ひかりのかけら
1
手紙が届いた。彼と暮らし始めて約三年、風が冷たくなり始めた頃だ。
郵便受けに投函されていた真っ白い封筒には、宛先も差出人も書かれていない。配達されたものではないだろう。
その差出人不明の封筒の中には、一枚のカードが入っていた。白いカードは、星や音符などのカラフルな柄で縁どられていて、随分と可愛らしい。
カードの中央には、その雰囲気に似合わない堅苦しい文字で、どこかの住所が書かれている。そして、一言。
〝君たちのものだ〟
こう書かれていた。カードにも差出人の署名はない。
ソファに座って足を組みながら、隣に座る男と顔を見合わせた。正体不明の誰かが僕らに関わっているのは、今に始まったことではないが、その存在を感知したのは三年前のロシア以来だ。未だに観測されていたのかと思うと苛立ち、つい舌打ちしてしまった。だが、男が咎めることはなかった。カードを睨み付けている様子からして、彼も似たような心持ちなのかもしれない。
セーフハウスを与えてもらったからといって、すべての指示に従う義理はない。だが、拠点を把握されている状況で無視するのは得策ではないだろう。わざわざ送られてきた住所がなんなのか調べなければ。
逆行に向けての準備が大詰めを迎えている段階で、新たに厄介事を抱えてしまったかもしれず、焦りだけが募る。
手の中にあるカードを見たところで、それ以上の情報は拾えず、紙切れをテーブルに放り出した。するするとテーブルの上を滑って、カードが男の前に辿り着く。男はそれを手に取り、少しでも何か見つけようと隅から隅まで観察していた。眉間にはくっきりとしわが刻まれている。
だが、何も得られなかったらしく、彼も先程の僕のように、カードをテーブルに放り出した。
「まずは、今の案件を終わらせないと動けないな」
「そうだね。早く済ませよう」
そうして謎の手紙は一時的にファイルにしまわれ、僕らは予定していた仕事に戻った。
その案件を半ば強引に終わらせたのが、その五日後。
仕事を終えて帰宅し、ろくに休息も取らないまま次の準備を進めようとしている僕に向かって、男は例のカードを眺めながら声をかけた。
「ニール、この住所の場所はお前に任せる」
「構わないけど、君は?」
「これが届いた日、走っていく子供とすれ違った。そっちを追いたい」
予想していなかった言葉に驚き、装備品を整理している手が止まる。男が言及している相手のことを思い出そうとしたが、残念なことに、まったく記憶に残ってなかった。そもそも気に止めていなかったんだろう。記憶をひねり出そうとしたが効果はなく、男の鋭さに感嘆の息を漏らす。
「よく気付いたね」
「近所で見たことがない子だったからな」
「わかった。大丈夫だとは思うけど、気を付けて」
「ああ、お前も」
頷き合い、僕は送られてきた住所を、彼は関係していそうな子供を、それぞれ調べるために動き出した。
子供の件は相棒に任せて、カードに記されている住所に車で向かう。
その場所を調べてみると、郊外にある倉庫が該当した。所有者はフィリップ・ハーベル。貸倉庫ではなく、個人で所有しているもののようで、地図上で見る限りは怪しい箇所は見受けられなかった。
その情報どおり、そこは都心からは離れていて、運転している間も人とすれ違うことはなかった。周辺は見渡す限りの平野に囲まれていて、罠だとしても隠れられるような場所はない。隣家までの距離が遠く、近所と呼ぶのは少々はばかられる。身を隠すという意味では、うっすらと雨が降り始めたことがわずかな救いだろうか。だが、大きな効果は期待できない。こっそりと近付くことを諦めて、倉庫に続く道で車を止めた。
念のためにジャケットの下の防弾ベストを確認し、銃を携帯する。車を降りて、慎重に近付いていくと、情報だけでは知り得なかったものが見えてきた。
建物自体は強固な造りになってはいるが、倉庫というより巨大な納屋というのが正しいように思える。ドアのすぐ横に設置されている窓の内側は半透明のシートに覆われていて、内部を視認するのは難しい。倉庫側から確実に認識できる距離まで近付いても反応はなく、ドアのすぐ手前まで辿り着いた。気配を殺してドアに手をかける。しっかりと施錠されていることを確認して、上着のポケットから鍵を開けるためのツールを取り出した。
鍵の形状を確認し、いざ手を付けようとしたそのとき、不意に視線を感じて手を止めた。姿勢はそのままに窓を見上げる。すると、窓を覆っているシートの一枚がわずかにめくられて、向こう側が見やすくなっていた。そこから人の顔が覗いている。
僕だ。
半透明の膜越しに自分と目が合い、息を飲む。このシートは、逆行中に滞在する場所を覆うために使われるものだろう。その中にいるということは、こちらを見ている僕は逆行しているということだ。つまり、この場所は間違いなく〝僕たちが逆行するためのもの〟なんだろう。
状況を理解した瞬間に、自分が酸素マスクも防護服も所持していないことに思い至り、そっとドアから手を離した。このまま接近してしまうのはまずい。倉庫の中の自分と目を合わせたまま、ゆっくりと後退していく。数メートル離れたところで、見合っていた男はシートの向こうに姿を消した。
緊張感から解放されてほっと息を吐く。中にいるのが自分なら、攻撃されることはないだろうと判断して、背を向けて車に戻る。
出発する前にもう一度倉庫を確認したが、もう誰もこちらを見てはいなかった。
家に帰ると、同居人はすでに帰宅していた。
雨で湿った服のままソファに腰掛けると、その姿を見た男にタオルを手渡された。柔らかいタオルで乱暴に髪を拭いている間に、男がふたり分の温かいコーヒーを用意してくれる。マグカップを受け取って「そっちはどうだった?」と訊ねると、男は微妙に表情を歪めて隣に腰かけた。
「子供は見つけたが、その子自身は関係なかった。手紙を投函するように頼まれたんだそうだ」
「誰に?」
「ブルネットの白人男性。サングラスをかけていたから、顔はわからないと言っていた。これ以上辿るのは難しいだろうな。そっちは?」
