Days~プロタゴさんとニールくん、ときどきニール~ *

ニールくんとかぞくのかたち

「ジョンって誰なの?」
 友人のそんな言葉を聞いて、公園のベンチに座っているニールは首を傾げた。
 唐突にそんなことを言い出したのは、隣に座っているダンという少年だ。ダンはニールの同い年の友人で、現在、ニールと男が暮らしているアパートの近くに住んでいる、いわゆるご近所さんだ。十日ほど前にニールと男が買い物に出かけたときに出会い、意気投合して以来、連絡を取り合って一緒に遊ぶようになった。
 今日も、子供たちは公園内をボールを追いかけて走り回っていた。少し休憩しよう、という話になったのはつい先程のことだ。夕暮れに差し掛かろうかという時間帯の公園で、ニールがそれまで蹴っていたボールを抱えてベンチに座ったところで、一足先に休憩していたダンが訊ねてきたのだ。
 ニールは、ダンが何を言っているのか理解できなかった。ダンと出会ったのは男と一緒にいるときだ。つまり、ダンは男と言葉を交わしたことがある。
 ニールは少し考えてから、思ったことをそのまま口にすることにした。
「ジョンはジョンだよ」
「そうじゃなくて、父さんとか叔父さんとか、なんかあるだろ?」
 そう話を引き継いだのはマイルズだ。マイルズは元々ダンの友人で、彼もダン同様に近所に住んでいる。ニールと親しくなったダンが二人を引き合わせたのだ。最初はお互いにぎこちなさを見せていたものの、この頃は少しずつ、仲良し三人組といったやり取りもみられるようになってきている。ダンもマイルズも、学校に通っていないニールの貴重な友人だ。
 周辺のコミュニティに入れずにいたニールのことを貴賤なく受け入れた子供たちだが、どうやら好奇心には勝てなかったらしい。最近引っ越してきたという似ても似つかない二人が何者なのか、噂は絶えなかったとみえる。
 ニールを真ん中に、両側から挟むようにベンチに腰掛けたダンとマイルズは、興味津々といった様子でニールの顔を覗き込んだ。
 二人ともどんな返事が返ってくるのかと期待して、じいっとニールの顔を見つめている。
 そんな友人二人に挟まれて、ニールはすっかり困ってしまった。ニール自身もその答えを持ち合わせていないからだ。
 ある日、ニールの前に突然現れた男は、ニールに住まいも食事も、衣服や教育まで与えてくれたが、どうしてそんなことをするのかは教えてくれなかった。母親のことは詳しく知らないようだし、これまでのことを聞いてくるあたり、ニールとも面識があるとは思えない。それなのに、男は甲斐甲斐しく世話をしたり、ニールのことをずっと知っていたかのように接してくることもある。
 不思議なことはそれだけではない。男は出かけるよりも家にいる時間の方が長く、いつもラップトップに向き合っていたり、誰かと電話していたりする。一緒に暮らし始めてしばらく経ってから仕事について訊ねてみたこともあるが、男はしばらく悩んだあとで「情報を扱う仕事だ」とだけ教えて、それ以上のことは言わなかった。その回答に納得したわけではなかったが、男がそういった質問を喜んでいるようには見えず、ニールは詳しいことを聞くのはやめた。
 改めて考えてみると、男のことをあまり知らないのだとニールは思い知った。
 ニールが知っているのはジョンという名前と、家で仕事をしているということ。それから、たまに仕事仲間だという人たちと会ったり、連絡を取ったりしているということ。それくらいだ。男の本当の家族がどこにいて何をしているのかも知らないし、友人の話を聞いたこともない。男はいつも笑顔でニールの話を聞いてくれるし、その日にあったことを話したりはするが、ニールと出会う前の話をしてくれたことはなかった。
 男が何者なのかという問いは子供のニールには難しく、答えが見つからずに固まってしまう。
 顔をしかめて唸るニールを見ていたダンとマイルズは、顔を見合わせて頷き合い、勢いよく立ち上がった。そして、難しい顔をしているニールに、ダンが「のど乾かない?」と率先して声をかけた。それにマイルズも賛成し、走ったせいで喉が渇いていることを思い出したニールも頷く。
 公園から少し離れた場所にある店に行くのだろうと、ニールは立ち上がって歩き出そうとした。しかし、それを二人は制止した。
