From the Shimmering World *

 

二度目の正直 最初の朝

 

 穏やかな日射しが存分に降り注ぐ室内で、不動産の仲介人である女性は、整えられた身なりに見合うにこやかさでこう言った。
「ここなら、家族が増えても十分な広さだと思いますよ」
 まだ家具のひとつも置かれていない部屋を歩き回っていた僕らの足が止まる。言葉の意味を理解するのに少しばかり時間がかかり、窓際に立っている男の方を振り向くと、きょとんとした表情で見返された。きっと、僕も似たような表情をしているに違いない。
 同居する友人のことも〝家族〟と呼べるかもしれないが、おそらく彼女の発言はそういうことではないだろう。僕と彼は友人兼同僚で、最近同居人になったばかりなのだが、それなら、なぜ防音機能が高く、ふたり暮らしにしては部屋数の多すぎる家を選んでいるのかと訊ねられると、少しばかり返答に困る。それぞれの部屋以外のほとんどは資材置き場になる予定なのだが、そんなことは言えるはずがなかった。
 改めて部屋を見渡し、もう一度、男の方を向く。目が合った男はあいまいに笑って、「そうですね」と、それだけ答えた。
 面倒ごとを引き起こすくらいなら、パートナーだと思ってもらった方が話が早い。
 それ以上踏み込んだ話はせず、すべての部屋をチェックし終えた僕らは、新居をそこに決めた。

* * *

 アルゴリズムを隠すという第一段階を終えて、与えられたセーフハウスで僕らが最初にやったことは、自分たちの行動記録の確認だった。
 まだ作戦中の過去の僕らは、世界中を移動しているはずだ。自分たちの存在を悟られないために、近付かずに行動できるタイミングを図っていた。
 今後必要になってくることを想定し、僕が把握しているすべての回転ドアの場所を伝えて話し合った。そして、場所と使い勝手を考慮した結果、拠点はアメリカかイギリスのどちらかがいいだろうという結論に至った。
『お前の希望は? ニール』
『僕はアメリカの方を推すよ』
 問いかけにそう答えた僕を、男は意外そうな顔で見た。じっと見つめられて苦笑を浮かべる。
『何?』
『いや、イギリスに縁が深いのかと思っていたから』
『ああ。だから、アメリカの方がいい』
 理由ともいえない理由を聞いた男は、それでも納得したのか、なるほど、と呟いて小さく頷いた。そして、僕の希望は無事に通り、アメリカに拠点を構えることになったのだ。
 今後のことが決まったところで、まずは資金調達から始めなければ、とため息をついた。僕らの動向を知られないためには、これまで使っていたカードは破棄しなければならない。
 何から始めようかと頭をひねる僕に、男は一枚のカードを見せた。見たことのないカードを目の前にして首を傾げると、彼に宛がわれた部屋に置かれていたのだと説明してくれた。きっと、この家に僕らを導いた人物が用意したものだろう。ここで暮らし始めてから、身の危険を感じたことはないから、ある程度は信用しても大丈夫だとわかってはいたが、何もかも見透かされているようでいい気はしない。
 念のためにカードのことを調べると、正しく使えるものだということがわかった。
 名義はポール・ランディス。この家の契約者と同じく偽名であり、この世界に存在している証拠がない。共通点は身元不明だということだけ。だが、それはかえって都合がよかった。
 そして、過去の自分たちがスタルスク12に向かって逆行しているタイミングを見計らって、アメリカに移動し、今に至る。

* * *

 契約を取り付けた女性に見送られ、僕らは一軒家を後にした。タクシーで宿泊しているホテルに向かう。後部座席に並んで座った僕らは、ろくに会話もせず、それぞれ窓の外を眺めていた。車内には沈黙ばかりが降り積もり、どことなく、ぎこちない空気が漂っている。
 原因はわかっている。さっきの女性の発言がきっかけだ。その場はうまく取り繕ったが、一度連想してしまった映像は簡単には消えてくれない。
 僕と彼は、一度だけ寝た。逆行する船――マグネ・ヴァイキング号の中で、たった一度だけ。
 僕は彼に多くを明かせず、彼はそんな僕を受け入れきれず、そんな状況での行為は、セックスというよりファックと呼べるものだった。でも、僕はそれでよかった。そうなることをわかっていて、「作戦前で気が休まらないから協力してくれ」と嘘までついて、その一度に賭けた。彼に触れられる最後のチャンスだと思ったから。
 生き残っても死んでも、今後一緒にいることは叶わないかもしれないと、そう思っていたから行動した。なのに、状況は予想とは大きく変わってしまった。
 思いがけない現実に戸惑いもあったが、それでも、今は友人としてきちんと関係を築き始めている。そのはずだった。
 スタルスク12での一件で、それどころではなくなったこともあり、行動を共にしていても、身体を重ねたことを口にすることはなかった。そうやって忙しくしている間に過去は風化し始めて、ふたりきりで過ごすことにようやく慣れてきたところだ。それなのに、突然掘り返された記憶に、今更ながら動揺している。
 お互いの間にできた妙な空気を払拭できないまま、宿泊しているホテルに到着した。まだ一日を終えるには早い時間だったが、僕らはそれぞれの部屋に戻ることにした。ぎこちないまま、エレベーターに向かう。
 別々の階に部屋を取っているため、エレベーターの中で男に別れを告げた。普段はそんなことはないのに、このときも彼はこちらを見てはくれなかった。
 先にエレベーターを降りていく男の後ろ姿を眺めながら、僕はほんの少しだけ後悔した。彼に触れたことではなく、こうして戸惑わせてしまっていることを。
 自分が宿泊している階で降りて、通りかかる人に怪しまれないよう、平静を装って自分の部屋の鍵を開ける。室内に入り、しっかりとドアが閉まったのを確認して、思い切り息を吐き出した。長いため息が部屋の中に消えていく。ドアに背を預けて、ずるずるとその場にしゃがみ込み、乱暴に髪を乱してこうべを垂れる。
 彼のぎこちなさばかりに目が行っていたが、自分も態度に出ていないとは言い切れなかった。
 こんなはずじゃなかったのに。
 そんなことを考えても、もう遅い。過去は変えられない。十分すぎるほど理解しているはずの結論に辿り着き、もう一度ため息をついた。
 今日はおとなしく休んでしまおうと、シャワーを浴びるためにバスルームに向かう。頭からお湯を浴びていると、少し落ち着きを取り戻した。思考を切り替えて、明日、どうやって男と向き合うべきかを考える。きっと、彼も割り切っては来るだろうが、早く元通りに戻りたかった。
 さっきまで隣にいた男の顔が脳裏をよぎる。最後に見た彼の瞳は、戸惑いを隠せずに揺れて、視線が交わると、ためらいがちに伏せられた。その瞬間に彼の頭の中にあったのは、僕が思い出したのと同じ場面の映像だったんだと思う。
 彼からしてみれば、情など孕まない、性欲を発散するための行為だっただろう。服も着たまま、下半身だけを晒して繋がる行為だった。それでも、僕は満たされていた。口に含んだ彼自身の味が、感触が、触れた手の力強さが、あの瞬間は確かに僕だけのものだった。
 バスルームに満ちた湯気に混ざって、吐息が熱を帯びる。一度甦ってしまった記憶を振り払うのは容易ではなく、あの日に見た黒々とした瞳が視界から消えてくれない。彼の手の熱が鮮明になるほどに体温が上がり、緩く反応し始めているペニスに手を伸ばした。
「ん、……ッ」
 記憶を辿るだけで勝手に身体は昂っていく。そろそろとペニスを扱くと、久しぶりに触れたせいもあり、あっという間に硬さを増した。そこから着実に快感が這い上がってくる。
 手を動かしながら、目を閉じて彼のことを思い出す。
 相手をしてほしいと、突然言い出した僕を訝しげに見ていながら、結局、最後まで好きなようにさせてくれた。彼のものが反応するか不安だったけれど、硬くなったペニスに触れて、ちゃんと興奮してくれていることに安堵したのをよく覚えている。あの時間のことは、どうあがいても忘れられない。
 彼のものに舌を這わせたときに、頭上から聞こえた微かな呻き声。簡易ベッドにうつ伏せになって高く上げた僕の腰を掴む、その手の熱さ。食堂からくすねたオイルでべたつくアナルに侵入してくる熱の塊。内臓を押される痛みと圧迫感――。
 正直、快感は一切なかった。でも、それを悟られたくなくて、背後から挿入するよう男を促し、少しでも誤魔化そうと自分で性器を触っていた。そのときの感覚と現実がリンクする。
「はっ……、ァ……」
 短い呼吸を繰り返し、壁に手をついて体重を預け、ペニスを握る手の動きを速めた。記憶の中の彼が腰を押し付けてくるのに合わせて、ぬめりを帯びている先端を弄ると、自然と身体が揺れて腰を突き出すような姿勢になる。
「……っぁ、く……ッ」
 全身を揺さぶる腰つきも、擦られた粘膜のひりつくような熱も、今はない。それでも、あのときと同じようにがむしゃらに扱いてやると、追体験するように限界を迎えた。ペニスの先端から溢れ出した精液が、水の流れに乗って排水溝へと消えていく。それをぼんやりと眺めながら、心の中で彼に謝罪した。