そう問いかけられて、口をつけていたマグカップを下ろし、両手で握りしめたまま返事をする。
「僕がいたよ。逆行してた。姿は見えなかったけど、たぶん君も」
男としばし見つめ合う。男は「なるほど」とだけ呟いて、コーヒーを口に含んだ。そして、手にしているカップをテーブルに置いて苦笑した。
「自分で決めてる気が一切しないな」
「それには同感だ」
「次の拠点は快適そうだったか?」
「どうだろう。頑丈そうではあったよ」
得体のしれない何かにまとわりつかれているような感覚が拭いきれないまま、事態は進んでいる。その事実を誤魔化すように笑いかけると、男は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「誰だか知らないが、利用できる間は従ってやるさ」
その瞳には鋭い光が宿っている。それを見ると僕まで高揚してきて、自然と笑みを浮かべていた。これだから、君との仕事はやめられない。
「いいね、乗った」
その言葉と共に、手にしているマグカップを持ち上げてふたりの中心に差し出すと、男も自分のカップを持ち上げた。カップ同士がぶつかる鈍い音が響き、僕らは小さく笑った。
* * *
僕が自分の役割に気が付いたのは、それから更に二ヵ月ほど経ったときだ。
この三年の間に、危険な仕事をこなして集めた、過去に持ち込む金は金塊に換えた。CIAやプリヤと繋がるために優位に働く情報も揃えた。組織と呼べるほどの規模ではないが、信頼できるチームも得た。過去で何かあったときには、この時間に残る彼らに向けて記録を残すことになっている。
あとは、自分たちが逆行するだけだ。
雇い主である男が、もとい、組織が所有している研究所の力を借りて、逆行に必要な設備は整えた。できる限り自分たちの痕跡を消して、納屋に持ち込めない家具や道具は処分した。今日の昼に、貸倉庫に隠していた資材を、逆行中の拠点となる納屋に運んできたばかりだ。
納屋の中では防護服を着たふたりの男が――こちらからは片付けているように見えるが――設営している最中で、いよいよこの時間に別れを告げるのだと実感した。
納屋に資材を置いてから家に戻り、最後の荷物を車に運び込んでいると、背後から声をかけられた。
振り向くと、この家に越してきたときと同じように、女性がこちらを見ていた。あのときと違うのは、その女性――ハンナの傍らに、彼女の娘である十歳の少女が立っているというところだ。
もうすっかり見慣れてしまったふたり組に笑いかけ、作業を中断して近付いていく。
「お引っ越しされるの?」
「ええ、仕事の都合で。街のことを教えてくれてありがとう。おかげで美味いフレンチトーストにありつけた」
「いえ、お役に立ててよかった」
そうやって言葉を交わしていると、やりとりを見ていた少女がおずおずと口を開いた。
「会えなくなるの?」
「そうだね。せっかくご近所になれたのに、残念だけど……」
「じゃあ、これあげる」
少女はごそごそと抱えている鞄の中を探って、一枚のカードを取り出し、僕に差し出した。期待に目を輝かせている少女の姿が微笑ましくなり、僕も目一杯の笑顔で応えて、受け取った真っ白いカードを裏返す。その瞬間、ぴたりと動けなくなった。
そのカードの縁は、星や音符の形で彩られていた。手にしているカードは模様が描かれているだけだが、僕はこれに見覚えがある。これは、二ヵ月前に僕と彼が受け取るはずのものだ。
「今日、友達と一緒に作ったの。記念にあげる」
「ああ、ありがとう。こんなに素敵なものがもらえて嬉しいよ」
にっこりときれいな笑顔を見せた少女にそう答えたが、内心はひどく動揺していた。夕陽に照らされながら家に帰る親子を見送って作業に戻り、溜まっていたものを押し出すように大きな息を吐いた。
カードそのものがこんな形でヒントになるなんて思わなかった。納屋に行ったあとも、カードに手掛かりがないか調べていたというのに、手作りなら類似品が見つからなくても当然だ。過去の労力を惜しんだが、今更どうこう言っても仕方がない。
自分の役割が増えたことに頭を抱えたくなったが、そのときが来ればわかるだろうと、気楽に考えることにした。しっかりと準備だけしておけばいい。
もらったばかりのカードを大切にファイルにしまい、最後の荷物をまとめている男に声をかけて、車のトランクを閉じた。
2
納屋の中を見回り、周囲を覆っているシートや機材に異常がないか確認する。ここで暮らし始めてから、これが毎日の日課だ。設備類に問題はなかったが、今日は普段とは少し環境が違うようだ。納屋全体に微かな雑音が響いている。
耳慣れない音を聞き分けようと天井を見上げながら歩いていると、ニールが小さく笑って立ち上がった。
「雨だよ。逆行の雨は面白い。ほら」
ニールはまっすぐにドアの横にある窓に向かっていき、外を見るためにシートに手をかけた。楽しそうに目を細めて、近付いてこいと顎をしゃくる。
それに大人しく従おうとしたが、外を覗いたニールの手が制止した。こちらを見ずに、外に視線を向けている。
一瞬にして張り詰めた空気を感じて身構える。まっすぐ前を見ていたニールの視線は、ゆっくりとドアの方に向いていく。
すぐにでも動けるようにドアの方を警戒しながら次の合図を待っていたが、数分経ったところでニールはシートを元に戻した。安堵の息を吐いて戻ってきたニールは、そのまま椅子に腰を下ろす。そして、疑問を抱えたまま立っている俺を見上げた。
「僕だった」
「お前?」
「そう。今頃、君は子供を探してる」
「そういえば『自分を見た』と言ってたな」
「ああ。僕が覚えてるとおりなら、もう来ないはずだ。機材の方は?」
「問題ないが、一度補給しておいた方がいいだろうな。長期の逆行はまだ勝手がわからない」
「……そうだね。僕もそう思う」
「どうかしたか?」
「いや、たいしたことじゃない」
妙な反応に首を傾げると、ニールは首を振って笑顔をみせた。
