Translucent

 2

 あの地震の日から世界は少し変わった。昼夜問わず、そこら中を半透明の影が闊歩するようになったのだ。影は生きている人間と同じ姿の者もいたし、死んだはずの人間もいた。その存在は不安定で、ノイズ交じりの声が聞き取れることもあれば、姿すらうまく捉えられないこともある。だが、彼らは確かにそこにいて、夜になると比較的交信しやすくなるようだった。
 物理的な干渉はできない。それゆえに大きな影響は今のところない、些細な変化だ。だが、その些細な変化に世界中が踊らされている。
 全世界で同時に地震が発生したという異常事態を観測した学者たちは、今も休むことなく原因を探っている。まだ何ひとつ解明されていないのだが、そうこうしている間に、彼らの存在は人々の間で一人歩きし始めた。
 とある学者は、ニールが説明したようにパラレルワールドに関わる現象だと主張した。
 知識のない市民は、彼らはゴーストだと噂した。
 信仰を持つある者たちは、魔術や呪いのたぐいなのだと戦慄した。
 オカルトマニアたちは、ドッペルゲンガーは実在したんだと沸き立った。
 噂はどれも根拠がなく、誰もが信じたいものを信じているのが現状だ。俺は、ひとまずニールが説明したことに納得している。
 街なかを歩いていると、日中でも影を見かけるのが普通のことになってしまった。今も、俺の目の前で実在の人物と影がすれ違っている。その人物と影はお互いを認識できないらしく、半分ほど肉体が同化してしまっている。実際に結合しているわけではないと理解していても、どうにも奇妙で思わず顔をしかめてしまう。
 それを当人には気付かれないように誤魔化し、帰路を急いだ。
 人波を掻き分けるようにしてセーフハウスに辿り着き、玄関のドアを閉めてほっと息をつく。家の中に人の気配はなく、いつもと変わらず静かだ。
 この奇妙な現象が起こってからというもの、違う世界のニールがいるこの家に帰ってくることが増えた。透けている姿を見て安堵するなんて馬鹿げている。そう思うのに、この場所を離れられずにいるのも事実だ。
 今日は特に感度がいい日らしく、日が落ちる前だというのにゴーストの姿が見えている。家の中も例外ではなく、キッチンには半透明のニールが立っていた。向こうもこちらの存在に気付いたようで、ひらひらと手を振っているが声は聞こえない。会話は暗くならなければ無理だろう。そのことを理解しているニールも会話は諦めてダイニングへと歩いていった。
 擦れ違うニールの移動速度は一般的な大人よりも遅い。リハビリ中だというニール曰く、調子がいいときは杖だけで歩けるところまで回復していて、体調や状況によって車椅子と杖を使い分けている、ということらしい。それを教えられた俺は、喜びと共に胸の痛みも味わうことになり、「そうか」と返すことしかできなかった。
 コーヒーを淹れて、半透明の影を避けて腰掛ける。仲間と情報を共有するためにタブレットを操作しながら、隣のニールを盗み見た。
 ニールはもうひとつの世界で〝椅子の男〟をやっているらしい。具体的に何をしているのかはこちらからは見えないが、セーフハウスでできる仕事の大半はニールが担っているというから、きっと今も仲間たちをサポートしているのだろう。
 その横顔を見るのはなんだか新鮮だった。一年前の挟撃作戦の最中にそんな余裕はなかったし、今は相棒と呼べる存在がいない。自らの手元を見ているニールの輪郭はぼんやりとしていて確かな表情などわからないはずなのに、なぜか妙にはっきりとニールの顔が脳裏に浮かんで、静かに首を振った。
 過去の記憶と、目の前の幻想を重ねているだけだ。そう自分に言い聞かせて作業に戻る。〝椅子の男〟に任せているあちらの世界とは違い、自分の手でやらなければならないことが山ほどあるのだ。研究チームや協力者との連絡。それに加えて、次の仕事のために操縦班や実働部隊とも作戦を練らなければならない。自分が巨大な組織の手足だった頃とは違う疲労がそこにはあり、やはり前線に出る方が向いているな、と考えてしまってため息が出る。だが、それを聞き咎める者はいなかった。

