Days~プロタゴさんとニールくん、ときどきニール~ *

ニールくんとニール

 男の急な思いつきだったせいもあり、クリスマスまでの約二週間は慌ただしかった。時間がなかったというのが主な理由だが、男がそういった準備に慣れていないのも要因のひとつだった。子供の頃ならいざ知らず、実家を出てからは、わざわざツリーや豪勢な食事を一から用意する必要がなかったからだ。
 帰省していた頃は、家に帰れば買い物はとうに済ませてあり、簡単な準備を手伝う程度だった。クリスマスの時期に帰省しなくなってからは、手のかかる食事のほとんどは外食やテイクアウトで済ませてきた。だが、幼い子供がいるとなるとそうはいかない。そう考えた男は、でき得る限りの準備をした。
 ツリーをリビングに用意し、電飾なども使って室内を装飾する。ツリーは遊園地のマーケットで買ったオーナメントを使って、ニールと一緒に飾り付けた。
 当日はチキンやクリスマスプディングを食べて、二人一緒にソファに座ってクリスマス・キャロルを観た。そして、サンタクロースがやってくるからと言って、いつもより早くベッドに入ったニールに隠れて、男はサンタクロースの真似事をしたのだ。ニールのベッドの枕元に用意されていた靴下に小さな菓子を詰めて、ツリーの下にはプレゼントを置いておく。そうやって、しっかりと準備ができたことを確認してようやく眠りについた男は、朝早くに飛び起きてきたニールに起こされるはめになった。
 ニールは「サンタクロースが来てた!」と半ば叫ぶように男をリビングに連れ出して、深夜に男が用意した箱を大急ぎで開け始めた。
 箱の中から出てきたのは、手袋やパズル、ボードゲームだ。この家から持ち出すときも苦労しないようにと、小ぶりなものを男は選んだ。流行りのおもちゃとはいえないそれらを喜んでくれるか心配していたのだが、ニールは心から喜んで男にプレゼントを見せた。大事そうに両手で抱えて、「あとで一緒に遊ぼう!」と言って。
 そのあと、嬉しそうに笑みを浮かべていたニールは自室に戻り、一枚のカードと、ニールの手のひらに乗る大きさの紙粘土でできた人形を差し出した。チョコレート色と黒色に塗装されたそれは、ニールから男へのプレゼントだった。男に気付かれないように、こっそり準備していたのだとニールは言う。
 ニールの手からカードと人形を受け取った男の目には、うっすらと涙が浮かんだ。
 そのことにニールは大層驚き、心配そうに男の顔を覗き込んでいたが、男自身も自分の反応に戸惑っていた。まさか、これだけのことに涙ぐむほど心動かされるとは思っていなかったのだ。
 まずいことをしてしまったのだろうかと困惑しているニールを、男は強く抱きしめた。そうしてから「ありがとう」と伝えると、ニールはようやく男の背を抱き返した。幼い声がやさしく「大丈夫だよ」と語りかけ、小さな手がぽんぽん、と男の背を撫でる。
 男は、どちらが大人かわからないな、と小さく苦笑して、同じようにニールの背を撫でた。
 二人のクリスマスは、そうやって穏やかに過ぎていった。
 しかし、特別な日はあっという間に終わりを迎えて日常に戻る。新年を迎える前に、現実は突然やってきた。

