ニールくんとプロタゴさんのお友達
ラップトップの画面を小難しい顔で見ている男の横をニールが通り過ぎる。冷蔵庫から出したパックのオレンジジュースをコップに注ぎ、ニールは再び男の横を通ってソファに腰掛けた。
「勉強は?」
「今日のぶんは終わったよ」
その返事を聞いた男は、二言三言交わしてからラップトップに視線を戻し、再度眉間にしわを作った。
男とニールが共に暮らし始めて二週間が経った。お互いに手探りながらも、いい関係を築いていると言えるだろう。
男が与えたタブレットが安心材料になっているのか、ニールは初めの頃ほどかじりつくように窓を見ることはなくなった。タブレットをケースに入れて、ショルダーバッグのようにして肌身離さず持ち歩き、定期的に広場の様子を確認している。
男も不慣れではあるが、仕事は指示を出す側に回ることで自宅にいる時間を長くし、時折ニールに勉強を教えながら生活している。問題が解決したわけではないが、穏やかな暮らしといえるはずだ。
だが、ここに来て男の表情は曇っている。原因は仕事のことだとも言えるし、ニールのことだとも言える。
これまでは運よく実働は部下に任せてきたが、次の作戦会議は画面越しではどうにもならないからだ。珍しい機構を扱うということもあり、実物を確認しないことには会議の意味をなさない。しかし、ニールをひとりで置いて行くことも、シッターを家に招き入れるのも、現実的ではないだろう。
男は画面を見つめて数分悩み、スマートフォンを手に取って電話をかけた。応答した部下にこう伝える。
「悪いが、部屋をもうひとつ取ってくれないか。同じフロアの、できるだけ近い部屋がいい。――ああ、頼む」
突然の指示に困惑しながらも了承した部下に礼を言い、通話を終わらせた男はラップトップを閉じて立ち上がる。そして、ニールの隣に座った。
ジュースを飲みながらタブレットを見ていたニールは、不思議そうに顔を上げた。男はニールと目を合わせて口を開く。
「仕事である場所に行かなくちゃいけないんだが、少し時間がかかるかもしれない。一緒に来てくれないか」
「一緒に出かけるの?」
「ああ、必要なものを準備しよう」
期待を含んだ問いかけに男が頷くと、ニールはぱっと表情を明るくした。「わかった!」と元気よく答えて、自分の部屋に駆けていく。テーブルに置いてある飲みかけのジュースのことなど、あっという間に忘れてしまったらしい。男はそれに小さく笑い、自分も荷物をまとめるために部屋に向かった。
翌々日、朝早くに家を出た男とニールは、一緒にとあるホテルに向かっていた。
ニールが背負っている子供用のリュックの中には、勉強のためのテキストや、いつも持ち歩いているタブレットや、おやつが詰め込まれている。念のために用意した着替えは男の鞄に入れられているが、それでもニールのリュックはぱんぱんに膨らんでいた。
電車を乗り継ぎ、高層ビルが立ち並ぶ街についたのは午前十時頃だ。これまでの生活の中でホテルに足を踏み入れたことがないのか、敷地内に入った途端にニールは落ち着かない様子を見せた。きょろきょろとせわしなく辺りを見回し、小走りで男のすぐ後ろをついていく。
フロントでチェックインを済ませた男は、ニールに声をかけながらエレベーターに乗った。だが、そうしている間もニールはどこか上の空だ。すべてが物珍しいらしく、壁の模様やボタンまで、隅から隅まで見ようとしている。ニールがはぐれてしまうんじゃないかと、男は気が気じゃなかった。
しばらくすると、目的の階に到着したエレベーターのドアが開き、二人は廊下へと足を進めた。部下が予約してくれた部屋の鍵を開けて、男とニールは中に入る。
上階に位置するその部屋は、ホテルの数多くある部屋の中でも特に広い部屋のひとつだ。しっかりと施錠されたことを確かめてから男が振り返ると、ニールは部屋の入り口で立ち止まったまま、ぱかりと口を開けていた。
男がこれまで見てきた大人のニールは、飄々とした態度でいることの方が多い。年齢が違うとはいえ、その表情が意外で男がこっそり笑うと、ニールは慌てて口を閉じた。そして、部屋の中に駆けていく。そのあとを追いながら、男は荷物を置くように声をかけた。
リュックをテーブルの上に置き、上着を脱いで、ニールはうろうろと部屋の中を歩き回った。大きなテレビや真っ白なクロスがかけてあるテーブルの周りを往復し、ふかふかのソファの弾力を確認してから、きれいに清掃されたバスルームを覗き、隣接しているベッドルームに入り、ベッドにダイブして感嘆の声をあげる。
