ニールくんと遊園地
深夜、静かなリビングで男はラップトップと向き合っていた。画面にNの文字が表示されているスマートフォンを片手に持ち、端末の向こう側にいる人物と会話を続けている。本来は予定していなかった通話だったが、ある情報を急いで確認してほしいと連絡があり、同居人である子供が眠ったあとにこうして珍しく通話している。
時計の針がてっぺんを超えてからようやく確認作業を終えて、男はラップトップの画面を閉じた。手にしている端末の向こうからは、まだキーボードを叩いている音が聞こえている。その音がやんだかと思うと、耳元で息を吐く音が聞こえた。
『助かった。なんとかなりそうだ』
「いや、任せてしまって悪いな。大変だろう」
『まあ、〝僕〟のせいだからね。それについては何も言えないよ」
男はうまく答えられずに苦笑を浮かべた。通話相手である男の恋人も同じような表情を浮かべているのだろう。二人の間に沈黙が訪れる。
『……きみが恋しいよ』
恋人であるニールの言葉は、先程までとは違う声音で男の耳に届いた。仕事相手に対するものではなく、愛しい相手に向けた声だ。そのことに気が付いて、男は「ああ、俺もだ」と返事をした。
ニールは男の返事を受け取り、続けて言葉を紡ぐ。
『きみにキスして、全身触って、僕の……』
「ニール、待ってくれ」
『なに?』
「そういうのはそこまでだ」
強引に会話を遮られて、ニールはあからさまに不満げな声を出す。
『別にいいだろ。最後にしてからもう一か月以上経つんだ。我慢するにもほどがある』
「お前の気持ちはわかるが、こっちは子供と暮らしてるんだぞ」
『ベッドルームに行けばいいじゃないか。なんのための個室なんだ。それとも、ずっとオナニーもしないでいるつもりか?』
「一人でするのと、通話しながらじゃわけが違う。知られたらまずいだろう」
『ほかの子ならまずいだろうけど、相手は僕だ。僕が許可する』
「おい、ニール……」
『君が平気だって言っても僕は平気じゃない。……声だけなんて、耐えられないよ』
ニールの声がわずかに小さくなり、男は耳元で直接囁かれているのだと錯覚しそうになった。端末から聞こえてくる声は先程のような威勢はなく、甘えるような弱々しさを帯びている。その声から恋人のベッドの中での姿を思い出してしまい、男は今すぐにニールを抱きしめたくて堪らなくなった。しかし、それはかなわない。仕方なく、男は恋人と同じように声を潜めた。
「俺だって同じだ。全然平気じゃない。会いたいし、触れたいとも思う。仕事じゃなくな」
そんなことを話している途中で、廊下の方からドアが閉まる音が聞こえてきた。
男が音のした方向に目線を向けると、そう時間はかからずにリビングのドアが開いて少年が姿を現した。男を見ている瞳はまだ眠たげに半分閉じており、ブロンドは枕の形に癖がついて一方向に跳ねている。
リビングの出入り口から男の姿を確認した少年は、パジャマのままソファの方へと歩いてきて、何も言わずに男の隣に腰を下ろした。その距離は腕が触れ合うくらい近い。男は一人で気まずくなって、わずかに少年から顔を逸らした。そして、効果などないとわかっていながら、さらに声を落として端末の向こうに話しかけた。
「とにかく、それについては改めてちゃんと話そう」
『唐突だな』
「少し事情が変わってな」
『あー……もしかして、あの子?』
「ああ、そうだ」
端末の向こうで、ニールは隠すことなくため息をついた。ようやく恋人との会話が嚙み合ってきたところだったのだから、少々うんざりしても仕方がないことなのかもしれない。だが、ニールとてここで強行できないことはわかっている。小さな落胆も声に乗せて、ニールは話を切り上げることにした。
『わかった。じゃあ、また今度』
「ああ、おやすみ」
『おやすみ』
通話が終わったことを確認して、男は隣に座る子供へと視線を向けた。わずかに顔を動かしただけでブルーグレイの瞳と視線がぶつかり、男は静かに息を飲む。どうやら、ソファに座ってからずっと男のことを見ていたらしい。ちいさなニールは、じいっと男の顔を見続けている。
その視線に困惑しながら、男はニールに声をかけた。
「どうしたんだ? こんな夜中に」
「なんか目が覚めちゃった」
「そうか、参ったな……。そうだ、ホットミルクを用意しよう。そしたら眠くなるかもしれない」
「んん……うん」
「どうした?」
「……いまの、トーマス?」
唐突に以前大人のニールが名乗っていた偽名を耳にして、男の心臓は大きく跳ねた。
さっき男が聞いたのはドアが閉まる音だけで、いつからニールが起きていたのかがわからない。もしかして、通話の相手を『ニール』と呼んでいるのを聞かれていたのではないか。そんな不安が男の警戒心を煽り、最悪の事態を想定させた。
万が一の場合に備えて、少年が何を聞いていたのか、男は知っていなければならない。男は慎重に、しかし、それを悟られないように、普段と変わらないトーンで話を続ける。
「よくトーマスだってわかったな」
「……わかるよ」