 その日もいつもと変わらない朝から始まった。
 男はニールが目覚める前にワークアウトを終わらせて、起きてきたニールと一緒に朝ごはんを食べる。片付けを終えたあとは、ニールは遊んだり勉強をしたりして過ごし、男はそれを手伝ったり、同僚と連絡を取ったりしていた。
 昼食を終えて、各々気ままに過ごしていたときだ。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいる男のところへ、ニールが今にも泣きそうな表情でやってきた。
「どうしよう……」
 そう呟いたニールの表情はこわばっており、見るからに顔色が悪い。異変を察知した男が「どうした?」と訊ねると、ニールは抱えていたタブレットを差し出した。タブレットの画面には、いつもどおり、広場が映し出されている。
 ニールが何を示しているのか、男は一瞬わからなかった。しかし、映っている風景をよくよく見てみると、違和感に気が付いた。
 画面の中、ニールと出会った電灯から少し離れた場所を何度も同じ後ろ姿が横切っている。その姿には見覚えがあった。正確には見たことがあるだけで、男は会ったことはない。監視カメラをハッキングして得た画像でニールが広場にやってきたところを見たときに、その後ろ姿も見たはずだ。
 男が画面を見つめながら言葉を選んでいると、ニールはもう一度、震える声で「どうしよう」と呟いた。
 ニールはずっと母親の姿を探していたはずだが、いざ見つけたとなると不安になってしまったのだろう。遊園地で駆け出したときのような勢いはない。
 男はニールの頭を撫でて、窓際に立って広場を覗き見た。そこには、確かにその人物の姿があった。電灯と一定の距離を保ち、うろうろと歩きながら周囲の様子を窺っているようだ。
 男は窓際から離れてニールと向き合う。
「行こう、ニール。ほら、コートを着て」
「……うん」
「大丈夫、俺も一緒に行くから。ひとりじゃない」
 そう言って、男がニールの髪をすく。ニールは唇を噛み締めて、ゆっくりと頷いた。
 二人とも上着を羽織って家を出る。家から広場までは数分も歩けば着いてしまう距離だが、今のニールにとってはそうではなかったに違いない。広場に着くまでの間、ニールからはずっと緊張が伝わってきていた。
 男はそっとニールの手を取って広場に入り、電灯に向かって歩いていく。
 家の中で見つけたその人は、さっきと変わらず、電灯から少し離れた場所に立っていた。後ろ姿だけでも何かを探しているのがわかる。何を探しているのかも、男には予想がついていた。
 電灯に向かってゆっくりと近付いていく。そして、目的の人物まであと数メートルというところでニールの足が止まった。存在を確かめるように、じっと後ろ姿を見つめている。
 男は、何も言わずにニールが動き出すのを待っていた。そのとき、目の前の人物が振り返り、確かにニールのことを認識した。女性の目がわずかに見開かれ、その瞬間にニールが走り出す。
「おかあさん……!」
 ニールはそう叫んで、女性にまっすぐに向かっていく。そして、勢いよく抱き着いた。女性はよろめきかけたが、ニールは離れようとしない。
 ニールが強く抱き着いても、女性は抱き返そうとはしなかった。いや、できないのだろう。その表情には動揺がありありと浮かんでいる。
 女性の手がためらいを表したように宙をさまよう。抱き返されることがなくても、ニールは何も言わなかった。不安も疑問も全部飲み込んで、ただただ縋るように抱き着いて離れない。
 男が二人に近付いていくと、女性は身を縮こまらせた。不安そうに視線があちこちへと動き回って定まらない。その姿を見て、男はそっと眉をひそめる。
 女性は数年前に流行した形のコートを身に着けていた。ダークブラウンの髪はほつれており、頬はわずかにこけている。ニールを置いて行ったあと、一人で裕福に暮らしていたようには見えなかった。
 幼子を置いていった親に対する腹立たしさが、男の中にはずっとあった。『何をやっているんだ』となじってやりたい気持ちもあった。しかし、本人を目の前にすると、どの言葉も適当ではないように思えた。
 男が黙って立っていても、女性と視線が交わることはない。女性の瞳は地面を見たまま、どこにも向こうとはしない。
 男は女性と向き合い、ゆっくりと口を開いた。
「しかるべきところに行きましょう。サポートが必要だ。この子にも、あなたにも」
 その言葉を聞いて顔を上げたのは、女性ではなくニールだった。うっすらと涙の膜が張っている瞳で男のことを見上げる。
「どこに行くの?」
