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はあ、と大きく息をついて、倒れ込むようにしてソファに腰掛ける。あらゆる方面と連絡を取りながら世界中を移動する日々が続いており、さすがに疲労を隠せなくなっているのは自覚している。それでも、このロシアのセーフハウスに帰ってくることはやめようとしなかった。この場所を、相棒に会うことを諦めてしまっては、今やっていることの意味がない。
未来からの侵攻の監視と挟撃作戦の準備を進める傍ら、世界中の研究者に話を聞いて回った。著名、無名に関わらず接触し、現在起こっていることの実態と、影たちをよりしっかりとこの世界に〝重ねる〟方法を問い続けているが、いまだにろくな返答は得られていない。それどころか、この世代では答えは見つからないかもしれないと言う者までいる始末だ。研究とはそういうものだと理解してはいるが、到底納得できる結果ではない。
先が見えない苛立ちを誤魔化すようにもう一度息を吐き出すと、隣に半透明の影が並ぶのが視界の端に映った。
日付が変わる直前という時間のおかげで、ニールの姿は色濃く見える。気遣わし気に隣に腰掛けたのもはっきりとわかったが、その重みにソファが軋むことはなかった。
ソファの背に体を預けたまま、首だけを回して隣を見る。ニールは少し困ったような表情でこちらを見ていた。視線がぶつかったのを皮切りにニールが口を開く。
『少し働きすぎじゃないか?』
「顔色まで見えてるのか?」
『見えてないよ。でも、君のことならわかる。まじめさは君の美点だけど、少しはさぼった方がいい』
「そっちの俺は、そう言われたら休むのか?」
『残念ながら君と同じで強情でね、ちょっとだけ騙し討ちをする』
冗談めかした声音につられるように笑みが浮かぶ。それを認めて、ニールも小さく笑った。
こうして語っていると自然と安らぎを覚える。少し肩の力が抜けて「ダニエルにも似たようなことを言われた」と告げると、ニールの笑みはいっそう深くなった。
『君に注意してくれるひとがいて何よりだよ』
「そっちにはいないのか?」
『おもに僕。ああ、マヒアは君を騙すときは積極的に協力してくれるかな』
実際に仕掛けたときのことを思い出したのか、ニールはくつくつと笑っている。いたずらっ子のような表情が愛おしく思えて「お前のいたずらに協力する人間がいるなんて、周りはたまったものじゃないだろう」と笑って応えると、ニールの笑い声がぴたりと止んだ。
何か変なことを言っただろうかとニールの様子を窺う。すると、こちらを不思議そうに眺める瞳に辿り着いた。ニールはまじまじと俺の顔を見つめ、小さく首を傾げる。
『マヒアが悪ノリするのはいつものことじゃないか』
そう告げる声には、それが当然だと信じて疑わない音が乗っていた。
急に、どう返事をしたらいいのかわからなくなった。言葉を探し、戸惑いながらもゆっくりと口を開く。なぜか嫌な緊張が喉を締め付けている感覚に陥り、絞り出すように呟いた。
「……そのマヒアという人物を、俺は知らない」
その言葉を聞いて、今度はニールが息を飲んだのがわかった。奇妙な沈黙が落ちる。しばらく黙って何か考えたあと、ニールは混乱を隠さずにさっきよりも小さな声で言葉を紡いだ。
『マヒアは操縦班の人間だよ。挟撃作戦にも参加してたし、今も一緒に働いてる』
「あの作戦でも今も、操縦担当はダニエルだ。マヒアという人物は組織にはいない」
ニールは俺の顔を見つめたまま再び沈黙した。ニールの顔越しに壁がぼんやりと透けていても、その瞳が驚愕に見開かれていることがわかる。視線を落とし、口元に手を当ててしばらく思案したのち、ニールは小さく『そうか……』と呟いた。
何か結論に辿り着いたようだったが、何に納得したのかわからず首を傾げる。すると、ニールは再び顔を上げて俺を見た。その瞳に先程までの動揺はない。俺が問うよりも早く、ニールが口を開く。
『僕は、僕らの世界は近いところにあるんだと思ってた。でも、実際はもっと遠いのかもしれない』
