From the Shimmering World *

 

ハロー・ワールド

 

 荒れ果てた大地で向き合ったまま、ふたりとも何も言えずにいた。しかし、そのまま立ち尽くしているわけにもいかず、ゆっくりと動き出す。ひとまず、ここを離れなければ。
 そう考えて、少し前に僕が運転していた車から、男とアイヴスを引き上げるために使ったロープを解き、運転席に乗り込んだ。
 助手席に座った男は、アルゴリズムを慎重に抱えたまま、自身の装備品の中から小さな端末を取り出した。ベトナムでの作戦を終えたキャットに万が一がないか、確認しているんだろう。そう思って待っていたのだが、真っ黒い機械の画面を見ている男の表情が次第に歪んでいくのがわかり、僕は息をひそめた。彼女に何かあったのだろうかと考えてしまい、落ち着いたはずの胸がざわめき始める。ハンドルを握ったまま男の様子を窺っていると、男は何も言わずに端末を耳に当てた。数秒の間のあと、男の顔が益々険しくなる。
「彼女に何か?」
「いや……」
 そう答えながらも思案していた男は、一瞬だけ躊躇って端末を差し出した。男の意図がわからないまま、それを受け取る。
 シンプルな画面は、この端末に録音されている音声を表示している。一件、作戦が始まった頃にメッセージが録音されていた。確かに、キャットからだとするならこの時刻はおかしい。彼に続いて僕の眉間にも皺が刻まれたが、内容を確認してみないことには、怪しいとは断言できないだろうと思い直し、端末を耳に当てた。
 端末が再生したのは、やけにくぐもった声だった。女性のものではない。口元が何かに覆われているのか、音声が聞き取りにくい。それに加えて、風の音や雑音が入り込み、不明瞭さに拍車をかけていた。だが、言葉自体はなんとか聞き取れる。
 端末から聞こえてくる言葉に集中して耳を傾けたが、メッセージの内容を理解しきれず、再生が終わるのと同時に、かろうじて理解できたことを呟いていた。
「数字……?」
「そう聞こえるか?」
「ああ、多分ね。でも、雑音も多くて何が何だか」
「同じく」
 これが〝記録〟である可能性が高いせいで無下にもできず、ふたりで繰り返しメッセージを再生する。何度か同じ音声を聞き返したあとで、男が小さくため息をついた。
「〝記録〟っていうのは、こんなにわかりにくいものなのか?」
 その言葉を聞き、はたと、これは〝記録〟なのだと、ようやく正しく理解した。勢いよく男の顔を見ると、驚いた男の目が開かれる。
「そうだ、場所だよ。これは〝記録〟なんだから」
「……ああ、座標か」
 そう呟いて、男がもう一度音声を再生する。そして、数字の羅列を聞き取った男が顔を上げた。
「どういうことだ。近いぞ」
「方角は?」
「おそらく、ここから南東だ」
「行ってみるしかないだろうな」
 何が出るかわからないけど、と続けると、男は小さく笑った。僕もつられて声にはせず笑う。
 ついさっきまで世界の終わりだの、人類滅亡だの、およそ正気とは思えないような現象と対峙していたのだ。今更、誰かの死体や、敵が出てくるくらいのことは、なんてことない気がした。
 ハンドルを握り直してアクセルを踏み込む。ガタガタと音を立てながら車は動き出し、僕らはただ揺れに身を任せた。

 