こういうときは何か企んでいるか、楽しんでいるかだ。ごく稀にまずい隠し事のこともあるが、どちらにせよ、ある程度泳がせておいた方がいいのだと三年の間に学んだ。
隣に腰かけて、補給日のことを打ち合わせる。その最中、ふと、調達するものを書き留めていくニールの目元に、前髪がかかっているのが気になって手を伸ばした。中途半端に伸びた髪は耳にかけることもできず、するりと指からすり抜けて落ちる。
俺の指先だけがこめかみに残り、手元の紙を見ていたニールの瞳がこちらを見上げた。
「どうかした?」
「髪が伸びたなと思って。切ってやろうか?」
「うーん……」
顔を上げて、自分の毛先をつまんだニールは、少し悩んでから「今は大丈夫かな。また今度頼むよ」と答えた。
自分の髪も伸びているはずだが、ニールの方が変化が目立つような気がした。
襟足を覆う髪を撫でると、ニールがくすぐったそうに笑う。目が合った瞬間にまじめな気分は吹き飛んでしまい、余りある時間に甘えて、打ち合わせは後回しにすることにした。
補給日当日、ベッドの上で目を開けると、視界に見慣れない色があって飛び起きた。隣で眠る黒髪の持ち主の顔が見慣れたものだったことに安堵して息を吐く。
そんなこちらの動揺など知らず、当の本人はのんびりと身じろいだ。
「なに……どうかした……?」
「それはこっちのセリフだ。昨日、遅くまで起きてたのはこれか」
枕の上で跳ねる毛束を軽く引っ張ると、目蓋が開いてブルーグレイの瞳が姿を現す。見慣れたそれになぜか安心感を覚えて、知らずに表情が緩んでいたらしい。俺を見上げるニールの頬がふにゃりと緩んだ。
「ちょっとね、必要なだけなんだ。すぐ元に戻るよ」
「必要?」
「君にもわかる」
そう言ってのそのそと起き上がったニールは、掠め取るようにキスをした。そのままベッドを降りて着替え始める。いつの間にカラーリング剤を用意していたのか知らないが、ニールがわかるというなら、きっとわかるんだろう。そう自分を納得させて、準備に取り掛かった。
目立ちにくい早朝に酸素マスクを着けてトレーラーに乗り、回転ドアがある場所に向かった。俺たちが利用している回転ドアは、この世界にいくつか存在している中でも大きい部類のもので、車ごと入ることも可能だ。
施設内でトレーラーを降りて中に入る。巨大な機械の手前では、自分たちが待機していた。それを横目に見て、あらかじめ逆行させて置いておいた車ごと機械の中に入り、順行に戻る。資材や食料を手に入れるために都心に入ったところで、ニールは一足先に車を降りた。
行き先を告げず、用事が済んだら合流すると言って去ったニールは、宣言どおり、三時間後には資材を積み終えた車に戻ってきた。
俺は、助手席に座る男の姿を見て、ようやく何をしてきたのか理解した。ニールのジャケットの胸元に、見たことのないサングラスが引っ掛かっていたからだ。
〝サングラスをかけたブルネットの男〟
その言葉には覚えがある。
「いつ自分だって気付いたんだ」
「引っ越しの日に。ちょっとしたプレゼントをもらってね」
「言ってくれてもいいだろう」
「でも、自分で気付いた方が面白いだろ?」
「そういう面白さは求めてないんだが」
まじまじとニールの全身を眺める俺を見て、ニールはサングラスをかけてみせた。確かに、印象が違って、すぐにはニールに繋がらない。見事に身内に騙されたことを悔しく思いながらアクセルを踏み込み、久しぶりの外食を楽しむためにレストランに向かった。
約二ヵ月ぶりのまともな食事は、心も身体も満たしてくれた。日が落ちる前に食事を済ませて、回転ドアまで戻って逆行し、朝になるのを待つ。そして、数時間前の自分たちが出発したあとにトレーラーに乗り、納屋に戻った。
補充した荷物をすべて運び終えてしまうと、また待つのが主な任務になった。酸素マスクを外してジャケットを脱ぎながら、もう何時間も見ているはずのブルネットを目で追ってしまう。それに気付いたニールと目が合った。ニールは、しばらく俺の顔を見てから苦笑を浮かべた。
「そんなに気になるなら戻そうか?」
「いや、そうじゃない」
そう言って近付いていき、自分の頭を指さしているニールの手を取り、彼がいつも自分でしているように、くしゃくしゃと髪を撫でた。すると、乱れた髪の合間から覗く顔が喜色を孕む。それが手に取るようにわかり、もっとニールを感じられるように手を滑らせた。指の間を癖のある髪が流れていく。
「ブルネットも新鮮だと思っただけだ」
「じゃあ、ときどき染めようか」
「それもいいが、いつもの色も気に入ってる」
そんなやり取りをしながらニールは小さく笑い、目を細めて俺の手のひらに頭を寄せた。髪に触れている手を下ろしていき、頬を撫でる。
ニールはその手をそっと掴んで、手のひらに口付けた
「じゃあ、これは今だけの楽しみかな。白いシーツによく映えると思うんだけど、どう?」
「ああ、今のうちに堪能しないとな」
そう言って、手のひらに触れている薄い唇を指の腹で撫でて、わかりやすいお誘いに応える。腰を引き寄せ、ベッドまで誘導して押し倒すと、シーツにブルネットが広がった。なるほど、確かに美しい。
ニールは期待を含んだ瞳で俺を見上げている。無防備な額にキスを落とし、赤く染まり始めた肌を楽しむ。
もうしばらくして、髪の色がまだらに入り混じるようになっても、合間から覗くブルーグレイが映えるに違いない。この長い待ち時間の中、楽しみが増えたことに笑みを浮かべた。
3
隔離生活なりのごちそうの残骸が並ぶテーブルを前にして、僕らはひとつの時計を眺めていた。小さなソファに並んで座り、一定の間隔で秒針が動くのを見守って、針の先が上部に向かうのを待つ。そして、てっぺんで針が重なった瞬間に、隣に座る男の襟元を引っ張って口付けた。
男はキスをした瞬間は驚いていたが、すぐに順応して僕の腰を引き寄せた。柔らかな唇をしっかりと堪能してから解放する。
「ハッピーニューイヤー」
「新年かは怪しいけどな」
「じゃあ、旧年でもいいよ」