「買ってくるから、ニールはここで待ってて」
「え、ぼくも行くよ」
「でも、ニールは自転車持ってないだろ?」
「そうだけど、でも走って行けるよ」
 置いて行かれまいとニールは食い下がったが、ダンとマイルズは困った顔でお互いを見合い、「すぐ戻ってくるから待ってて」と言って、自分たちの自転車の元へと走って行ってしまった。
 ニールは二人を追いかけようとして一瞬足を踏み出したが、すぐに思いとどまって持っているボールを抱きしめた。
 二人が去って行った方向から目を逸らし、ボールを手放して蹴ってみる。わずかに力を加えられたボールは緩やかな曲線を描いて転がっていく。しかし、それを受け止めてくれる相手はおらず、力を失ったボールが風を受けてほんの少しだけ揺れた。ニールは地面を蹴るようにして歩き、もう一度ボールを拾い上げる。
 二人に悪気がないことはニールにもわかっている。実際問題、ニールが一緒に走って行くよりも二人だけの方が早く往復できるし、その分だけ遊ぶ時間は増える。それがわかっていても、仲間外れになったような気分は拭えなかった。
 一人で過ごす公園に楽しさを見い出せず、意味もなくボールを落として拾うという行為を繰り返す。さっきまで走っていて暑かったはずなのに、急に寒々しく感じてニールはきつく顔をしかめた。
 そうやって、ニールが繰り返しボールを蹴っている間に二人は戻ってきた。大きな声でニールの名前を呼びながら駆け寄り、マイルズがニールに一本のペットボトルを差し出す。ニールの前に立った二人の息はわずかに上がっており、本当に急いで戻ってきたのだということがわかる。
 ニールは礼を言ってペットボトルを受け取り、二人と一緒にジュースを飲んだ。甘いぶどうの味が口内に広がり、炭酸が喉を潤す。それぞれのペットボトルを交換して、違う味を楽しみながら話していると、ぎこちなさの残っていた空気はやわらいでいき、自然と話題も変わっていく。観たばかりのテレビ番組の話や、学校の話。ニールが知らない教師や生徒のことも話題に上ったが、ダンとマイルズが面白おかしく話す内容はニールを夢中にさせた。二人にあれこれと質問し、ニールも同じように、以前通っていた学校のことをたくさん話す。
 しかし、話題が家族のことになると、途端にニールは無口になった。
 ダンは、妹が事あるごとに泣くから大変なんだと言う。
 マイルズは、母親のいびきが怪獣みたいでうるさいんだと言う。
 ニールは、母が自分を置いて消えてしまい、今もどこにいるかわからないなどとは口が裂けても言えなかった。
 だから、ニールは家族のことを訊ねられたら、母親は遠くにいるということだけを答えていた。共に暮らしている男も他人には『預かっている』と表現しているから、間違いではないはずだ。
 母親のことを考えると、ニールはいつもどうしようもなく不安になる。だが、それを解消する方法もわからず、ほかのみんなとは違うのだと思われるのも嫌で、ニールは精一杯の笑顔を浮かべて二人の話を聞いていた。
 満足するまでジュースを飲み、飲みかけのペットボトルをベンチに並べて、休憩を終えた少年たちは再び走り出した。声を張り上げて、ルールなどあってないような状況で走り続ける。ボールはあちこちへと転がって子供たちを翻弄し、そのたびに三人は声をかけ合って笑った。
 そうしている間に日が落ち始めて、公園の入り口から「ニール!」と名前を呼ぶ声が聞こえた。
 名前を呼ばれたことに気付いたニールが足を止める。声がした方を見ると、公園の入り口に同居人である男が立っていた。ニールと目が合ったことに気付いた男は軽く手を上げて、子供たちの方へと近付いてくる。
「ジョンだ」
 ニールがそう呟くと、ダンとマイルズも立ち止まって「もう?」「うちも迎えに来ちゃう」と口々に言い始めたので、今日は解散することになった。一足先に二人に別れを告げたニールは、ベンチから自分のジュースを回収し、男の元へと駆け寄った。
「もういいのか?」
「うん、二人も帰るって」
 そう言ってニールが隣に並ぶと、男の視線がニールの手元に向いた。その手には、半分ほどに減ったジュースのペットボトルが握られている。
「ダンとマイルズが買ってきてくれたんだ。おいしいよ。飲む?」
「そうか、あとで少しもらおう」
「うん」