「どういうことだ?」
『パラレルワールドは様々な選択の結果、分岐した世界だ。僕と君もそう。どこかで何かが違った世界だ。たとえば、僕のことなんかがね。どこかで違う選択肢を選んだ結果、起きる事象は変わっていく』
かつて作戦の最中、コンテナの中での講義のように、ニールはするすると言葉を紡いでいく。
『なんらかの影響で重なったくらいだから、僕たちの世界はそう変わらない、小さな分岐の結果の近しい世界なんだと思ってた。でも、そもそも人間関係が違うとなると、本当は僕らの世界はもっと遠い過去に分かれた、遠い場所にある世界なのかも』
「……遠い?」
『そう。君が挟撃作戦のために組織を束ねるよりもずっとずっと昔のどこかで分かれて、まったく違う結果に辿り着いた世界……もしかしたら、だけどね』
「では、少し何かを変えただけじゃ、これ以上近付くことはない?」
世界中を駆け回っていたのは無駄だったのか。ニールにこれ以上近付くことはできないのかと、そう意識した途端に体の芯から冷えていく気がした。
なんとか否定したくて、問いかける声が掠れる。その違和感に気付いたニールの動きがぴたりと止まった。目がわずかに見開かれ、すぐに鋭さを湛えた視線に切り替わる。さっきまで楽しそうに細められていた目に、今は正面から刺されているようだ。
『何を考えてるんだ』
「何も。世界を救おうとしてる」
『誤魔化さないでくれ。君が考えてることくらいわかる。それはだめだ』
「何もしてないと言ってるだろう」
『まだ、だろ? ダメだ。この現象は僕らの手に余る。触れるべきじゃない。未来人の二の舞になるつもりか?』
ニールの言葉は正しく、まっすぐで、容赦なく胸の奥を抉る。わかっている。そんなことはとうに考えた。何度も何度も考えて、それでもこの、目の前の半透明の男の存在は大きすぎて、諦められない。
強く息を吸い込んだせいで、喉の奥が小さく鳴った。それにも構わず、ずっと胸の中でつかえていた音を吐き出し、声を荒げる。
「なら、お前は俺にずっとこうやって生きろと言うつもりか! 触れもしないで、焦がれながら、後悔を突きつけられながら、世界のためだけに生きろと!」
『酷なことを言ってるなんて、僕の方がわかってるよ! でも僕は、君を失うわけにはいかないんだ! 君も、僕の世界の君も、どの世界でだって君を失うなんて許せない。こんな現象、この先何が起こるかわからないんだ。世界も君も失うリスクなんか冒させない。絶対にだ……!』
ニールは負けじと声を張り上げた。絞り出すように飛び出した声にいつものような滑らかさはなく、彼の本心であることが伝わってくる。俺を睨むように見据えた瞳は、わずかに潤んで揺れていた。だが、表情は崩さない。
こんなニールは初めて見た。俺が知るニールは、苦言を呈することも苛立ちを表すこともあったが、最終的にはすべてを受け入れていた。他人からの嫌味や攻撃も飄々とした顔で受け止めて、最後には笑顔でかわしてしまう。こんなふうに全身であらがうニールを見るのは初めてだった。
胸の痛みは消えたりはしなかったが、頭の片隅に冷静さが戻ってきて口をつぐむ。
ニールも少しばかり気まずそうに息を整え、静かに話し始めた。
『ごめん、でも、この現象のせいで何が変わったかもわかってないんだ。これ以上はいけない』
「……おまえは、残酷だ」
『うん、僕もそう思う』
自嘲気味にそう答えてから、ニールはわずかに視線を泳がせたかと思うと、ためらいながら口を開き、アメリカのとある住所を告げた。それから『北側の右端の辺りかな。たぶん』と続けて、困惑する俺を見て困ったように笑う。
『本当は言うつもりはなかったんだけど、君の助けになるかもしれないから』
「そこに何があるんだ?」
『行けばわかるよ。君の世界の僕が、僕とよく似てたなら』
俺は、すぐには頷けなかった。ニールの言葉に従うということは、自分の願いを諦めることと同義だという気がしたからだ。
決断できず、険しい表情になっている俺を宥めるように、ニールは言葉を重ねた。
