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人通りの減った暗い道を歩く。順行に戻ってから迎えた最初の夏は、例年よりも暑いらしく、歩いているとじっとりと汗ばんでいく。
計画は順調と言っていいだろう。その証拠に、裏社会の重鎮との交渉を終わらせてきたところだ。その帰り道に、ニールが気に入っている中華料理店が近くにあるのを思い出し、予定より遅くなってしまった詫びも兼ねて、その店に寄るために車を降りた。
飲食店が並ぶエリアに近付くと、人通りも増えて賑やかになってくる。細い路地を超えれば目的の店だというところで、路地の奥から物音がした。がたん、と大きなものが倒れる音と、何かが割れる音。複数の足音と、小さな呻き声。姿は見えないが、ぼそぼそと男たちの悪態も聞こえてくる。深く関わりたくはなかったが、見過ごすこともできず、足元に転がっていた缶を蹴って壁にぶつけた。
アルミの乾いた音が路地に響き、声の主たちは口汚い言葉を発しながら逆方向へと走って行った。どうせチンピラか何かの揉め事だろうと、その場を去ろうとしたとき、路地から小さく咳き込む音が聞こえた。
振り返るが、暗くてよく見えない。だが、誰かがいるのは確実だった。
腕時計で時刻を確認し、ため息をついて路地に足を踏み入れた。少しくらい寄り道しても、閉店時間には間に合うだろう。チンピラとはいえ、このまま死なれては寝覚めが悪い。
足を踏み入れた薄暗い路地には、瓶やごみが散乱していた。周囲の飲食店がまとめていたものを、さっきの男たちが倒していったんだろう。そのごみに紛れるように、ひとりの人間が倒れていた。
「おい、平気か?」
「……」
「聞こえてたら返事をしてくれ」
声をかけても返答はなく、身を守るようにうずくまっているせいで表情が見えない。周囲の様子から察するに、暴行されたのは間違いないだろうが、怪我の程度はわからなかった。
もう一度ため息をつき、ポケットから端末を取り出す。
「救急車を呼ぶぞ。いいな?」
「だめ……だ」
ほとんど呻き声に近い掠れた声が、明確な拒絶を示す。端末を操作しようとしていた俺の手は、その声を聞いてぴたりと止まった。心臓が嫌な音を立てる。まさかと思いながら地面に膝をつき、顔にかかっている髪を指ですくい、はらう。
髪の合間から覗いたのは、俺がよく知っていて、それでいて初めて見る顔だった。
「ニール……?」
頭に浮かんだ名前を思わず声にしてしまったが、青年はうっすらと目を開けただけだった。見慣れたブルーグレイの瞳が俺を見上げる。その瞳はどこか焦点が合っていない。一瞬だけ頭の中が真っ白になったが、青年がむせる音で現実に引き戻された。
「救急車は呼ぶからな」
「だめだ、保険……ない……」
「そんなことは気にしなくていい」
呼吸音に嫌な音が混ざっていることに気付いて舌打ちをし、止める言葉を無視して救急に電話をかけた。現在地と、わかる限りの情報を伝えて到着を待つ。下手に動かすこともできず、ぐったりと横たわっている姿を見ているしかない状況に心臓が冷えていく。
苛立ちを抱えながらしばらく待って、到着した救急車に同乗し、そのまま病院へと向かった。
青年は、病院に到着してすぐに医師と看護師によって運ばれていった。それを見送り、家で帰りを待っているはずの男に『遅くなる』とメッセージを送る。
ロビーのベンチに腰かけて返信を待っていたが、端末が着信を知らせるより先に職員がやってきた。所持品から身元はわかったが、緊急連絡先がわからないのだという。そんなものは俺にもわからない。だが、身内は国外にいるのだと説明し、自分は彼の知人だということにした。身元を引き受けるのも俺だと。こういう状況になった原因も訊ねられたが、おそらく後ろ暗いことが絡んでいるだろうと推測し、それについては適当に話を見繕った。