ニールが室内を探索している間に、男は別室に移動する準備を進めていた。洋服の類はこの部屋に置いていくことにして、端末類を簡単にまとめる。そして、ベッドの上で跳ねているニールへと歩み寄った。ニールは動きを止めて、ベッドの上に立ったまま男を見ている。
「俺はこのまま仕事に行くから、この部屋で待っててくれ」
そう言って注意事項を伝えようとしたが、それはかなわなかった。それまで見慣れない部屋に目を輝かせていたニールの顔色が変わる。すっと笑みが消えていき、表情がこわばる。
急な変化を心配した男が名前を呼ぼうとしたが、それよりも先にニールの手が伸びて、男のシャツの裾を掴む。そして、消え入りそうな声でこう言った。
「帰ってくる……?」
そう訊ねる声はあまりにも小さく、すぐに静かな部屋の空気に溶けて消えてしまった。男を見つめる少年の瞳が不安そうに揺れる。
それを見て、この少年はつい先日、親に置いて行かれたばかりなのだということに男はようやく思い至った。忘れていたわけではないが、最近は笑顔を見せてくれることも増えていたから油断していた。この子供の境遇を思えば、見知らぬ場所に置いて行かれるという事態を不安に思うのは当然のことだ。
男の表情もわずかにこわばる。自分しか頼る相手がいない少年の手を振り払うことは、男にはできなかった。
少年の手を握り返してやり、冷静に宥めると、男は少し離れた場所でスマートフォンを取り出し、別室で準備を進めているはずの同僚に電話をかけた。そして、打ち合わせに使うエリアを指定し、子供をひとり連れていくということを伝える。当然ながら相手は困惑していたが、なんとか説得して準備を進めてもらうことにした。
通話を終えて再びニールに向き直り、自分のいいつけをきちんと守るなら仕事場に連れていく、と伝えると、ニールは安堵の息を吐いてしっかりと頷いた。
リュックを背負っているニールの手を引き、男は同僚たちが待つ部屋を訪れた。今日集まるメンバーの中で、この部屋にやってきたのは男が最後だ。
先程までいた部屋とほとんど同じ造りの部屋に入る。緊張した面持ちで男のあとをついてきた子供を見て、同僚たちは揃って不思議そうな顔をした。子供連れの男の姿が珍しいというのも理由の一つだが、作戦会議に子供がいて大丈夫なのかという心配もあったからだ。そんな同僚たちの心中を察しつつ、男はニールの肩を優しく叩いた。
「あー……この子はニール。今、訳あって預かってる」
少年の名前を聞いた瞬間、視線が部屋の端に立つひとりの男の元に集まる。同僚たちに見られた男は、ぎこちなく視線を遠くに泳がせた。その男――大人のニールは黒い戦闘服に身を包んでいる。対消滅防止のための防護服だ。その服を眺めながら、大人のニールの近くに立っている髭を生やしたいかつい男が、「ああ」と、ひとり納得したように呟いた。それに気付いた大人のニールが見返して「万が一と思ってね」と小声で返す。その声はどこか不満げだ。
真っ黒い戦闘服という不気味な格好の大人の不機嫌そうな様子を目の当たりにして、子供のニールはびくりと肩を震わせた。男の陰にそっと隠れて、大人たちをじっと見上げている。
「ジョンのお友達?」
「じょん……⁉」
ニールの言葉を聞いて素っ頓狂な声をあげたのはマヒアだ。聞き慣れない偽名を耳にして、思わず大声が出そうになったのを抑えようとしたらしい。男に目線で制され、続く言葉は慌てて飲み込んだ。
子供のニールはそれにも驚き、一歩下がって男の服の裾を掴む。男は「大丈夫だ」と言ってやり、同僚たちを近くに呼んで、端から順に指差した。
「みんな、俺の仕事仲間だ。彼がマヒア、彼がアイヴス、それから……あー……」
マヒアが笑いかけ、アイヴスが頷いたあと、男は言葉を詰まらせた。大人のニールを見ながら、どうするべきか考えている。
全員の視線を集めてしまっている大人のニールは、少しだけ思案して、それから小さくため息をついた。
「トーマス。僕はトーマスだ」
そう言って、戸惑い交じりに幼い自分に向かって笑いかけた。今日はトーマスと名乗ることに決めたらしい。
大人のニールは挨拶を済ませると、早々に奥の部屋へと消えていった。少しでも接触を避けるためだろう。アイヴスもあとに続く。
男が事前に指示したとおり、奥のベッドルームを会議室代わりに準備したのだとマヒアは説明した。廊下と繋がっているリビングとは扉で隔たれており、話し声程度なら外に漏れることはない。ニールがリビングで待機していれば、バスルームも冷蔵庫も自由に使えるという配慮からだ。
説明を終えたマヒアもベッドルームに向かう。それを見送った男は、ニールにこれからのことを説明した。
