
「どうかしたのか?」
やはりこれも再現したかのように、ニールが男に訊ねた。
男は、いや……と言いよどみ、逡巡したのちに小さな声でこう告げた。
「成長したな、と思って」
その答えを聞いたニールの眉間のしわが深くなる。ますます首をひねり、腕を組んで、ニールは不満そうに反論した。
「当たり前だろ。確かに体術では君に劣るけど、新米の若造と一緒にされちゃ困る」
「ああ、いや、悪い、そうじゃない。彼と君とじゃ比べ物にならないのは当然だ」
「え? じゃあなんのことを言ってるんだ?」
ニールの声に含まれていた棘は引っ込んだが、眉間のしわは深くなるばかりだ。何かを隠している様子の男を、ニールの瞳がじっとりとねめつける。
男は気まずそうに視線を外して沈黙でやり過ごそうと試みたのだが、そううまくはいかない。絶対に逃がすまいとニールは男を見上げ続けた。
壁にかかっている時計の針の音だけが部屋に響く。無意味に壁を眺める男の横顔をニールは捉え続け、やがて、数分の抵抗ののちに根負けしたのは男の方だった。閉じた口の中で小さく呻き、ぼそぼそと、ようやく聞き取れるくらいの声で「毛が……」と呟く。
ニールは自分が聞き間違えたのか、理解が及ばなかったのか一瞬迷い、間抜けな声で「え?」と聞き返した。
その素っ頓狂な声を耳にして、男はようやく観念した。ひとつ咳払いをして、視線は外したままさっきよりはいくらかはっきりと言葉を声にする。
「若い君の胸毛が……なんていうか、薄くて、見慣れなかったから、その、君にもそういう時期があったんだな……と」
しどろもどろな男の説明を、ニールはぽかんと口を開けて聞いていた。緩んだ唇が半端に開き、男を見上げる瞳は何度も瞬きを繰り返す。
その視線に耐えられなくなった男が固く目蓋を閉じた瞬間、リビングにニールの笑い声が響き渡った。
驚いて男が目を開けると、椅子に座ったままげらげらと笑い声を上げているニールの姿が飛び込んできた。ニールは両腕で腹を抱えて、ひいひいと呼吸を乱し、大口を開けて笑っている。
男が硬直して動けずにいる間も笑い声は止まず、しまいにはまなじりに涙を浮かべる始末だ。ニールはまつ毛を濡らしている雫を乱暴に手のひらで拭い、ひきつけを起こしたかのような呼吸を繰り返しながらも途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「そんっ、そんなこと……! そん……っ、あっはっは、ごめ、だめだ……!」
なんとか話そうと試みてはいるが、ほとんど呼吸困難に近い状態ではろくに言葉にならない。
男は自身の頬に熱が集まるのを感じながら、恥ずかしさを誤魔化すためにきつく腕を組み、険しい表情でニールを見下ろす。
「そんなに笑わなくてもいいだろう」
「いや、だって、昔何かやったっけ? とか、必死に……っ考えて……! ふふっ、ごめ、ごめん……!」
「……そんなに俺は変だったか?」
「変っていうか……あはははっ、そう、そうだ、今頃〝彼〟は君が重い秘密を抱えてるんじゃないかって、勘繰って……!」
そこまで言って、ニールは再び崩れ落ちてしまった。気恥ずかしそうに唇を引き結んだ男を置き去りにして、一人で苦しそうに笑い続けている。
男は過去のニールに申し訳ないやら、恥ずかしいやらで、何か言おうとして口を開きかけては失敗し、結局沈黙を貫くことにした。部屋を満たすほどの笑い声に包まれ、恥辱に耐えながら、男はニールが落ち着くのを待つ。
しばらくして笑い声がゆるやかに小さくなっていったあと、最後に、はああ、と長い息を吐いてニールはようやく姿勢を正した。その手がそろりと伸びて、きつく組まれた男の腕に触れる。
「ごめん、別に君がおかしいとかじゃなくて、何かあったんじゃないかって心配だったんだ。だからなんか、気が抜けちゃって」
「いいや、構わないさ。変なことを言った自覚はある。それに、セクハラだって責められるよりずっといい」
「僕がそんなこと言うと思う?」
「今はよくても、昔の君はわからないだろう」
男がわずかに悩むそぶりを見せると、ニールが吐息だけでそっと笑う。
「僕が? まさか。今も昔も、僕は君のものなのに。ああ、でも……」
ニールは言葉を区切り、きつく組まれていた男の手を取った。チョコレート色の肌にするりと指を絡めて自分の方へと引き寄せる。
「若い僕のことを見てるのは、ちょっと妬ける」
ニールの目尻が丸くなったのを見つけて、男はそっと喉の奥で笑い、一歩踏み出してニールの元へと歩み寄った。椅子に座っているニールの足の間に体を滑り込ませて、繋いでいない方の手でニールの額を撫で、こめかみを撫で、ほんのりと涙の痕跡が残るまなじりを指先でなぞる。
「それは悪かった。どうすれば謝罪になる?」
「そうだなあ……まずは一緒に風呂に入って汗を流す。それから、今の僕は〝何から何まで〟君のためにあるって思い出してくれたらそれでいいよ。今日のところはね」
「そんなことは確認しなくても知ってるつもりだが」
「でも、たまには確認も必要だ。だろ?」
まじめくさった表情で見つめ合っていた二人は、ついに堪えきれずに笑い出した。くすくすと笑い合ったあとで、男がゆっくりと身を屈める。ニールは近付いてくる男の顔をじっと見て、触れ合う瞬間を待った。やがて唇が重なり、小さなリップ音と共に離れていく。
普段ならそのまま上体を起こしてニールの手を引くところだが、男はそうしなかった。そのまま無防備な首筋に唇を這わせ、襟の間に顔を埋めて鎖骨の下にキスを落とす。
男の唇がどこにあるのか気付いたニールが、先程のやりとりを思い出してまた肩を震わせる。今度は男も笑いながら、何度もその場所にキスを落とした。
ニールは両手で男の顔をすくい上げ、もう一度唇を啄んだ。
「そこばっかり、くすぐったいだろ」
「だが、嫌いじゃないだろう?」
男がそう言ってわざとらしく片方の口角を上げると、ニールは「それもそうか」とこれまたわざとらしく納得してみせて、やわく男の下唇を噛んだ。
「行こう。僕を嫉妬深い男にさせないでくれ」
「当然だ、そんなことにはならない」
自信たっぷりな男の言い分にニールは笑い、椅子から立ち上がる。
そうして二人は並んでバスルームに向かい、しばらくの間出てこなかった。