 目標地点と思わしき座標は、戦闘エリアから少し離れた場所を示していた。
 辿り着いた荒野の中に、いくつかの廃墟が並んでいる。その中でも、一層古びて崩れかけている民家があった。その民家は廃墟群の端に建っており、隣家とはわずかに距離がある。
 奇襲をかけるなら並んでいる建物だろうが、あんなメッセージで指定するのは、この民家の方だろう。そう予想して、男は銃を構えて民家に向かい、僕はアルゴリズムと共に車に残った。僕が行くと言ったのだが、男に拒否され、アルゴリズムを押し付けられた結果だ。
 男が壁伝いに家の裏側へ消えていく。僕も車の中で銃を握りしめて、いつでも援護できるように身構えていた。
 数分後、さっきとは逆側から男が姿を現す。こちらに目線をよこした男とコンタクトを取り、お互いに何も起きなかったことを確認し、異常なしという見解で一致した。念のため警戒は解かないまま、続けて玄関の中に歩を進める男を見送る。
 家の中に入ってから十分ほど経過した頃、男は家から出てきた。こちらにまっすぐ向かってくる男の手に銃はない。安全だったということだろうと判断し、自分の銃もしまう。助手席のドアを開けた男はアルゴリズムを手に取り、困惑した顔でこう言った。
「お前も来てくれ」
 今、自分たちが襲われていないということは、正しい〝記録〟だったんだと思うのだが、彼は何をそんなに戸惑っているんだろうか。
 不思議に思いはしたが、表情を変えない男に頷き、車を降りた。
 男に続いて家の中に入る。それなりに広い室内には、窓の残骸から光が射し込んでいた。視界に入るのは、ひびの入った壁、そこら中につもった埃や砂ばかりで、人の気配は感じられない。
 男は、リビングやキッチンには見向きもせず、迷うことなくひとつの部屋の中に入った。おそらく寝室だった部屋だろう。元は立派だったであろう大きな窓に、崩れた収納。それと、長い間、家具を置いていた痕跡が微かに見て取れた。
 そんな部屋の真ん中に、ぽつんとボストンバッグが置かれている。シンプルな、どこにでもあるような黒い鞄。だからこそ、この崩れかけた空間では異質な物体でしかなかった。
「これは、最初からここに?」
「ああ。問題は中身だ」
 その言葉によって一気に緊張が走り、何か危険物だったのだろうかと想像を巡らせる。銃火器や、爆発物。最悪の事態を想定して、中身を確認するのを一瞬だけ躊躇った。だが、僕とは違い、男は少しも迷うことなく、鞄に手を伸ばした。
 男の手によって明かされた鞄の中身は、想像していたような要素は一切なかった。開かれた鞄の口から覗く白い布。それを掴むために、かがんで手を伸ばす。
 眼前に引きずり出されたのは、真新しいシャツだ。スーツに合わせるような高級なものではなく、これ一枚でも問題ない、ラフなシャツ。意味がわからず鞄の中を漁ると、シャツに合わせるためのトラウザーズと、靴も用意されていた。サイズと色味は違うが、同じセットがもう一組入っている。そして、紙切れが一枚と、その裏に張り付けられた鍵。
 奇妙な状況に首を捻る。隣に佇む男も困惑した様子で、服におかしなところがないか確認している。そして、僕に問いかけた。
「どういうことだと思う?」
「まあ……〝記録〟ってことは誰かが誘導してるんだろうし、これに着替えろってことじゃないか? 戦闘服じゃ市街地に入れないのは事実だし」
「だろうな」
 男はある種の諦めと共に、持ち上げていた服を下ろした。なんの変哲もない服だということが、はっきりしただけだったらしい。
 僕は少し大きい方の服を、彼は少し小さい方の服を手に取り、その場で着替えた。どちらも違和感なく着られたことが奇妙に思える。
「……気持ち悪いな」
 自身にぴったりと合った丈を確認しながら男が呟く。僕はどう言ったらいいのか迷った結果、何も言わず、ただ頷いた。
 身なりを整えた僕らは、盗聴器や発信機が仕込まれていないか、鞄を入念にチェックした。ファスナーの少し下の部分がほつれて裏地が見えていたが、意図した加工ではないようなので、問題なしと判断した。そして、鞄の中に脱いだ服とアルゴリズムをしまい込んでいく。
 マスクや呼吸器がかさばったせいで、すべては入らず、一着はその場に置いていくことにした。これで荷物が少し多い一般人だ。
 出発の準備を終えて、服と一緒に用意されていた紙切れを確認する。地図だった。おそらく現在地から最も近い市街地の地図。そこに描かれた街並みの一か所にチェックがついていた。周辺に主だった施設は見当たらない。ただの住宅街に見えるが、何があるというのだろうか。
「行くしかないんだろうな」
「だろうね」
 並んで地図を覗き込んでいた男がそう言って鞄を担ぐ。その表情はどこか吹っ切れているように見えた。その様子を見ていると、つい笑いがこみ上げてくる。
 僕らは死ぬはずの人間だったのだ。行くべきところなどない。ならば、行き着くところに行くしかないだろう。
「行こう。もたもたしてたら日が落ちる」
 そう言って、さっきよりもいくらか軽い足取りで車に戻った。

 