「もしかして、話し相手の声が聞こえたとか?」
「ううん、ちがう」
「何を話してたか、聞いたりしなかったか?」
「そんなことしないよ」
「本当に?」
「しないってば……! そんなんじゃないもん! ジョンのバァカ‼」
「なっ……」
突然の幼い暴言に男は驚き、一瞬硬直してしまった。その隙にニールは勢いよく立ち上がり、自分の部屋へと駆けて行ってしまう。
「こら、ニール!」
ニールの背中に向かって声を張り上げてみても効果はなく、ニールは自室に姿を消した。バタン! と、ドアを強く閉める音だけがリビングに響く。
男はしばらくの間、ソファに座ったまま呆然としていた。だが、いつまでもそうしてはいられないだろうと、戸惑いながらも立ち上がり、ニールの部屋のドアをノックした。しかし、返事はない。もう一度ノックしてみるが結果は同じだ。男はゆっくりとドアを開けて、わずかな隙間から「入るぞ」と声をかけてみる。だが、やはり答えは返ってこない。
男は少し迷ったが、意を決して部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は暗く、廊下から漏れてくる明かりだけが頼りだ。ドアの隙間から漏れている細長い光が小さなベッドを照らしている。そのベッドの上にはこんもりと布団の山ができているが、中身は見えない。ニールは夜空の模様の布団の中で籠城を決め込んでいるようだ。
男はそっとベッドに近付いていく。そして、布団の山のすぐ隣に腰掛けた。
「さっきはいきなり大声を出して悪かった。ニール、顔を見せてくれないか」
「……」
「だめか?」
「……」
「……わかった。落ち着いてから、ちゃんと話をしよう。おやすみ、ニール。いい夢を」
布団の山に向かってほとんど独り言のように話していた男は、最後にぽんぽんと山の頂きを撫でて立ち上がった。
ニールの部屋を出てリビングに戻ってきた男は、乱暴にソファに座り、脱力した。緊張が一気に消え失せ、代わりに疲労が襲い掛かる。
男にわかったのは、どちらのニールからも不興を買ったらしいということだけだった。
次の日の朝、ニールはなかなか起きてこなかった。
朝食を作り始める前にニールの部屋の前で声をかけたが返事はなく、男は仕方なく食事の準備を進めることにした。調理を終えても起きてこなかったらもう一度声をかけようと考えていたのだが、パンケーキを焼いている途中でニールが食卓にやってきたので、その必要はなくなった。
ニールは深夜に起きたときとは違う寝癖を携えて、気まずそうに男の様子を窺っている。椅子にも座らず、男の後ろ姿を眺めているニールに男が「おはよう」と声をかけると、ニールは驚いた様子で目をしばたいた。男が普通に話しかけたことが意外だったようで、戸惑いながらもどこか安堵したような表情をみせる。それから、いつもより少しだけ小さな声で「おはよう」と答えたのだ。
そのことに安堵したのは男も同じだった。数分前と比べるといくらか軽やかな動きでフライパンの中身を皿に移し替える。焼きあがったパンケーキとソーセージを男が食卓に運ぶと、ニールはようやく席に着いた。
もうすっかり慣れてしまった定位置で向かい合い、二人はパンケーキを食べ始める。たっぷりかけたシロップがニールのフォークを伝っていくのを眺めながら、男は自分のフォークを皿の上に置いた。
「ニール、昨夜のことなんだが……しつこく確認したのは、君のことを疑ってたからじゃない。俺の仕事の問題なんだ」
「どういうこと?」
「昨日の電話は仕事に関するものだったんだが、その内容は同僚以外誰にも知られちゃいけないものだったんだ。本当に、誰にもだ。だから、君が聞いていたかもしれないと思って焦ってしまった。すまなかった」
男が言葉を選びながらそう説明すると、ニールも男と同じようにフォークを皿の上に置いた。口の中に残っていたパンケーキを飲み込み、おずおずと男のことを見上げる。
「ううん、ぼくもひどいこと言ってごめんね。本当に聞いてないから大丈夫だよ」
「そうか、よかった。それにしても、よく相手がトーマスだってわかったな」
「だって……」
「うん?」
「トーマスと話してるときのジョン、なんか違うもん」
そう答えて、ニールは違和感の正体を探して首をひねる。ニールは答えを見つけられそうになかったが、男は理由を察して咳き込みそうになっていた。なんとか堪えて、ゆっくりとコーヒーを飲んで呼吸を整える。だが、そんな努力もむなしく、次に発した声は少しだけひっくり返っていた。
「あー……違う?」
「うん、なんかわかんないけど、違うよ」
そう言い終えると、ニールは再びフォークを手に取り、食事を再開した。
男もニールに倣って食事を続けようとしたのだが、気恥ずかしさが勝ってしまってうまくいかない。パンケーキを口に含んでみても、さっきと同じようには味わえない。仕方なく食事での気分転換は諦めて、やや強引に意識を逸らすことにした。
「そういえば、そろそろホリデーの時期じゃないか?」
「来週からクリスマスホリデーだって、ダンが言ってたよ」