できることがないまま、いくつかの検査と治療が終わるのを待つ。すべての処置を終えて看護師が呼びに来たときには、すでに日付が変わっていた。
焦る気持ちを抑えて青年の元に向かう。担当した医師の説明では、入院が必要だが、後遺症が残るような怪我ではない。胸部へのダメージが大きく、肋骨を折っているから安静に、とのことだった。
ニールと同じ顔をした若い男は、静かにベッドで眠っていた。いくつかの管が身体に繋がれていたが、運ばれてきたときよりはいくらか血色がよくなっていて、ほっと息を吐く。その様子を見ていた医師に、目覚めるまではまだ時間がかかると言われ、一度家に帰ることにした。
ポケットから取り出した端末には先程の返信が届いていた。それに『これから帰る』とだけ送信し、呼んでおいたタクシーに乗り込む。
数時間前から積もり積もっている小さな苛立ちを押し殺し、青年を見つけた場所に向かい、駐車したままになっていた車を回収して帰路を急いだ。
アパートメントの静かすぎる廊下に靴音が響く。
病院を出たときに送ったメッセージに返信がなかったため、もう寝ているかと思って静かに玄関ドアを開けたのだが、予想とは違い、リビングには明かりがついていた。首元を締め付けているネクタイを緩めながらリビングに入ると、ソファに腰かけているニールが振り返る。
「おかえり」
「死にかけてるなんて聞いてない」
返事よりも先に口をついて出た言葉に自分でも驚いたが、ニールは更に驚いただろう。きょとんと目を丸くして俺を見上げて、しばらく思案してから、買い忘れを思い出したときのような軽さでこう言った。
「ああ。今日だったのか」
あまりにもあっけらかんとした声に苛立ちは霧散し、脱力してしまう。ジャケットを脱いで椅子の背に引っかけ、冷蔵庫からダイエットコークを取り出してニールの隣に座った。そして、盛大なため息をつく。
「言っておいてくれてもいいだろう」
「そんなこと言われても、日付なんか自分でも覚えてなかったんだ」
「下手したら死んでたんだぞ」
「でもほら、生きてる」
両手を上げて余裕の笑みを浮かべている姿を見て、余計に脱力する。ぐったりと項垂れた俺の背中をニールの手がぽんぽんと叩き、近付いてきた唇が耳元を掠めた。
「お疲れ様」
「……まだ何か隠してないだろうな」
「うーん……どうだろう」
この返答は絶対に言っていないことがある、と確信する。じっとりと睨み付けると、ニールは苦笑して肩を竦めた。
「無知は我々の武器、だろ?」
「たまには、知っておいた方がいいこともあるんじゃないか?」
「それはどうかな」
ニールの手が俺の手元に伸びてきて、手の中で放置されていたコークを掠め取る。そして、蓋を開けて差し出した。
それを素直に受け取って炭酸を口内に流し込むと、溜まっていた淀みが液体と共に流れていく気がした。
ここで問い詰めても何も解決しないだろうと諦めて、肩の力を抜いて背もたれに身体を預ける。その様子を見ているニールは、過去の自分の有り様など本当に気にしていないようで、自分ばかり右往左往していることが馬鹿らしくなってしまった。
「しばらく研究所との連絡は任せる」
「いいけど、なんで?」
「〝お前〟の様子を見ないといけないだろう」
もう一度コークを飲み、ニールの髪をぐしゃぐしゃと乱して立ち上がった。
ニールはあちこちに跳ねた髪を直そうともせず、ただ笑っている。その姿にほだされそうになりながら、バスルームへと向かった。
* * *
次の日、病室を訪れると、この時間のニールは目を覚ましていた。薬品の匂いが充満する真っ白い部屋にはベッドがひとつ。彼以外の人の気配はない。そんな場所で、青年は何をするでもなく天井を見上げていた。
静かにベッドに近付いていくと、青年はちらりと瞳だけでこちらを見た。
「やあ、無事で何よりだ」
「……どうも」
適当に立てかけてあった椅子を引き寄せて、ベッドの隣に腰を下ろす。その間も、青年はじっと俺の動作を見ていた。見合ったまま沈黙が続く。