新年の決まり文句を口にした僕に、彼がそんなことを言うものだから、間近で見つめ合ったまま笑った。
僕らはたった今、一月を終えて十二月を迎えた。逆行し始めてもうすぐ一年になる。新年と言っていいかは怪しくても、無事に年を越せたことは祝うべきだろう。
何もかもが未知数だった長期の逆行生活も、一年近く経過してようやく落ち着いてきた。ずっと慌ただしい生活を続けてきたせいで、ちゃんと祝い事ができるのは初めてのことだ。彼と暮らし始めてからのこの数年間、まともなイベント事がなかったのだと思うと、自分でも驚く。
今までは仕事に追われる日々だったが、これからは待つ時間の方が長くなる。このまま問題なく事が進めば、約九年は。
派手なことはできないだろうが、それでも僕は楽しみだった。彼と過ごす日々は何もなくても素晴らしいけれど、特別な日はきっと、もっと素晴らしい。
ひとしきり笑い終えた男は、笑みをしまい込み、真顔で僕のことを見ていた。
もう一度キスでもしてみようかと顔を近付けようとしたが、僕の腰に触れている腕の力が緩み、男の身体がするりと僕の手からすり抜ける。男は立ち上がってソファを離れ、個人の荷物をまとめている箱を漁ったかと思うと、すぐに引き返してきて再びソファに座った。その手には、見たことのない箱が握られている。
片手で持てる大きさの四角い箱。その小さな箱は、全体がきれいにラッピングされている。男は、それを僕に差し出した。
「僕に?」
「ああ」
頷いた男の手から箱を受け取り、包装を解いていく。プレゼントはいつだって嬉しいけれど、特別なものを貰うような理由が思いつかない。疑問を抱いたまま包装紙をソファの端に置いて、慎重に箱を開ける。
そこには、きれいな時計が納まっていた。
彼の肌を思わせるチョコレート色の革のバンドと、同じ色の文字盤。その下から歯車が見えるように細かな装飾があしらわれている。他のパーツはシルバーで統一されており、高級な品であることはすぐにわかった。
驚いて顔を上げると、男はしてやったりといった表情で僕のことを見ていた。
「どうして……」
「記念日は祝いたいと言ってたのはお前だろう? 任務に逆行……普段はそれどころじゃないからな。それに、年が変わった瞬間なら間違えない」
「なるほど。ありがとう、これで記念日ができた」
僕がさりげなく言ったことを覚えていてくれた。それだけでも十分なのに、実行しようとしてくれている。それが純粋に嬉しくて、箱の中にある円盤のふちをなぞった。
男は、静かに目を細める。僕はちらりと目線だけを上げて、微笑みながら男の顔を覗き込んだ。
「ところで、これの意味は『同じ時間を過ごしたい』? 『離れても一緒だ』? それとも『束縛したい』かな?」
「全部だ」
男は、僕の突然の質問に動揺することも、迷うこともなく、そう答えた。不遜とも言える態度につい笑ってしまう。声を抑えて笑う僕のことを、男は笑みを浮かべたまま黙って見ていた。
時計を箱から出して、直接手に取る。革の感触がよく手になじむ。一度つけてみようとバンドをいじっていると、円盤の裏面に何かが刻まれていることに気が付いた。シルバーの円の中心に、小さな文字が刻印されている。
少し顔を近付けてみると、その文字がはっきりと読み取れた。
〝Grow old with me〟――共に歳を重ねよう
微かに震える指先で小さな文字をなぞる。そうすると、ひんやりと時計の冷たさが指に伝わって、これが現実の出来事だと実感できた。
すごく嬉しい、ありがとう、と伝えるために、とびきりの笑顔を浮かべようとした。だが、それはうまくいかず、一粒の雫が円盤の上に落ちて、文字が歪む。
貰ったばかりの時計を汚さないように、僕は慌てて袖で水滴を拭った。しかし、涙は次から次へと溢れてくる。
涙腺をコントロールできず、乱暴に服で頬を擦っていると、男の手が伸びてきて、指先で目元を拭った。
「悪い。余計だったか」
「ちがう、違うよ。嬉しいのに、なんでか止まらないんだ……っ」
何度も首を横に振って否定し、涙を止めようと目元に力を入れてみたが、これっぽっちも効果はなかった。
躍起になって涙を拭い続ける僕の様子に苦笑して、男は子供をあやすみたいに、こめかみに口付けた。そのぬくもりに、またひとつ雫が溢れ出す。
ずっと、終わりを意識して生きてきた。任務か、それ以外の何かか、そんなことは知らないけれど、終わりはいつだってすぐ近くにあると思っていた。事実、雇い主の彼とはもう会えないし、隣にいる男とも、あの作戦の日に別れるはずだった。危険な仕事に身を投じている限り、いつだってその瞬間と隣り合わせだ。
でも、望んでもいいのだと。その先の未来を描いてもいいのだと、そう言われている気がして胸が痛んだ。どうしようもなく苦しくて、息ができない。けれど、これは不快な痛みではなかった。
ぐずぐずと鼻をすする僕のまなじりを、男の手が優しく撫でる。
「なんだ、嬉し泣きも知らないのか?」
「……笑いすぎて泣くことはある」
「それとはちょっと違う」
甘やかな笑みを浮かべた男は、両手で僕の頬を支えて顔中にキスをした。頬も、目元も、鼻も、少しずつ彼のぬくもりを与えられて、心が凪いでいく。
男は、僕の涙が止まったのを確認して微笑んだ。
「これから先の時間は俺がもらう」
表情に似合わない力強い言葉に驚き、男の顔をまじまじと見つめてしまった。だが、いくら見ていても男の表情に変化はなく、一気に肩の力が抜けた。なぜかおかしくなって、小さく噴き出す。
「過去も、いつか君のものになるのに」
「どうだろうな。人生の話とやらも、お前はまともに教えてくれないじゃないか」
「だって、全部説明するなんてつまらないだろ? 楽しみは多い方がいい」
そう言ってにんまりと笑ってみせると、不意に男の顔が近づいてきて、鼻の頭に噛み付かれた。驚いて身を引き、泣いたせいで真っ赤になっているはずの鼻を手で隠す。
男は僕のまぬけな表情を見て、満足そうに笑った。
「嘘つきにはお仕置きだ」
「やったな?」