「そうか、その間は俺たちも休みにしよう。完全に、というわけにはいかないかもしれないが」
「……うん」
それまですらすらと話していたニールの声がわずかに暗くなったことに気付き、男は首を傾げた。今日こそ不興を買うようなことを言ったつもりはなかったのだが、ニールの視線は落ちたまま、テーブルの上から動こうとしない。
男が遠慮がちに「どうしたんだ?」と訊ねると、ニールは静かな声で答えた。
「ジョンは、ホリデーはどこに帰るの?」
「帰る?」
「ホリデーはみんな、家族と過ごすんだよ。マイルズはおばあちゃんとかイトコに会いに行くんだって。ジョンは?」
その言葉を聞いて合点がいった。この少年は、男が自分を置いてどこかに行ってしまうんじゃないかと考えていたのだ。そんなはずはないのに。
だが、男がどう考えているかなど、ニールが知るはずもない。男は、ニールにわからないようにわずかに苦笑した。
「俺はどこにも行かない。クリスマスもこの家で過ごすつもりだ」
「そうなの……?」
「ああ、毎年そうなんだ。ホリデーに合わせて帰ったりはしてない」
「じゃあ、クリスマスも一緒?」
「ああ、そうだ」
男がしっかりと頷くと、ニールの頬が緩む。
クリスマスを誰かと過ごす。それだけのことがこの子供には難しいことなのだと思うと、男の胸は苦しくなる。少しでも多く喜ぶ顔が見たくて、男は思いつきを口にした。
「なあ、ニール。せっかくだから、どこかに出かけようか」
「え? ほんとう?」
「ああ、いつもは買い物くらいしか行けてなかったからな。たまにはいいだろう。どこに行きたい?」
「えっ、んと、えっと、えっと……」
「ああ、国内で頼むぞ」
焦って言葉を探し始める姿を微笑ましく思いながら、男はそう付け加えた。ニールは勢いよく、何度も首を縦に振る。そして、混乱が収まりきらないまま大きな声を出した。
「あ、あのね、遊園地……!」
「なるほど、遊園地か」
「毎年、冬になると公園が遊園地になるんだよ! 乗り物もいっぱいあるんだ!」
「行ったことがあるのか?」
「あるけど、うんと小さいときだから覚えてないんだ。だから行ってみたい!」
「わかった、調べておこう。俺もこの国の遊園地は行ったことがないから楽しみだ」
男がそう言って微笑みかけると、ニールは溢れんばかりの笑顔を浮かべた。
残りのパンケーキを切り分けている姿を見ていても、さっきよりもそわそわして落ち着きがなくなっているのがわかる。こぼれた欠片やシロップがテーブルを汚したが、今は咎める気にはなれず、男はくつくつと笑いを堪えている。
そうしていながらも、男は少しばかり反省していた。
ニールと暮らし始めた頃は、この生活がクリスマスまで続いているとは思っていなかった。だから、ホリデーやクリスマスのことはあまり想定していなかったのだ。
だが、こうなったからには、この冬を寂しい記憶として残したくはない。そうなってくると、ニールが言う遊園地のことはもちろん、ツリーやプレゼント、料理のことも考えておかなければならないだろう。二週間程度の間に準備しなければならないことが山積みだ。
だがそれも、この少年のためなら苦ではないのだと気付いてしまい、いくつのニールに対しても自分は甘いのだと、男は自嘲した。
* * *
次の週――クリスマスの約一週間前、男とニールは朝から慌ただしく準備をしていた。
朝は早めに起きて身支度を済ませ、昨夜のうちにまとめておいた荷物を見直す。忘れ物がないことを再確認し、最後に防寒具もチェックして、二人はようやく出発した。
最寄り駅から地下鉄に乗り、目的の公園へと向かう。この一週間ほどの間はずっと落ち着かない様子を見せていたニールだが、今日は特別興奮しているようだ。じっとしていることが難しいのか、電車の中でもあちこちに視線を向けている。男が「焦らなくても大丈夫だぞ」と伝えてみても効果はなく、ニールは手すりに掴まる代わりのように、自らが背負っているリュックの肩ひもを握り締めた。
その一部始終を見ていた男は、今日はいつニールの体力が尽きるかわからないな、と、ある種の覚悟を決めてこっそり苦笑した。
そんなふうに地下鉄での時間を過ごし、公園の近くの駅で電車を降りる。目的地には駅から数分で辿り着き、遊園地の名前が大きく記されている入り口に出迎えられた。
クリスマス目前の午前中だからか、入り口周辺は子供の姿も多く、賑わっている。きっと、夜になれば大人も増えるのだろう。夜遅くまでいるつもりはないとはいえ、移動するタイミングは考えなければ。
男がそんなことを思案しながら人波に合わせて歩いている間も、ニールは看板から目を離さない。看板の下をくぐるときも、わずかにふらつきつつ真上を見て、感嘆の息をもらしている。
その様子を見ていると男は少し心配になり、ニールに手を差し出した。そのことに気付いたニールは、ためらうことなく男の手を握る。はぐれないように小さな手を握りしめて、男は最初の目的地を目指した。
