ニールくんとはじめてのごはん
早朝に目覚めた男は、見慣れない天井を見上げながら前日の出来事を振り返った。室内の様子は最後の記憶と相違ない。ということは、恋人の幼少期である少年に出会ったのは現実だったらしい。
どうするべきかという解決策は見つかっていないが、このまま寝ていても仕方がないだろう。そう考えてゆっくりと体を起こした男は、子供を一人置いていくわけにもいかないだろうとランニングを諦め、日課のトレーニングに取り掛かった。
軽く汗をかいてから寝室を出たが、まだ子供が起き出した気配はない。昨日、帰りがけに急遽買った食料品の中からコーヒーの豆を取り出し、ケトルで湯を沸かす。今回の出来事の発端である恋人が家具付きの部屋を選んでくれたおかげで、一晩過ごす分には困らずに済んだ。
ソファに腰掛けて、湯気の立つコーヒーを飲みながら男は考える。本来なら、少年の身柄を預けるべき施設や機関があるはずだ。だが問題は、本人がそれを望んでおらず、未来の少年自身であるニールも通報しようと思えばできたのに、それをしなかったということだ。他の解決策があるのだろうが、今のところ名案は浮かばない。
今は身動きが取れないと判断した男は、ひとまず少年が部屋から出てくるのを待つことにした。
子供のニールが寝室を出てきたのは、日が昇り切ってしばらく経った頃だ。まだ眠そうに目をこすり、寝癖のついた髪はそのままに、どこか不安そうな表情でリビングに現れた。そして、ソファに座る男の姿を見たニールは、安堵したような、がっかりしたような、複雑な表情をみせた。
男は少しでも不安を払拭できるように笑いかける。
「おはよう、ニール」
「……おはよう」
小さな声ではあったが、ニールはしっかりと返事をした。突然知らない男と暮らすことになったと考えると、これだけでも上出来だろう。男が「朝食はすぐ食べられるか?」と訊ねると、ニールは戸惑いながらも頷いた。待ってろ、と声をかけて男が立ち上がる。
狭いキッチンに立って、男は冷蔵庫の中から卵とベーコンを取り出した。安物のフライパンに油を垂らし、卵を割ってかき混ぜる。熱せられた黄色い液体が固まっていくと、甘みを帯びた香りが広がり、ほろほろと柔らかく崩れた卵ができあがる。ベーコンはカリカリになるまで焼き上げて、使い捨ての大きな皿に卵と並べて乗せた。それが終わると、パンが焼き上がるのを待つ間に、ミニトマトを洗って盛り付ける。香ばしい匂いと共に完成したトーストも皿に乗せ、ジャムの瓶と一緒にテーブルに置くと、ニールは不思議そうな顔でそれを見ていた。
椅子に座るように促すとおとなしく従うが、じっと皿を見たまま手を出そうとしない。
「食べられないか?」
男が声をかけると、ニールは顔を上げて首を横に振った。それから再び皿を見つめる。
「これ、ぼくの?」
「ああ。君の分だ」
自分が子供の頃にどれくらい食べていたか思い出せず、足りないよりはいいだろうといろいろ用意してしまったが、さすがに多すぎただろうか。そんな少しの不安を抱えながら、男は食事を促した。
おずおずとフォークに手を伸ばしたニールは、ベーコンを突き刺して口に運んだ。カリ、と微かな音を立てて肉の欠片が小さな口の中に消えていく。一度ベーコンを飲み込んでしまうと、ニールの手は止まらなくなった。
食べ続けているということは、少なくともまずくはなかったのだろう。男は安堵して、少年が料理をたいらげていくのを眺めていた。
皿を埋めていた食材は順調にニールの胃の中に消えていくが、その表情はどこか不思議そうなままだ。男は、理由がわからず首を傾げる。
「何か気になるか?」
「ううん、おいしいよ」
「ならよかった。何かあったら教えてくれ」
そう言われたニールは、男の顔と目の前の皿を繰り返し交互に見て、迷いながら口を開いた。
「……朝ごはんって、みんなこんな感じなの?」
「……まあ、特別な料理ではないと思うが」
「そっか」
「君の家の朝ごはんは?」
「シリアル」
ニールはそれだけ答えると、残りのトーストにかぶり付いた。鮮やかな赤いベリーのジャムが口元を汚す。