先に口を開いたのは青年の方だった。痛々しい痣が残る口元がゆっくりと動く。
「あなたが助けたのか?」
「ああ」
「どうして」
「死にかけてたら見過ごせないだろう」
「でも、こんなことをされても金は払えない」
「そんなものは期待してない」
「……だろうね」
青年は俺の服を見ながらそう言った。金持ちの道楽とでも思われているのか、好意的に受け入れてはいないようだ。
それ以上話をする気はないらしく、青年は視線を天井に戻し、口を閉ざした。廊下からは、他の患者や職員の声が聞こえてくる。入院してから丸一日も経過していなかったが、この青年はそれらの雑音をまったく気にしていないようだった。
「昨日の、あいつらは君の知り合いか?」
部屋の外に聞こえないよう、声を潜めてそう訊ねると、それまで動かなかった瞳が一瞬揺らいだ。だが、それはすぐに抑え込まれ、一層冷えたブルーグレイで天井を睨み付ける。
「友人、だった。昔はね」
「……そうか」
問いに応えてくれた声が微かに震えたのは、怪我のせいなのか、それ以外の意味があるのか、俺にはわからなかった。わかったのは、今は時間が必要だろうということだけだ。
「まずは治療に専念してくれ。また来る」
椅子から立ち上がり声をかけると、青年は返事をせずに俺を見上げた。不信感が混じる視線に堪らなくなり、そっと頭に手を置く。青年は驚いていたが、拒絶はされなかった。ただ、奇妙なものを見るような目をしていた。
それから時間を見つけては病院に通い続けた。
俺が病室を訪れる度に、青年は不思議そうな顔をしていたが、ぽつぽつと会話は続くようになってきた。少しは打ち解けてくれているように思う。
だが、俺はこの期に及んでどう接するべきか迷っていた。元々、この時間に来たからといって、あえてニールを探すつもりはなかったのだ。出会わないなら、それでも構わないとすら思っていた。作戦に関わらなければ、命を危険にさらすこともない。彼が抜けた分は自分が補えばいい。
そんな考えも頭の片隅にあったというのに、はからずも出会ってしまった。だが、彼はまだ真っ当な世界に戻れるだろう。自分が引き留めさえしなければ。
そう思うのと同時に、それでいいのかと自問してもいる。今、共に暮らしているニールはどうなるのか、本当にアルゴリズムが起動しなかった世界になるのか。そればかりは、いくら考えても答えが出なかった。
そうやって迷いを抱えたまま、今日も病院の廊下を歩いている。
よく晴れているからか、窓からは、広々とした庭を散歩する人々の姿が見える。面会に来ている人も多いのか、病棟もいつもより賑やかだ。談笑する人と擦れ違い、もうすっかり見慣れてしまった病室のドアを開ける。
青年は、ベッドに横になって備え付けのテレビを見ていた。その横顔に変化はないが、繋がっていた管がなくなっている。
「やあ、はずれたのか」
そう声をかけて、定位置になってしまった椅子に腰かける。とん、と自分の胸元を指で示すと、振り向いた青年は笑みを浮かべた。
「ようやくだよ。何日か様子をみたら、自宅療養に移ってもいいって」
「自宅か……安全なのか?」
「どうかな。もう荒らされてるかも」
鼻で笑ってみせた表情の奥に諦めが見える。自分の身辺がどういう状態なのかは予想がついているんだろう。そして、彼が退院するということは、俺も決断しなければならないということだった。
彼を引き留めてこの業界に関わらせるか、彼が平凡に暮らせるように関わりを絶つか。
前者を選ぶべきだとわかっているのに踏ん切りがつかず、きつく指を組んだ。
「退院したらどうするんだ?」
「どうって、とりあえず逃げるよ。そのあとのことは考えてない」
「逃げ切れるのか?」
「さあ、どうだろうね? 僕もあいつらの〝上〟のことは知らないんだ」
人生を投げ出すにはまだ若いだろうに、どこか他人事のように語る姿につい顔をしかめてしまう。
俺の表情が歪んだことに気付いて、青年は苦笑した。