二人が最初にやってきたのは、サンタクロースに会えるという施設だ。案内どおりに列に並び、様々な装飾がなされている建物の中を進んでいく。家に飾る予定のツリーやオーナメントの話をしながら列についていくと、やがて小さな部屋に辿り着いた。係員に案内されて、奥まっている室内に入る。その部屋の中にサンタクロースはいた。
定番の赤い服と帽子を身にまとい、たっぷりの白いひげを蓄えて、微笑みを浮かべて二人のことを待っている。
イラストで見るようなサンタクロースが実物となって目の前にいると、大人でも楽しくなってくる。ここまで列ができるのにも納得がいった。
サンタクロースは部屋の隅にある椅子に座っている。室内で待機している係員がサンタクロースの近くへ行けるように声をかけてくれたのだが、ニールは動こうとしなかった。それを不思議に思った男が背中をぽんと叩く。そうすると、ニールはやっと前に進み始めた。
珍しく緊張しているらしく、サンタクロースの隣に座っても何を言ったらいいのかわからないでいるようだ。ニールが助けを求めるように男のことをちらりと見る。男は安心させるように笑いかけたのだが、効果はいまいちだったらしい。ニールはもぞもぞと自分の手を指でいじっている。
そんな状態でサンタクロースに肩を抱かれて一度は硬直していたニールだったが、途中からはしっかりと笑顔をみせていた。そして、最後にその様子を写真に撮り、プレゼントだというバッジももらって、その建物をあとにした。
「サンタクロースだったよ!」
外に出た途端、ニールはそれまで我慢していたものが溢れ出したかのように声をあげた。目を大きく開けて、手の中のバッジの存在を確かめるように、何度も手のひらを開いたり閉じたりしている。
「よかったな」
「うん!」
「ほら、なくさないように、リュックにしまっておいたらどうだ?」
「うん、なくしたら大変だからね」
自慢げに答えたニールは、リュックの中に入れてしまう前にもう一度バッジを確かめて、そのあとでいくつかあるポケットの中にしまった。そうしている間も、ずっとにこにこと笑顔を浮かべている。
男はニールがリュックを背負うのを待ち、今度は子供向けのアトラクションを目指して歩き始める。
すぐに現れたいくつものアトラクションを前にして、男は純粋に驚いていた。移動遊園地とは思えないような、しっかりとした造りのアトラクションばかりだからだ。
「これは確かにすごいな」
「うん、すごい……!」
男の呟きに対して、ニールはそれだけ答えた。ニールの視線は四方八方へと動き回って定まることがない。くるりと自身も回転しながらアトラクションを見比べている。興奮を表すように頬は紅潮しているし、口角は下がるということを忘れてしまったようだ。
男は、子供の素直な反応に笑いそうになってしまった。しかし、それを隠して問いかける。
「どれに乗りたい?」
「じゃあ、あれ!」
ニールが真っ先に指差したのはメリーゴーランドだった。昔ながらの、色とりどりの馬が回転しているメリーゴーランド。
男は頷き、ニールと共にメリーゴーランドに近付いていく。音楽が一旦止まるのを待ち、降りてきた人々と入れ違いにニールが馬の背に跨るのを見守る。
待っていた人々が移動し終えると、軽快な音楽と共にメリーゴーランドは動き出した。ニールが乗っている馬も前方へと消えていき、一周して戻ってくる。
ニールは周囲を見渡し、男の姿を見つけると手を振った。男が手を振り返すと、嬉しそうに笑みを浮かべる。それを数回繰り返し、回転が止まるとニールは男の元へ駆けてきた。
「おもしろかった!」
「そうか、よかった」
そんなことを言い合って、二人はニールが指差すアトラクションを順番に回った。ゴーカートには二人並んで座り、巨大な滑り台では、ニールが滑り降りてくるのを男が見守る。
そうやって探索ごと楽しんでいると、二人の前に派手な飾り付けがされている出店が現れた。屋台の奥側にはゲームの仕掛けがあり、屋根や柱にはぬいぐるみやおもちゃが並んでいる。ゲームをクリアすればもらえる景品なのだろう。出店の端から半分まで人が一列に並び、一喜一憂しながらゲームに挑戦している。
男は屋台の前を通り過ぎようとしていたのだが、ゲームで遊んでいる人々の背中をニールがじっと見ていることに気が付いた。
出店の前を通り過ぎてしまう前に、男はニールに訊ねる。
「やってみるか?」
「いいの?」
そう聞き返したニールの声には、ほんの少しの緊張が乗っていた。「もちろん」と言って頷いた男に背を押され、二人で出店の前に向かう。
ゲームはダーツで的を狙い、当たればクリアというもののようだ。決められたレーンの奥にいくつかの的が設置されている。
係員に料金を支払ってダーツを受け取った男とニールは、ほかの客と同様に出店の前に並んだ。レーンの正面に立ち、まずはニールが的を狙う。思いっきり手を振って投げてみるが、ダーツは下へと落ちてしまった。次に男が構える。男が投げたダーツは、高い位置にある的に突き刺さった。隣で見ていたニールが、わあ! と声をあげる。
「ジョン! 当たったよ!」