男は黙々とトーストを食べ続けるニールのことを見ている。その眉間には、小さな皺が刻まれていた。
この少年がこういった食事に慣れていないのは明らかで、家庭環境はどうなっているのかと考えると、胃の奥にちりちりと嫌なものが渦巻く。恋人であるニールに問いただしたい衝動に駆られるが、あの男は答えようとしないだろうことはわかっていた。
そんな男の気配を察したのか、トーストの最後のひとかけを噛み砕いているニールの体が微かにこわばった。
それに気付いた男は、腹の奥に渦巻くものを一旦忘れることにした。幼子を怖がらせるのは本意ではない。男が笑いかけると、ニールも戸惑いながら笑い返してくれる。とりあえず、今はそれでいい。
食事を終えたニールにリビングに戻るように伝えて、男はこのあとの予定を考えながら後片付けをしていく。きれいに空になった皿を処分し終えてからリビングに戻ると、ニールは窓際に立ってじっと窓の外を見ていた。何をしているのかと疑問に思ったが、隣に立ってみて理由はすぐにわかった。
そこからは、昨日ニールと会った場所が見えた。
ニールは何も言わなかったが、彼が何を探しているのかはわかる。彼は、母親が約束を果たしに来るのを待っているのだろう。
ダイニングから椅子を持ってきて置いてやると、ニールは「ありがとう」とだけ答えてそこに座り、それまでと同じようにじっと広場を見続ける。
その小さな背中を見ながら、男は頭を悩ませていた。今朝まではなんとかなったが、まだしばらく共に暮らすのなら必要なものは増える。このまま一日中、何もせずに待っていることはできない。
男はニールの隣に並び、膝をついて目線を合わせた。
「ニール、これから買い出しに行くから準備してくれないか」
「ぼくも行かなきゃダメ……?」
そう答えたニールの目線は窓から外れることはない。目を離した隙に母親が来てしまったらと思うと不安なのだろう。小さな両手がズボンをぎゅっと握り締める。下がっていく眉尻を見てしまうと、無理強いすることは男にはできなかった。
「わかった。じゃあ留守番できるか?」
「うん。いい子にしてる」
そう答えるときだけ、ニールは男のことを見た。
男はそれに頷き、外出の準備を始めた。あちこちの戸締りを確認し、ニールに何度も「万が一誰か来ても出ないように」と言い聞かせて、それからようやく家を出た。
外は前日と同様に冷え込んでいた。男は早く買い物を済ませようと、足早に広場を横切る。その途中でポケットからスマートフォンを取り出した。そして、昨日と同じように電話をかける。
電話はすぐに繋がった。通話先の恋人はいつもどおりの声で『やあ』と答える。男はできる限り平静に問いかけた。
「広場周辺の監視カメラをハッキングできるか?」
『できないことはない、と思うけど』
「なら、やってくれ。データは俺のラップトップで見られるように頼む」
『広場を監視でもするのか?』
「そんなところだ。あと、昨日の映像も見たい」
『昨日の?』
「俺はあの子の親の顔も知らないんだぞ。このままじゃ探しようがない」
『ああ、まあ、そうか。うーん……なんとかやってみるよ』
「何かあったら報告してくれ」
『ああ、わかってる』
男はそれ以上何も聞かず、ニールも何か言おうとはしなかった。事務的な会話を終わらせて端末をポケットにしまうと、男は目的を果たすために足を進めた。
まずは昨日まで滞在していた部屋に戻り、ラップトップや自分の着替えを確保した。必要な荷物を鞄に詰め込んで持ち出し、次に立ち寄った店で、昨日用意しきれなかったものを買っていく。洗剤やタオル、二人分の食器などだ。
中でも男が苦労したのは子供服だった。大人の、男物の服なら適当に用意すればいいが、いかんせん子供用のものを買うのに慣れていない。あやふやな情報では店員に訊ねることもできず、頭を悩ませながら店内をうろつき、隣に並んだときのおおよその身長を頼りにいくつか見繕った。
新品のセーターやズボン、靴下が入っている袋を抱えて店を出ると、街並みは夕陽で赤く染まっていた。狭いリビングで、ひとり窓の外を眺める少年の姿が頭をよぎる。不安がってやしないだろうかと心配になったが、今はそれを伝える手段がない。
