既刊「From the Shimmering World」のBOOSTお礼用SSでした。
小説本編「二度目の正直 最初の朝」のちょっと後くらいをイメージしてるお話。
朝が好きだ。
そう思うようになったのはここ最近のことで、それまでは特別好きだなんて思ったことはなかった。むしろその逆で、眠い、起きたくない、日が昇るのがもっと遅くなればいいのに――そんなふうに思っていたくらいだ。
でも、今は違う。僕の休日は、朝、この布団の中から始まっている。
遮光カーテンの向こうで太陽が存在を主張している頃、僕は重い目蓋を開けた。窓の外が明るいことを確認してから、ベッドサイドにある時計を見る。デジタル時計がでかでかと数字を表示している。午前十時。世間はもう活動している時間だ。
ハードな仕事続きの毎日では慢性的な寝不足で、任務中は常に気を張っているせいもあり、休日は目が覚めるまでどうしても時間がかかる。それでも、いつもより長く眠ったおかげか、覚醒は早かった。でも、まだ起きない。
僕は再び目を閉じて、ブランケットの中に潜り込んだ。そして、そっと耳を澄ます。すると、そう待たずに小さなノックの音が聞こえた。そのまま動かないでいると、しばらくしてドアが開く音がする。それから、近付いてくる足音。
その足音の主がベッドの真横に立つ気配がした。こちらが動き出すのを待っているかのように、僕が潜り込んでいる布の塊を見下ろしている。それでも動かずにいると、小さな吐息が聞こえた。男は言葉を続ける。
「ニール、朝だ。そろそろ起きろ」
そう、声が降ってきた。僕の大好きな声が。
僕を呼ぶ彼の声を朝いちばんに聞くこの瞬間が好きで、僕はわざと彼が起こしに来てくれるのを待っている。多少だらしないと思われたって構わない。幸いなことに、彼は気付いているのかいないのか、寝坊する僕のことを見放したりはしない。
男はベッドの端に静かに腰かけて、布の塊をぽん、と優しく撫でた。
「ニール、朝食ができてる」
彼の手が優しく僕を撫でてくれる。その感触がなくならないうちに、僕は布から顔を覗かせた。たった今起きたふうを装い、ゆっくりと瞬きをしながら男を見上げる。
男は、穏やかな瞳で僕を見下ろしていた。これも僕が好きな瞬間のひとつ。彼が優しく待ってくれているのだと考えるだけで、僕の頬は勝手に緩んでしまう。それを隠すことなく笑いかけると、男も微笑んだ。
「今日は出かけるんだろう?」
「ああ、もちろん。貴重なふたり揃ってのオフだからね」
優しく髪を撫でてくれる手に甘えながら、僕は今日、これからのことを夢想する。
完璧なプランじゃなくていい。一緒に出かけて、美味しいご飯を食べて、新しくできたカフェを覗く。ふらっと本屋や映画館に寄ってみてもいい。たったそれだけのことでも、彼と一緒なら楽しい時間になるはずだ。
そんなことを考えて男に笑いかけると、髪を撫でていた男の手が僕の肌に触れた。あたたかい指が耳たぶを揉み、うなじをくすぐる。敏感な場所を触られるむず痒さに身をよじったが、男は笑って、手を止めようとはしなかった。
ぞくり、と違う感覚が生まれそうになり、慌てて耳を覆い隠す。
その一部始終を見ていた男は、笑みを湛えたまま、ブランケットの上に手を戻した。男の手が、布にくるまれた僕の腰に触れる。
「起きないと、このまま夜になるぞ」
「うーん……キスしてくれたら起きる」
苦笑する男にそう囁いて、男の目がまるくなるのを見て悪戯に笑う。
これはささやかな冗談だ。彼が応じるとは思っていないし、無理強いするつもりもない。それは、彼が冷たいとかそういうことではなく、いわゆる〝イチャイチャする〟という行為を、この男がしているイメージがないからだ。
今の彼も、年上の男も、佇まいからしてセクシーだと思うけれど、色恋の気配を感じることはほとんどない。共に
暮らし始めて、気持ちを受け入れてもらえるようになっても、仕事に追われている時間の方が圧倒的に長いせいで、少しだけ距離を測りかねていた。
そんなときにやってきた初めての休日。僕は少し浮かれていて、ちょっとくらい、友人らしくないことをしてみてもいいだろうと、そんな気分だった。
だから、彼が困っている顔を見たらすぐに「なんてね」と付け加えるつもりだった。それで僕のいたずらはおしまい。そのはずだったのに、驚かされたのは僕の方だった。
僕が言葉を付け加えるより先に、男の顔が降りてくる。そして、ちゅ、と音を立てて唇が重なった。予想外の展開に、目を閉じるのも忘れて男の顔を見つめる。近すぎてぼやけていた顔が段々とはっきりし始めて、男の上半身が元居た場所に戻っていくのを僕は見つめ続けた。
男はそんな僕のことを見下ろして、怪訝そうな顔をする。
「なんで驚いてる?」
「いや、ちょっと予想と違ったというか……」
「寝起きのキスなんかしないって?」
「う……まあ、そんな感じ」
ぼそぼそと答えると、男の眉間にしわが寄った。呆れ交じりの声がする。
「俺をなんだと思ってるんだ」
「その、なんていうか、君のそういう、特別な相手に向ける顔のイメージが僕の中になくて……」
じっと見下ろされたまま、しどろもどろに説明する。
男に告げた言葉に嘘はなかった。もう何年も前からこの男の未来の姿を追いかけ続けてきたけれど、彼が恋愛している姿を見たことがない。組織とは関係ないところで相手がいたかもしれないが、少なくとも僕は見ていない。雇い主で友人だった男とは、そういう話はしてこなかった。
僕が彼について知っているのは、友人や部下に向ける顔だ。それも十分優しい表情だが、特別の意味が違う、と、やはりそう思う。
朝から微妙な空気を生み出してしまったことに気まずくなって、引き寄せたブランケットで口元を隠す。すると、男は僕の顔の横に手をつき、ゆったりと笑みを浮かべて真上から僕を見下ろした。
「なら、これからは嫌になるほど見られるな」
静かで、身体に響くような声が降ってくる。そんな、日常で聞くことがない声でそう言われて、僕は、え? とも、へ? ともつかない間抜けな声を出すはめになった。
男の瞳はやわらかく細められ、それでいて奥底に鋭い光が宿っている。弧を描く口元は微笑みにも、意地悪く笑っているようにも見えた。
慈しみと欲がない交ぜになったその顔は、僕がはじめて見るものだ。
その表情の意味を理解して、じわりと頬が熱くなった。心臓がばくばくとうるさく音を立てる。その音が男に聞こえてしまわないように願って、ブランケットをきつく握り締める。だが、男は僕からブランケットを奪い取り、隠していた顔を暴いてしまった。
うまく言葉を紡げずにいる僕を見て、男は笑みを深める。
「ああ、確かに、初めて見る顔だ」
そう言った男の顔が嬉しそうで、僕は暴れ回る心臓を抑え込むのに必死だった。
逃がさないというように、ブランケットごと僕を両腕で包み込んだ男の顔が、もう一度近付いてくる。やわらかな唇が触れ合う。そのやさしいキスを甘んじて受けながら、僕はほんの少し困っていた。
今日が初デートだなんて、一体どんな顔をしていたらいいんだろう。
END