『どうするか決めるのは、そこに行ってみてからでも遅くないだろ?』
「どうしてそう言えるんだ」
『君を一番よくわかってるひとのアドバイス、かな』
「……わかった」
静かな懇願を続けるニールを拒否することもできずに渋々頷く。
すると、そのことに安堵したらしいニールはようやく小さく微笑んだ。こちらを見ているはずのまなざしがどこか遠くを見ているようで、俺はそれ以上何も言えなかった。
*
ニールが俺に教えた場所が墓地だということは、調べればすぐにわかった。首都圏から離れた町に昔からある墓地らしい。ニールにその場所を教えられてから二日後、俺は墓地へと向かった。
朝、空港を出発してから延々と車を運転し続けて、ようやく墓地に到着する頃には午後になっていた。墓地の脇に車を停めて降りると、大地を覆う草花のにおいがした。日射しはやわらかく、ゆっくりと肌を焼いていく。
田舎の古い墓地というから、すっかり寂れているものだと思っていたのだが、きちんと手入れがされているらしく、鬱蒼とした雰囲気はない。広大な土地の中に、形や大きさまで様々な墓石が雑然と並んでいる。それぞれの墓石は整列しているとは言い難く、場所や向きまで好き勝手に鎮座していた。それでも、どこか精錬されているようにも見えるのだから、墓地というものは不思議だ。
ここに何があるかは大方の予想はついている。問題は見つけられるかどうかだ。
ニールが指定した北側へと向かい、墓碑銘を確認しながらゆっくりと歩く。鳥のさえずりを聞きながら墓石の間を歩いていくと、家族と思わしき墓が並んでいる場所から少し離れて、孤立するようにぽつんと立っている墓石を見つけた。
なんとなく、それが〝そう〟だと感じた。直感としか言えないが、なかば確信ともいえる予感を伴って足を運ぶ。
一歩ずつ距離が縮まるたびに鼓動が激しく脈打つ。期待なのか、不安なのか、自分でもわからない。視覚以外の感覚が遠のいていき、地面を踏む感触すら鈍く感じる。それでも近付かずにはいられない。
そうやって、ひどく長い時間をかけて墓石の前に立った。ひとつ大きく呼吸をしてから、ゆっくりと視線を落としていく。
墓石は一般的な、上部が楕円形になっている、大きくも小さくもないものだ。墓碑に名前はなく、代わりに文字が刻まれていた。
〝Always with you〟――いつもあなたとともに
墓石の中心に刻まれたその言葉の下には、小さく西暦があった。生年はあるが、没年は空欄になっている。それを見て、やはりこれが探していたものだと確信した。今年三十四歳になっているはずのこの墓の主を、俺はずっと探していたのだ。
そろりと手を伸ばして墓石を撫でる。日光を浴びていた石はほんのりとあたたまっていて、ささやかな熱が指先に伝わってくる。
その瞬間、ぽつり、と墓石に一粒の雫が落ちた。一度溢れ出すと止まらなくなり、視界を滲ませている水滴が墓石と地面を濡らしていく。
「ここにいたのか……」
その言葉は、意図せずするりと口から滑り落ちた。自分の声が耳に届いたことで意味を理解し、ようやく自分が〝俺のニール〟を探していたことに気が付いた。
目の前に、ニールの笑顔とゆるやかに細められたブルーグレイが鮮明によみがえった。それは、近頃すっかり慣れ親しんでしまった半透明の相棒ではなく、一年前、ともに並び戦ったニールの姿だった。
穏やかな風が吹いて頬を撫でていき、涙の痕をかすかに冷たく感じる。濡れた頬を手のひらで強引に拭い、続けて、水滴を払うように、濡れてしまった墓石を撫でた。墓石はやはりわずかな熱を保っている。それを確かめるように、今度は水滴を払うためではなく、石を撫でる。
確かに隣にいたのに何も残さずにいなくなってしまったニールが、ただひとつ形として残したもの。無機質なのに不思議とあたたかみがあり、そこに彼の意志を感じる気がした。じわりと再び視界が歪みそうになり、堪えようとして顔を上げる。そして、目の前に広がった空の広さに驚いた。