「やだな。あなたがそんな顔する必要ないのに」
「君は、追われるほど何をしたんだ」
そう訊ねると、青年の表情は色をなくした。不信と疑惑が滲むその表情に、今度は俺が苦笑する。
「俺もまともな世界の人間じゃない。だから安心してくれ、というのもおかしな話だが」
そう告げると、青年は小さく息を吐いて呟いた。
「まあ、何かするつもりなら、とっくにしてるか」
「そういうことだ」
「……怒らない?」
「怒らない」
「通報も?」
「しない」
青年の表情から強張りが解け、瞳にも感情が戻ってくる。宙を眺めながら思考しているようだったが、やがて、ためらいながら口を開いた。
「なんていうか、その……あんまり人には言えない特技があって」
「特技?」
「鍵を開けるのが得意なんだ。ドアとか、倉庫とか、そういうの」
「なんだってそんなことを……」
確かに、ニールは開錠のプロだ。知っている。しかし、それは訓練後に身に着けたものだと思っていた。もうすでに会得しているなんて聞いてない。
過去について碌に語らなかった男の笑顔が脳裏に浮かび、額に手を当てて項垂れた。それを見た青年が、慌てた様子で小さく手を振っている。
「違うんだ。いや、違わないけど、別に悪事を働こうとかじゃなくて……! ああもう、なんて言ったらいいのかな」
青年の慌てた声が聞こえて顔を上げると、困り果てて下がっている眉が視界に入る。うろうろと瞳が周囲をさ迷っている間も、それを眺め続けた。
次第に目が合う回数が増え始め、俺が続きを待っていることに気付いた青年は、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「僕の両親は、なんていうか、収まるべきところに収まるのが正しいと思ってるような、真面目というか、お堅い人で。でも不思議なことに、僕はふらふらといなくなっちゃうような子供でね。プライマリースクールの頃は、子供部屋の鍵が活用されることがあったんだ。それを開けて脱走したのがきっかけ」
「脱走?」
「そう。たまに騒ぎになってたけど、可愛いものだろ? で、両親は仕事人間でもあったから、帰ると家に誰もいないこともあったんだけど、僕はよく鍵を忘れちゃってね。最初は近所の家に助けてもらってたりしたんだけど、そのうち面倒になって、自分で開けるようになった」
「……家の鍵を?」
「部屋の鍵は開けられたから、いけるんじゃないかと思って試してたら開いちゃったんだ。そしたら、どんどん上達して……あ、でも、自分の家以外には使わなかったよ? 誓ってもいい」
「……まあいいだろう。それで?」
「それで、セカンダリースクールを卒業して、カレッジは家から遠い場所を選んで……そしたら、僕にとって家族は窮屈だったんだって気付いた。だから、違う世界に行ってみたくて、こっちの大学に進学するためにイギリスを出たんだ。それで、大学で仲良くなった奴にうっかり特技のことを知られた。それが、あいつらの中のひとり」
自らの記憶を辿る青年の目が静かに細められる。それまでのからりと乾いたような口調とは違い、穏やかに、噛み締めるように語られていく。
「その頃は寮の部屋とか、イタズラに使ってただけだったんだ。子供の遊びの延長さ。でも、半年くらい前かな。大学院をやめたはずのそいつから連絡がきて、それで……何か、今までとは違うものの開錠を頼まれた」
「やる必要はなかっただろう」
「そうだね。でも、勝てなかったんだ」
「何に?」
「僕に。好奇心とスリルと……。まあ、とにかく、難問ほどクリアしたくなるだろ?」
「君の悪い癖だな」
つい知っているような言葉が出てしまったことに気付き、まずいと思って慌てて口をつぐむ。だが、青年はそれについては何も言わず、ただきょとんと俺を見て、それから小さく笑った。