自分たちは奥の部屋で仕事をすること、奥の部屋には入らないこと、オートロックのドアは開けないことを約束させて、冷蔵庫に入っている飲み物や、持ってきたおやつは自由に食べてもいいということも伝えて、ベッドルームに向かった。
男がベッドルームに入ると、テーブルにはすでに資料が並べてあった。しかし、テーブルの周囲に人の姿はなく、少し離れた場所でベッドに腰かけているニールのことを、アイヴスとマヒアが囲んでいた。
男の耳にアイヴスの棘のある声が飛び込んでくる。
「先に一言くらい言えよ」
「あの子が僕になるまで何年たってると思ってるんだ。覚えてないよ」
そんなことを言い合っていたが、男が部屋に入ってきたことに気付くと、マヒアも含めた全員が振り向いた。苦笑を浮かべているマヒアが「なんでこんなことに?」と首を傾げる。
男は説明していいものかわからず、ニールのことを見た。それに対し、ニールは小さく首を振る。
「ダメ。個人情報だ」
それだけ言って、肩を竦める。それを見ていたアイヴスとマヒアは目を合わせて息を吐き、男の「仕事だ」という言葉を合図に動き出した。
時には座り、時には立ちながら、全員でテーブルを囲み、まもなく実行される予定の作戦を練り上げる。複雑なギミックを手に取り、どう利用できるかを話し合い、見取り図に書き込んでいく。
ありとあらゆる可能性を検討し、検証していると、時間はあっという間に過ぎていく。ホテルに到着したのは午前中だというのに、話し合いを終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。明かりをつけなければ文字も読めない時間になって、ようやく全員が納得する結論に至った。作戦実行までの役割を割り振り、今できる準備を終えて、誰もが息をつく。
男は隣の部屋にいるはずの少年のことが気にかかり、休憩も取らずに部屋を出ようとした。だが、ニールがそれを止めた。会議の途中で脱いでいた防護服をもう一度身に着けてから、大丈夫だと合図をだす。男は、それを確認してからリビングへと続くドアを開けた。
幼いニールが自分で明かりをつけたようで、室内は明るい。男は、ニールはいつも家でしているように、座ってタブレットでも見ているのだろうと思っていたのだが、ソファに思い描いていた姿はなかった。
「ニール?」
どこに向けるでもなく、生活感のない空間に呼びかけてみるが、返事がない。テレビもついていない部屋はどこまでも静かだ。人影はなく、テーブルの上にはノートが置いてあり、リュックは半端に開いた状態で床に放置されている。
まさか、ひとりで出て行ったのではないだろうか。そんな考えが頭をよぎって、男の心臓が早鐘を打つ。もう一度「ニール?」と呼んでみるが、やはり返事はない。バスルームを開けて浴槽の中まで確認してみたが、そこにもニールの姿はなかった。いよいよ嫌な予感がして、男の顔から血の気が引いていく。
事態を悪い方へと考え始めたところで、男が何度も子供の名前を呼んでいることに気付いた同僚たちもベッドルームから出てきて、「どうしたんだ?」と声をかけた。
「ニールの姿が見えない」
「トイレじゃなくて?」
「いなかった」
「部屋を出てたらまずいな」
そんなことを口々に話し、ここで突っ立っていても仕方がないと、男がオートロックのドアに向かって再び歩き出したときだ。くふっ、と微かな息のような、声のようなものが聞こえた。四人揃って顔を見合わせ、音がした方向に顔を向ける。全員、同じものを見ていた。
視線を向けた先、怪しげな物音の音源と思わしき場所にはテーブルがあった。上にはノートが置きっぱなしの、足元まである長さの白いクロスがかかっているテーブル。
男は足音を立てずに近付いていき、クロスの端を掴んで持ち上げた。そのまま腰を曲げて、四方を布で覆われた薄暗い空間を覗き込むと、両手で口元を抑えている子供の姿があった。
「見つかっちゃった」
そうっと両手を外したニールは、小さな声でそう呟いた。いたずら成功、と言わんばかりの笑みを浮かべて、テーブルの下に座っている。
男は安堵と同時に苛立ちを覚え、怒鳴りたくなるのをぐっと堪えて、大きく長い息を吐き出した。しゃがみ込み、子供と目線を合わせて、なるべく平静に聞こえるように語りかける。
「どうして返事をしてくれなかったんだ。心配したんだぞ」
「ごめんなさい。かくれんぼみたいだったから……」
しょんぼりと落ち込んだ様子で答えるニールの眉は下がりきっている。ささやかな遊び心だったのだろう。男と暮らし始めてから、これまで会っていただろう友達にも会えていないのだと思うと、それ以上叱ることができなくなって、男は「何もなくてよかった」と、そう言った。それから、こう続けた。
