運命はまわる

主さんの子供の頃の思い出の話です。平和な主ニル。

 穏やかな色合いの照明が照らす店内をゆっくりと歩く。凝った飾りの照明、ソファ、大きな宝石がついたアクセサリーや、角が削れた古書――そういった品々が所狭しと並べられ、古い品物が纏う独特の匂いが満ちている。
 周囲を見回しながら店内を進む。商品が並べられていることで狭くなっている道を慎重に歩きながら、棚の中に目的の品がないか探していた。しばらく歩き、食器類が置いてある棚を過ぎたところで、ふと目についたものに見覚えがある気がして足が止まった。
 ブリキでできた汽車のおもちゃだ。細かな細工がされたそれと同じものを持っていた気がするのに、最後はどうしたのか思い出せない。そもそも、いくつのときの持ち物なのかもあいまいだ。
 思い出せないとなると余計に気になって、ブリキの汽車を手に取った。手のひらに乗った小さなおもちゃの感覚が記憶を呼び覚ます。

  *
 
 あれは家族で旅行に出かけたときのことだ。七つか八つの頃だろうか。人生で初めての海外旅行だった。
 観光地を見て周り、家族で休暇を満喫して、帰国まで残りわずかというところだったように思う。母と一緒に石畳の道を歩いていると、突然子供が降ってきた。もちろん自分も子供だったが、自分よりも小さな人間が頭上から落ちてきたのだ。驚くのと同時に、とっさに手を伸ばしていた。反射的に受け止めようとしたものの、子供にそんなことができるはずもなく、二人の子供が地面に転がった。
 次に覚えているのは母親の悲鳴だ。それから、幼い子供の大きな泣き声。自分は何が起きたかわからず、ただ呆然としていたような気がする。そのあたりの記憶はあやふやだ。ただ、子供の重みと、時間差で襲ってきた激痛はよく覚えている。
 結局、腕を骨折して病院に運び込まれた。手当てを受けて、固定された腕を持て余していたところに、さっきの子供がやってきた。今度は親も一緒に。
 親同士が何を話していたのかは知らない。目元を真っ赤に腫らし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている子供の顔から目が離せなかったからだ。泣きながら「ごめんなさい」と何度も謝る子供の頭に手を伸ばし、くしゃりと頭を撫でてやると、その子はそうっと視線を上げた。くりくりとした丸い瞳に見上げられ、助けたとき以上になんとかしてやりたいという思いに駆られる。
「痛い……?」
 鼻が詰まり、籠った声でそう問われて、ダメだとわかりつつ笑いそうになってしまう。だが、潤んだ瞳が不安そうに揺れるのを見て、しっかりと笑いかけた。
「大丈夫だよ。お医者さんが治してくれたから」
「ほんとう?」
「うん。すぐよくなるって」
「よかった」
 そのとき、その子は初めて笑った。そして、背負っているリュックの中から汽車のおもちゃを取り出し、両手で差し出した。
「ありがとう」
 小さな子供が大事そうに差し出したそれを、受け取っていいのかわからなかった。それはその子の大切なものなんじゃないかと戸惑っていると、子供の隣に立っている女性が「もらってあげて」と言って頷いた。促され、自分も手を出して汽車を受け取る。すると、その子は心から嬉しそうに笑った。自分の大事なものを渡してしまったはずなのに、その反応は意外だった。笑顔で喜んでいるその子が眩しく、また、誇らしく思う。
 その子とはそれきり会うことはなかったが、汽車は持ち帰り、成長するまで大事に飾っていた。

 *

 今思えば、あれが初めて見知らぬ他人を助けようとした経験だ。それによって感謝されたのも。あの出来事がなければ、誰かを救う仕事をしようとは思わなかったかもしれない。
 汽車の表面を撫でると細かい凹凸が指先に伝わってくる。なぜこれを持っていたのかは思い出せたが、すべてが甦ったわけじゃない。表情や声の印象は覚えているものの、その他のことは記憶の彼方で霞んでいる。あの子供の顔や、髪や目の色が思い出せないことが少しだけ悔やまれた。
 そうやって記憶の底に潜っていたのだが、聞き慣れた声が俺を現実に呼び戻した。
「お待たせ。あったよ」
「見つかったか。よかった」
「絶版だし、元のデータも見つからないし、どうしようかと……」
 手にした小難しい単語の並ぶ本を掲げながらニールは隣に並び、俺の手に乗っている汽車を見て言葉を止めた。
 子供っぽいと思ったのだろうか。なんとなく気まずくなり、手にしている汽車を元あった場所に戻す。ニールは棚に戻った汽車を目で追って、じっと見つめながら小さく首を傾げた。
「どうかしたか?」
「これ……子供の頃、持ってた気がするなぁ」
「え?」
 ぼそりと呟いたニールは、棚に戻ったばかりの汽車を手に取り、難しい顔でありとあらゆる角度から確認している。細部まで眺めながら、しばらく手の中で汽車をくるくると回転させていたが、ようやく納得したのか、手のひらに乗った汽車に向かって頷いた。
「やっぱりこれと同じものだと思う」
「持ってたのか?」
「うん。これを持ってる写真があったはずだ。僕は幼すぎたし、誰かにあげちゃったらしいから、自分では覚えてないんだけどね」
「……あげた?」
「そう、それがバカな話でさ、自分で塀をよじ登って飛び降りたらしいんだよ。塀の近くに積んであった粗大ごみを使って。そしたら、男の子を下敷きにして怪我させちゃったんだって。だから、お詫びにその子にあげたんだよ」
 この話は何年経っても親に言われ続けた、とニールは苦笑していたが、俺は動けなくなっていた。なんとか記憶の中の子供の姿を明確にしようとするが、うまくいかない。ただ、まるい瞳が、笑顔が愛らしかった。それだけはわかっている。
 ゆっくりと息を吸い込んで、わずかに緊張しながら言葉を紡ぐ。
「相手の子供のことは?」
「忘れちゃったよ。会ったのはそのときだけだし。でも、優しかった気はする」
「……そうか」
「……? どうかした?」
「いや、なんでもない」
 不思議そうにこっちを見ているニールは、俺の反応を見て益々怪訝そうに眉を寄せた。それに笑みを浮かべて応えると、それ以上の進展なしと判断したニールが唇を突き出し、小さく息を吐く。そして、汽車を俺に手渡した。
「会計してくるよ。あとでゆっくり聞くからな」
「お手柔らかに頼む」
 目的の本を手に持ってレジに向かう背中を見送り、手のひらに乗った汽車に視線を戻す。
 とんでもない確率の偶然と呼べばいいのか、これこそ運命と呼ぶべきなのか、俺にはわからない。ただ、愛しく思う男の幼い姿を思い出せないことは、やはり悔やまれる。この話を知ったら、お前も同じように悔しがるだろうか。
 さっきと同じように汽車の凹凸を撫でて棚に戻した。それと時を同じくして、聞き慣れた足音が近づいてくる。
 さて、なんて言って説明してやろうか。反応を想像しながら、どう伝えるのが最適か、頭の中でシミュレーションする。それだけでも小さく胸が踊る。 
 照明のもとで存在感を放つ小さな汽車を前に、そっとほくそ笑んだ。

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