「そう、僕の悪い癖だ。何かがおかしいって気付いてたのに、実験って言うくらいだから、少しくらい大丈夫だろうって思ってた。……知らなかったんだ。僕が鍵を開けることで、傷つく人がいるなんて想像もしてなくて、知ったら無視できなくなって拒否した。そうしたらこのザマだよ」
どこか遠くを見つめて自嘲する姿が、よく知っている男と重なる。優しさも、懐に入れた相手に与える情も、根本的なところは変わっていないのだとわかって胸が締め付けられた。
どう声をかけたらいいのかわからなくなり、手を伸ばしてそっと頭を撫でる。青年は、やはり不思議そうな顔をしていたが、初日とは違い、今度はその瞳が微かに揺れた。その揺らぎのままに「どうして」と言いかけたようだが、その言葉を飲み込んで笑顔を作る。その無理に作られた笑顔を見るのは少し苦しい。そんなこちらの感情など無視して、青年は言葉を続ける。
「そんな感じで、こうなったのは自業自得だ。そもそも、あいつらが本当に追ってくるかもわからないし、逃げられるだけ逃げてみるけど、どうにもならなかったら仕方がない。ああ、あなたに迷惑はかけないから、安心してくれ」
笑顔でそんなことをさらりと言われて、言葉が出なかった。だめだ、と直感が告げる。この男は生き残れない。
こういう仕事をしている人間は、生存本能が強い者が多い。常に死に近いからこそ、生き残るための知恵、直感、意志――そういったものが強く、それが生還へと導く。だが、ごく稀に死にひどく近い人間もいる。本人にそんなつもりはないのに、ふらりと死に近付いて行ってしまう人間が。そういう奴は大抵長生きしない。
目の前に横たわる青年からは、そういった人間と同じ匂いがした。
今回の件では逃げ切れたとしても、このまま好きなようにさせていたら、そう遠くない日に彼の人生は終わりを迎えるだろう。おとなしく彼を見送るという選択肢は消えたに等しい。
乱れた髪に触れていた手を引き、腹を決めて姿勢を正す。俺のまとう空気の変化を感じ取ったのか、青年は不安そうに眉を寄せた。
「学位は持ってるか?」
「え?」
「いいから」
「……修士なら」
「専門は?」
「物理だけど、それが何?」
青年は、大量の疑問符を頭上に浮かべながら、突然始まった質問に答えていく。さっきよりも訝しげな視線を向けられて、これから大きな作戦に巻き込んでしまうことを心の中で謝罪した。
だが、それは表には出さずに話を続ける。
「ある研究所で働ける人材を探している。君の力を借りたい」
そう告げると、青年は目を丸くした。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、戸惑いながら首を傾げる。
「それは、ちゃんと博士を取得した人の方がいいんじゃないか?」
「知識は必要だが、重要なのは博士号じゃない。少し特殊な技術を扱っていて、ここでは詳しくは説明できないんだが……君は向いているはずだ」
「どうしてそんな……、あなたは、僕を知ってた……?」
「それについてはいずれ話そう。ああ、それと、君が働いてくれるなら、あいつらに見つからないように新しい家も手配する。どうだ?」
「……それ、僕に拒否権ある?」
「ある。ということにしておこうじゃないか」
その言葉を聞いた青年は、声を出して笑おうとして、怪我の痛みに顔をしかめた。
退院時の打ち合わせを軽く済ませて、病院を出てすぐに電話をかける。二度の呼び出し音のあとで、端末から聞き慣れた声が聞こえた。
「急ぎで頼みたいことがある」
『何?』
「お前の昔の家を契約しておいてくれ」
『……研究所の近く?』
「たぶん、それだな」
そう答えると、耳元で小さく笑う声が聞こえてきた。車に乗り込みながら「なんだ?」と訊ねると、端末の向こうの声が余計に喜色を孕む。
『いや、あのときの――君にとっては今かな。とにかく、君のことを思い出したんだよ』
「何か変だったか?」
『変じゃないけど、今思うと、君も緊張してたんだなって』
「お前の命がかかってるんだ。当然だろう」
『うん、嬉しいよ』