時計を大事にテーブルの上に置いてから、男を睨み付けてにやりと笑い、勢いよく飛びかかった。彼の重たい筋肉ごと倒れ込むと、ソファがぎし、と苦し気な音を立てる。
逆行を繰り返す僕らは、自分の正確な年齢もわからず、本当の意味で同じ時間を過ごしてはいない。それでも、未来を望むことはできる。逆方向の時間を進んでいても、年齢が嚙み合わなくなったとしても。
来年の今日も、僕らはこの名前のない特別な日を祝う。来年も、その先も、過ぎた時間の数がわからなくなっても。一年に一度、年をまたぐこの瞬間だけは、絶対に。
そう考えると、胸の奥が小さく痛んだけれど、今度はうまく笑うことができた。きっと、この痛みを幸福と呼ぶんだろう。
それを噛み締めている間に、男の腕が僕の胴に伸びていた。油断している隙を狙い、ぐっと力が込められて逆転されそうになる。僕は男の身体をまたいで踏ん張り、彼もまた重心を変える。そうしている間にやり取りは白熱していき、どちらが先かわからないが、堪えきれずに笑い出した。それでも、相手を押さえ込もうとする手は止めない。
やかましく暴言を吐き合いながらも、堪えきれない笑い声が周囲を満たしていた。
4
「それで、名前は決まったのか?」
「いや……覚えやすければなんでも構わないんだが」
「そんなこと言ってたらジョン・ドウにするぞ」
「それは困る」
そんなことを話しながら、ニールと共に歩く。擦れ違う人々は、俺たちが違法行為を行おうとしているとは夢にも思わないだろう。
逆行し始めて五年、あれだけ長いと思っていた作戦も折り返し地点だ。スタルスク12での作戦の時期はとうに通り過ぎた。この時間の自分はどこかでCIAの任務に当たっている。つまり、この先の出来事は俺にはまったくわからない。ニールは組織の動向は知っているはずだが、それについて訊ねようとは思わなかった。
久しぶりに歩く外の世界の日射しは穏やかで、周辺に植えられた植物は今にも花開こうとしている。
今日は年に数回の順行に戻る日で、資材の補給と共に、身分証を兼ねた運転免許証を新しく作ることになっていた。回数は多くないとはいえ、順行している際に身分証がなければ困ることも多い。そのために、偽造の専門家のもとへ向かっている。
会いに行こうとしている偽造屋の腕は確かで、未来では何度か世話になったこともある。偽造のプロなんていうと、いかにも怪しそうなものだが、仕事場はいたって平凡だ。
目的の場所は、巨大なアパート群の中にある。建ち並ぶビルのひとつに入り、エントランスを通過して上階へ進む。ドアの横に設置されているブザーを鳴らし、住人が出てくるのを待った。しばらくするとドアが開かれ、年配の女性が顔を覗かせた。
「どうも。仕事をお願いしたい」
「どうぞ、入って」
案内されて部屋の中に進み、示された木製の椅子に腰かける。巨大な棚にはあらゆる資料がぎっしりと詰まっており、その隣には見慣れない機械が並んでいた。
ニールは立ったまま、本棚の中身を興味深そうに見ている。
「それで? 何を作ってほしいの?」
「運転免許証をふたり分。開始日は四年前がいい」
俺たちに続いて部屋に入ってきた偽造屋にそう告げると、彼女はちらりと俺の顔を確認した。だが、それ以上何かを言うことはなく、机の上にあったメモ用紙とペンを手に取り、俺とニール、それぞれに差し出す。
「希望がある項目はこれに書いて。他は適当に決めるから」
そう言って渡されたメモ用紙に文字を書き込んでいく。髪と目の色、生年月日、そこまで書いて、手が止まった。肝心の名前を決められないままだ。
俺の手が止まっている間にニールは書き終えたらしい。女性はニールから紙を受け取り、俺の手元を覗き込んだ。
「すまない、まだなんだ」
「いいよ、先に写真を撮るから。おいで」
女性はさして興味もなさそうに、ニールを連れて廊下近くの部屋に消えた。
たかが名前。しかも偽名。今まで、上司から与えられる名前に疑問を持ったことはなかったが、自分自身で名付けるとなると、何か意味が生まれてしまうような気がした。こんなことを考えていること自体、愚かしいのかもしれない。そう考えてひとり苦笑する。そのとき、室内にブザーの音が響いた。
さっき入って行った部屋から女性が姿を現し、玄関へと消えていく。なにやら話し声が聞こえたかと思うと、すぐに女性は戻ってきた。
「商品を受け取りに来た人がいるんだけど、通しても大丈夫?」
「ああ、構わない」
「悪いね」
そう言って、再び玄関に向かう女性を見送り、メモ用紙に視線を戻した。
ここはあらゆる人間が出入りする場所であり、ある種の不可侵領域だ。誰かと居合わせたところで揉め事を起こすつもりもない。それよりも、俺にとって問題なのは、新しい名前の方だった。
黒い文字が走る紙を睨み付けていると、背後に人の気配を感じる。女性はニールがいるのとは別の、資料が並んでいる棚の奥にある部屋に入っていき、依頼人と思わしき人物とふたりきりになった。
「……ボス?」
どこか聞き覚えのある声が聞こえて手が止まる。ゆっくりと顔を上げると、豊かな髭を蓄えた男が少し離れたところに立っていた。髭の男の目が驚きに見開かれる。それを認識した途端にひどく動揺してしまった。心臓がばくばくと脈打つのを感じながら、その男の名前を口にした。
「アイヴス……」
次に会ったら殺す、というのは、どの程度本気だったんだろうか。ここでは争いごとにはならないだろうが、万が一があったら? そういったことが一気に脳内を駆け巡る。そっと、すぐにでも動けるように身構えた。だが、目の前の男からは、そんな気配は感じられない。
「こんなとこで何を……。……?」
何かを問い掛けようとしたアイヴスが言葉を詰まらせた。険しい顔つきで足先から頭までじろじろと見られて、余計に全身に力が入る。
アイヴスの視線は全身を数回往復し、最後に顔で止まった。無言のまま見合っていたかと思うと、アイヴスの眉間から皺が消えた。
「あんた、今のボスじゃないな。逆行中か?」
「え……あ、ああ……」
「……なんだその顔は」