* * *

 翌日、ロビーで待ち合わせていた男と挨拶を交わすと、しっかりと目が合った。昨日と比べると、いくらか持ち直したようだ。タクシーの中でもぽつぽつと会話がある。このまま時間と共になかったことにしていけるだろうと、こっそり安堵の息を吐いた。
 タクシーは、指定した家具屋に順調に向かっている。今日の外出の目的は、契約したばかりの家を住む場所として整えることだ。そのために家具や電化製品を揃えなければならない。
 問題なく暮らせるならなんでもいいと言っていた男を連れ出したのは僕だ。
 セーフハウスといえど、数年は暮らすことになるんだから、生活の基盤を整えることは重要だ。家は安らげる場所でなければ。そのためにこだわることは悪いことじゃない。
 そうやってこんこんと訴える僕のことを、男はおかしそうに笑い、それから微笑んで頷いた。それが、ロシアを出発する前日のことだ。
 新居を決めたらすぐに動き出そうと、あらかじめ決めていた僕らは、当初の予定どおりに行動することにした。わずかにずれてしまった歯車を元に戻そうとしていることは、口に出さずともお互いに理解している。

 

 到着した家具屋の中は、広々とした空間を存分に使い、あらゆる部屋を想定した商品が展示してあった。まずは、最低限の生活を送るのに必要なものを揃えるのが目的だ。
 ベッドを探して周囲を見回していると、こちらが不慣れだと見越した店員が、寝具を扱っているエリアまで案内してくれた。ずらりと並んだベッドに圧倒されていると、店員がわかりやすく笑顔を見せる。
「シングルはあちらに、ダブルでしたら――」
「いや、シングルだ。ありがとう」
 店員の言葉を遮り、示された方向に男が歩き出した。少し遅れてそのあとを追う。何かを説明している店員に笑顔で対応したが、ほとんど耳に入らなかった。自分たちにしかわからない程度に距離が開く。その距離を埋める術を、僕は持っていなかった。
 自分は、人の目は気にしない質だと認識しているが、今回は少し話が違う。
 彼とは友人でいられたらそれでいいと思っているのに、どうして、出会う人々はそう見てはくれないんだろう。僕が彼への気持ちを隠しきれていないんだろうか。船でのことといい、こう裏目に出ると、少しばかり落ち込みそうになる。
 自分の中に渦巻く思考を無視し、わざとらしくないように笑って男に近付く。
「すごい寝相だと思われたんじゃないか?」
「それはお前の方だろう」
 気難しそうな顔でベッドを見下ろしている男の隣に立って声をかけると、同じ調子で返事が返ってきた。
 言葉はいつもどおりでも、やはり距離を埋められない。昨日の昼までは何も考えずに触れることだってできたのに、今は、どうやってその肩に手をかけていたのかもわからない。ぐっと奥歯を噛み締めて、男と距離を取る。
「僕も自分のを探してくるよ」
「ああ。また後で」
 ふらりと歩き出した僕に向かって、男はそれだけ答えて、再びベッドを睨みつけた。
 いくつものベッドの隙間を縫って歩く。男から離れた場所で適当なベッドに腰掛けると、新品のマットが優しく体重を受け止めてくれた。
 こっちを見ようとしない男の後ろ姿を眺める。遠目から見ても、その背中を厚い筋肉が覆っていることがわかって、小さく心臓が跳ねた。俯いて目を逸らし、ぐしゃりと髪をかきあげて表情を誤魔化す。誰にも見られていなくても、情けない顔を晒したくなかった。
 昨日、彼を利用してあんなことをしてしまったせいだ。そう考えたのと同時に、彼の美しい瞳が甦りそうになり、勢いよく立ち上がってそれを振り切る。納得のいくベッドを探すことに集中するため、それきり、彼の姿を見ないように意識して店内を歩き回った。
 それから一時間が経過して、お互いに気に入ったベッドを見つけて合流した。何も持っていない僕らは、用意しなければならないものが多い。個室は自由にすればいいが、共同スペースはそうはいかない。ソファ、ローテーブル、ダイニングテーブルに椅子――それらを話し合いながら選んでいく。
 目的がある分、それまでより会話はスムーズだ。相手のことを見なくても、家具さえしっかり見ていればいい。一定の距離を保ったまま買い物を終わらせた僕らは、やはり距離を保ったまま、電器屋でも同じことを繰り返した。

 

