主さんが不動の優先順位第一位のニールと、それごと受け止めちゃったアイヴスの不毛な関係。アイヴスに甘えてるニールの話。
本編より前の設定です。
アイニルなのかアイ→ニルなのかは微妙なところ。
その男は随分と不貞腐れた顔で、道路に面している出窓に腰かけていた。このまま放っておいたら動かないだろうと予想し、些か投げやりに声をかける。
「おい、早く着替えろよ」
同時に玄関のドアをくぐったはずなのに、俺が一度自室に向かい、着替えを終えて戻ってきても、そいつの見た目は変わっていなかった。
「ニール」
返事がないことにため息を吐き、はっきりと名前を呼んでやる。すると、ニールは表情は変えないまま視線だけを寄越し、根負けしたようにジャケットを脱いで、携帯していた銃や偽の身分証をぽいとソファに放った。そこで手が止まる。いかにも不機嫌です、という空気を収める気はないらしい。
「ニール」
もう一度名前を呼ぶ。今度は目線で近くまで来るように促すと、大人しく立ち上がり、近寄ってきて椅子に座った。俺が手にしている物を確認し、自分でシャツのボタンを開けていく。シャツの腕にできたばかりの穴は、じわりと赤く染まっていた。
シャツから腕を抜いて半分だけ脱いだニールの隣に座り、手にした箱から治療に必要なものを取り出す。消毒液で腕に付着した血液を拭っていくと、ニールは痛みに少しだけ顔をしかめた。
「ボスは?」
「もう行った」
「どこに」
「さあ?」
俺が自室で着替えている間に姿を消していた男の所在を尋ねたが、ニールの返答はそれだけだった。それ以上は本当に知らないのだろう。目も合わせずに交わされた短いやり取りの中で、ニールは皮肉っぽく笑みを浮かべて肩をすくめる。それから、微かに表情を歪ませた。
その原因が傷の痛みではないことには気付いているが、口を挟むつもりはない。
*
先程終えたのはニールとボスが主体の任務だった。俺のいかにも軍人といった風体は潜入には向かず、そういった任務では専ら後方支援担当だ。今回も、目的の情報を回収してきた二人をセーフハウスまで運ぶ手筈になっている。そのために、二人が潜り込んだ寂れたビルから少し離れた場所に停めた車で待機していた。
インカムから聞こえてくる音に目立った問題はなく、そう時間はかからずに作業を終えるだろうと思っていたのだが、途中でわずかにノイズが混じる。
ニールの潜入、情報収集能力は一級だが、今回は少しばかり予定が狂ったらしい。大元の情報提供者のミスだかなんだか、詳しいことは知らないが、とにかくニールが侵入者であることが先方に気付かれた。
耳に直接流れ込んでくる音が不穏な気配を帯び、まずいと思ったときにはバタバタと騒がしい音が聞こえ始め、逃げ出す事態に発展したらしいことがわかった。
アクセルを踏み込み、急いでビルの裏口に向かう。裏口があるのが車が入れない細さの道だったせいで、乗り付けることはできなかった。追跡されないように、しかし、できる限り近付く。車を下りて身を隠し、銃を握り締めたまま二人が姿を現すのを待った。
数分も経たないうちに、銃で応戦しながら走ってくる二人の姿が見えた。ドアから車までは距離がある。思いの外、追っ手との距離が近いことに舌打ちする。相手も焦っているのか、躊躇うことなく発砲してきていた。
「乗れ!」
これ以上追手が近付いてこないよう、叫びながら狙いを定めた。銃声が響く。一発、二発、三発――ひとりの足止めには成功した。もうひとりも被弾し、よろめいている。だが、もうひとりは間に合わない。確実に距離を詰めてくる。その男が構えた銃口はニールに向いていた。
ああ、まずい。そう思った瞬間、ニールの少し前を走っていたボスが踵を返した。ニールと銃の間に身を乗り出すように駆け寄り、ニールの腕を掴む。ボスの方を向いたニールの目が大きく開いていくのがスローモーションのように見えた。
ニールは咄嗟に掴まれた腕を振り払っていた。ニールがボスを突き飛ばす形になり、二人の間に距離が空く。ニール自身も反動でよろめいた。その瞬間に銃声が響き、弾がニールの服を裂くのと同時に、ボスが追手に銃弾を叩き込んでいた。