 そんなことを話しながら帰路につく。二人が暮らすアパートには数分で到着し、ニールは上着を脱いでからタブレットを抱えてソファに座った。ニールが広場の様子を確認している間に、男は夕飯の支度を進める。これが今の二人の日常だ。
 ニールは学校にこそ通っていないが、ほかの子供たちが学校で過ごしている時間は勉強時間にあてて、それ以外は自由時間というルールの下に生活している。それが男との約束ごとだからだ。男もニールに合わせて、日中に仕事ができるように予定を調整している。
 ニールが変わり映えしない広場の映像とにらめっこをしていると、次第にキッチンからおいしそうなにおいが漂ってきた。トマトソースのにおいだ。そう認識した途端に、ニールのおなかが、くぅ、と音を立てる。それまでまったく気にならなかったはずなのに、一度空腹を認めてしまうと、ニールのおなかは繰り返し鳴って空腹を訴え続けた。
 しばらくはタブレットの画面に集中することで我慢しようとしていたのだが、やがて堪えきれなくなり、ニールはキッチンに足を運んだ。男のすぐ後ろまで近付いたところで、ニールの腹部から再び、ぐぅぅ、という大きな音が聞こえてきた。それを聞いた男は笑みを浮かべて振り返り、「もうすぐできるぞ」とニールに教えてくれた。
 ニールは、男が指示したとおりに二人分の皿とフォークをテーブルに並べて、自分の椅子に座り、料理が出来上がるのを待った。
 やがてタイマーの音を合図にコンロの火を止めた男は、ニールが並べた皿にスパゲッティとミートソースを盛り付けた。たっぷりかけられた真っ赤なソースから、さっきリビングで嗅いだにおいがして、ニールは目を輝かせる。
 簡単に調理器具を片した男も席に着き、二人は向かい合ってスパゲッティを食べ始めた。空腹だったこともあり、ニールは懸命に手を動かす。そのたびに、口に入りきらなかったソースが頬を汚していく。
「おいしい!」
「そうか、よかった」
 麺を飲み込んだニールの言葉を聞いて、男は穏やかな笑みを浮かべた。ゆったりと下がったまなじりは、どこか嬉しそうだ。
 食事はテイクアウトだったり、デリバリーだったりすることも多いが、時間があるときは男が食事を作った。ニールには料理の腕の善し悪しはわからなかったが、男が作る食事のことはおいしいと思っている。母親の料理の次に好きなものだ。
 言葉数少なく食事を続けるニールに向かって男が手を伸ばし、頬についたソースを指で拭う。出会って間もない頃は、そんなことをされると恥ずかしがって気まずそうにしていたニールだったが、今では嫌がるそぶりはなく、男に身を預けるようになっていた。二人の関係が安定してきたという証だろう。
 ニールは再び頬が汚れるのも構わずに食べ続けており、スパゲッティは口の中にどんどん消えていく。男は、その姿を微笑ましく思いながら眺めていた。自分の手で用意した食事を、ニールがためらいなく食べてくれることを嬉しく思う。しかし、今日はその様子に違和感を覚えてもいた。
 いつものニールは、食事をしながら聞いてもらおうと、あれこれと話をすることが多い。その日にあったことや見たものなど、内容は様々だったが、男が質問を重ねると嬉しそうに答えるのだ。だが、今日はそういった会話はなく、食べるためにひたすら口を動かしている。
 不思議に思った男は、自分から訊ねてみることにした。
「今日はみんなで何をしてたんだ?」
「……サッカーだよ。マイルズがボールを持ってきてくれたから」
 ニールは顔を上げずにそう答えた。手は止めず、大きく表情を変えることもなかったが、話し始めるまでにほんの少しの間があったことを男は見逃さなかった。
「もしかして、喧嘩でもしたのか?」
 男がそう問いかけると、ニールはようやく手を止めた。それから、訝しげに視線を上げて男の顔を見る。しばらくの沈黙ののち、ニールは小さな声で「なんで?」と聞き返した。
 男はやはり何かあったんだろうと確信し、言葉を重ねる。
「何か、気になることでもあったのかと思って」
「……ないよ」
「本当に?」
「……」
 男が続けて問いかけると、ニールはついに黙り込んでしまった。手元に視線を落とし、フォークでミートソースをかき集める。
 今日の友人とのやり取りは、ニールが無意識に目を逸らしていたことを思い起こさせた。