お前にとっては過去の話でも、俺にとっては現在進行形の悩みの種だというのに、そんな風に柔らかく笑われては文句も言えない。ため息をつきたくなるのをぐっと堪えて、住居のことを任せて通話を終わらせる。そして、新人が入ることを伝えるために研究所に向かった。
* * *
それからひと月後には、青年も本格的に研究に参加するようになった。
事前に内容の説明と面通しも兼ねて、研究所に連れて行ったときには、青年の口は開きっぱなしになっていた。何度も「すごい」を繰り返し、起きている現象に目を輝かせている姿を見て、安堵の息を吐いたのは記憶に新しい。
結局、大学院を辞めることになってしまったことを謝ったときも「こっちの方がずっと面白い」と言って、新しい世界に夢中なようだった。
だから、油断していた。
季節が廻り、年を越して少し経った頃のことだ。
研究所を訪れると、すっかり職員として馴染んだニールが、白衣姿で出迎えてくれた。挨拶を済ませ、他の職員も交えて逆行の技術を利用した作戦の相談を終えると、ニールが緊張した面持ちで「話があるんだ」と言う。
彼に危険が及ばないように注意しているつもりだったが、自分の目が届かないところで危険を察知したのではないかと、背筋が凍る思いがした。
何にしても、この場所ではまずいだろうと、ニールを連れて廊下に出る。別室に移動して話を促すと、視線を落としていたニールは勢いよく顔を上げた。
「あなたに頼みがあるんだ」
「どうした?」
「僕も前線に出たい」
耳に届いた言葉をすぐには飲み込めず、衝撃のままにニールを見返す。その瞳は力強く、少しの迷いもなく俺を見据えている。
「……なんだって?」
「本格的に部隊を作るんだろ? 僕もそれに参加したい」
「だめだ。君は研究員としてここにいるんだぞ」
「それはわかってるし、拾ってくれたことには感謝してる。でも、僕はあなたの隣で力になりたいんだ」
「君に戦闘経験はないだろう」
「それは……これから訓練する。すぐには役に立たないかもしれないけど、戦闘経験の代わりに、僕には知識がある。サポートできるよ」
「こっちの仕事はどうするんだ」
「……実は、もう話してあるんだ」
驚きに目を見開くと、ニールはきゅ、と唇を引き結んだ。怒られている子供のように、どこか気まずそうに、それでも負けじと視線は逸らさない。
一向に埒が明かず、仕方なく研究室に戻ってバーバラを呼び止めた。何を話してきたのか察したらしいバーバラは、何も聞かずに近付いてきて、表情の硬いニールをちらりと見た。
「ニールから何か聞いてるか?」
「部署を変わりたいから、自分が担当している分を引き継ぎたいって」
淡々と告げられた言葉に頭が痛くなり、つい重い息が口から零れ落ちた。
ニールはそわそわと落ち着きがなくなっているが、バーバラは静かに俺の返答を待っている。
「君の意見は?」
「そうね、彼の発想は面白いし、機転も利く、手先も器用。ただ、移り気なのは研究者としては難点。作戦立案時に詳しく理解している人間が貴方の近くにいれば、こっちに確認する手間は省けるから、それは利点でしょうね」
「……そうか。こっちに支障はないのか?」
「ええ、あとは貴方が判断して。戦闘については、私は専門外」
そう言い切ったバーバラに礼を言うと、元いた場所に戻っていった。ニールは相変わらず、緊張している様子で俺を見ている。
ニールがサポートとして優秀な人材になることはわかっている。俺自身が、これまで数えきれないくらい助けられてきた。それでも、すぐにイエスと言えないのは、あの日に見た後ろ姿を忘れられないからだろう。彼が危険を冒すところは見たくないと、いつだって思っている。
ニールは俺から目を逸らさないまま、ゆっくりと口を開いた。
「僕が急に戦闘要員に、なんて、迷惑なのはわかってる。でも、あなたが僕の知らないところでいなくなるのは嫌なんだ。一緒に戦わせてくれ」