 数日後には購入した家具が家に運び込まれ、無機質な空間はすっかり部屋らしくなっていた。シミひとつないカーテンを取り付け、まっさらなシーツでベッドを覆う。手を付けていない部屋もあるが、足りないものは追々買い足していけばいいだろう、ということになっていた。
 世話になったホテルをチェックアウトして、購入したばかりの車で住宅街に現れた僕らは、ちゃんと〝引っ越してきた人〟に見えたはずだ。
 打ち合わせも兼ねて買い出しに行こうとふたりで外に出ると、少し離れた所から視線を感じた。歩道に立っている女性の姿が目に入る。同年代だろうか。柔らかく微笑んだ女性につられて笑みを浮かべると、声をかけられた。
「この家のかた?」
「ええ、そうです。越してきたばかりで」
「じゃあご近所さんね。うちはあそこだから」
 新居の二軒隣の家を指さした女性はハンナと名乗り、子供を迎えに行くところなのだと言った。改めて挨拶をして握手を交わす。
「仕事の都合で引っ越してきたんです。彼は同僚でルームメイト」
「どうも」
 隣に立っている男も同じように挨拶を交わすと、ハンナは親切にも、近くの店などのことを教えてくれた。
 しばらく三人でこまごまとしたことを話していたが、やがて、約束の時間に遅れるからと言って、ハンナは慌てて駆けていった。それを見送り、笑顔を引っ込めて再び歩き出す。その隣で、男はじとりと僕のことを見上げていた。
「嘘は言ってない」
 そう言って肩を竦めた僕を見て、男は小さく鼻を鳴らす。
 嘘は言っていない。けれど、関係を勘繰られないように先に情報を出した。そのことは少し情けなく思うが、これ以上、彼との関係を揺さぶられないことの方が重要だった。
「それで、例の件は?」
「何人かリストアップしてみた。僕があんまり関わってない相手だけだけど」
「ああ……こいつはダメだ。多分、俺のことを覚えてる」
「それならこっちが有力かな……」
 人名が並んだスマートフォンの画面を覗き込みながら、そんなことを言い合う。
 彼に見せているのは、裏の世界の仲介業者の名前だ。僕らは早急に、長期間逆行するための資金と情報を集めなければならなかった。逆行した先の過去で、僕らは完全に異邦人になる。なんの土台もない状態ですぐに動くためには、それだけの資源が必要だ。
「もう少し探してみるよ」
「悪いな」
「適材適所だろ。こういうのは僕の方が得意だ」
 そう言い、端末の画面を消しながら顔を上げて、すぐ近くに男の顔があることに驚いて息を飲んだ。ひとつの画面を同時に見ていたんだから当然なのに、わかっていても心臓に悪い。僕と目を合わせた男も同じように一瞬硬直し、それから目線を正面に向けて身体を離した。
 この街に来てから数度目の沈黙をやり過ごすため、目的の店を探して視線を遠くに投げる。
 男とは逆の方向に顔を向けていると、隣から微かな視線を感じ、端末を握りしめる手に力が入った。見られている首筋が熱い。彼がどういった意図で見ているのかわからないが、知ってしまうのが怖くて振り向けなかった。
 だが、そうしていたのはわずかな時間だけで、すぐに男は視線を正面に戻した。僕は固まってしまった手を誤魔化すために、端末をポケットに突っ込む。
 男の方を向けないまま歩き続けていたが、住宅が並んでいる道の角を曲がった先にレストランを見つけて、ようやく会話が再開した。メニューを選んで席に着く。老若男女が揃った店内の喧騒に助けられて、僕らは元の空気を取り戻した。

* * *

「イギリスの回転ドアの詳細を教えてくれ」
 彼がそう言い出したのは、拠点を手に入れてから二ヵ月が経った頃だ。ふたりで請け負うようになった仕事が、少しずつうまく回り始めた頃。
 僕がリビングのソファに身体を投げ出し、文字がびっしりと書かれた書類に目を通していると、近くまでやってきた男が深刻な顔でそう言った。
「何かあったのか?」
「〝記録〟だ」
「なるほど。サポートは?」
「いや、ひとりで行ってくる」
 もう心を決めているらしい男に頷き、手にしている紙をテーブルに放り出した。新しい紙を取り出して、回転ドアがある施設と、その周辺の構造を書き出していく。男は僕の説明を聞きながら、真剣な表情で手元を見ていた。注意点まですべて確認し終えると、男が顔を上げて僕を見る。
「ありがとう。助かる」
「感謝されるほどのことじゃないさ。出発は?」
「準備を整えたらすぐに出る。夜の便には間に合うだろう」
「空港まで送るよ」
 紙の束をまとめながらそう言うと、彼はもう一度「ありがとう」と返事をした。そして、迷うことなく背を向けてリビングを出ていく。
 彼はもう動揺したりしなかった。顔が近づいても、指先が触れ合っても、視線をさまよわせたりはしない。割り切ったのだ。彼は、ちゃんとあの日をなかったことにして友人に戻った。
 僕だけが、まだ取り残されている。

 

 空港まで男を送り届けて帰宅する頃には、すっかり夜になっていた。鍵を開けて家に入り、真っ暗な空間を眺める。この家に住み始めてから今日まで、別行動をすることはあっても、いつ帰ってくるかわからないというのは初めてのことだ。
 リビングの明かりをつけて、家を出る前に読んでいた資料を手に取り、すぐに電気を消す。そのまま、まっすぐに自室に向かった。心細くなったりはしないが、この家はひとりで過ごすには広すぎる。
 自室に入り、雑然とした机の上に資料を置いて、次の仕事の準備を進める。
 何枚も重なった紙に印刷された文字に埋もれるように、余白部分に手書きの書き込みがあった。隣合って話しながら、僕が手にしている紙に、彼が身を乗り出して書いた文字。その少し歪な筆跡を指先でなぞる。あのとき、目の前に晒されたうなじから目が離せなかったことを、きっと彼は知らない。僕が必死に息を殺していたことも。
 鮮明に彼の存在を思い描いてしまい、資料を広げたままの机に突っ伏して目を閉じた。
 日常の中で彼と接触することは多々あるが、反応してしまう鼓動も体温も、その瞬間は隠せているはずだ。けれど、ひとりになってからそれを思い出して、どうしようもなく苦しくなる。彼が笑いかけてくれることに喜びながら、ひた隠しにしている感情があることに勝手に後ろめたさを感じている。
 それでも彼の体温が忘れられないなんて矛盾している。そんなことは自分が一番よくわかっている。
 一度考え始めてしまうと頭から離れなくなってしまい、作業を一旦諦めて顔を上げた。資料が散らばっている机の上はそのままにして、立ち上がってベッドへ向かう。
 ベッドサイドからプラスチックのボトルとスキンの箱を取り出して、シーツの上に置き、ベッドに腰掛けた。上体を倒し、ぼんやりと天井を眺めてみる。このまま頭の中にいる男の姿が消えてくれるならそれでもよかったのに、残念ながらそうはならなかった。
 ベッドに乗り上げてベルトに手を伸ばし、トラウザーズを脱ぎ捨てる。下着の中に手を突っ込んで、まだ柔らかいペニスを握り込んだ。『ニール』と僕の名を口にした彼のやわらかな声音が耳元で甦り、身体が急激に熱を持ち始める。
 最近はもう、胸の奥でつかえたまま肥大し続けている痛みをうまく処理できなくなっていた。彼の前で見せないようにするのが精一杯で、ちっとも消え去ってくれない。そのうち、本人の前でも隠せなくなるんじゃないかと思うと恐ろしくて、ひとりのときにこうして彼の面影を追って誤魔化している。
 触れているペニスが硬くなったところで手を離して、下着を抜いだ。そして、シーツを汚さないようにスキンをつける。シーツの上に転がっているボトルを手に取り、蓋を開けてローションを手に馴染ませる。それをこぼさないように注意しながら四つん這いになって、後孔に手を伸ばした。
「……っ、ぅ、く……」
 ローションの滑りを借りて、ゆっくりと指を押し込んでいく。強張っている肉を掻き分けて入り口をほぐし、少し緩んだ瞬間に指を増やす。ぐちゅ、と音を立てて隙間から溢れ出たローションが太ももを伝い落ちていく。その感触が不快だ。
 違和感を無視して指を動かし続ける。抜き差しを繰り返すと、ぞわぞわと悪寒が這い上がってきたが、手の動きは止めなかった。頭をベッドに預けて、もう片方の手を前に伸ばす。さっきよりいくらか硬さを失ったペニスを擦って、強引に快感を引き出していく。
 ひとりきりのときにこうして後ろを弄るのは数回目になるが、相変わらず快感の予兆すらない。でも、その方が都合がよかった。彼に抱かれたときのことを鮮明に思い出せる。彼のものには遠く及ばないものの、指で後ろを弄って生まれる違和感と、前で感じる快感は、あの日を再現するには十分だった。
「はっ、ッ……あ、っ」
 目蓋の裏の暗闇で、自分の呼吸に混ざって彼の息遣いが聞こえる。情熱的な言葉も、色っぽいセリフもなかった。ただ『ニール』と、吐息交じりの声が僕を呼んだ。
「あ……! っはぁ、ぁー……」
 下腹部に溜まっていた熱が一気に全身を駆け巡り、情けない声を上げてあっけなく吐精した。指を引き抜き、白濁色の体液を溜め込んだスキンを処理してベッドに横向きに寝転がる。
 もう彼の声は聞こえない。頬に触れるシーツはひんやりと冷たく、記憶の中の熱には程遠かった。