 過去に祖父母も一緒に暮らしているというひとや、父親が二人いるという同級生とは話したことがある。少しばかり不思議に思いはしたものの、どちらも家族であるということには変わりない。だが、男とニールは家族ですらない。その事実が、ニールの胸の奥に小さな影を落とす。しかし、疎外感と呼ばれるその気持ちを表す言葉をニールは持っていなかった。
 胸のもやもやを説明することも、改めて男に訊ねてみることもできず、ニールはもごもごと口ごもる。
 ニールの表情が暗くなっていくことに気が付いた男は、ことさら優しく声をかけた。
「無理に話さなくてもいいんだ。話したいときは教えてくれ」
「……うん」
 ニールが小さな声で返事をすると、男は笑みを浮かべて食事を再開した。そして、黙り込んでしまったニールの代わりに、自分のことを話し始めた。
 サッカーはあまりやらなかったが球技が得意だったこと、子供の頃にやった遊びのことなど、どれもニールが初めて聞く内容だ。ニールは男の昔話に興味津々で頷き、スパゲッティをたいらげる頃には気分はすっかり浮上していた。
 食事を終えて、男が食器を片付けている間にソファに戻ったニールは考える。
 〝ジョンは嫌な顔なんてしないかもしれない〟
 これまでも、困らせて注意されることはあっても、男は何も言わずにいなくなったり、意味もなく怒ったりすることはなかった。だから、きっと大丈夫。
 そう自分自身に念押しして、片付けを終えて隣に座った男の顔を見上げる。
「ジョン、あのね」
「ん?」
「あの、えっと……」
 勇気を振り絞って口火を切ったのはいいものの、いざ質問しようと思うと急に不安になってしまった。男は不思議そうに首を傾げているだけだ。それなのに、やっぱり迷惑だって思われたらどうしよう、と、そんな考えで頭がいっぱいになってしまう。
 うまく言葉を紡げずにいるニールのことを、男は何も言わずに待っている。沈黙が長くなるほどにニールの心臓はうるさく鳴り響き、少しずつ息苦しくなってきて、ニールは膝の上でぎゅっと拳を握り締めた。
「ジュースを買いに行くときにね、ダンとマイルズは自転車だったから一緒に行けなくて……それが嫌だったんだ」
 迷った挙句、男に直接問うことはできず、ニールはそれを誤魔化すように、もうひとつのわだかまりを吐露した。
 ニールの告白を聞いた男は何事かを考えながら、自らの顎髭を撫でた。男はどう答えるのかと、ニールは緊張しながら待っているというのに、男は「自転車か……」と呟いただけだ。男が何を考えているのかわからず、今度はニールが首を傾げる。
 男は一人で「よし」と呟いたかと思うと、ニールの方へと向き直ってこう言った。
「子供用の自転車を見に行こう」
「へ?」
「乗れるに越したことはないし、慣れておいた方がいいだろう」
 そこまで言われて、ニールはようやく男が子供用の自転車を買おうとしていることに気が付いた。予想外の展開に驚き、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。この流れで断られると思っていなかった男が「遠慮しなくていいんだぞ?」と言っても、ニールは首を横に振るばかりだ。それどころか、ますます勢いが増している。
 男が困惑して理由を尋ねると、ニールはぎゅっと唇を引き結んだ。その頬が段々と赤く染まっていく。そして、ニールは視線を落とし、消え入りそうな小さな声で返事をした。
「のれない、から……」
 ニールが男の提案を拒否していたのは、自転車に乗れないからだ。もっと幼い頃に補助輪付きの自転車に乗っていたことはあるが、成長してそれに乗れなくなってからは、自分用の自転車というものを持ったことがない。同じ年頃の子供たちが軽々と乗りこなしているのに、自分は扱えないということをニールは気にしていたのだ。
 そのことに気が付いた男は、ニールの頭に手を伸ばしてくしゃりと髪を撫でた。
「なら、一緒に練習しよう」
「ジョンと?」
「ああ、きっとすぐに乗れるようになる」
「ほんとう?」
 男が頷いて笑いかけると、ニールはいくらか緊張を解いて笑みを浮かべた。しかし、それもすぐに引っ込んでしまう。ニールはおずおずと言葉を続けた。
「でも、自転車は高いって、おかあさんが……」
「気にしなくていい。先行投資だ」
「せんこー……?」