 街なかに入る前に車を乗り捨て、荷物を抱えて地図のマークを目印にひたすら歩く。目的地に到着したのは、すっかり暗くなってからだった。
 地図が指定している場所を見上げる。見た目は隣接している民家とそう変わりない、こぢんまりとした一軒家だ。
「本当にここか?」
「試してみればわかるさ」
 地図に張り付けられていた鍵を見せると、男はひとつ頷いた。静かにドアに近づき、彼も僕も、いつでも銃を取り出せるように身構えたことを確認して、手にしている鍵をゆっくりと鍵穴に差し込む。慎重に回していくと、カチャ、と錠が動く音がした。鍵を抜き、ドアノブを掴んで扉を開く。
 玄関から見える廊下も部屋も、どこも真っ暗だった。ドアの周辺に罠の痕跡がないことを確かめてから中に入る。明かりがあればよかったのだが、あいにくと手持ちの道具に使えそうなものがない。手探りで照明のスイッチを探して明かりをつける。そこには簡素な家具が置いてあるだけだった。人の気配はない。それどころか、しばらく人が出入りした様子もなく、棚にはうっすらと埃がつもっている。
 男と頷き合い、別々に家の中を調べ尽くした。すべての部屋を見て回り、リビングで合流する。わかったのは『人が暮らした気配のない、用意された家』ということだった。
 リビング、キッチン、バスルームに、ベッドルームがふたつ。普通に暮らすだけなら困らない設備が揃っていた。
 リビングにはテレビやソファ、そして、ジャンルも年代も不揃いの本が並べられた本棚があった。キッチンには食器や調理道具、冷蔵庫に電子レンジ、保存食の類がいくつか。バスルームにはトイレットペーパーやタオル、洗濯機が。ふたつのベッドルームには、それぞれのベッド、クローゼットの中には三着ずつ服が入っていた。服はすべて男物で、ボストンバッグの中身と同じように、僕と彼、それぞれが着られるサイズのものだ。
 きちんと整えられた、家主不在の家のリビングで立ち尽くしたまま、無言で男と顔を見合わせる。
「セーフハウスのようだが、ここに見覚えは?」
「いや、組織のものなのかもしれないけど、僕は知らない」
「そうか。……とりあえず、俺は腹が減ったよ」
「同感だ」
 ふたり同時に小さく噴き出して、神妙な顔をするのはやめにした。
 男が、アルゴリズムが入っている鞄を寝室のクローゼットに隠しに行っている間に、キッチンの棚から適当な缶詰を見繕って、テーブルに置いていく。食器棚から皿を取り出して缶詰の中身をぶちまけ、電子レンジに放り込む。しばらく待っていると、しっかりと温まった肉ができあがった。それをテーブルに並べていき、戻ってきた男と向かい合って座り、食事にありついた。
 口に放り込んだ肉の欠片を噛むと、トマトソースの味が広がる。生きている。改めてそう感じるのは、なんだか妙な気分だった。
 黙々と食事を続け、最後のひとかけを口に含んだところで、目の前の男の視線に気が付いた。口を動かしながら、こちらの様子を窺っている。
「どうかした?」
「身体の調子は?」
「疲れてはいるけど、普通かな」
「ならいいが、明日は病院に行って検査してもらえ」
「ちょっと大袈裟じゃないか?」
「いいから。頭は何があるかわからないんだぞ」
 ほとんど睨むように見据えられ、仕方なく肩を竦めてみせた。男はそれ以上何も言わず、食事を続けている。
 彼には『気が付いたら気絶していた』としか説明していない。バックパックを持っていないことから、何があったのかは予想しているだろうが、倒れる前に誰かを見た、とは言えなかった。ほんの少しでも、あり得ないとわかっていても、未来が変わる可能性を潰したくはなかった。
 簡素な夕食を平らげて、長かった一日がようやく終わった。食器を片付けて「おやすみ」と挨拶を交わし、自分に割り当てられたベッドルームに向かう。
 明日のことを考えるより先に、引きずり込まれるように眠りについた。