* * *

 二日後の午後、男は見慣れたスーツ姿で帰宅した。怪我もなく戻ってきたことにほっと胸をなでおろす。
 着替えもそこそこにリビングにやってきた男は、真っ先に仕事の進み具合を確認したがった。向かい合って座り、テーブルに広げた資料を見せながら調べたことを説明していく。
 今回の仕事は、いわば代行業のようなもので、依頼人が欲しがっている情報をターゲットから得るのが目的だ。問題は、ターゲットに接触するのが困難だということだった。日々のルーティンはなし。直接会うのは仕事の関係者ばかり。大概の要人がそうであるように、見知らぬ人間になど見向きもしない人物だ。
「でも、明後日ならチャンスがある」
「明後日?」
「そう。明後日の夜、この店に訪れるはずだ」
 そう言って店の資料を差し出した。ここからは少し離れた歓楽街にあるレストランのひとつ。店の周辺や、店内の間取りをまとめた資料に目を通して、男は顔を上げた。
「よくわかったな」
「運がよかったんだ」
 肩を竦めて、男に笑いかける。
 そう、本当に運がよかった。裏から繋がるのは困難かもしれないと判断し、男が家を空けている隙に、ターゲットの表の顔である会社に偵察に行った。目的のビルは最新の設備を導入しており、セキュリティは厳しい。
 強行突破するなら人手が必要。内部に潜入するのが確実だが、それでは時間がかかりすぎる。どちらを選ぶにしても、苦労するのは目に見えていた。
 建物の設備を確認しながら、ああでもない、こうでもないと、様々なパターンの計画を練っていると、背後から声をかけられた。
 不思議に思って振り返ると、ひとりの女性がすぐ後ろに立っていた。ウェーブのかかったブロンドが女性の首を傾げる動きに合わせて揺れる。心配そうに『大丈夫ですか?』と言ったその顔には見覚えがあった。ターゲットの娘だ。
 彼女曰く、僕が随分と困った顔をしていたから心配になった、らしい。親の仕事に似合わず大事に育てられたようで、穏やかな表情に嘘は見受けられない。しかし、その瞳の端がわずかに蕩けたのは見逃さなかった。ちゃんと身なりを整えてきてよかった、と心の中で呟いて、すぐさま作戦を変更した。
 見上げてくる女性に、困っていることを隠さず笑いかける。自分の過去を捏造し、彼女の父親に会いたいのは仕事の用件だけではないのだと語り、自らの力不足を嘆く。その頃には、彼女の心はすっかり傾いたようだった。そして、彼女はこう言ったのだ。
『仕事に口出しはできないけど、きっかけはあげられるかも』
 と。それから、父親と出かける日時と行き先を教えてくれた。
 礼を言って握手をしたとき、彼女の頬がほんのりと赤く染まったことを気の毒に思ったが、背に腹は代えられない。使えるものは使わなくては。
 かくして僕は、ターゲットの居場所を入手した。だが、詳細は彼には伝えなかった。情報源が確かであるということだけが伝わればいいという判断のもとにそうした。
 でもきっと、これは言い訳だ。彼に知られたくないという僕のエゴを隠すための。そう思ってしまうことも胸の奥底にしまい込んで、ふたりで準備に取り掛かった。

 

 結果から言うと、作戦は成功した。
 彼女に話した設定から外れてしまわないよう、高級過ぎないスーツを身に着けて、偶然を装い、レストランを訪れた。同行した男は古い友人ということにして、僕の過去の証人になってもらう。
 厳しい裏社会の住人も、娘の知人となると無下にはできないらしく、同じテーブルに着くことを許された。そのおかげで、正攻法で攻めるよりよほど多くの話ができた。雑談の中にターゲットが興味を持ちそうな話題を織り交ぜていく。僕と男で知っていること、知らないことを分担し、できるだけ怪しまれないように。
 そうして、食事を終える頃にはターゲットの警戒心もだいぶ薄れて、和やかにレストランを出ることができた。
 帰り際、ターゲットが席を外している隙に娘に微笑みかけて、改めて礼を言った。彼女はうっとりと笑みを浮かべて「力になれてよかった」と囁いた。先日よりも丁寧に整えられた髪を申し訳ない気持ちで眺めながら、もう会うことはないだろう女性に笑顔で応える。
 男は何も言わず、静かにその光景を見ていた。

 