余程まぬけな表情をしていたのか、アイヴスの眉が器用に上がる。それを見て、今はスタルスク12の出来事よりも前なんだとようやく理解した。安心して力が抜けそうになるが、それを見抜かれないように姿勢を正す。
「すまない、まさか逆行中に会うと思ってなくて」
「それはこっちのセリフだ。本番ではやらないでくれよ」
「気を付ける」
見覚えのある姿より、いくらかラフな服装のアイヴスの肩越しに、ニールの姿が見えた。ドアの隙間からこちらの様子を窺っている。姿を現すつもりはないらしく、目が合うと小さく首を横に振った。アイヴスはそれには気付いていない。
奥側のドアからこの家の主が出てこないことを確認し、アイヴスはわずかに目を泳がせた。
「あー……それから、ニールには俺に会ったことは言わないでくれ」
「それは構わないが、なぜだ?」
「なぜって、そんなことあいつが知ったら『自分だけずるい』ってネチネチ文句を言われるだろ」
「……そうなのか?」
あまり想像がつかず、アイヴス越しにニールの姿を盗み見ると、今にも飛び出していきたいのを堪えて歯噛みしているようだった。アイヴスは外していた視線を俺に戻し、しばらく見つめてから合点がいったように「ああ」と呟いた。
「そうか、まだ知らないのか」
「おそらくな。君たちといるときのニールは、そんな感じなのか?」
「まあな。何年か後にはわかるだろ」
アイヴスがにやりと笑ったところで、部屋の奥から女性が戻ってきた。中身が見えないよう、袋に包まれた何かをアイヴスに手渡し、アイヴスは礼を言ってそれを鞄にしまう。少しだけ重みが増した鞄を持ち直し、アイヴスは顔だけをこちらに向けた。
「今日はセントラルパークには行くなよ。特に東側。下手したら大変なことになる」
「ああ、わかった。ありがとう」
俺の返事を聞くと、アイヴスはニールがいる部屋の方は見ずに出ていった。もしかしたら、人の気配には気付いていたのかもしれないが、真実はわからない。
玄関の扉が閉まる音が聞こえてから、ニールはため息と共に、隠れていた部屋を出てきた。その口元は不満そうに尖っている。
「待たせてごめんなさい」
ニールの全身が見えたのと、女性がそう言ったのは、ほぼ同時だった。気にしていない旨を伝えると、俺の手元にある紙の白紙部分に気付いた女性が首を傾げた。
「まだ決まらないの?」
「ああ。名前というのは案外難しいな」
「前はどうやって決めたの?」
「前?」
言われていることがわからず、隣に立つ女性を見上げる。すると、女性は不思議そうな顔で見返してきた。少々呆れ交じりの声で答えが返ってくる。
「四年前も期限切れギリギリの身分証を作ったでしょう。そういう依頼は珍しいから覚えてるよ」
「……そのときの名前は覚えているか?」
「確か……フィリップ・ハーベル」
逡巡ののちに導き出された名前を聞き、俺もニールも固まった。俺たちは、その名前をよく知っている。
動揺する俺の様子を見た女性の視線が、奇妙なものを見る目に変わっていく。
「自分の身分証でしょう?」
「いや、前のは自分で決めてなかったんだ。……そう、そうか」
女性の鋭い視線を浴びながら、なぜその名前を選んだのか考える。理由があるはずだ。その名前を選んだ意味が。
遠い、遠い記憶を辿っていく。そして、ある一点に辿り着いた。
〝ハーベル〟は、仕事で身分を偽るようになって初めて与えられた名前だ。何度も経歴を塗り替えていくうちに意味を成さないものになり、すっかり意識から遠ざかっていたが、確かに自分が使ったことのある名前だった。
自分から自分に向けたメッセージだったのだとわかると、不思議と気分が軽くなった。ペンを持ち直し、メモ用紙の上を滑らせる。過去に与えられてきた名前の大部分は覚えていないが、記憶に残っている数少ないものの中から拝借することにした。
必要事項を書き終えた紙を女性に渡し、ニール、俺と、順番に別室で写真を撮る。完成まで数時間かかるということで、その間に資材を調達しようとアパートを出た。
「まさしく、あの納屋は僕たちのものだったってことだ。君にしてやられたよ」
「あのカードを書いたのはお前だろう」
「じゃあ、共犯ってことか」
独り言のように呟いて、隣を歩くニールが天を仰ぐ。
やるべきことが増えたが、それは今ではない。ニールの横顔をしばらく眺めてから、同じように上空に視線を向けた。俺が得た情報はもうひとつある。
「そういえば、アイヴスが言ってたことは本当なのか?」
そう問いかけると、ニールはぎょっとした顔でこちらを向いた。そして、すぐに苦虫を噛み潰したような表情になり、ふぅ、と息を吐き出した。
「それ、気になることか?」
「大いに気になるな」
「本当だよ。若かったんだ」
「随分と素直だな」
「隠しても近いうちにバレるしね。それに、誤魔化そうとして話がこじれるのはもう勘弁だ」
ニールは前を向いたまま肩を竦めたが、俺はなんのことを言っているのかわからなかった。だが、仕事以外で揉めた回数は少なく、その言葉が何を指しているのか気付くのに時間はかからなかった。
逆行する前、一緒に暮らし始めて間もない頃、理不尽に八つ当たりしたことを思い出して頭を抱えた。
「……あれは俺が悪いが、今持ち出さなくてもいいだろう」
「僕はネチネチ文句を言う男らしいんでね」
「ニール、悪かった」
思いの外、拗ねているらしい男の背中に手を回し、ぽんぽんと数回叩く。すると、ニールは息だけで小さく笑った。
「冗談だよ。あれは僕も悪い。ああ、でも嘘をつきたくないのは本当」
「ほう? 冗談か」
声を低くして背中に添えていた手を腰まで動かし、背骨のラインを指先でなぞると、ニールの肩がびくりと跳ねた。俺を見下ろす瞳が驚愕に開かれたが、動じることなく見返してやる。もう一度指先で背中を撫でると、今度は目尻の下がじんわりと赤くなった。
「……、外なんだけど」
「知ってる」
「ああもう! 今のは僕が悪い」
そう言ってニールは俺の腕を掴んで自分の背中から引きはがした。通りかかった人々が何事かとこちらを盗み見ているが、それは気にせず歩き続ける。