ニールがどう思っているかはわからないが、それでも早く帰ってやらないと。
男がそう思ったところで、すれ違う親子が「晩ごはんは何にしようか」と話しているのが耳に入った。そういえばなんの準備もしてこなかったな、と思い至り、男は頭を悩ませることになった。
今から買い足して準備するのは得策ではないだろう。出来合いのものを買うにしても、男はこの辺りの店に明るくない。
そうやって考えている間にも、少しずつ日は落ちていっている。男は帰路を急ぎながら周辺の店をチェックして、子供でも食べられそうなものを探し始めた。
アレルギーがあるという話は聞いたことがないから、近所のテイクアウトでも問題ないだろう。何なら食べてくれるだろうか。
男は迷っている間にいくつもの店を通り過ぎてしまい、もう少しでアパートの近くの広場だというところまで来てしまった。だが、そこでフードトラックが停まっているのが目に入った。パステルカラーの可愛らしいバンが掲げている看板に『タコス』の文字を見つけて足を止める。
タコスは、仕事で手が離せないときなど、大人のニールが好んで食べていたものだ。
そんなにタコスが好きなのかと思って、一度『もっと洒落たメキシカンレストランに行こうか』と言ったことがあるが、ニールは『ケータリングの、この味がいいんだよ』と言って笑っていた。
あれなら喜んで食べてくれるかもしれない。そう考えた男は、道路を渡ってフードトラックに立ち寄った。スタンダードなタコスを二人分買って、ニールが待っているアパートに向かう。
大量の荷物を抱えながら玄関の鍵を開けて室内に入ると、小さな足音と共にニールがリビングから顔を覗かせた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
そう言って出迎えてくれたニールは、そっと安堵の息を吐いていた。やはり不安にさせてしまったらしい。時間がかかってしまったことを謝って、男はニールと一緒にリビングに入った。
窓際に置かれた椅子の場所は、男が部屋を出たときから変わらない。それに小さく胸を痛めつつ、買ってきたものをソファの上に置いて上着を脱ぐ。
「食事にしよう」
そう声をかけて、朝と同じようにダイニングテーブルで向かい合って座る。男がタコスが入っているパックを開けると、ニールはぱちりと目をまるくした。驚いている様子に、男も段々と不安になってくる。
「苦手だったか?」
「……食べたことない」
男の問いかけに、ニールが申し訳なさそうに答える。今度は男が驚く番だった。
大人になるにつれて嗜好が変わるなんて当たり前のことだ。いつも一緒にいるニールのイメージが強かったとはいえ、そこに思い至らなかった自分を情けなく思い、男は言葉を詰まらせる。それと同時に、どこにでもあるようなファストフードを食べたことがないという少年の生活を思った。
「無理はしなくていいから」
男は苦笑と共にそう言ったが、ニールは戸惑いながらもパックに手を伸ばした。子供の手には大きい生地を両手で掴み、どこから食べたらいいのか迷ってタコスをくるくると回転させる。それから、意を決したように生地の端にかぶり付いた。大きく口を開けてもすべてが収まるわけはなく、噛みきれなかった野菜がニールの口からぶら下がる。
ニールは最初、少し不安そうに口を動かしていたが、はみ出ていた野菜が口内に吸い込まれていく頃には、大きく目を開けてタコスに見入っていた。ブルーグレイの瞳が、新しい遊びを見つけたときのようにキラキラと光を宿していく。
「……美味いか?」
返事もままならないのか、ニールは声を出さずに何度も頷いた。そして、もう一度タコスにかぶり付く。頬をいっぱいに膨らませ、ソースで口の端を汚しながら、繰り返し生地にかぶり付いている。
ニールの頬が紅潮していくのを見て、男はついに笑い出してしまった。それに気付いたニールは少し恥ずかしそうに手を止めた。紙ナプキンでニールの頬を拭いてやりながら、男は微笑む。
「そんなに焦らなくてもタコスは逃げないぞ」
「だって、こんなにおいしいの、初めてなんだ」
「じゃあ、また買ってこよう。俺も好きなんだ」