 無事に帰宅して真っ先にジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めて髪を乱す。冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を持ってソファに座り、体を投げ出すように背にもたれかかった。
「あとは依頼人に情報を渡すだけだ。うまく事が運んでよかったよ」
「ああ、そうだな」
「これで今後の仕事がやりやすくなる」
「お前のおかげだ」
 背後にいる男から返事はあるのに、どこか空々しく感じる。ソファの背に手をかけて振り返ってみても、男は背を向けていて表情が読み取れない。出かける前も、仕事の最中も、こんな違和感はなかったはずだ。どう切り出そうか迷っていると、男の方が先に口を開いた。
「ああいうこともできるんだな」
「え?」
「彼女、お前だから招待してくれたんだろう」
「ああ……うん、たぶんね」
 振り向いた男は、ぎこちなく笑う僕をまっすぐに見た。僕の頬に張り付いた笑みの奥を探るみたいに、彼の視線が突き刺さる。彼女の好意を利用する形になってしまったことは否定できず、彼が気の毒に思っても仕方がないと思った。僕だって、少しは悪いと思っているのだ。
 小さな罪悪感を打ち消すように、手にしているペットボトルをゆらゆらと揺らす。
「彼女には申し訳ないけど、必要なことだっただろ?」
「だとしても俺には無理だ。向いてない」
 どこか険のある言葉にムッとして、自分の声にも棘が混じる。
「別に、僕だって好き好んでやったんじゃない」
「本当に?」
「そうだよ。専門でもないし、楽しくもない」
「へえ、誰とでも寝るのにか?」
「……っ」
 言葉を重ねていくことで苛立ちが混じり、段々と語気が荒くなっていった結果、辿り着いてしまった言葉にふたり揃って硬直した。目を大きく開いて息を飲む。それなのに、お互いに目を離せないでいた。
「……悪い」
「いや……」
 そう言ったきり、自然と視線は落ちてしまった。痛いくらいの沈黙の中、そうっと顔を上げてみると、男は戸惑ったまま、自身の口元を隠すように手を当てていた。
 何か言わなければと思う。けれど、彼があの女性にそこまで肩入れする理由もわからず、何を言っても言い訳にしかならない気がして口をつぐんだ。
 男はゆっくりと瞬きをしてから視線を戻し、落ち着かない様子で息を吐く。そして、戸惑いをそのまま声にした。
「すまない、余計なことを言った。頭に血が上って……。話は明日にしよう」
「あ……」
 引き留める暇もなく、男はリビングから出て行ってしまった。
 呆然としたままソファに座り直し、ペットボトルの蓋を開けて口に水を流し込む。乾燥した口内のべたつきは消えたが、ちっとも気分はよくならなかった。しん、とさっきよりも静けさが際立つ部屋に耐えられずに、テレビをつける。見慣れないトーク番組が流れたが、観る気にはならなかった。ただ音が欲しかっただけだ。
 ペットボトルをソファに放り出し、上半身を横に倒していく。体重を支えている肩が痛い。硬い肘掛けでは頭を支えきれず、首が妙な角度に曲がった。
 どうしてこうなったのかわからない。僕がやらかしてしまったようにも思えるし、積もり積もったものが爆発しただけのような気もする。順調だと思っていたのに。僕の気持ちさえ表に出なければ、何もかもうまくいく気がしていたのに。彼は何が我慢ならなかったんだろうか。
 思い返せば、雇い主だった男とは、こんな風に揉めたことはなかった。意見が食い違うことはあっても、年を経た彼は、僕が噛み付いたくらいでは応戦したりはしなかった。だから、余計に今どうしたらいいのかわからない。
 徐々に雑音でしかなくなり始めたテレビを消す。体勢を仰向けに変えると、腰の辺りでペットボトルがひしゃげる音がした。その音に引きずられるように、目頭が熱くなる。ぎゅっと目を閉じて耐えてみても、鼻の奥の痛みが消えない。
 せっかく彼と同じ場所に立てるようになったのに、これじゃ何も変わらないじゃないか。
 そう考えてしまい、任務中のことが頭をよぎった。彼に信じて欲しくて、でも手出しできなくて、その結果、きっと僕は間違えた。あの日、逆行のさなかの船でしたことは、そのあとの僕らにぎこちなさを生み出しただけだった。
 ああ、でも、今の僕は怖がっているだけじゃないか? 友人でいるのが一番いいんだと理由をつけてみても、結局は、僕が彼に拒絶されたくないだけだ。
 ゆっくりと目蓋を持ち上げて、照明の眩しさに目を細める。
 今のままじゃだめだと、そう強く思った。せっかく彼と共に生きるチャンスを得たのに、何も言えなかった頃と同じことを繰り返していたんじゃ意味がない。
 それに、きっと大丈夫だと、そんな予感がした。すぐにはうまくいかなくても、いつかどうにかなる。ずっと年上の彼は、僕にとても甘かったから。だから、そう信じたい。
 のそりと身体を起こして立ち上がり、音を立てないように階段を上がる。男の部屋の前で深呼吸をして、静かにドアをノックした。
 開かないドアを前にして、もう寝てしまっただろうかと考える。そのとき、慎重にドアが開いて、男が顔を覗かせた。
「ごめん、もう休んでたかな」
「いや、少し考え事をしてただけだ」
「そうか。……その、話を、したいんだ。なるべく早い方がいいと思って」
 無理なら明日でいいんだけど、と付け加えている間に、ドアが大きく開かれた。男はまだ迷っていたが、僕の提案を受け入れることにしたようだ。
 緊張しながら部屋に足を踏み入れる。招き入れられた室内はきれいに片付いていて、どこか落ち着かない。ドアが閉まる音に緊張を煽られながら、僕は椅子に腰かけた。続いて彼がベッドに腰を下ろし、距離を開けて向かい合う形になる。
「あー……と、まず、彼女のことだけど、少し話しただけで、それ以上のことはないよ。本当だ。利用したのは申し訳ないと思うけど……」
「それについては、お前は悪くない。俺が余計なことを考えて、それで……とにかく、責めたかったんじゃないんだ。悪かった」
「余計なことって?」
「いや、それは……」
 男は珍しく歯切れの悪い返事をして視線を逸らした。カーテンで閉じられていて外は見えないというのに、その視線は窓に向けられていて、答えたくないと思っているのがありありとわかる。
「教えてくれ。君とぎこちないままなのは嫌なんだ」
 その言葉を聞いた男は眉間にしわを寄せて、大きくため息をついた。それでもまだ踏ん切りが付かないらしく、視線はカーテンに向けられたままだ。男が納得してくれるのを黙って待つ。
 すると、一分も経たないうちに、迷いを表していた瞳がこちらに戻ってきた。
 男はゆっくりと息を吸い込んで言葉にしていく。
「最近、お前が何か隠してるんじゃないかと思ってたんだ。そんなときに彼女のことがあったから、そういうことかと……」
「そういう……?」
「だから、その……、お前とは、船でのことがあっただろう? だから、隠れて同じようなことをしてるんだと勘繰ってた。それが、お前から感じる違和感の原因だと思って」
「え……? それだけ?」
「そうだ。俺が口を出す問題じゃないのに、お前に当たった」
 真剣に後悔しているらしい男は、僕の間抜けな声については言及しなかった。
 結局のところ、彼が何に不満を抱いていたのかわからず、ぐるぐると思考が止まらなくなる。ひとつ、確実にわかっているのは、彼が誤解しているらしいということだった。
 そこに思い至り、さっと血の気が引いていく。言いたいことがまとまらないまま焦って口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、誤解してるよ。僕はどうでもいい奴と寝たりしない」
「え?」
「ハニートラップだって基本的にはしないし、セックスフレンドが欲しいんでもない」
「じゃあ、船でのあれはなんだったんだ」
「それは君が……!」
 そこまで言ってしまってから、慌てて言葉を飲み込んだ。
 男は言葉の続きを待ちながら、怪訝な顔で僕を見ている。その視線を受け止めて、失せていたはずの血の気が戻ってきて、一気に顔を通り過ぎ、頭のてっぺんまで上り詰めた。体温が上がるのに、冷や汗が出る。はく、と唇だけを動かした僕を見て、男の眉間に益々しわが寄っていく。
 なんとかなると納得したばかりじゃないか。そう自分を叱咤して拳を握り締めた。心臓が今にも飛び出しそうだったが、精一杯踏ん張って口を開く。