「……今日の夜は覚えてろよ」
周囲の人には聞こえないように、ぼそりとニールが呟いた。腕を掴んでいる指先に、きゅ、と力が入り、白い頬は春の陽気にはふさわしくない赤みが差している。
俺はただ、その頬を眺めていた。
5
夢を見た。
久しぶりに見る夢だった。昔はよく見ていたけれど、いつの間にか遠ざかっていた夢。
背景がはっきりしない部屋の中で、そのひとは僕の目の前に立っている。そのひとにもう会うことがないという事実がただ悲しくて、寂しくて、いっそ泣いてしまいたいと思うのに、そのひとが僕よりもずっと辛そうに笑うから、僕は涙をぐっと堪える。
最後の瞬間だからこそ、笑って力強く抱きしめた。彼の手が僕の背中を、頭を、優しく撫でる。離れたくないとわめくこともできずに、僕はそっと手を離し、立ち去る彼の後ろ姿を見送った。
そして、その背中が完全に見えなくなってから、立ち尽くして少しだけ泣いた。
頬にさっきまではなかったぬくもりを感じて意識が浮上する。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、ぼやけた視界の中で僕を見下ろすひとの顔が見えた。
「戻ってきてくれたのか……?」
別れを告げたばかりの男が傍にいてくれたことに安堵してそう訊ねると、男は僕の頬を撫でながら苦笑した。
「俺はどこにも行ってない」
何を言われたのかわからなかったが、自分の失言に気付いて、瞬時に覚醒した。瞬きしている間に、頬に触れていた手のひらが離れていく。枕が湿っているところを見るに、僕は泣いていたんだろう。そして、彼は涙を拭ってくれていた。
夢と現実を混同していたことに心の奥がざわめいて、離れていこうとする手をとっさに掴んでいた。
「ごめん……」
「わかってる。気にするな」
力の入った僕の手を、彼のもう片方の手がとんとんと穏やかに宥める。きっと、日課のワークアウトのためにベッドを出ようとしていたんだろう。彼を解放した方がいい。それはわかっているのに、手の力を緩めることができなかった。そっと、手を握る力を強める。
「なあ、もう少し一緒にいてくれないか」
そう言うと、男は何も言わずに隣に寝転がった。僕の手をはがそうとはせずに向かい合い、涙の痕が残っているだろう頬を撫でる。
近くで見る男の顔には、昔よりはっきりと皺が見えるようになってきた。当然だ。逆行し始めてから八年、彼と行動を共にして十一年。ふたりとも年齢を重ね、彼は、過去で初めて出会ったときの姿の方が近くなった。
目の前にいる恋人と、雇い主だった男を重ねたいとは思っていない。それでも時々、過去の行き場のない感情が浮かび上がってくることがある。
初めの頃は、未来の自分に対して微妙な顔をしていた男も、いつの間にか、何も言わずに受け止めてくれるようになった。
僕の耳たぶで遊んでいる男の手を取り、その腕の中に頭をうずめる。腰に腕を回し、胸元に額を擦り付ける。男は小さく笑いながら、太い腕で僕をすっぽりと包み込んだ。
「今日は甘えたの日か?」
「そうみたいだ。甘やかしてくれるだろ?」
「もちろん」
そう答えて、彼は腕の力を強くした。僕を潰さないように、でも隙間がないように、ぎゅうっと僕の頭を抱え込む。彼の体温を分け与えられ、ゆっくりと時間をかけて僕の体温も上がる。とろとろと溶けていくような意識の中で、鍛え上げられた胸板に擦り寄ると、くすぐったいのか、男が頭上で笑う。けれど、僕を放そうとはしなかった。
温かい腕の中で耳を寄せると、しっかりと脈打つ鼓動が聞こえて、ようやく身体の力を抜くことができた。規則的にリズムを刻む鼓動に、彼が生きていることを実感する。
いつだって、僕が何よりも恐れてきたのは、この男を失うことだ。死なせない。この先、順行に戻って次の段階に進むとしても。
過去にそう誓ったように、何度だって誓い直す。きっと、彼はいい顔をしないから、直接伝えたりはしないけれど。
もう一度夢の世界へ旅立ってしまいそうになるが、それを振り切って身じろぐ。すると、男の腕の力が緩んだ。腕の隙間から抜け出して髭にキスを贈ると、彼が僕の髪の生え際にキスをする。僕は、ほう、と静かに息を吐いた。
「もういいのか?」
「ああ。足りなくなったらまた頼むよ」
返事の代わりに僕の額にキスをして、男は上体を起こした。ベッドから降りて立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
「……何?」
「お前もやるぞ」
「えぇ……今から……?」
「いざというときに動けなかったら困るだろう」
「そうだけどさ」
ほら、と促され、渋々起き上がって男の手を取る。立ち上がったところを抱き寄せられて、わずかによろめいた。男の腕が腰に回り、手のひらが背中を撫でる。彼の手が触れた場所が、ひくりと震えた。
思わず吐いた息に熱がこもりそうになったが、次の彼の声が台無しにした。雰囲気も何もない、あっさりとした声音で男が呟く。
「やっぱり。前より背筋が落ちてる」
「僕が衰えてるんじゃなくて、君の筋肉が立派すぎるんだ」
「いいから、今日は厳しくいくぞ」
「うわ……本当、そういうところは真面目だよな」
「それに関しては諦めてくれ」
からからと笑って背を向けた男に聞こえるように、大きくため息をつく。それと同時に、こうやって日常に引き戻してくれることに感謝した。おかげで遠い記憶とも、小さな後悔とも、距離を取ることができている。
すでに準備を始めている男が僕を見て、満足したように優しく笑った。彼は、僕の気分が変わったことなどお見通しだ。敵わないと思うが、決して不快なことじゃない。
今日のところは彼が与えてくれるものを全部受け止めて、今度は僕が返すのだと決めて、僕を待つ男の元へ向かった。
6
近頃、拠点の中が慌ただしい。作戦決行の日時や手順の確認に、順行に戻ったあとの準備。それらの作業に追われている。