男がそう言うと、ニールは再びこくこくと頷き、口元を綻ばせた。男も頷き返し、自分の分のタコスを手に取る。こうやって笑ってくれるなら、もう少しだけこのまま過ごすのも悪くないのかもしれないと、男はそう思った。
食事を終えて少し休んだあと、風呂に入るための新品のタオルとパジャマを渡すと、ニールはまた不思議そうな顔をして男を見た。「君のだ」と伝えると、大事そうに抱えて礼を言い、バスルームへと向かっていく。
男はそれを見送り、今日運んできた荷物の中から自身のラップトップを取り出した。ニールがリビングを離れている間に、何か新しい情報が届いていないか確認するためだ。
ラップトップには、大人のニールからメッセージが届いていた。少年に関することだと思って開いてみたのだが、そこには何やら謎の説明文が書いてあるだけだった。何かの取り扱い説明書のようだが、なんのことだかわからない。
困惑した男がニールに連絡しようとしたところで、今度は玄関ブザーの音が室内に鳴り響いた。
この場所は自分とニールしか知らないはずだ。不審に思った男は荷物の中から銃を取り出した。それを背中側のベルトにねじ込み、玄関先で対応する。
最悪の場合を想定しての行動だったのだが、なんてことはない、ただの宅配便だった。差出人の名前には見覚えがある。ニールがよく使う偽名だ。
配達員から箱を受け取り、リビングに戻って開封する。中にはいくつかの機械が入っていた。その中のひとつはビデオカメラだ。同梱してある機材を調べながら、先程ラップトップに届いていたメッセージを確認する。どうやら、これらの機械の設定方法らしい。
機材とメッセージを照らし合わせて、ニールが何をしようとしているのか男はやっと理解した。窓際まで箱を運び、機材を指示通りに設定していく。
男が大まかな設定を終えたところで、風呂に入っていたニールが戻ってきた。一旦、作業の手を止めてソファに座り、濡れたままの髪をドライヤーで乾かしてやる。やわらかいブロンドが乾ききって熱風を止めると、ニールはどこか不安げに振り返った。
「なにしてたの?」
「明日にはわかる。少し待っててくれ」
男がそう答えると、ニールは不満そうに唇を尖らせた。だが、それ以上は何も言わない。まだ言えないのだ。それがわかっているから、男はあいまいに笑うことしかできなかった。
二人きりのリビングは少しばかり気まずい空気になったが、テレビ番組の力を借りて誤魔化し、なんとか一日を終えた。
そして迎えた次の日の朝。ニールは前日と同じように、あちこちに跳ねた髪型のままリビングに現れた。違ったのは、ニールの方から声をかけてきたということだ。
「昨日、なにしてたの?」
はっきりとそう訊ねたニールを窓際に呼んで、男も隣に並んで立つ。そして、荷物に同梱してあったタブレットを見せた。そこには、一昨日ニールが立ち尽くしていた場所が映っていた。
驚いて顔を上げたニールに対して、男は窓際に設置してあるカメラを指差す。
「これで撮ってる映像をタブレットで見られるようにしてある。これならずっと窓に張り付いてなくてもいいだろう?」
「すごい……!」
「でも、本当はこういうのはいけないことだ。今は状況が状況だから特別だぞ。いいな?」
「うん」
ニールがしっかりと頷いたことを確認して、男はそれと、と言葉を続けた。小さな端末を取り出し、ニールに差し出す。
「これは君のだ。俺の番号が登録してある。昨日みたいに一緒にいないときに何かあったら、これを使って連絡してくれ」
ニールは戸惑いながらも、目の前に差し出された端末をそっと受け取った。
男はニールと一緒に端末の画面を見て、実際に操作しながら使い方を説明していく。
一通りの説明を聞き終えたニールは、手に持っているふたつの端末をすぐ近くにあるソファに置いてから、男にぎゅうっと抱き着いた。男の腹部にニールの顔が埋まる。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
ぽん、と頭を撫でてやると、腹部に巻き付いた腕の力が強くなる。縋ってくる小さな手を宥めるように、男はやわらかなブロンドを撫で続けた。