先程よりも静かに紡がれる言葉は微かに震えていた。白衣の裾を掴む指先は力み、純白の布に皺を作る。そのあまりにも苦しそうな姿に胸が痛んだ。
結局のところ、ニールを危険から遠ざけたいという願いは、俺のエゴでしかない。どんなに止めたところで、きっと、彼は現場に飛び込んで行ってしまうのだろう。それなら、自分の知らないところで危険を冒すくらいなら、身を守る術を与えた方がいい。そう思うことにした。
「今度、部隊をまとめる奴に合わせる。それまでに準備しておいてくれ」
渋々ながらそう告げると、ニールは顔を綻ばせた。嬉しそうに礼を言ってくるニールにかけるべき言葉が見つからず、今後の段取りを説明して研究所を後にした。
自宅のドアを開けた途端に、玄関にまで充満している焦げた匂いに気が付いた。研究所にも現場にも存在しない、俺にとっては嗅ぎ慣れた日常の匂いだ。
キッチンを覗くと、お決まりの後ろ姿が目に入る。キッチンに立つ男のブロンドは見事にあちこちに跳ねており、手にしている鍋からは謎の煙が上がっていた。
気配は隠さずに近付いていき、背後から鍋の中を覗き込む。
「今日のテーマは?」
「フェットチーネとオイルと調味料の関係について」
「……なるほど?」
何をしたかったのかはこれっぽっちもわからなかったが、鍋の底にこびりついた謎の塊が、麺だったものだということだけは理解した。
そっと腹部に手を回して肩に額を押し付けると、腕の中の男は、持っていた鍋をシンクに置いて振り向いた。至近距離で向き合う男の両手が頬を包み込む。
「何かあったのか?」
「……こうなるって、知ってたんだろう」
ニールは、すぐに何を言われているのか気付いたようだ。口元がやわらかく弧を描き、額同士がこつんと触れ合う。
「だから、昔言っただろ?『僕の命は君のために使うって決めてた』って」
「いつからだ」
「いつかな……。君が、僕に許しをくれたとき、新しい世界を教えてくれたとき、新しい人生をくれたとき――数えきれないよ」
「そんな大層な覚悟をするようなことじゃないだろう」
「それは僕が決めることだ。僕には救いだった」
「そう思わせてたなんて、お前に会ったときの自分を殴りたいよ」
「対消滅は困るな」
吐息で笑うニールの唇が頬に、そして目蓋に落ちる。何度も繰り返されるキスをしばらく受け止めてから、両手で触れている腰を引き寄せた。ニールの両手がわずかに緩んだ隙に顔を寄せて唇を奪うと、宙に浮いた両腕が首に回される。そのまま、きつく抱きしめた。
後日、戦闘経験皆無の元研究員に引き合わされたアイヴスは、わかりやすく渋い顔をした。じろじろと足の先から頭のてっぺんまで、目の前に立つ青年を眺め尽くしてから「本気か?」と呟く。
「ああ、俺も訓練するが、君にも助けてもらいたい」
「無駄にならなきゃいいけどな」
「大丈夫だ。保証する」
そう断言すると、アイヴスは器用に片方の眉を上げて、もう一度ニールに向き直り、隅から隅までじっくりと観察した。ニールは、どれだけ見られても臆することなく、アイヴスを見返している。こちらも、これから部隊を率いる男を観察しているんだろう。
しばらくの間、ふたりともそうしていたが、やがてアイヴスが面倒くさそうに天を仰いだ。
「やるしかないんだろ?」
「そのとおりだ」
「あなたがそう言うなら従うさ。おい、使い物にならなかったら、ぶっ飛ばすぞ」
「肝に銘じておくよ。よろしく、アイヴス」
ふたりの手のひらが合わさり、硬く握られる。アイヴスといくつか言葉を交わしたニールは、ちらりとこちらを見た。そして、俺がずっと見ていたことに気付き、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔が驚くほどに眩しくて、俺は目を覆いたくなる。
何やら賑やかな様子を遠巻きに眺めながら、いつか、自分が運命と呼んだものが現実になろうとしていることを強く実感していた。俺が望む、望まないに関わらず、確実に。