 * * *

「朝だぞ」
 その言葉と共に、残酷にもカーテンが勢いよく開けられ、室内に射し込んだ光に目を焼かれた。
「……元気だな」
「やることが山ほどあるからな」
 枕に縋り付いて眼球を守ろうとする僕の上に、呆れたような声が降ってくる。抵抗を試みようと姿勢を変えずに粘ってみたが、人の気配はなくならない。唸るような声を枕に押し付けて、なんとか持ち上げた手をひらひらと振った。
「準備する……すぐ降りるよ」
「二度寝するなよ」
 からかいの言葉にもう一度手を振って応えると、気配が遠ざかり、ドアが閉まる音が聞こえた。
 もぞもぞと寝返りを打ち、少しずつ明るさに目を慣らしていく。あくびをしながら起き上がり、この家の持ち主が用意した着替えを持ってバスルームに向かった。
 熱い湯を頭から浴びていると、いくらか目が冴えてくる。全身を洗い終え、新品の服に着替えて階下に向かい、男が淹れてくれたコーヒーを飲んで家を出た。

 

 男と共にタクシーで病院に向かい、何やら受付で検査をねじ込んでいる後ろ姿を眺める。
 一旦、別れを告げて男の背中を見送り、おとなしく検査を受けた。僕が病院にいる間に、彼がふたり分の新しいスマートフォンとラップトップを手に入れる手筈になっている。
 何をしたのか知らないが、たっぷり数種類の検査を受けることになり、その間に用事を済ませた男が戻ってきた。しばらく待って呼び出された先で、医師から「異常なし」と言い渡された瞬間、男が小さく安堵の息を吐いた。ちらりと横目で窺うと、微かに笑みを浮かべている。心配してくれていたのかと思うと、自分でも驚くくらい嬉しかった。
 診察を終えると、もう用はないとばかりに病院を後にし、帰りのタクシーの中で新しいスマートフォンを手渡された。すでに初期設定が済んでいる端末のデータを確認すると、一件だけ連絡先が登録されていた。名前がないその番号が、彼の電話番号だということはすぐにわかった。
 真新しい機械に、彼の番号がひとつ。きっと、彼の端末には僕のものがひとつ。たったそれだけのことで、顔がにやけてしまうのを止められない。
 僕が画面に浮かぶ数字の羅列を見ながら笑みを浮かべていることに気付いた男は、あからさまに怪訝そうな顔をした。
「大丈夫か?」
「まったく、なにも、問題ないね」
 一言ずつしっかりと答えると、彼は笑って会話を切り上げ、視線を外に向ける。僕はまだ上がってしまう口角をコントロールできず、画面に並ぶ数字を指先でなぞった。

 * * *

 あれから、もう十日が経とうとしている。
 僕が病院に行った次の日、彼はこの家を出た。といっても、別に袂を分かつことにしたんじゃない。アルゴリズムを安全に、誰にも知られずに隠すために、彼はひとりでこの国を出たのだ。行き先は僕も知らない。
 あの日、病院から戻ってきた夜に、彼はしばらくこの家を離れることを宣言した。そのときに、彼が僕に示した条件がひとつある。
 〝この家から出ないこと〟
 それを言われた瞬間、思わず目を見開いてしまった。わかりやすく驚いている僕を見ても、男は真剣な表情を変えない。決して冗談で言ってるんじゃないとわかり、益々困惑してしまった。
『でも、食事をしないと生きていけない』