どこまでも続いているかのような鮮やかな青。その合間を白い雲がゆっくりと流れていき、時折、鳥が群れを成して飛んでいく。太陽は変わらず天上で輝き、風は木々の香りを運んでくる。耳に飛び込んでくるのは、少し離れた場所を走る車のエンジン音や、人々の笑い声。確かないのちの痕跡。
自分がいかに目を閉じ、耳を塞いで生きていたのかを思い知らされ、愕然とする。わかっていたはずの世界を守るということの意味を正しく思い出し、視線を墓石へと戻した。
「これを守るのが〝我々〟の目的だったな? ニール」
当然だが返事はない。だが、頭の中のニールはスタルスク12で見た姿ではなく、作戦の道中で楽しそうに笑っていたときの姿になった。それを思い出せたことに安堵して、自然と笑みが浮かぶ。
急に体が軽くなり、墓石に向かって「少し待っててくれ」と声をかけて墓地を出る。その足で道路を渡った先にあるカフェに入った。注文はコーヒーと紅茶をひとつずつ、テイクアウトで。
あたたかいカップをふたつ受け取って、まっすぐ元いた場所に戻る。そして、墓石の前に腰を下ろした。地震が起きた日と同じように、紅茶のカップを墓石の近くに置き、自分はコーヒーをすする。熱いコーヒーが胃の腑に落ちると、言葉は自然と音になった。あの日、穴ぼこの前では言うべきことが見つからなかったというのに、水が溢れ出したみたいに言葉は止まることがない。感謝と謝罪、それから、ありったけの文句を口にして、そのあとは、ぽつりぽつりと自分の話をした。
旧友と語らうように昔のことも今のことも話しているうちに陽は傾いていき、気が付いたときには空の色が変わり始めていた。風もいくらか冷たくなっていることに気付いて、冷めた紅茶のカップを手に取って立ち上がる。
「またな」
そう声をかけて墓碑を見下ろしたとき、ふと刻まれている言葉の意味が気にかかった。
ニールの痕跡を見つけた衝撃に追いやられて考えが及ばなかったが、ほかの墓石とは孤立しているように思えるこの墓に『ともにある』という言葉は妙な気がした。本人が用意した墓碑に意味がないとは思えない。
ともに、というのなら、この場所に意味があるのかもしれないと当たりをつけて、ぐるりと周囲を見回してみる。すると、俺の背後――ついさっきまで語りかけていた墓石の真っ正面に位置する場所にある墓石が目に入った。この墓とは置かれている角度も違うし、ふたつの間にはいくつもの墓石を挟んでいて、隣接しているとはとても言えない。だが、ニールの墓の真ん前に立つと、ほかの墓石の間をすり抜けて、その墓がしっかりと見えるようになっていた。
好奇心に抗うことなく、その墓石へと近付いていく。ひとつ、ふたつ……ざっくばらんに配置されている墓の横を通り過ぎ、目的の墓石の前に立った。
墓碑銘はなかった。ニールのものとは違い、文章ひとつ刻まれていない。ニールの視線の先にある名前のない墓。その意味を察するのは難しいことではなかった。
それ以上見てしまわないように慌てて顔を上げる。墓石の下部に小さな文字で没年が刻まれていたからだ。おそらく、これは俺が見ていいものではない。これがあるから、影のニールはこの場所を教えるのを渋っていたのだろう。
顔を上げた先にあるニールの墓石を一瞥し、今度こそ、この場所を離れるために背を向けて歩き出した。
*
ロシアに戻って真っ先に「ちゃんと見つけたぞ」と報告しようと思っていたのに、セーフハウスにニールの影はなかった。外にはぼやけた人々の姿があったから、この奇妙な現象が消えてなくなったわけではない。
向こうの自分の姿もなかったから、仕事か何かで家を離れているんだろうと思った。そうではないとわかったのは、ロシアに戻って三日後のことだった。
次の仕事の手配を終わらせてスマートフォンをテーブルに置く。ちょうど腹が減ってきていることに気が付いて、何か簡単なものでも作ろうとキッチンに向かい、冷蔵庫を開けたところで食材を買い足さなければならなかったことを思い出した。
小さくため息をつき、一区切りついたところだしな、と考えて外で食べることにした。