倒れる男を尻目に二人が車まで辿り着き、後部座席に乗り込んだのを確認して自分も運転席に駆け込み、急発進と共にビルを離れた。車内には二人分の荒い呼吸が満ちている。後方を確認したが、車で追ってくることはなさそうだ。
「目的のものは?」
「なんとか無事だよ。これで任務完了」
手にしていた銃をしまっているニールに訊ねると、懐から記録媒体を取り出し、ボスに差し出した。ボスが受け取り、任務完了。そこから先は俺たちが知るところではない。
ボスが目的のものを自らの懐にしまってしまうと、それきり会話がなくなった。車内にピリピリとした空気が満ちるのを感じ取り、こっそりとため息を吐く。気付かれたかもしれないが構うものか。そんな空気を作り出している方が悪い。
そう割り切って運転に集中する。いくつもの角を曲がり、念のために遠回りしてセーフハウスに戻った。
組織が所有する家の中に入って異常がないか確認し、問題ないと判断できたところで二人は言い争いを始めた。我慢できなかったのはニールの方だ。
というか、ほとんどは似たようなパターンだ。今回はボスがその身を投げ打ってニールを生かそうとしたが、逆のこともある。ニールもボスも、相手を助けるためなら傷付くことを厭わない。そのくせ、相手に同じことをされたくはないのだ。
それに耐えられなくなるのはニールの方が多かった。ボスの方が冷静――というよりは、年の功というところだろう。「なんであんなことをしたんだ」「あなたが死んだらどうする」そんなニールの声に混じり、宥め、諭し、ときに言い返すボスの声が狭い玄関に響く。
何度も同じような現場を見てきた俺は、我関せずと決め込んで、二人の声を背中で聞きながら自室に向かった。
どうせ解決しないのだ。二人とも妙なところで頑固で、その点について曲げる気がないのはわかりきっている。ならば、巻き込まれないに越したことはない。
自室のドアを閉めて装備を一つずつ外していき、汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てる。代わりの清潔なシャツを身に付けて、そろそろ落ち着いた頃だろうかとリビングに向かうと、一人は姿を消し、一人はすっかり不貞腐れていた。
*
眼前に晒された傷口を消毒し、ガーゼで覆う。
どうせ、憧れの男の去って行く背中を窓から見ていたのだろう。窓辺に腰かけていた姿から容易に想像できた。虚空を見つめる横顔に小さくため息を吐く。すると、表情は変わらなかったが、手当てしている腕とは逆の、ニール自身の膝に置かれた指先がぴくりと動くのが視界に入った。
視線を傷口に戻し、ガーゼを固定するために手を動かす。
「今回はボスが正しかった」
「……知ってる」
手当てを続けたままそう言うと、ニールはぽつりと返事を零しながらも、悔しそうに顔を歪ませた。そして、力の籠った言葉を続ける。
「でも、彼が死んだんじゃ意味がない」
「それはお前も同じだ」
「僕はいい。あの人を守れるなら、死んだって」
「あの人が聞いたら怒るぞ」
「それも、知ってる」
だから言わない。そう続いた言葉は、ほとんど独り言のようなものだった。ニールの瞳は窓の外を見つめて動かない。
俺は小さく奥歯を噛みしめた。『俺には言うのに?』そんな言葉が喉元まで込み上げてきたが、ぐっと押し留めて飲み込む。彼以外の人間は、こんなことを言われても何も思わないとでも思っているのだろうか。あるいは、ある種の甘えなのか。どちらにせよ、これ以上何かを言ってやるつもりはなかった。
手当てを終えて、使った道具を箱に戻す。パタン、と蓋が閉まる音と同時に鋭い視線を感じた。ニールは刺すような視線をこちらに向けている。何も言わないブルーグレーの瞳にじいっと見つめられては無視し続けることもできず、仕方なく目を合わせる。きつく見返してみたが、それくらいのことではニールは怯まなかった。