「的に当てるのは得意なんだ」
「すごいね!」
男が得意げに言うと、ニールは尊敬の眼差しを向けて目を輝かせた。
続いて、男には負けてられないとばかりにニールが投げる。だが、ダーツはまた的から離れた場所に落ちてしまった。続けて外してしまったニールは、悔しそうに唇を噛み締めて的を睨みつける。
そのあとも男は順調に当て続けたが、ニールの投げるダーツは一向に当たらなかった。手前で落ちてしまったり、まったく違う方向へ飛んでしまったりと、うまく狙えない。そして、失敗を繰り返しているうちにニールの機嫌は急降下してしまった。
ふてくされた表情でダーツをいじるニールを見て、男は小さく苦笑する。ニールが楽しめていないのでは意味がない。
見かねた男は、残っている的が一番低い段のふたつだけになったところで、ニールの隣にかがんで視線を合わせた。ダーツを握っているニールの手を、男の手がそっと包み込む。
男が何をしようとしているのかわからず、ニールは怪訝そうに男のことを見た。
「次は一緒に投げてみよう」
「……いいよ」
拗ねているときの声ではあったが、ニールは男の手を振りほどこうとはしなかった。
男は「よし」と頷き、改めてニールと目線を合わせる。左手でニールの体を支え、右手でニールの手を持ち上げてゆっくりと動かす。そして、レーンの奥へと視線を戻し、的を睨みつけた。
「いいか? まず的をよく見る。狙うのはあそこだ。ああ、もう少し上……そう、そこだ。それから、手の場所がここにきたらダーツを放す。ぶつけようとしなくていい」
男は動きも交えながら一つずつ説明していく。その言葉を聞き逃すまいと、ニールは真剣な表情で頷いていた。
何度か腕の動きを反復し、男の合図に従ってダーツを投げる。すると、ニールが放ったダーツは見事に命中した。ニールが勢いよく男の方を振り向く。
「あっ、あたった‼ 当たったよ‼」
「やったな、ニール」
ニールは的の方を指差し、その場で何度も飛び跳ねている。それから、興奮冷めやらぬ様子で「もう一回!」と男にねだった。
もう一度ダーツを握り、男とニールは同じ的を狙う。二人で呼吸を合わせて投げたダーツは、鮮やかに最後の的に当たった。
ニールはさっきと同じように男の方を振り向き、首に両腕を回してぎゅうっと抱き着く。
「やったぁ! すごいや、ジョン‼」
「君が当てたんだ」
男がぽんぽんと背中を撫でると、ニールは勢いよく男の首元から離れて、にっかりと自慢げに笑う。そんな少年を宥めて、男は係員から景品を受け取った。
大きなぬいぐるみやおもちゃは持ち運ぶのに不便だったので、ニールと相談して帽子を貰うことにした。ふわふわの生地で作られた、正面に可愛らしい顔が描かれている帽子だ。おそらくモデルはうさぎだろう。長い耳がふたつ、頭の上から垂れている。その下には、かぶったときに顔の横を覆うように垂れ下がっている長い手がついていた。末端には肉球がデザインされている。
「ほら、君が当てたんだから、君のものだ」
そう言って男が帽子をかぶせると、ニールはそろそろと手を伸ばして自分の頭に触れた。ふわふわとした感触を確かめながら、ちらりと男の顔を仰ぎ見る。
「……変じゃない?」
「よく似合ってるぞ」
男の返答を聞いて、ニールは顔を綻ばせた。
そのとき、二人のやりとりを見ていた係員が、帽子の手の部分を握るようにニールを促した。ニールは首を傾げながらも、言われたとおりに手の部分を握る。すると、ニールの手の動きに合わせて帽子の耳がぴょこんと跳ねた。ニールが右手を握れば右の耳が、左手を握れば左の耳が、そして、両手を握れば両方の耳が、軽快にぴょこぴょこと跳ねる。
その様子を見ていた男は、つい、ふふっ、と笑ってしまった。
男の小さな笑い声に気付いたニールが不振そうに顔を上げる。だが、心当たりがない。なぜ男が笑っているのか確かめるために手を動かすと、そのたびに男が笑顔になるので、ニールはわけがわからずに唇を突き出した。
その姿の愛らしさに頬が緩みそうになるのを誤魔化し、男はスマートフォンで動画を撮って、帽子に何が起こっているのかニールに見せた。
端末の画面を見たニールは、帽子の仕組みをようやく理解してけたけたと楽しそうに笑い声をあげた。最後に係員に礼を言って、帽子をかぶったまま出店を離れる。
帽子がよほど気に入ったのか、店を離れるときもニールはうさぎの真似をして飛び跳ねていた。
男は足元に気をつけるようにニールに声をかけてから時間を確認した。ゲームやアトラクションに夢中になっている間に時刻は正午を過ぎていた。男はニールに「何か食べよう」と声をかける。
ニールは朝から、あれもすごい、これもすごい、と興奮しっぱなしで、少々息が上がってしまっている。空腹も気にしていない様子だが、朝食から時間が経っているのだから、腹が減っていないはずがない。高揚感で誤魔化されているだけだろう。そう男が考えたとおり、食べものの屋台を見つける頃には、ニールの腹の虫は鳴き始めていた。