 そう言って、いくら保存食があるといえど、いつ補充できるかわからない状態で待ってはいられないと、そう伝えたが、男は僕に『もう用意してある』と答えた。そして、その宣言どおり、冷蔵庫の中にはぎっしりと生鮮食品や、冷凍食品が詰め込まれていた。減ったはずの缶詰も補充され、その数はむしろ最初より増えており、用意周到さに舌を巻く。
 男の本気度が理解できると同時に、僕に残された選択肢は頷くことだけだと知った。
 そうして引き籠ってもう十日だ。彼との連絡は日に一度、夜に電話がかかってくる。会話の内容は簡単な安否確認だが、必ずこちらが夜の時間帯に電話してくるから、男の現在地は全く掴めなかった。どこまで作業が進み、いつ戻ってくるのかもわからない。
 そういった状況には慣れていたが、身動きが取れないとなると話は別だ。日がな一日、家の中でぼんやりと過ごすのは苦痛で、この家のことを調べた。
 契約者はパトリック・ベル。企業の駐在員ということになっていたが、当然ながら、そんな人物は存在しなかった。契約開始日は約二ヵ月前だ。家賃は契約開始時から十年分がすでに支払われており、どうやら追い出される心配はなさそうだ。だが、それは同時に、足取りを追えないということでもある。
 お手上げだった。契約者の正体も、支払われている家賃の出どころも遡れない。少しでも情報を引き出せないかと粘ってみたが、どうにもならず、三日で諦めた。
 それからの毎日はまるで隠居生活だ。のんびりと起きて適当に食事を作り、空いている時間は本を読んで過ごす。幸いなことに、充実した本棚は時間を潰すにはちょうどよかった。
 今日も、前日と同じように目覚め、朝食にシリアルを食べた。朝から雲ひとつない快晴で、窓から注ぎ込む日射しに気をよくして、シャツをまとめて洗濯することにした。ひと仕事終えた洗濯機から取り出したシャツを日光の下で乾かし、今日は何を読もうかと本棚を物色する。
 しばらく本棚とにらめっこをした挙句、数年前に流行ったミステリー小説を手に取った。分厚いその本を時間をかけて読み込み、集中していると、いつの間にか昼を過ぎていた。半分ほど読んだ本を一旦閉じて、昼食をレトルトで済ませ、乾いたシャツを取り込む。自分が着るんだから畳むのはあとでもいいだろうと、シャツはオットマンに山積みにした。
 読みかけの本を片手にコーヒーを用意して、優雅な午後の準備をした。手にした温かいコーヒーの香りに満足して、キッチンを後にする。読みかけの本は、人気があるのにも納得の面白さで、佳境を迎えた物語にすっかり夢中になった。それがまずかった。
 早く読み終えてしまおうと、ソファに向かって歩いている途中で、カーペットの端でつんのめった。まずい、と思ったときにはもう遅い。見事にバランスを崩し、手にしているコーヒーをぶちまけた。辺り一面にかぐわしいコーヒーの香りが広がり、がっくりと項垂れる。これがタイルの上だったらよかったのだが、洗ったばかりのシャツも、オットマンも、カーペットも、ところどころ焦げ茶色に変化してしまっていた。
 慌てて中身が減ったマグカップを片付け、タオルをかき集めて対処した。だが、汚れはそう簡単に落ちてはくれず、惨状を眺めながら頭を抱える。どうするべきか数分悩んだあとで、ここにいない男に心の中で謝罪した。
 後始末に必要な道具を調べ、スマートフォンと紙幣をポケットに突っ込んで家を出る。さすがに、汚れたリビングで着替えもないまま、いつ帰るかわからない相手を待つことはできなかった。