喧嘩を売っているのかと言いたくなる目つきだが、そうではないことはこいつの手が物語っている。そろりと動いたニールの指は、俺のシャツの袖をつまんでいた。目の前の男の視線と指先のギャップに思わず苦笑する。いっそ、しっかりと腕を掴んでくれたら振り払えただろうに。
「アイヴス」
俺の袖を掴む指先に力が入る。俺の名前を呼ぶ声は、ひりつくような色を孕んでいた。その意図はとうにわかっている。直接的な言葉にするべきだろうと思いつつ、どちらにしろ結果は変わらない気がして立ち上がった。
「ここじゃまずいだろう」
結局、俺はどうしようもなくこいつに甘い。
自室に向かう俺の後を黙ったままついてきたニールは、室内に入り、ドアから数歩進んだところで俺のシャツの襟首を掴んで引き寄せ、唇をぶつけてきた。リップ音と共に一瞬離れて、再び重なる。誘導されるままベッドに辿り着いて腰を下ろすと、ニールが乗り上げた。
膝立ちになったニールの腰を両手で支えてやると、舌が口内に侵入してきた。唾液と共に舌が絡み合う。数十分前まで死に直面していた身体はあっという間に熱を帯びていく。肩にすがりつくニールの指先は、わずかに力んでいた。それは恐怖によるものだが、死にかけたことに怯えているんじゃない。
ニールが何よりも恐れているのは、あの雇い主を失うことだ。
自分が傷つくことも、他人を傷つけることも、他のことなら上手いこと任務と日常を切り分けてみせるのに、これに関してはそれができないのだと気が付いたのは、随分と前のことのように思える。
怪我を負ったボスが一人で行ってしまうのを初めて見た日、ニールは置いて行かれた犬のような顔で立ち尽くしていた。どうにも放っておけず宥めている間に、ニールは甘えることを覚えたらしい。時々どうしても抑えられなくなると、ふらりとやってきて熱を求めるようになった。その相手に俺を選んだのは、気心が知れているからだろう。
他の男の死を恐れてすがる相手を抱くなんて、不毛にも程がある。毎回思うことだが、熱烈なキスを交わしている最中だというのに、無性に笑いそうになった。だが、それは踏み止まり、はだけたシャツの中に手を滑らせる。
「ん……」
くぐもった声と熱い息で口内が満たされる。ひくりと腹筋を震わせながら、ニールは俺のシャツのボタンを外していく。全てのボタンを外し終えて、ニールはようやく唇を離した。興奮した様子を隠さず、唾液で濡れた唇で笑う。
「さっき死にかけたっていうのに、変な感じだ」
布越しに触れた太腿に腰を押し付けながら、ニールが言う。押し付けられた箇所が膨らみを帯びていることに、はっ、と小さく笑った。
「さっきまで『死んでもいい』って言ってた人間の生存本能の方がよっぽど奇妙だがな」
「僕は素直なんだ」
わざとらしく笑って腰を揺らして見せるから、太腿でぐっと押し上げてやる。すると、額に熱い息がかかった。ぐ、ぐ、と繰り返し脚を動かすとニールの腕がしがみ付くように首に回り、滑らかな背中の骨のラインをなぞると、もどかしそうに身を捩る。
任務での興奮と不安を切り離すための行為にニールが求めるのは、圧倒的な熱量だ。初めの頃はしっかりと前戯を施そうとしたが、何度も「そんなのはいい」と訴えられて従うことにした。大半はニールの好きにさせている辺り、やはり甘いのだろう。
ニールの手が首から肩へと回り、シャツを脱がせながら何度も首筋に吸い付いてくる。かぷり、と肩に歯を立てられ、仕返しとばかりに白い首筋に唇を寄せようとすると、ぐいっと押し返された。さすがにその仕打ちはないだろうと睨み上げると、ニールは微かに笑っていた。
「くすぐったいんだよ」
そう言って、ニールは顎を覆い隠す髭の中に指を突っ込んだ。文句を言う割に笑みは絶えない。楽しんでいるのは丸わかりで、こちらとしても面白くない。だから、子供のようなイタズラを咎めるように、髭で遊んでいる指先に噛みついた。歯を立てて舌でねぶると、ニールの口元から笑みが消えて瞳がどろりと溶けていく。