「きみにできることが増えたら、俺も嬉しいってことだよ」
「……うん」
 ゆっくりと頷くと、男の肉厚な手がニールの髪を乱す。
「よく話してくれたな。ありがとう、ニール」
「……うん」
 頭を撫でる男の手はあたたかく、ニールを見つめる瞳はどこまでも優しくて、ニールの胸はむず痒くなる。なんだか恥ずかしくなってきて、ニールは男の手から離れようと自分の頭を両手で抱え込んだ。だが、男はニールの腕の隙間から、いとも簡単に髪をくすぐり続ける。
「もういいよう」
「本当か?」
 男の手から逃げようとしているのに、触れる指先がくすぐったくて、ニールは堪えきれずに笑ってしまった。
 やがて男も笑い出し、リビングには二人のじゃれ合う声が響いた。

 次の日の朝食の最中、男は自転車を見に行こうとニールを誘った。こうと決めてしまうと男の行動は早く、昨晩、ニールが眠ったあとに店のことなどを調べていたようだ。ほかの子供たちは学校にいる時間だから、店は空いているだろう。人通りが少ないということは、練習するのにちょうどいいはず。そう考えての判断だ。
 食事を終えて身支度を整えたニールは、男に連れられて自転車屋に向かった。そこはアパートから見える広場を抜けて、さらに少し歩いた先にあった。
 自転車屋がある場所は大きな通りに面していて、近くにはカフェやケーキ屋が、さらに少し離れた場所には大学や博物館もある。そのため、大通りは普段から賑わっている。
 店の外観はガラス張りになっており、前を通るだけでも飾られている自転車を確認できた。それだけでもニールは落ち着かなかったのだが、男はまったく気にせずに店の中に入ってしまった。男に声をかけられて、ニールもはぐれないようについていく。
 初めて足を踏み入れた店の中には、様々な種類の自転車が並べてあった。大人用なのに車輪が小さいものもあれば、太いタイヤのものや、籠が付いているものもある。
 ニールはどこを見たらいいのかわからなくなり、ぽかんと口を開けたまま、せわしなく左右に首を振って歩いた。
 そうやって自転車の列を抜けて店の突き当りに辿り着くと、それまで見ていたものよりも小さな自転車が壁一面に並んでいた。目的のものを見つけた男は立ち止まり、ニールの方へ振り返る。
「気になるものはあるか?」
 男はそう言ったが、ニールは目移りしてしまって答えられなかった。目の前に並んでいる自転車はどれもピカピカで、色合いも模様も様々だ。黒い自転車はかっこいいし、ビタミンカラーの自転車は明るい気分にしてくれる。それらの中から自分が選ぶんだと思うとドキドキして、ニールは壁の前を端から端まで何往復もしてしまった。
 しばらくの間、ニールはうろうろと自転車の周りを歩き続けていたが、段々と視点が定まってくる。ニールの注意を引いたのは、淡いブルーの自転車だ。空の色を思わせるブルーに目を奪われて足を止めると、それまで見守っていた男が近付いてきて隣に並んだ。
 ニールは空色の自転車を指差して男を見上げる。
「ぼく、これがいい」
「よし、ちゃんと見せてもらおう」
 そう言った男は店員に声をかけて、ニールが示した自転車を見せてくれるように頼んだ。快く頷いた店員に高さや大きさが合っているか確認してもらい、ニールも自分の手で触ってみて、その自転車がニールの元へやってくることが決まった。最後に自転車の色と合うようなヘルメットも一緒に選び、男とニールは店を出た。
 男に手伝ってもらいながら、真新しい自転車を押して歩く。慣れない重みにときどきよろめきそうになったが、このきれいな自転車にこれから乗るのだと思うと、ニールの胸は高鳴った。
 さらに、上機嫌で歩くニールを見ていた男が「いい色のを選んだな。君の瞳の色によく似てる」と言ったので、ニールはますます嬉しくなって、重さのことなど忘れて歩くことができた。
 二人並んで来た道を戻り、大通りを離れて、アパートの近くにある公園沿いの道に出る。ここなら昼間でも人通りが少なく、車が通ることはめったにない。練習にはうってうけの場所だ。
 ヘルメットをしっかり被り、周囲の安全を確認してから、ニールは自転車に跨った。まずは男が教えてくれたとおりに、サドルには足を乗せずに地面を蹴ってみる。一瞬バランスを崩しそうになったがすぐに持ち直し、自転車はゆっくりと前に進み始めた。初めはおっかなびっくり足を動かしていたが、すぐにうまくバランスを取れるようになり、車輪はスムーズに回るようになってくる。