「っ、きみの、ことが、好きだから……ああしたんだ」
 もうどうにでもなれ、と、半ばやけくそになりながら発した言葉は震えていたが、彼にも一応届いたらしい。
 男は目をまんまるにして硬直していた。彼も緊張しているのか、自分の手を握り締め、困惑したまま口を開く。
「それは、その、どういう……」
「……恋愛、的な意味で」
「それは、あー……セックスも込みで?」
「……込みで」
「……そうか」
 沈黙を挟みながらぽつぽつと続いた会話はそこで止まった。男がじっと僕のことを見ているせいで、目を逸らすことができない。
「嫌だった、よな……?」
「嫌ではない」
 段々と悪い方に思考が転がっていきそうで訊ねてみると、意外なことに返事はすぐに返ってきた。はっきりと言い切った男は頭を掻き、「いや、そうじゃないな」と呟く。そして、こう続けた。
「ニール、お前は友人で相棒だ。大事な相手だということには変わりない。だが、大事だと思う分、俺がお前に対して抱いているものが、愛とか恋とか、そういうものだと言っていいのかわからなくなるんだ。ただ――」
「……ただ?」
 期待と不安を同時に抱えながら繰り返すと、男は少し時間をかけて迷い、どこか苦しさが混じる声で言葉を紡いだ。
「お前が、他の誰かに触れるのは嫌だ。それが男でも、女でも」
 そこまで聞いて、思わず呼吸が止まりそうになってしまった。この人は自分が何を言っているのか理解しているんだろうか。こちらが驚くくらい熱烈な言葉に聞こえるのは、気のせいじゃないと思いたい。
 暴れ回る心臓を抱えながら立ち上がる。僕が一歩ずつゆっくりと近付いていくのを、男は黙って見ていた。男の目の前に立つ。見上げてくる男の頬に手を伸ばし、かがんでそっと顔を近付けていく。その間も男は動かない。そして、音もなく唇が重なった。
 一瞬だけ触れて、すぐに離れる。唇に男の吐息がかかり、ほう、と息を吐き出した。
「これは? 嫌……?」
「……嫌じゃない」
 その答えに嬉しくなって、もう一度顔を近付ける。今度は男の手がうなじに触れて、引き寄せられた。目を閉じて、最初のセックスでは触れることのなかった唇の柔らかさを堪能する。何度も唇を重ね合わせ、リップ音が混ざり始めたところで男の肩を押してベッドに押し倒そうとした。だが、男は僕の肩を押し返し、腹筋で踏み止まる。
「ごめん、急ぎすぎた」
「そうじゃない。が、用意がない」
「ようい……」
 やりすぎたのかと不安になったが、どうやらそうではないらしい。彼が何を言いたいのか理解した僕は、肩に触れていた男の手を取って立ち上がらせた。
「ニール?」
「移動しよう」
 手を握ったまま、引っ張るように歩いて部屋を出る。男は訳がわからないといった顔をしていたが、掴んだ手が振り払われることはなかった。
 斜め向かいにある僕の部屋に入る。彼の部屋と違って、資料や機材が机にも床にも置いてあるままだ。それらを無視して部屋の中心まで進み、ベッドの近くで手を放した。枕元に腰かけて、サイドテーブルの引き出しからローションのボトルとスキンを取り出し、ベッドサイドランプの隣に置いて男に向き直る。
「これならどう?」
 緊張を孕んだ僕の声を聞き、男はわざとらしく苦笑した。
「拒否する理由がないな」
 そう言って近付いてきた男は、今度は自分から口付けた。啄むようなキスを繰り返しているうちにゆっくりと押し倒される。じりじりとベッドの中心まで乗り上げて男の首に腕を回すと、たくましい肉体が覆い被さってきた。彼自身の体重を支えているのとは逆の手が、器用に服の上を這い回る。
 はぁ、とキスの合間に吐息がこぼれて空気を湿らせていく。口内に滑り込んだ舌が歯列をなぞり、僕の舌を絡め取った。優しく吸われて、ぞくりと快感が背筋を走る。僕も負けじと彼の舌を甘噛みして、溢れそうになる唾液を飲み込む。
 そうやってキスに夢中になっている間に、男はふたりのシャツのボタンをすべて外していた。
 唇が離れていく。男が自らのシャツを脱いでいるのを見て、ぼんやりする頭で自分もシャツを脱ぎ捨てた。続けてトラウザーズも脱いで床に放り、ふたりとも下着姿になる。その布の下で、彼のものが形を変えているのが見えた。
 手を伸ばして、下着を押し上げている彼のペニスを撫でる。その熱さに嬉しくなってうっそりと笑うと、噛み付くようにキスをされた。強く吸い上げて離れたかと思うと、首から鎖骨へと順番に唇が降りてくる。ひとつひとつ丁寧にキスを落としていく唇が胸元に辿り着き、小さな突起を口に含んだ。舌先でくすぐられて、つい笑ってしまう。
「それ、っ、くすぐったい」
 わずかに顔を上げた男にそう訴えると、男は肩を竦めて更に下へと向かっていった。腹筋をなぞり、へそを通り過ぎて、腰にキスをしながら下着を引っ張る。促されるままに腰を上げて、男が下着を脱がせるのを手伝った。
 既に反応しているペニスが男の眼前に晒されて、嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない気分になる。しかし、彼がためらうことなく僕のものを口に含んだことで、そんな感情はすぐに消し飛んだ。
「ぅ、わ、そんなのっ、しなくていい……ッ」
「自分だってしただろう」
「そう、だけど……っぁ、は……」
 止めようとして伸ばした手は男によって遮られ、そのままシーツに縫い留められた。
 確かに、以前寝たときは僕が彼のものを咥えたけれど、自分がされるとなると話は別だ。手を固定されているせいで見ていることしかできず、快感と罪悪感で頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。それなのに目が離せない。
 彼の厚みのある唇の中に自分のペニスが消えていく様は、いささか刺激が強すぎた。
 熱く湿った粘膜が先端を覆い、舌先が敏感な皮膚をなぞっていく。じゅる、と音を立てて吸われ、びくびくと腰が跳ねた。男は自分の体重でそれを抑え込み、性器のくびれに舌を這わせる。
「あっ、も、だめだ……はぁ、出るから、くち、離してくれ……っ」
 僕の必死な声を聞いた男は口を離し、すぐに手で扱き始めた。先走りを塗り込むように全体を擦られて、男の手の中であっけなく果てる。僕が吐き出したものが、褐色の手を白く汚しているのを見て、くらくらとめまいがした。
 呼吸を整えながらその光景を見上げていると、男がおもむろに汚れた指を口に含んだ。白い液体が彼の口の中に消えていく。
「何して……!」
「これもお前がやったことだろう」
「した、けど……っ」
 声をあげる僕を見て、男は意地悪く笑う。これはどう見ても楽しんでいる。反論しても無駄だと悟って口をつぐんだ。
 唇を噛み締めて睨みつけると、男は不意に柔らかく表情を崩した。それに反応できないでいる間に、わずかに濡れた唇の感触が頬に触れて、リップ音と共に離れていった。
 男は手を伸ばしてベッドサイドにあるローションとスキンを取った。半端に中身が減っているボトルを見て顔をしかめる。しかし、すぐに表情を戻し、蓋を開けてローションを手のひらに取り出そうとした。僕はそれを制しようと、ボトルを持っている男の手に触れた。
「いいよ、自分で準備するから貸してくれ」
「いや、それよりもこっちを使うのは慣れてないから、何がいいのか教えてほしい」
 差し出した手をやんわりと断られ、ローションをまとった指が後孔を撫でた。ひく、とそこに力が入る。ひとつひとつの皺を探るように指先が往復するのを肌で感じて、今にも縋り付きたくなってしまう。
 彼が僕の中に入りたがっている。それだけでも十分興奮するし、僕は満足なのだが、彼の要求には答えられそうにない。彼の気遣いを感じるほどに困ってしまい、自分の眉が下がっていくのがわかった。
 膝や太ももに唇を落としている男の手を止めさせて、渋々口を開く。
「教えるのはちょっと……無理かも」
「なぜだ?」
「僕も男同士のコツはよくわからないんだ」
「え?」
「ごめん、ちゃんと試しておけばよかっ……」
「いや、ちょっと待て」
「なに?」
「慣れてるんじゃないのか?」
「え?」
「だから、抱かれるのは慣れてるんじゃないのか」
「え、いや、全然……。君だけだ」
 そう答えると、男はぽかんと口を開けて、僕の顔をまじまじと観察し始めた。彼の動揺している様子に僕も困惑して、笑みを作ろうにも作れず、口の端が引きつる。
 男の顔色がみるみるうちに悪くなっていき、ひねり出した声は、さっきよりもいくらか小さかった。