口を窄めてやんわりと吸い上げると、支えている身体がぶるりと震えた。何を想像したのかは予想がつく。つい口角が上がってしまい、それに気付いたニールが食まれた指で舌を撫でてから引き抜いた。
濡れた手を拭いもせず、慌ただしく二人分のベルトを外すニールの頬は赤みを帯びている。舌を絡めて口付けを交わすと、それぞれスラックスと下着を脱ぎ捨て、再びベッドに腰掛ける。
素肌になった太腿の上に跨ったニールは、緩く勃ち上がった性器同士を擦り合わせた。直接的な刺激に反応して硬さを増していくペニスを握り締める。裏筋とくびれ同士が擦れ合い、下半身に熱が溜まっていく。先端から溢れたぬめりを擦り付けると、ニールが息を飲んだ。
「っ、はぁ……アイヴス、うしろ……」
それだけを言って俺を見下ろすニールの瞳は、快楽で潤んでいた。額には汗が浮かび、いつもはあちこちに飛び跳ねている髪が張り付いている。それを指先で除けてやると、うっとりと目を細めた。たったそれだけの仕草にぞくりと肌が粟立つ。
ニールの身体を片腕で支えながら、床に転がっている私物が入った鞄を引き寄せる。中身を適当に漁り、小さなチューブと箱を取り出した。
チューブの中身を指先に取り出し、どろりとした液体を窄まりに塗り付ける。ふちを指でなぞると、そこがひく、と収縮した。まだ外側にしか触れていないのに、ニールの呼吸は荒くなっている。首に回された腕に力が入ったタイミングで指を突き入れた。
「ぁ、っん、はやく……」
「落ち着け。まだ挿れただけだ」
早く先に進みたい気持ちは同じだが、そんなことは言ってやらない。
指をゆっくりと抜き挿しし、内壁を広げるように動かす。潤滑剤の力を借りて少しずつ柔らかくなっていく内部がぐちぐちと音を立てた。
一度指を引き抜き、更に潤滑剤を足して指を増やすと、ぐぷ、と卑猥な音が響いた。それに対して不満を申し立てるように、ニールが耳に噛みつく。そうすることで耳に吐息がかかり、余計に煽られた。衝動のままに、指先でしこりを押し潰す。
「あ……ッ、アイ、ヴス……それ、っぁ、あ……!」
続けて前立腺を刺激されたニールの脚がぶるぶると震え、今にも崩れ落ちそうだ。腰をしっかりと支えてやりながら指の動きは止めずにいると、掠れた甘ったるい声が耳に注がれる。
指を締め付ける濡れた肉の感触と嬌声で、確実に理性は茹だっていく。それに加えて、この捉えどころのない男に縋られているのだという事実が、自分の中の雄をどうしようもなく刺激した。
無防備に晒された鎖骨に舌を這わせ、やわく噛み付く。抱えた腰が小さく跳ねて、ニールのペニスの先端からとろりと先走りが流れ、伝い落ちていく。
乱れた呼吸を噛み殺し、指を引き抜いた。ベッドに転がっている箱からスキンを取り出し、自身に被せる。その様子を見下ろしながら、ニールはそっと唇を舐めた。自ら更に密着し、すっかり解れたアナルをスキンで覆われたペニスに擦り付ける。それから、ゆっくりと腰を落とした。
「ぅ……はぁっ、あ……っ」
「ッ、ニール」
眉間に刻まれた皺が苦しそうで名前を呼ぶと、閉じていた目蓋が開き、揺らめく瞳が現れる。そこにははっきりと情欲の色が浮かんでいた。視線が交わると挿入したばかりの後孔がきゅう、と締め付けてくる。それで俺は、自分の瞳も同じ欲に染まっているのだと悟った。
自身を包み込む体内は熱くうねり、それを映し出すようにニールの肌は胸まで真っ赤になっている。向かい合って座っている体勢のせいで距離が近く、濡れたニールのペニスが腹に擦れる。それが気持ちいいのか、ニールはゆらゆらと腰を前後に動かした。
それに合わせてゆっくりと突き上げると、ニールは微かな声を漏らす。二人分の呼吸が興奮を煽り、動きは大胆になっていく。
「ぅあ……! いい、ッ、それ、あっぁ……!」
緩やかな突き上げの中で一際強く腰を押し付けると、びくりとニールの身体が跳ねた。肩に掴まりながら背を反らす。上手く抑えることができないらしく、高くひっくり返ったような声をあげた。