 男はすぐ後ろを自転車と同じ速度で歩いており、ときどきニールに声をかけていた。
 歩くように進めるようになったら、その次は両足同時に動かす。それもできるようになったら足を浮かせてみる――そうやって男の指示に従っていくと、どんどんスムーズに自転車を動かせるようになってくる。練習を始めて三十分も経つ頃には、ハンドルの操作にも慣れて好きな方向へ進めるようになり、楽しくなり始めた。
 ニールが男の方を振り向くと、男は「いいぞ」と褒めてくれる。そのおかげでニールは上機嫌だ。そして、難なく動かせるようになったところで、いよいよ本格的に乗ってみようということになったのだ。
 男に支えられながら両足をペダルに乗せる。ここまでの練習の間に、緊張も苦手意識もニールの中からすっかり消え失せていた。むしろ、次に見える景色が楽しみで仕方がない。
 男にサドルを支えてもらいながら、ニールはゆっくりと足に力を込めた。自転車が前に進み出す。ペダルを漕ぐという動作に慣れず、つい下を見てしまいそうになるが、そのたびに男が「前を見て」と声をかけて視線を引き戻した。
 足を動かしていると、次第に車輪は回り続けるようになり、男は自転車を支えていた手を離した。だが、自転車は止まらず、倒れることもない。
 一気に視界が開けた気分になり、ニールは思わず感嘆の声を漏らしていた。
 道路の端まで辿り着く前にUターンして、男の元へ戻る。曲がるときに少しよろめきそうになったが、一度も転ぶことなく男の近くまで戻ってくることができた。男が待っている場所の少し手前でブレーキをかけて自転車を降りる。最後まで乗りこなせたことが嬉しくて、ニールは男の元へと駆け寄った。
「乗れたよ! ジョン!」
「ああ、やったな!」
 男が道路に膝をついて手を出したので、ニールも手を伸ばして手のひらを合わせる。パチン! と軽やかな音が響いて、男は満面の笑みを浮かべた。
 そのことにニールは驚いていた。ニールを褒めて、ヘルメットごと頭を撫でている男の表情が、練習していたニール本人よりも喜んでいるように見えたからだ。ニールに向けられたダークブラウンの瞳がいつもよりキラキラと輝いているように思えて、ニールはつい見入ってしまった。
 こんなふうに、ニールのことを我がことのように喜んでくれるひとを家族以外で見たことがない。そう感じるのと同時に、ニールは言ってみてもいいのかもしれない、と思った。不安や心配ごとを言っても、このひとなら受け止めてくれるのかもしれない、と。
 昨日はつっかえて言えなかった言葉が、今度はするりと音になる。
「ねえ、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「ジョンは、ぼくの何?」
「なに、か……。そうだな……保護者、だろうな」
 男はしばらく考えてからそう答えた。聞き慣れない言葉に、ニールが「ほごしゃ?」と繰り返して首を傾げると、男は少しだけ困ったような顔をした。
「家族ではないかもしれないが、君が大人になるための手助けをしたいと思ってる」
「……」
「難しいか?」
「少し……でも、わかった。ありがとう、ジョン」
 首を傾げていたニールがそう言うと、男はやわらかく微笑んだ。その笑顔を見ていると、自分の胸の中もあたたかくなってくる気がして、ニールは自然と笑みを浮かべていた。
 すべてがわかったわけではないけれど、男は嫌な顔をせずに話を聞いてくれた。そのことがニールは嬉しかった。

 次の日の午後、いつもの公園でダンとマイルズと待ち合わせていたニールは、二人に会うなり自信満々にこう言った。
「ジョンは、ぼくのホゴシャなんだよ!」
 ダンもマイルズも最初は首を傾げていたが、ニールの説明を聞いて、よくわからないまでも頷いた。そして、男が用意した三人分のジュースを分け合って、今日は何をしようかと言い合いながら駆け出した。周囲に三人分の笑い声が響き渡る。
 子供の声が絶えず聞こえてくる公園の脇には、三台の自転車が仲良く並んでいる。

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