夕飯時を少し過ぎたところだろうか。外を出歩く人の姿はまばらで、家族連れは少ない。
幸いなことに、セーフハウスから歩いて行ける距離に料理がうまいレストランがあり、店主と顔馴染みになる程度には足を運んでいる。今日はその店で食事にありつくことにしようと決めた。
食事を済ませた人や、これから店を変えるらしい集団、それらに紛れて歩いている半透明の人々とすれ違いながら店を目指す。
そうして明かりのついている店のドアを開けると、食欲をそそる匂いに歓迎された。やはりピークは超えたのだろう。店内の様子は落ち着いている。
席に案内され、客たちの話し声と店内に流れる音楽を聞きながらメニューを眺めていると、テーブルの脇に男が立った。ホールスタッフだろうと顔を上げたのだが、そこにいたのはこの店の店主だった。店主は気さくな笑顔を見せる。
「あんたの顔を見るのも久しぶりだな」
「ああ、少し忙しくて。ここの味が恋しくなったんだ」
「それは嬉しいね。嬉しい理由はもう一つあるんだが」
「何があったんだ?」
「ことづてを預かってる」
「……ことづて?」
同じ言葉を繰り返すと、店主は神妙な様子で頷いた。
店主と言葉を交わすのは初めてではないが、店の外で会うような仲ではない。共通の知り合いもおらず、一気に警戒心が高まる。
こちらの正体を知っている者からの接触なら、早々に対処しなくては。そうやって先々のことまで意識すると、それまでの軽快な空気は一瞬で消え去り、ひりつくような気配に包まれる。
俺が訝しんでいることに店主も気付いたんだろう。慌てて「俺もよくわからないんだが」と言ってから、困惑した様子で言葉を続けた。
「何日か前に半透明な奴に声をかけられたんだよ。ほら、あの街中をうろうろしてる奴らだ。あんたに会えたら伝えてくれって」
「何を?」
「『出発地点で会おう』」
店主がそう言った瞬間、ニールの声で同じ言葉が再生された。耳元ではっきりと声が聞こえた気がして思わず目を見開く。
その反応で俺が何かを理解したらしいと知った店主は、不思議そうに首を傾げた。そして、何かを訊ねようとしてやめたらしい。首をひねり、ふう、と小さく息を吐いてから、オーダーを取るための紙を取り出した。
「ドリンクはいつものでいいかい?」
「ああ……いや、やっぱりウォッカトニックを頼む」
「珍しいね」
「たまにはな」
そう応えて笑い、料理の注文も済ませると、主人はからりと笑って厨房へと消えていった。俺は、ぼんやりと窓の外を眺める。
ニールは、もうここへは戻ってこないだろう。俺に墓地のことを教えたときからそのつもりだったのかもしれない。亡くした相手には会えないのが普通で、自然の摂理だ。今崩れかけているその当たり前のルールを、ニールは守ることにしたに過ぎない。
それに、俺自身、もう無理にでも探し出そうという気はなかった。ニールが向こうの俺と、俺のことを分けて話していたように、この世界の――俺のニールは、あの墓を用意してスタルスク12の穴ぼこに消えていったニールただ一人なのだ。もうよく似た影を追いかけたりしない。俺が向き合うべきなのは、ニールが俺に託したものと、これから出会うはずのニール自身だろう。
「出発地点、か」
ほかの客には聞こえないように独りごちる。
その日が来るのは何年後だ? どんなふうに出会う? 初対面のお前に対して、俺は平静でいられるだろうか?
ああ、もっと文句を言ってやればよかったな。そう考えて小さく苦笑したところで、ウォッカトニックが運ばれてきてテーブルに置かれた。店員に礼を言ってグラスを持つと、炭酸に包まれた氷が軽やかな音を立てる。その音を楽しんでからグラスに口を付けた。
アルコールと炭酸の刺激が口腔を刺激する。柑橘の香りがすっと喉を通っていき、口内に残っていた苦味ごと流れ落ちていく。
じわり、と視界が滲みそうになり、瞬きを繰り返した。そして、静かに語りかける。
「ああ……美味いな」
その言葉は、誰に届くでもなく店内のざわめきに溶けていった。
END