「わざわざ隠れてたのか? 俺たちが出てくるまでずっと?」
その問いを聞いて、ニールは首を横に振った。
「ううん、かくれんぼは最後だけ」
「じゃあ、こんなところで何を?」
「ひみつのお茶会だよ。広くて嫌だったの」
そう言われてよくよくニールの周囲を見てみると、いつも持ち歩いているタブレットのほかに、ホテル備え付けのコップが三つと、お菓子が並べてあった。
これまでの言動を鑑みるに、ニールが元々暮らしていた家は裕福とは程遠いのだろう。住まいも手狭だったに違いない。急に広々とした部屋で高級な調度品に囲まれて、落ち着かなかったというのも頷ける。
あまりにも可愛らしい答えに男は微笑ましい気持ちになっていたが、その後ろではアイヴスとマヒアが驚きに目を開き、それから、にやにやと嫌らしく笑いながら大人のニールのことを見ていた。不躾な視線を向けられているニールは、小さな声で悪態をつき、手で顔を覆い隠した。その頬はほんのりと赤くなっている。
そんな大人たちのことなど露知らず、小さなニールはにこにこと笑みを浮かべて話を続けている。
「あのね、ときどき、おかあさんが帰ってくるのが遅いとき、お隣のエレノアが一緒にお茶会してくれるんだ。ふたりだけの、ひみつのお茶会。だから、ジョンも内緒だよ?」
しっ、と人差し指を立てて、茶会の幼い主催者は男に約束をねだる。男が笑って「ああ、わかった」と答えると、ニールは嬉しそうに笑った。
同僚の思わぬ一面を見せつけられたアイヴスが堪えきれずに笑い出し、それを誤魔化すために咳ばらいをすると、大人のニールが屈辱のままに脇腹を肘で強くこづいた。アイヴスもされるがままなんてことはなく、同じようにやり返す。
その小さな攻防の脇をすり抜けて、マヒアは興味津々といった様子でテーブルに近付いてきて男の横に座った。お菓子やコップを手に取りながら、小さなニールとお茶会のことを話しこんでいる。
マヒアの会話が弾んでいるのを見届けた男が立ち上がると、大人のニールと目が合った。何か文句を言っていたらしいアイヴスもそれに気付いて言葉を引っ込め、自ら子供のニールの元に脚を向ける。その場を二人に任せて、男はニールと共にベッドルームに入った。
扉を閉めるなり笑い出した男を見て、ニールはむっつりと唇を尖らせる。
「笑いごとじゃないよ」
「どうして?」
「こんなの、恥ずかしすぎる」
「いいじゃないか、可愛らしくて」
少年の姿を思い出しながら男がそう言うと、ニールは益々唇を尖らせた。目の端がわずかに釣りあがる。
「君が他人を『可愛い』って言ってるのを聞くのは、いい気分はしないな」
「あの子もお前だろう」
「あの子はいつか僕になるけど、でも、まだ僕じゃない。別の個体だよ」
「子供だぞ?」
「ただの子供なら、こんなに気にしないね」
ふん、と荒く息を吐く恋人の姿を見て、男の胸の内は驚きと愛しさで満ちていく。喉の奥で笑いながら、男はニールの顔に手を伸ばした。頬を、首筋をそっと撫でる。
「面倒な奴だな」
「こんな面倒な奴の恋人が気の毒だよ」
「いや、そいつは幸運だと思ってるさ」
言葉を交わしながら二人の距離は縮まっていき、ゆっくりと唇が重なる。久しぶりの体温をじっくりと味わってから離れ、間近で見つめ合ったまま男は囁いた。
「お前だから、余計に可愛いんだ。わかるだろう?」
「……ああ、わかってる。でも、君を取られてる気分なんだ」
「自分で引き合わせたのに?」
「そうだよ。ちょっぴり後悔してる」
そう言って不満げに突き出された唇を、男は再び啄んだ。お互いの体温を確かめるようにきつく抱き合って、二人一緒にベッドルームを出る。
扉を開けると、子供の大きな笑い声が男の耳に飛び込んできた。アイヴスがニールを横抱きにしてぐるぐると回転し、振り回されているニールがけらけらと声をあげて笑っている。それを見ているマヒアが囃し立てると、余計にニールが笑う。
その様子を見てしまった大人のニールは羞恥に顔を俯せ、今後しばらくはからかわれるのだろうと頭を抱えていたのだが、男は微笑ましい気持ちでそれを見ていた。楽しそうにはしゃぐ子供の姿も、羞恥や嫉妬でころころと表情を変える恋人の姿も、どちらも忘れまいと脳裏に焼き付ける。
決して真っ当とは言えない自分の生活に子供を巻き込むまいとしてきた男だが、今だけはこんな瞬間があってもいいだろうと、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。