逆行し続けた生活がまもなく終わるからだ。つまり、人生の中でも比較的穏やかに過ごした日々が終わろうとしている、ということでもある。
俺たちは、この納屋が契約開始日を迎える前に、出て行かなければならなかった。酸素マスクを着けて周囲を覆っているシートを外していき、片付けられるものは片付けて、トレーラー車に積み込む。
このまま二週間、トレーラーの中で逆行する予定だ。
納屋の中が空になったことを確認し、自分たちの痕跡を消してトレーラーに移った。納屋と比べると随分と狭いコンテナの中で、時間が過ぎるのをじっとを待つ。何も起こらなければ、このまま待機していても問題ないが、いざというときは夜の間に移動する手筈になっている。
十年待ち続けたことを考えると、二週間はあっという間だった。
周辺が広大な土地だったことが幸いし、移動することなくコンテナでの待機時間を終えることができた。途中で複数の話し声が聞こえたが、おそらく自分たちだろう。
夜の間に車を運転して、使い慣れた回転ドアに向かう。未来から持ち込んだ資材や荷物と共に中に入り、再びドアが開くのを待った。やがて、重厚な機械音と共に視界が開けて、無事に正しい時間の流れに戻ることができた。検証窓の向こうでは、自分たちが後ろ向きに歩いている。
大きな荷物は一旦そのままにして、施設を出た俺たちは、手近なモーテルに宿泊した。
夜が明けて活動できるようになると、まず銀行口座とクレジットカードを使えるように手配した。もちろん偽名のため、正規の手続きは踏んでいない。金塊の一部を換金し、当面の間、身を寄せるホテルを確保する。この時代で使える端末や、ラップトップも用意しなければならなかった。
それを終えると、真っ先にあの納屋の管理者を確認した。あの場所を確保できなければ話にならない。現在の持ち主に連絡を取り、買い取りたい旨を伝えると、珍しがられはしたが拒絶はされず、苦労せずに済みそうだと安堵した。
連絡を取ってから三日後、現在の持ち主に会うために、俺は見慣れた納屋の前に立っていた。ニールはこれから暮らす家の候補を探してくれている。
案内してくれたのは、恰幅のいい、人の好さそうな男で、もう使っていない納屋を持て余していたのだと言った。この場所を知っている言動をしないように注意しながら、男の後をついていく。納屋の前に立った男は、少し離れた場所に停めてあるトレーラーを見て怪訝そうな顔をした。
「あれはうちのじゃないな。どけてもらうよ」
「いや、今日は下見だけだ。構わない。使うときにもあったら自分で言うさ」
男はその答えに頷き、納屋の中を説明し始めた。
俺は、男に気付かれないように安堵の息を吐いた。トレーラーの運転席には誰も座っていないが、コンテナの中には自分がいるはずだ。探られるわけにはいかない。
男に怪しまれないように納屋の中に入り、説明に相槌を打つ。いくつかやり取りをして納得したのか、男は譲り渡すことを決断した。
男と別れてから端末を取り出し、たったひとつ登録されている番号に電話をかける。正式に書類を交わすのは後日だが、無事に契約が成立したことを伝えると、ニールは「おめでとう」と言い、それから「いくつかよさそうな家を見つけた」と告げた。
ホテルに戻り、ニールが差し出した家の資料を確認する。
ニールが見繕ったのは、アパートメントの一室だった。今度は以前の家のように、大量の資材を置いておく必要はない。組織としてのセーフハウスは別に用意する予定でいるため、これは俺たちの個人的な家だ。
次の日にはふたりで家を見て回り、その中のひとつに住むことを決めた。広々としたリビングとベッドルームがある部屋だ。キッチンも充実していたが、あまり使われることはないだろう。今度は周囲にどう見られても、キングサイズのベッドを購入しても、気まずくなったりはしない。なにしろ、それが正しいのだから。
新居の準備はふたりで進めた。カーペットを敷き、テーブルや椅子の位置を決めて、くつろげるように穏やかな色合いのカーテンを取り付ける。
最後に、ひとつしかない寝室を陣取る巨大なベッドに新品のシーツを被せて、ようやく人心地ついた。
コーヒーを淹れて、ニールの隣に立つ。そして、家具のにおいが漂う部屋を見渡した。新しい住居は間違いなく、ふたりで暮らすための場所になっている。
「これからが大変だな」
「まあ、手順通りにやるしかないさ。あとは臨機応変に」
「そうだな。CIAの方は頼んだぞ」
「なんとかやってみるよ。君の方が仕事は多いんだから、それくらいはね」
そう言って、ニールは小さく肩を竦めた。
新居を構え、最低限の体制を整える頃には、順行に戻ってから三週間が経っていた。
今後は俺が中心に動き、ニールは裏方に回ることになる。これから確立していく組織に、ニールの存在を知られないようにするためだ。同じ理由で、CIAの対応は、ニールがすることになっている。
やらなければならないことは山のようにある。研究所や人材の確保。それに、未来から持ち込んだ情報と金を駆使して、プリヤを筆頭とした、裏の界隈の人間との繋がりを持たなければならない。三週間前までの穏やかな暮らしが嘘のように、慌ただしい生活になるに違いない。
先のことを考えている間に、知らずに眉間に皺が寄っていたらしい。隣にいるニールの手が伸びてきて、そこを指の腹でぐりぐりと押した。
その手から逃れるように頭を振ると、ニールが楽しそうに笑う。
「なんとかなるさ。あと七年ある」
「お前がそう言うと、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だよ」
いつかのように、手にしているマグカップ同士で乾杯する。にぶい音が手元で鳴り、同時にカップに口を付けた。
過去に経験してきた任務とは違う緊張を感じる。それでも、隣の男のぬくもりを信じられることは、俺にとっての救いだ。
開け放たれた窓からは、逆行し始めた日と同じように、冷たくなり始めた風が吹き込んでくる。俺は、温かいコーヒーの苦みを味わいながら、窓の外に広がる救うべき世界を見下ろした。