「君たちを助けてくれるひとのところだ」
「やだ。おかあさんとジョンがいればいいもん」
 そう言ったニールの手が伸び、男の上着の裾を掴む。男はすぐに答えられず、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 おそらく、男にはどちらも叶えてやることはできない。自分といてはニールも危険にさらされるし、母親は養育能力があるとは認められないだろう。何ひとつ約束できないことを心苦しく感じながら、男は上着の裾を掴んでいるニールの手を自分の手で包み込む。
「俺も一緒に行くから心配ない。大人のひとにちゃんと話をしよう。そのあとは、俺は一緒にいられないかもしれないが……」
「どうして?」
「……仕事で遠いところに行くんだ」
「会いに行ってもいい?」
「いや、それはできない。本当に遠い、遠いところなんだよ」
「そんなのやだ……!」
 大きな目に涙を浮かべたニールにぎゅっと抱き着かれ、男は少し迷い、ニールの肩にそっと手を置いた。時間を超えて世界を救うのだ、などとは言えるはずもない。望みを叶えてやれないのに抱きしめ返すのもためらわれて、困ったような、あいまいな笑みを浮かべることしかできずにいる。
 少しの間動けずにいたが、離れようとしないニールの肩を撫でさすり、男は優しく声をかけた。
「ニール、これから先、きっと君にはいろんなことが起こる。簡単にはいかないかもしれない。そのとき俺は一緒にはいられないが、ずっと、きみの幸せを願ってる。ずーっとだ」
 男の話を黙って聞いていたニールは、抱き着いたままそっと顔をあげた。
「本当にお別れなの?」
「ああ、君たちを送り届けたら」
「やだよ、大好きだから行かないで」
「すまない、ニール」
 男がそれだけ告げると、ニールの口がへの字に曲がり、ぶわりと涙が目のふちに溜まった。何を言っても男の意思は揺らがないと察したのだろう。眉間にしわを寄せて、涙をこらえようと必死に踏ん張っている。
 男は、ニールが落ち着くまで背中を撫で続けた。時間はかかったが、少しずつニールの手のこわばりは解けていき、やがて、男の上着から離れていった。
 二人がそうしている間も、母親は逃げ出したりしようとはしなかった。相変わらずまともに目は合わなかったが、こちらも少しは冷静になったことを確認して、男は親子をつれて歩き出した。
 男と親子は、広場を出てすぐのところで見つけたタクシーに乗り込んだ。誰もが言葉数少なく、車内は静かだ。そんな中、専門家がいる施設へと向かう途中で、ニールの母親はぽつりと口を開いた。
 先月、ニールを置いて逃げ出してしまったこと。クリスマスにたくさんの家族が当然のように一緒に過ごしているところを見て、ニールのことがどうしても気にかかり、居ても立っても居られなくなって広場に来てしまったこと――そういったことを話して、誰にともなく何度も謝る。男はそれには何も答えず、ニールは母親を慰め続けていた。
 そうこうしているうちにタクシーは施設に到着した。職員に事情を説明すると、男も調書を取られ――これには少々嘘を交えたが――ニールは保護されることがすぐに決まった。あとは、家にあるニールの荷物を受け渡せば男の役目は終了だ。
 別れの瞬間を迎えた男とニールは、ほとんど言葉を交わさなかった。いざ最後だと思うと、何をどう話せばいいのかわからなかったからだ。もしかしたら、ニールも似たようなものだったのかもしれない。しっかりと見つめ合い、男が「元気で」と伝えると、ニールは「うん」とだけ答えた。
 自分を見つめる子供の瞳があまりにもまっすぐで、男はいたたまれなくなる。しかし、男は目を逸らさなかった。二人の間に静かな空気が流れる。そして、ニールが別室に連れていかれるときも、男は最後まで見送っていた。
 手続きを終え、施設をあとにして、ニールと暮らした家に帰る。玄関のドアを開けても子供の声はなく、見慣れた部屋がやけに静かに感じられた。
 気が緩むのと同時にどっと疲労を感じて、男はソファに仰向けに横たわった。肘掛けに頭を乗せて足を投げ出し、天井を眺める。いくらだらけていても、それを咎める人間はここにはいない。
 帰宅するまでの道中も 、こうしている今も、最後に見たニールの顔が頭から離れなかった。ブルーグレイのまるい瞳が心に刺さる。あの子に何かしてやれただろうか。いたずらに傷つけただけではなかったか。そればかりが男の頭の中を支配しており、堪えきれずにため息をつく。
 自分だけのために夕食を作る気にはなれず、男は静かに目を閉じた。