屋台には様々な飲食物が並んでおり、あちこちから美味しそうなにおいが漂ってくる。二人とも少し悩んでから、男はホットドッグを、ニールは砂糖たっぷりのチュロスを選んだ。
休憩も兼ねて簡易の席に着く。食べもののにおいに煽られてニールの腹の虫はどんどん元気になっており、空腹感は限界を迎えているようだ。揚げたてのチュロスを早く食べようとして苦戦している。
その様子を眺め、コートにこぼれ落ちる砂糖をはらってやりながら、男はホットドッグを味わった。温かい飲み物と一緒に食事を楽しみ、最後にニールが食べきれなかったチュロスも食べて、男は腕時計を確認する。
腹ごなしが済んだところで、次は、とあるテントへ向かった。そのテントの周辺には、ショーの開始時間に合わせて人が集まってきている。人々は期待に満ちた表情を浮かべており、吸い込まれるようにテントの中に消えていく。男とニールもほかの人々と同じように中に入った。
テントの中心には円形のステージがあり、それを囲むように席が設置されている。男とニールは、真ん中から少し外れた席に座った。周囲には家族連れらしき客が多く、皆一様に、これから始まるショーに期待して楽しそうに話している。
それはニールも同じだった。ニールはそわそわしながら、テントの中を端から端まで眺めている。何もかもに興味を示すニールと男が話し込んでいると、次第に客席が薄暗くなっていき、ショーが始まった。
カラフルな衣装を身にまとった人々がステージの上に次々と現れて芸を披露していく。綱渡りや空中ブランコ、はしごを使った芸に、まわるホイール。
パフォーマンスが成功するたびに会場内が盛り上がる。ニールもほかの客と同じように大きく手を叩き、歓声をあげている。
男は、自身もパフォーマーに拍手を送りながら、ちらりとニールの様子を窺い見た。
ニールは、男が自分を見ていることなど気付かないくらいステージに夢中になっている。めいっぱい口を開けて声を出し、手のひらがうっすらと赤くなるくらい拍手する。客席は暗くなっているが、ステージを照らしている鮮やかな照明によって、ニールの髪も瞳も色とりどりにきらめいていた。
ニールのこんな姿を見られただけでも、今日ここに来た意味があったと、男はそう思えた。
少し長く見すぎていたのか、男の視線が自分に向いていることに気が付いたニールが隣を見る。
「ちゃんと見てないと終わっちゃうよ?」
不思議そうに男の顔を見て、ニールはそう言った。男は「そうだな」とだけ答えて、ステージを見るために前を向いた。
団員が最後の挨拶を終えると、会場内が日常へと戻っていく。だが、子供たちの興奮は簡単には冷めそうにはなかった。テントの外に出ても、人々の楽しそうな声は消えることはない。ニールも、午前中にたっぷり遊んだとは思えないくらい足取りが軽い。テントから離れてもニールの話は尽きることがなく、男はほとんど聞き役に徹している。
二人は並んでゆっくりと歩いた。あと一時間もすれば日は落ちて、園内の装飾が輝き始めるはずだ。そうしたら観覧車に乗って、それから帰るのだとあらかじめ約束している。
日が落ちるのを待っている間に先に買い物をしてしまおうと、男とニールはマーケットに向かった。園内ではクリスマスマーケットが開催されており、食器や置物、おもちゃやオーナメントなど、様々なものがずらりと並んでいる。
男とニールは店に近寄って、並べられている品物をひとつずつ見ていく。マーケットの中にはお菓子を扱っている店もあり、ピンクや水色のふわふわのわたあめが店先に飾られていた。ニールはそれに目を奪われている。
「あれが欲しいのか?」
男がそう訊ねると、ニールはぎくりと肩をこわばらせた。ちらりと男の顔を見上げ、ためらいながらも頷く。
今日は一気にたくさん遊んだせいか、何やら遠慮しているらしい。いらぬ気遣いに小さくため息をつき、男は笑みを浮かべた。
「今日は特別だ」
そう告げると、ニールの表情がぱっと明るくなる。少し迷って「いいの?」と確認するニールに頷き、透明の袋に入れられたカラフルなわたあめを購入する。買ったばかりの袋を男が差し出すと、ニールはそれを両手で受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
男に礼を言っている間も、その視線はわたあめから離れない。大きな袋の端から端までじっくりと眺めてようやく満足したのか、ニールは勢いよく顔をあげた。そのとき、ニールの目が大きく見開かれた。
ニールの視線は男を通り越し、さらに後方へと向いている。男が後ろに何かあっただろうかと疑問に思い、振り向こうとした瞬間、ニールの体は動き出していた。
「おかあさん!」
止めなければ、と男が思ったときにはもう遅かった。ニールは振り向くことなく、男の脇をすり抜けて駆けて行ってしまう。とっさに手を伸ばしてみたが、男の指がニールに触れることはなかった。慌てて振り返り、あとを追いかける。
「ニール、だめだ、待て!」