「じゃあ、船でのあれが」
「初めてだった」
「……、これが減ってるのは?」
「それは……その、自分で」
 ボトルの中身のことを指摘されて、さすがに恥ずかしくなり、ぼそぼそと答える。ひとり遊びの内容など、聞いて萎えないだろうかと不安になり始めたところで、男は俯き、頭を抱えた。明らかな異変に、慌てて上体を起こして向かい合う。
「どうかしたのか?」
 そう訊ねる僕の顔を見上げて、男はゆっくりと言葉を吐き出す。
「……悪い、ひどい抱き方をした」
 男はぽつりと、そう呟いた。険しい表情の端々に後悔が滲んでいる。
「あれは、僕がそうして欲しかったんだ」
「だとしても、配慮がなかった。慣れてるものだとてっきり……」
「君が気にすることじゃないよ」
「いや、気にするだろう」
 僕の物言いに困惑して視線を落とし、男は小さくため息をついた。それから再び顔を上げて、僕の顔を覗き込んだかと思うと、温かい手のひらで頬を包み込んで「もうあんな風にはしない」と宣言した。その瞳の真剣さに頬が緩む。
 彼が、なぜ僕がハニートラップを好むと思っていたのか、その理由がようやくわかった。頬に添えられた手に自分の手を重ねて、そっと顔を近付けていく。
「嫉妬してくれたの?」
「かもな」
 唇を合わせるだけで、落ち着きかけていた熱があっという間に戻ってくる。
 彼の首に両腕を回し、後ろに体重をかけてゆっくりとベッドに倒れ込んだ。僕を潰してしまわないように注意しながら、男の手が再び臀部に触れる。探るように入り口を引っかき、濡れた指が侵入してきた。
「あ、ぁ……、んん」
 自分でも触っているせいか、一本目はすんなりと侵入を果たした。内部で指がそろそろと動く。入り口を広げるように慎重に指を回されて、足先にわずかに力が入る。
「痛みは?」
「ない、っ、平気だから、続けてくれ」
 男は頷くと、僕の腕を解いて起き上がり、慎重に指を引き抜いた。ローションを足して、今度は二本挿入する。さすがに異物感を感じてシーツを握り締めると、男は指の動きを止めた。その代わりに脚や腹部を撫でられて、じんわりと快感が高まっていく。
「大丈夫だから、続けて……ッア、」
 少しずつ身体の力が抜けていくのに合わせて指の動きが大胆になっていき、挿入されている場所から、ぐぷ、と音が聞こえた。自分の指とは違う感覚に、自然とペニスは硬くなり始めている。脚を支える男の手の熱さにひくりと肩が震えた。そのとき、大袈裟なくらいに足先が跳ねた。
「ひっ、んぅ、ぅ、あッ」
「痛むか?」
「いた、くはない、っけど……っ、ぁ」
 彼が腹側を押す度に上ずった声があがり、勝手に指を締め付けてしまう。僕も彼も、そこがなんなのかはすぐに理解した。だが、理解することと、感じることはまったくの別物で、身体が跳ねてしまうのを止められない。
 場所を覚えた男にその膨らみを押され続け、気付いたときには僕のものは完全に勃ち上がり、先端から透明な雫を流していた。
「あっあ、ん、ッそこ、もう、っ」
「でも、よさそうだ」
「いい、けどッ……ぁ、あ、っイけな……!」
 涙目でそう訴えると、男の手が伸びてきて僕のペニスを優しく撫でた。動きに合わせて腰を揺らしながら、奥歯を噛み締めて男の手を掴む。
「いやだっ、きみと、一緒がいい……っ」
「なら、もう少し我慢してくれ」
 僕の手を自分の元に引き寄せて、ちゅ、と音を立てて指にキスをした男は、膝裏を持ち上げ、大きく足を開かせて、更に指を増やした。体内で指がバラバラに動き回り、閉じようとする入り口を広げていく。
 気持ちよくて、訳がわからなくなりそうなのを目を閉じて耐えていたが、しばらくして指が引き抜かれた。男の手がスキンの箱を掴み、彼自身が薄いゴムの膜に覆われていく。そして、たっぷりとローションをかけられた彼のペニスが後ろに押し付けられた。
 はっ、と息を吐いた男の身体に力が入ったかと思うと、どろどろに溶かされた粘膜に異物が押し入ってくる。彼が時間をかけて慣らしたおかげで痛みはなく、自分で触っていたときには感じられなかった快楽が、確かにそこにあった。
「アッ、ぁ、――……! はっ、ぁ、ぅん、ん、っ」
「はぁ、っニール、平気か?」
 慣れない快楽と圧迫感に悶えながら、こくこくと頷いた。自分の中に彼が収まっているんだと思うだけで、腹の奥から快感が沸き上がり、ひっきりなしに声が出てしまう。手の甲で口元を押さえて耐えていると、男が気遣わし気に太ももを撫でた。
「上の方が楽か?」
「わ、わかん、ない、っ」
「試してみよう。ほら、掴まれ」
 導かれるままに彼の背中に手を伸ばす。しっかりと掴まったことを確認した男の腕が僕の背中に回って、ゆっくりと抱きかかえられた。挿入しすぎてしまわないように注意しながら体勢を変えていき、仰向けになった男の上に跨る。
 彼が提案したとおり、自分でコントロールできることで、少し楽に感覚を拾えるようになった。男は僕が崩れてしまわないように腰を支えてくれている。それに甘えて、快楽を追いかけ、彼の腹筋に手をついて腰を前後させる。
「ん、ぁ……はぁ、気持ちいい……っ」
「ッ、ああ」
 男は強引に動こうとはせず、僕が刺激を受け止められるようにゆったりと腰を動かした。体内に収まった彼のものが時折奥に触れて、強い快感が背筋を這い上がる。その度にびくりと身体が揺れるのを、男は射るような視線で見つめてくる。それによって、また肌が粟立つ。その繰り返し。
 彼と触れ合っているという事実に高揚して、胸筋で盛り上がった男の胸に手を伸ばし、突起を指先で弄ってみた。すると、男がおかしそうに笑う。
「ニール、くすぐったい」
「ほら、っん、さっき、僕が言っただろ」
「ああ、悪かった」
 まったく心が籠っていない言葉に唇を尖らせて、男と笑い合う。上体を倒していくと、自然と唇が重なった。ぴったりと肌を触れ合わせて唇を食む。汗で湿ったお互いの肌が、どれだけ昂っているかを表している。絡まる舌からも感じる快楽にそっと息を吐くと、一際強く奥を突かれて高い声が漏れた。続けて最奥を穿たれて、目の前にある男の肩にしがみつく。
「はっ、あ、どうしよう、きもちいい、ッ」
「っ、奥も?」
「おく、おくもっ、ぁ、いい……っ」
「はぁ、ッ、よかった……っ」
 耳元で男の掠れた声がして、ぞくぞくと背中が震えた。今までに体験したどんなセックスよりも強い快感に脳の奥が沸騰していく。はしたない声が出てしまうのも、直接的な言葉を口にするのも、段々と抵抗がなくなってきて、男の肩口に額を擦り付けて喘いだ。
 男の乱れた呼吸が耳にかかり、下半身からはぐちゅぐちゅと潤滑剤がかき混ぜられる音がする。ふたりの間で押し潰されたペニスが、腹部を濡らしているのがわかる。
 すべての感覚が腹の中で渦巻いて逃げられず、男の腕に爪を立てた。僕の指に力が入るのと同時に、男の口からは押し殺したような声がこぼれる。
「悪い、イきたい……ッ」
 その切羽詰まった声に嬉しくなって、僕は男の唇に噛みついた。
「ぼくで、イって」
 鼻先が触れ合ったまま、そう囁く。
 言い終わった途端に男の唸るような声が耳に届き、さっきよりも強引に押し倒された。体重を受け止めたマットがわずかに弾む。脱力してシーツに全身を預けたところで、男が僕の両脚を抱え上げた。すべてを晒した僕を見下ろし、男が腰をグラインドさせる。そして、強く腰を打ち付けた。
 肌がぶつかる音が繰り返し部屋に響き、男の背中で揺れる自分の脚を見ていることしかできなくなる。彼の額を伝い、ぽたりと腹に落ちた汗まで愛おしい。
 擦られ続けている粘膜は収縮を繰り返し、抱えきれないほどの快楽を拾い上げている。それなのに、最後の一歩を上ることができず、自分自身に手を伸ばした。男の律動に合わせて揺れているペニスを握り締めて擦り上げる。
「あっあぅ、も、だめっ、いく、いきたい……っ」
「ああ、おれも、ッ」
「っぁ……! ん、ん……ッ」
「ッ、く……」
 既に限界まで這い上がってきていた快感は、少しの刺激であっという間に弾けた。ろくに声も出せずに、びくびくと震えながら射精する。
 痙攣する僕の臀部に強く腰を押し付けながら、彼も達したようだった。奥に擦り付けるように腰を揺する姿を見て、胸が締め付けられる。精液で汚れた手を伸ばすと、男はそんなものは気にもせず、僕を抱き寄せた。額を合わせて微笑み合う。
 身体をきれいにするのは後回しにして、何度もキスをしながら眠りについた。