 少し疲れが取れたら動き出そうと思っていたのに、知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。男は薄暗くなった部屋で目を覚ました。霞がかる思考の中で、もう夜か、などと考えながら頭をゆっくりと動かす。すると、微かにぼやけている視界の中、男のすぐ近くで顔を覗き込んでいる人物がいることに気が付いた。窓から射し込んでくる光によって、その人物のブロンドがところどころ透けている。
「ニール……?」
 男は真っ先に同居人である少年の姿を思い描き、腹を空かせていないかと心配して名前を呼んだ。しかし、その直後に、少年のことはさっき見送ってきたのだと思い出し、ブロンドの持ち主を確かめるために目を凝らす。
 周囲の暗さにも目が慣れて、時間経過と共にはっきりと輪郭を捉えられるようになってくる。男は、今度は確信を持って名前を呼んだ。
「ニール」
「お疲れさま」
 恋人であるニールは床に座ってソファに頬杖をつき、男の顔を間近で眺めながら微笑みを浮かべている。
 男は、どうして、と言いかけて、それが愚問であることに気が付いて言葉を飲み込んだ。一般家庭の鍵など、このエージェントの前ではなんの障害にもなりはしない。
 男が言いかけたことを引き継いで、ニールはわずかに視線を動かし、窓際に設置してあるカメラを指差した。
「あれの映像、僕も見られるようにしてあったんだ」
「それで様子を見に来たのか?」
「うん、あの子がここに来ることは、もうないだろうからね」
 その言葉を聞いて、男はニールの瞳を覗き込んだ。ブルーグレイはまっすぐに男の瞳を見つめ返している。その瞳を見ていると男の中の様々な想いが膨れ上がり、気付いたときには、抱えていた不安を口にしていた。
「あのあと、きみは……」
 そこまで声にして、自分が訊ねていいことではないのではないかと思い至り、男は口をつぐんだ。
 男が何を言いかけたのか察して、ニールはほんの少し困ったように笑う。
「まあ、いろんなことがあったし、それなりに大変なこともあったけど、新しい家族にも出会えた。それに、珍しい経験もできたしね。大丈夫、君はできる限りのことをしてくれたよ」
「……そうか」
 ニールの言葉を聞いて、男はそっと安堵の息を吐いた。
 男の表情がやわらぐのを見ていたニールは、両肘をソファに乗せて身を乗り出した。より近い距離で男の顔を見つめて、わずかに首を傾げる。
「ところで、ひと仕事終えたばかりで申し訳ないんだけど、頼みがあるんだ」
「今度はなんだ?」
「一緒に遊園地に行こう」
 予想外の単語を耳にして、男は目をまるくした。少し前に少年がはしゃいでいた姿を思い出し、思わず小さく笑ってしまう。
「なんだ? わたあめが食べたくなったのか?」
 男のからかいを含んだ言葉に、ニールは楽しそうに笑う。そんな心境を表すように、続く言葉には歌うような響きが乗っていた。
「それも魅力的だけど、せっかく大人だけで行くんだからホットワインを飲もう。ソーセージを食べて、ワインの次はビールもいいな。それからアトラクションで叫ぶんだ。ちょっと過激なショーも観て、夜はパレードを楽しむ。それから――」
「それから?」
 一旦言葉を区切ったニールは、穏やかに目を細めた。蕩けるような瞳で男を見つめて、美しく微笑む。
「それから、最後は観覧車に乗りたい」
 きっときれいだ、と続けるニールの表情は穏やかなままだ。
 ニールがどうしてこんなことを言い出したのか、男はようやく理解した。目元を手のひらで覆い隠し、深いため息をつく。遊園地からの帰り道で自分が何を言ったのか思い出してしまって、どうにもいたたまれない。
 気恥ずかしさを誤魔化すために、男は声を絞り出した。
「……そういうつもりで言ったんじゃなかったんだが」
「僕だってずっと覚えてたわけじゃないよ。君との会話を思い出したのは、ついこの前、スノードームをもらったあとだ」
 ニールはそんなことをさらりと言ってのけたあとで、今度は声をひそめて囁く。
「なあ、いいだろ? 僕の、世界で一番大事なひと」
 そんな甘ったるいセリフを口にしながら、ニールは男の手に自分の指を絡めた。そして、自らの口元に引き寄せて、男の指先にそっとキスをする。
 指にニールの唇のやわらかさを感じて、男は言葉を詰まらせた。それから、はあ、と大きく息を吐き出す。
「お前には敵わないな、本当に」
 諦めと共に紡がれた言葉は存外に優しく、ニールの笑みが深くなる。
 ニールが満足そうに笑ったことを認めて、男はのそりと起き上がった。すると、空腹を訴えて腹の虫が小さく声をあげる。早く幼いニールの荷物をまとめなければならないのはわかっているが、まずは腹ごしらえが必要だろう。
 男は冷蔵庫の中に何があったか確かめるために立とうとしたが、それよりも早くニールが立ち上がった。
「きっと腹が減ってると思ってタコスを買ってきたんだ。サラダとフライもあるし、デザートにはソルベも。食べるだろ?」
「ああ、助かる」
 立ち上がったニールは部屋の明かりをつけて、一足先にダイニングテーブルへ向かう。その後ろ姿を眺めながら、男はそっと笑みを浮かべた。
 何が正解だったのかという疑問は尽きることがない。だが、男のそんな考えなど、ちっぽけで無意味なものなのだろう。男の前には、タコスを両手に持って笑っているニールがいる。それがきっと、答えなのだ。
 男はたったひとつだけ誓えたことを反芻し、胸の中に大事にしまい込む。

 きみの幸福を願っている。ずっと――ずっとだ。
 そして、叶うのなら、この先も隣でそれを見ていたい。

 そんなことを考えている男の頬は自然と緩んでいた。男はそのことに気付かれないようにニールの元へ歩いていき、向かい合って席に着く。見慣れた席には、自分よりも高い位置に目線があるニールが座っている。
 二人はタコスに手を伸ばし、大きく口を開けてかぶりつく。具材をこぼしながらタコスを頬張るニールを見て、男はほんの少しの胸の痛みと共に笑った。

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