必死に声を張り上げても喧騒にまぎれてしまい、ニールには届かない。なんとか姿を見失わないように走ろうとしたが、混雑しているせいでそれもかなわない。男がそうしている間にも、体の小さなニールはどんどん先へと進んでしまう。男は何度も人にぶつかりそうになりながら前に進んでいたが、ついにニールの姿を見失ってしまった。
立ち止まり、うるさく鳴っている心臓を抑え込んで、周囲をまんべんなく見回す。幼い子供たちの姿は多いが、どの後ろ姿もニールのものとは違う。男は自身の失態に大きく舌打ちした。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ニールの端末に電話をかけてみる。だが、応答はない。リュックの中にしまってあるとしたら、着信に気付く可能性は低いだろう。そうは思ったが、念のため、端末を握り締めたまま男は歩き出した。
少年の姿を見過ごさないよう、慎重に目を凝らして歩く。だが、行く先々は子供の姿が多くてどうにも紛らわしい。しかも、ニールがどこまで走って行ってしまったのかは見当もつかない。男は何度もニールの名前を呼び、すれ違う人々に少年を見なかったかと訊ねながら園内を探し回った。
そうやって訊ね回っていると、数回のうち一回は『それらしい少年を見た』という人物が現れる。入手した目撃情報を頼りに男が足早に歩いていると、突然、手の中の端末が震えた。画面にはニールの端末の番号が表示されている。男は急いで端末を操作した。
「ニール⁉ 無事か? どこにいる?」
そう矢継ぎ早に問いかける男に答えたのは、聞き覚えのない男性の声だった。男性は、自分は出店の店員なのだと名乗った。
男性の話によると、青白い顔でひとりで周辺をうろついていたニールを見つけて不審に思い、保護してくれた――ということらしい。ニールはリュックの中にある端末の存在も忘れるくらいパニックに陥っていたため、代わりに連絡してくれたのだそうだ。
男は、男性に店の場所を教えてもらい、通話を終わらせて走り出した。すれ違う人にぶつかっても気にする余裕はなく、教えてもらった目印に向かって走る。
しばらくすると、店の列の端に彫像が見え始めた。そして、その像の前に立っている男性と少年の姿を見つけた。
男が像の前に辿り着くより先に、男の姿を見つけたニールが走り出す。
「ジョン‼」
大きな声で男の名前を呼んで走り寄るニールの瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。それまでずっと握りしめていただろうわたあめの袋は、彫像の前に落としてしまっている。
二人の距離が縮まってもニールの勢いは衰える気配がなく、男は地面に膝をつき、押し倒さんばかりの力強さで飛び付いてきたニールを受け止めた。ニールの両腕は男の首に回り、男が苦しく感じるほどにしがみついている。
わんわんと声をあげて泣くニールを抱きしめて背中をさすりながら、男は途切れ途切れの言葉を聞いていた。
「おかあさん、っじゃ、なかっ……! ぅぐ、ジョンも、いな、くてぇ!」
しゃくり上げているうえに鼻声で聞き取りにくかったが、どうやら、ほかの客のことを母親と見間違えて追いかけて行ってしまったということらしい。よほど不安だったのか、ニールの嗚咽はますます激しくなっている。
男はぽんぽんと背中を叩いてやりながら、そっとニールの顔を覗き込もうとした。
「ニール、俺の顔が見えるか?」
そう声をかけると、ニールの腕の力がわずかに緩む。ゆっくりとあげた顔は涙と鼻水で濡れていて、目元も頬も鼻も真っ赤に染まっていた。男は次々とあふれてくる涙を拭い、ブルーグレイの瞳を見つめ返す。
「俺はここにいる。もう大丈夫だからな。怪我はないか? 痛いところは?」
ニールは呼吸を整えるのに必死で返答もままならず、首を振って男に応えた。そうしている間も涙は止まることなく、ニールの赤い頬を濡らし続ける。
男は自身のボディバッグからハンカチを取り出して、ニールの頬を拭った。そして、「無事でよかった」と言って頭を撫でる。
すると、ニールは先程よりも静かに、しかし、もう離れることのないようにしっかりと男の首元に抱き着いた。ニールの顔が男の肩にうずまる。きっと、男の上着は涙と鼻水で汚れてしまうだろう。だが、そんなことは構わなかった。
男は両腕でニールの体を支え、抱きかかえて立ち上がる。そして、目印だった彫像の元へと歩き始めた。
彫像の前、さっきまでニールがいた場所には、年若い青年が立っていた。少しばかり気まずそうな表情を浮かべながらも、ニールが落としたわたあめを拾って、黙って待っていてくれたらしい。男はニールを抱いたまま青年と向かい合った。
青年が返してくれたわたあめの袋を、ニールの手が強く握りしめる。
「ありがとうございます。本当にどうお礼をしたらいいのか……」
「いえ、ちゃんと会えてよかった」
青年と言葉を交わした男は、助けてもらった礼も兼ねて、青年が担当しているという店で買い物をすることにした。
幸運なことに、青年の店では、今日マーケットを訪れた目的のひとつであるクリスマス用のオーナメントを取り扱っていた。ツリーに飾れば映えるであろう、かわいらしい飾りをニールと一緒にいくつか選ぶ。