目の前にあるのはピンクを通り越して赤くなった鎖骨、しっかりと骨が浮き出た喉。しがみ付くために皮膚に食い込んだ指先と、きついくらいに締め付けてくる熱い体内。それら全てか快感に直結している。
前立腺を擦りながら、夢中になって先端を奥に押し付ける。男に慣れた身体はそれすら受け入れて、腸壁がペニスに吸い付いた。
ほとほとと快楽の涙を流す瞳は欲に濡れて、不安も恐怖もとうに消え去っていた。
「ニール」
半ば虚ろになった瞳を見上げて声をかけると、のろのろと視線が下りてくる。目が合い、舌を差し出すと、ニールは上半身を屈めて舌に吸い付いた。くすぐったいと言って避けたことなど忘れてしまったらしい。合わさった口の中で舌を引きずり出して甘噛みする。溢れた唾液が顎を汚したが、構わなかった。
絡めた舌を歯で扱き、下半身の動きと連動するように上顎を擽ると、しがみ付いているニールの腕がぶるぶると震えた。
「ッ、ひ、ぅ……ぁっ、ぃく、イっ――……!」
「……! ッは、」
最後の訴えは口の中に吸い込まれて消えた。ニールは全身で俺にしがみ付きながら吐精し、ペニスの先端から溢れ出た熱い体液が腹筋の上を流れていく。それに合わせて腸壁が不随意に収縮した。その搾り取るような動きに任せて俺も欲を吐き出す。
しばらくの間、唇が触れ合ったまま動けないでいた。
汗を流し、床に散らばった服を集めて身に付ける頃には、さっきまで色濃く滲んでいた気配は消え去っていた。行為が終わったからとニールが出て行く様子はなく、俺はベッドに、ニールは椅子に座って、取り留めもない話を続けている。
時間は夕刻に差し掛かり、晩飯をどうするかと話しているところだった。玄関から微かな音が届き、第三者の気配が増える。侵入者の可能性も考えて一瞬身構えたが、それはよく知った気配だった。ニールも気付いたようで、一気に身に纏う空気が浮足立つ。
わかりやすすぎるだろ、とため息を吐きたくなるが、こいつが忠犬なのは今に始まったことじゃないと諦めた。
「おい、ちょっと来い」
今にも飛び出して行きそうな様子を見かねて呼び寄せると、不思議そうにしながらも大人しく近付いてきた。目の前に立ったニールの腰を引き寄せ、だらしなく飛び出したシャツの裾をベルトの中に捻じ込んでいく。ボスに悟られるのは本意じゃないだろうに、この男は隙がありすぎる。任務ではこんなことはないくせに、どうなっているんだと内心苛立った。
あんなに失うことに怯え、帰還がわかっただけでこんなに落ち着きがなくなるのに、それは見せたくないなんてとんだ我儘だ。
「もっとボスにも甘えればいいだろう」
「……結構甘えてると思うけど」
ニールは少しばかり考えて、首を傾げながらそう答えた。確かにそういう側面もあるが、それは日常の中での話だろう。
「そうじゃない。お前が不安がったところで、あの人は嫌がらないぞ」
ボスだってニールには甘いのだ。それは近くで見ていればよくわかる。命に関わる問題じゃなければ、あの人はほとんどのことは受け入れるのだろう。それはきっと、こいつの特権だ。
周りからすればそんなのは当たり前のことなのだが、当の本人は益々きょとんと目を見開いた。少しだけ唇が尖り、真っ直ぐに見下ろしてくる。
それから、ゆっくりと口角を上げた。
「それは、お前がいいんだよ。アイヴス」
今度は俺が目を丸くする番だった。俺が何も言えずにいる間に「ありがとう」と告げたニールは、するりと俺の手をすり抜けて部屋を出て行く。ドアを閉じる最後の瞬間、しっかりと俺を見るのを忘れずに。
俺は溜め込んでいた分を一気に吐き出すように、盛大に息を吐いた。
奴の優先順位はいつだってボスが一番で、それを譲るつもりなど露ほどもないくせに、あんなことを言ってのけるなんて、本当に我儘な奴だ。本当に。
そして俺は、そんな奴を振り払えないどころか、心の奥底で薄暗い悦びを感じてさえいる。
「くそっ……」
湧き上がってくる痺れるような感情に堪えられなくなり、目元を手で覆い隠し、世界を遮断した。