 暗闇の中で寝返りを打つ。数時間前、やらなければならないことを終わらせてベッドに入った……はずだったのだが、自然と目が覚めてしまった。まだ夜は深く、家の中はもちろん、外も静まり返っている。
 もう一度眠りにつけないかと目を閉じてみたが効果はなく、無為に寝返りを繰り返している。
 これ以上休める気配がないことに小さく唸り、睡魔を引き寄せるのを諦めて目を開くと、暗がりの中にサイドテーブルの輪郭が浮かんで見えた。手を伸ばして明かりをつけて、のそりとベッドから起き上がる。そのとき、ふと初めて影が現れた日のことを思い出して、室内を見回してみた。しかし期待とは裏腹に、そこには暗闇が広がっているばかりで人の気配はなかった。
 それが当たり前の光景なのだと思い知らされた気がして、思わず苦笑する。彼の姿を探すのが癖になり始めていることにも。
 自分の思考の馬鹿馬鹿しさを振り払うように、勢いをつけて立ち上がる。そして、一度キッチンに立ち寄って水を飲んでから、今進められる仕事を片付けることにした。
 水分補給を終えて、タブレットを抱えて書斎へと向かう。様々な資料を保管している書斎は、二階の奥にある。階段を上り、寝室を通り過ぎ、書斎のドアノブをひねったところで体が強張った。
 わずかに開いたドアの隙間から漏れ聞こえてくる音に気を取られて思考が停止する。それが現実の音ではないことはすぐにわかった。聞き馴染みのないその声にノイズが混じっていたからだ。それは、よく知っていて、知らない声だった。
『ぁ、ん……っん、……!』
『ニール、っ』
 相棒として言葉を交わしてきた男の上擦った声に動揺して、タブレットを落としそうになった。慌てて端末を抱え直し、そっと息を吐く。そして、どうか気付かれないようにと願いながら、ゆっくりとドアを元の状態に戻した。
 音を立てずにドアを閉めることができたことに安堵し、背を壁に預けて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
 そうだ。前にニールが、俺の寝室はあちらでは資料室として使っているのだと言っていた。だから、初めて会った日はあそこにいたのだと。ならば、こちらの書斎があちらで寝室だとしてもおかしくはない。
 冷静さを取り戻そうとそんなことを考えてみたが、あまり効果はなかった。心臓がありえないくらい大きく脈打ち、指先は微かに震えている。顔に熱が集まり、立ち上がることができない。
 なんとか誤魔化せないかと手で顔を覆ってみるが、視界を遮ったことで甦ってきたのは、さっき聞いたばかりの声だった。
 明らかな快感を含んだ、途切れ途切れのニールの声。そして、それに重なって聞こえてきたノイズ交じりの男の声――それは、間違いなく自分と同じものだった。
 あちらの世界の自分がニールを助け出し、今も相棒として任務に当たっているとは聞いていたが、そういう関係だとは知らなかった。恋人、なんだろう、おそらくは。自分が相棒と肉体関係だけを結べるような器用さを持ち合わせているとは思えない。
 特別な相手だったから、あちら側の俺はニールを救出できたんだろうか。いつからだ? 何があった? どうして、関係ないはずの俺の胸が痛む――?
 心臓の鼓動は鳴りやまず、混乱しているせいでまともな判断が下せない。感情ばかりが先走って胸の中心を締め付ける。
 このとき初めて、はっきりと自分の中に隠れていた羨望を理解した。この一年間、ずっと胸を痛めてきた理由も。よくよく考えてみれば、気付かない方がおかしいのだ。多くの人間は、仲間を喪えば悲しみ、命日には祈りを捧げるだろう。だが、一度組んだだけの相手を一年間も想い続けたりはしない。俺も今まではそうだった。ニールだけ例外なのは、状況があまりにも特殊だったからだと思っていたが、きっとちがう。あの笑顔をやけにまぶしく感じるのは、そんな理由からじゃない。
 胸を締め付ける痛みの強さに息を飲む。
 唐突に、ニールが傍にいないことに耐えられなくなった。蓋をして、なかったことにして、見ないようにしてきた感情が溢れ出す。
 ニールを取り戻し、腕の中に抱いているあの男が羨ましい。指先が食い込むほどにきつく自身の手を握っても、その想いは消えてくれない。頭の中には、あの作戦の間に見たニールの顔が次々と浮かんでは消えていき、そして最後に、半透明のニールの姿になった。決して触れることのできない相棒。
 世界も人類も投げ出すつもりはない。だが、わずかな希望でも縋りたいと思っている自分がいる。そして、その声は半透明のニールと過ごすうちに段々と大きくなり始めていた。
 ゆっくりと目を開けて床を睨み付ける。まずはあの地震のことをちゃんと調べるべきだろうと、タブレットを握り締めて立ち上がった。

error: 右クリックは使用できません