 

 数種類の洗剤と新品のタオル、着替えと、家を出たついでにテイクアウトの夕飯を買って、セーフハウスに戻る。少し遅くなってしまったが、この時期のロシアの日の入りは遅く、まだ十分に明るい。
 まずはカーペットから試してみるか、と手順を考えながら鍵を開けて家に入った。
 腕に抱えた荷物をキッチンに置き、洗剤を持ってリビングに足を踏み入れた瞬間、びくりと身体が硬直した。
 十日ぶりに見る男の姿が、そこにあった。ソファに腰掛け、自らの膝に肘をついて指を組み、何をするでもなく、ただ正面を見ている。男の目の前には何もない。ただの空間を、微動だにせず見つめていた。
 くつろいでいるとは言えない様子に、こちらの声音も硬くなる。
「……びっくりした。帰ってたのか」
 リビングの入り口でそう声をかけると、男がゆっくりと振り向いた。その動きはどこかぎこちなく、僕の姿を視界にとらえて目を見開く。その妙な反応にどうしたらいいのか迷っていると、男が先に口を開いた。
「……まだいたのか」
 たったそれだけの言葉に、ずきりと胸が痛む。彼が家を空けている間に姿を消しておくべきだっただろうかと、そんなことを考え込みそうになる。だが、それを振り切り、できるだけ軽く聞こえるように答えた。
「あー……うん。ちょっと出かけてたけど」
「ひとりでどこかに行ったのかと」
「まあ、ある意味そうかな。ご覧のとおりの大惨事でね、後始末のために買い物に行ってたんだ」
 そう白状しながら、ここまで一緒に来たのに信用がないな、と苦笑するしかなかった。
 手にしている洗剤を掲げて見せると、男はゆっくりと周囲を見回した。そうしてから、初めて僕の失態の痕跡に気が付いたようだった。男の表情がわずかに緩み、驚きを形作る。それから、そっと息を吐いた。
 ソファまで近付いていき、洗剤をテーブルの上に置いて、男の隣に座る。男はどこか気まずそうな様子で、顔を合わせようとしなかった。
「もしかして、戻ってこないと思った?」
「ああ」
「君なら追跡くらいできるだろ」
「……それを、する理由がないだろう、俺には。お前がどこかに行きたいと言うなら、俺には止められない」
 とつとつと語られる言葉には色がない。それが苦しかった。彼を急に遠く感じて、手を伸ばすのをためらう。
「案外バカだなぁ、きみは」
 そう呟いた声は、静かに空気に溶けて消えた。話しかけたのか、独り言だったのか、自分でもわからないまま男の反応を待つ。だが、彼からはなんの返事もなく、僕は意識して笑みを浮かべて、今度はしっかりと話しかけた。
「死んだことになってる僕が行ける場所なんて限られてる。それに――」
 その先の言葉を声にしていいのか、一瞬迷った。先のことはわからず、何が最善なのか考えなければと、まともな自分が耳の奥で語りかける。けれど、それを上回る胸につかえた小さな痛みが、僕の声帯を震わせていた。
「それに、僕は君の隣がいい」
 ゆっくりと、男の顔がこちらを向く。眉間にはしっかりと皺が刻まれていて、喜んでいるようにはとても見えなかった。否定されるかもしれないと思うと、息が詰まりそうになる。それでも、しっかり息を吸い込んで、もう一度、声を絞り出した。
「ぼくは、きみの隣にいたい」
「……死ぬかもしれなかったのにか?」
「そうだよ。僕の命は君のために使うって、ずっと前から決めてる」
「そういうのはやめろ」
 強い口調で遮った男の顔が苦々しげに歪む。今度は僕が驚く番だった。僕は何か思い違いをしていたのかもしれない。
 そっと腕を伸ばし、恐々とした手つきで背中をさする。手のひらで触れた彼の筋肉は強張っていた。少しずつ体温が馴染んでくると、その強張りが解けていく。
 この男は、僕が思うよりずっと、あの爆発地点での出来事を気に病んでいたのかもしれない。いや、片鱗はあったのだ。入念すぎる検査も、僕を待機させ、外出を禁止するという過保護ともいえる対処も、日に一度の電話も、すべて、あの瞬間に起因していたのかと思うと腑に落ちた。
 彼がそこまで気にすると予想していなかったとはいえ、ちくりと胸が痛む。
「……僕は、君にとんでもなく酷いことをしちゃったのかな」
「そうだな。もう二度と、お前の死体のことを想像するのはご免だ」
「そっか……ごめん」
 男は小さく頷き、僕は温かい背中から手を離した。
 どうしたら、この男の隣にちゃんと並べるだろう。そして、そうしたいと思っていることを、どうしたらわかってもらえるんだろう、と考える。
 考えてみたところで、結局、答えは見つからない。けれど、思考が廻り廻った先で、ふと、彼が彼になったときの話を思い出した。そして、これがこの男に最も伝わる方法のような気がした。
「なあ、アレ、言ってくれないか?」
「アレ?」
「テスト合格のときの、アレだよ」
 僕の突然の言葉に男は首を傾げたが、君も言われただろ? と促すと、なんのことかようやく合点がいったらしい。怪訝そうに僕を見て、その表情は崩さないまま、それでも僕の頼みに応えてくれた。
「ようこそ、来世へ」
 不可解そうな声で迎え入れられて、ついつい笑ってしまった。ふはっ、と変な声を漏らして笑い出した僕を見て、しばらくは憮然としていた男も一緒になって笑い出す。幽霊が肉体を得たように、この十日間で初めて自分として男と向き合った気がした。
 ひとしきり笑い終えてから男の顔を覗き込み、小さく咳払いをして、宙ぶらりんになっていた一世一代の願いの返事を促す。
「それで、さっきの返答は?」
「お互い、前世を置いてきた者同士だ。なんとかやっていける、だろ?」
 返ってきた言葉は、僕を笑顔にするには十分だった。
 意図したことが伝わったとわかり、喜びに胸が震える。ここが僕の居場所だと、世界中の人間に宣言して回りたいくらいだ。でも、そんなことは許されないから、こうして隣に座っているだけでも良しとしよう。
 リビングの片付けは保留にして、ふたりでキッチンに向かう。あとでふたり揃って泣き言を言うはめになるかもしれないが、彼には諦めてもらおうと思う。
 少しぬるくなってしまった夕飯に手を伸ばし、会っていなかった間のことを話しながら料理を口に運んだ。食卓には笑い声が絶えない。
 今、この瞬間、僕はようやく生き直した気がした。

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