そして最後に、男はふと目に入ったスノードームを手に取った。店の端に陳列されていた、片手で持てる小さなものだ。球状のガラスの中には、さらに小さな家と木が設置してある。その小さなかりそめの風景は、大人のニールと何度も滞在したセーフハウスを想起させた。
先日電話した際の恋人の不満そうな声を思い出した男は、小さく笑みを浮かべる。そして、そのスノードームをオーナメントと一緒に購入することにした。
「それも家に飾るの?」
「いや、これは……、そうだな……タイムカプセルのようなものだ」
「……わかんない」
「それでいい」
ニールはすぐに興味をなくしたように、男の肩に額を押し付ける。
男が会計を済ませて、購入した品物をまとめて買い物袋に入れてもらって受け取る頃には、ニールはすっかり泣き止んでいた。その代わりに、泣き疲れてスイッチが切れたのだろう。全身が脱力し始めている。
男が幼い体を抱え直すと、ニールが持っていたわたあめの袋が地面に落ちた。通りかかったひとが拾ってくれたわたあめも買い物袋にしまい、男は青年に改めて礼を言って店を離れた。
辺りは暗くなり始め、それと入れ替わりに電飾が輝き始めている。
男はとん、とニールの背を叩き、静かに声をかけた。
「ニール、観覧車はどうする?」
「んんん……」
ニールは男の首元で唸り声をあげるばかりで、まともな返事はできそうにない。もう今日は限界だろう。そう判断して、男は帰路につくことにした。起きたら残念がるかもしれないが、仕方がない。
男は子供の後頭部を視界に捉えて、そっと微笑んだ。起こしてしまうことのないように、ことさらにゆっくりと歩く。
男は、ニールをひとりにしてしまったことは悔いていたが、同時に少し安心してもいた。ニールと暮らし始めてこのかた、こんなふうに泣いているところを見たことがなかったからだ。不満や緊張が伝わってくることはままあったが、極度に怒ったりわがままを言ったりすることはほとんどなく、ずっと何かを我慢しているような気がしていた。だから、きっかけはいい方法だったとは言えないとしても、甘えたり泣いたり、感情をあらわにしてくれることに安堵したのだ。
男はニールを抱いて遊園地を出た。そして、地下鉄に乗ってアパートまで戻る。
二人がどういう状況なのか察した人々に助けられたり、電車に揺られたりしていても、ニールが目を覚ますことはなかった。帰宅後に無理矢理起こさないといけないのだろうと男は覚悟していたのだが、最寄り駅で電車を降りて歩いていると、ニールがもぞもぞと顔をあげた。目を擦り、うまく目蓋を開けられないまま、男に問いかける。
「ここ、どこ……?」
「家の近くだ。もうすぐ着く」
「かんらんしゃは?」
「今日はもうおしまいだ」
少し舌足らずな声にそう答えると、ニールが男の腕の中でぐずる。
「ええ……やだよ、乗りたい……」
「大人になったら、何度でも乗れるさ」
「ジョンも一緒?」
「……いや、そのとき、君が大事だと思うひとと乗るんだ」
「んん……わかんない……ジョンがいいよ」
「……そうか、ありがとう、ニール」
ぽつぽつと言葉を交わしながら、二人で暮らす家まで帰る。家に到着してからは、ニールは一応ひとりで立ってはいたが、頭がぐらぐらと揺れているせいで足元がおぼつかない。
男は自分の着替えは後回しにして、ニールの着替えを手伝うことにした。上着を脱がせて、パジャマを着せる。ベッドに入る頃にはニールはすでに夢うつつで、目蓋はほとんど閉じかけていた。男が首元まで布団をかけてやると、ニールの瞳はあっという間にとろとろと閉じてしまう。
「おやすみ、ニール」
男は寝る前の挨拶をして、やわらかなブロンドにキスをした。それからいくらもしないうちに、ベッドからは穏やかな寝息が聞こえ始める。それを確認してから、男は静かにニールの部屋を出た。
リビングに戻った男は上着を脱いで、倒れ込むようにソファに腰を下ろした。ぐったりと脱力して大きく息を吐き出す。少しの間ぼんやりと天井を眺めてから、自身のスマートフォンを手に取り、画面をタップして見慣れた番号を呼び出した。
相手が電話を取るのを待っている間に、男はソファの脇に置いた買い物袋から、買ったばかりのスノードームを取り出した。スノードームの底を持ってひっくり返すと、小さな家に雪が降る。
ガラスの中の風景を天井の照明にかざしていると、呼び出し音が途切れて恋人の声が聞こえてきた。
『やあ、この時間に電話なんて珍しいな』
耳に馴染む、少し不思議そうな声が聞こえて、男はほっと息をつく。
今、無性にこの男の声が聴きたかった。
「渡したいものがあるんだ。近いうちに会えないか?」
『何かの機密?』
「いや、プライベートだ」
『なんとね、珍しいこと続きだ。それじゃあ――』
小さく笑う恋人の軽やかな声が男の耳をくすぐる。その声に耳を傾けていると、男の表情も自然とほころんでいく。男の手の中では、小さなスノードームの家に雪が積もり始めていた。