 

 目を覚ますと、視界いっぱいに褐色の肌があった。瞬きを繰り返し、ぼやけた視界をクリアにしていく。ようやく周囲を認識できるようになったところで男と目が合った。日光がカーテンの隙間から射し込む薄暗い部屋の中で、黒い瞳は僕だけを映している。
「すごい……。こんな光景は初めてだ」
 ぽつりとそうこぼすと、男は堪えきれないといった風に笑い出した。くつくつと声を殺して笑う様子を黙って見ている僕に向けて、そっと顔をほころばせる。その柔らかさに、とくりと心臓が動いた。
 気怠さの残る声で男に囁く。
「何か面白いことでもあった?」
「いや……この状況がしっくりきたことに驚いたんだ」
「つまり?」
「もっと前から、こうしたかったのかもな」
 自嘲気味に、男はそう答えた。
 だるい身体を引きずって、男の胸板に乗り上げる。すると、男は易々と僕の上半身を受け止めて、昨夜、僕を散々乱れさせた指で寝癖を絡み取った。
 余裕の表情の男を見下ろし、僕はにやりと笑ってみせる。
「僕の方が、更にもっと前からこうしたかったよ」
 男は一瞬驚いた表情をして、それから僕をベッドに転がした。スプリングが軋む音がする。横になって向かい合い、何をするでもなくじっと見つめていると、男は静かに瞬きをした。
「これから挽回するさ」
 そう言った男は笑ってはいなかった。底光りする瞳に見据えられ、じわりと頬が熱を帯びる。
 やるべきことは山ほどある。依頼人に連絡しなければならないし、次の仕事のことも考えなければならない。逆行するための準備も進めなければ。でも、一時間でも、十分だけでもいい。今だけはこうしていたい。
 そう願って彼の首元に擦り寄ると、シーツごと抱きしめられた。彼も同じように思ってくれているんだろうか。そうだと嬉しい。
 受け入れてもらえる心地よさに酔いしれて、気付かれないよう、小さく微笑む。そして、この貴重な時間を堪能しようと、もう一度静かに目を閉じた。

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