一度睡眠をとったことで少し冷静になれたようだ。不思議なことに普段の起床時間よりも早く目が覚めたから、ゆっくりとシャワーを浴びることにした。身体に違和感はあったが、動けないほどじゃなかったのも助かった。
熱いお湯を頭から浴びながら考える。昨日起きた出来事も自分の身体の変化も、これで解決したなんて片付け方をしてはいけないのではないか。
ディーンは明らかに準備をしてきていた。いつからあの治療とやらをしようと思っていたのだろうか。症状を話したとき、ディーンは何か考えているようだった。なら、心当たりがあると考えるのが妥当だろう。
ディーンは知っていて、僕は知らない何か。ディーンは隠していたい何か。となると、可能性が高いのは、僕が誘拐されている間のことだ。誘拐されたあと、僕の記憶から抜け落ちた約一週間。そこに答えがあるはずだ。
だが、昨日の様子だとディーンは素直に教えてはくれないだろう。問い詰めれば余計に頑なになってしまうかもしれない。それに、ディーンが助けに来てくれるまでの時間の方が長いのだから、知らないこともあるだろう。なら、試してみる方法は一つだ。
身体を伝い落ちるお湯が排水溝に流れていく。それを眺めながら腹をくくり、拳を握り締めた。
昼食を終えてから、ディーンには買い出しに行くと伝えてバンカーを出た。だが、実際の目的はキャスに会うことだ。彼なら僕の記憶を取り戻せるかもしれないし、ディーンと一緒に助け出してくれたというなら話が聞けるだろう。だから、事前に『外で会いたい』と連絡しておいた。
待ち合わせ場所のダイナーに入ると、もうキャスは席についていた。手を上げて挨拶し、窓際の席に向かい合って座る。注文を取りに来た店員にコーヒーを頼んでから姿勢を正した。
「やあ、キャス。急に呼び出してたりしてごめん」
「いや、構わない。私も君の様子が気になっていた」
「僕の?」
「ああ。少し前に攫われただろう?快復したとは聞いていたが、君が頑丈だといっても人間であることには変わりない」
「そう……僕もそのことが話したかったんだ」
突然そんなことを言われたキャスは小首を傾げた。続けてキャスが口を開こうとしたが、注文していたコーヒーがテーブルに置かれて口を閉じる。店員に礼を言ってキャスの方へ向き直り、手付かずのコーヒーを脇に除けると、キャスの表情は益々不思議そうに歪んだ。
注文したのは店員がむやみに寄ってこないようにするためで、これが飲みたかった訳じゃない。まだ温かいコーヒーを一瞥してから、僕は声を潜めた。
「実は、君に頼みたいことがあるんだ」
「なんだ?私にできることなら……」
「僕の記憶を甦らせてほしい」
「記憶?一体なんの話だ」
僕の頼みを聞いて、キャスは一瞬考えてから眉をしかめた。誤魔化している様子はないから、本当に聞いていなかったんだろう。ディーンが報告しているだろうと思っていたから意外だった。だが、そういえば退院直後に連絡したとき、もう日常生活に支障はないと伝えただけだったのを思い出して言葉を続けた。
「僕には誘拐されてから病院で目覚めるまでの間の記憶がないんだ。断片的で、すごくぼやけてるような感じで……でも、その間に何かあったはずなんだ。僕はそれが知りたい」
半ば早口になりながら言い切った僕を見て、キャスは言葉を探していた。一つ息を吸ってから、ゆっくりと、気まずそうに話し出す。
「サム……すまないが、それはできない」
「どうして?ディーンはまじないの効果だって言ってたけど、呪いじゃなくて薬の一種のはずだ。完璧じゃなくていい。天使の力を使えば……」
「いや、そうじゃない。精度はわからないが不可能ではないと思う」
「なら、どうして?」
「……」
「キャス」
なんとか説得しないと、と思うと語気が強くなってしまった。キャスは困って視線をうろうろとさ迷わせた。僕の手を見てから、キッチン、テーブルの上のコーヒー、キャス自身の手と、店中を見渡してしまったんじゃないかと思う。
逃げ場を求めるようにあちこちを見ている途中で、キャスは口を開きかけては閉じる、という行動を繰り返していた。たっぷり時間をかけて悩みに悩んだ結果、キャスはため息と一緒に答えを吐き出した。
「……ディーンと約束した。君にあの事件の話はしないと」
項垂れる様子から、きっと約束したことそのものも口留めされていたんだろうと想像がつく。少し申し訳なく思ったが、ここで引き下がることはできなかった。
「……そう」
「君の力になりたいが、約束は破りたくない」
「……わかった。こうしよう。君も当事者だから話を聞こうと思ってたけど、それはやめるよ。僕の記憶を取り戻してくれるだけでいい。僕はそれを兄貴には言わないし、君は僕に直接話してないから約束も破ってない」
「いや、しかし」
「頼むよ、キャス。僕の記憶は本来僕のものだ。それを取り戻したい。それに、自分の身に起こったことを知らないことの方が、ずっと恐ろしい」
真っ直ぐに目を見つめてそう伝えるとキャスの表情から険が取れた。今言ったことは紛れもなく本心だった。なかったことにすればいいと思って、誰にも言えずにいた。
キャスは逡巡して自分の手元を見つめていた。それから伏せていた目蓋を持ち上げて、僕に目線を合わせてこう告げた。
「……どこまで再生できるかわからないぞ」
「ああ、構わない。ありがとう、キャス」
キャスの返答に安心して息を吐き、その手が伸びてくるのを待つ。わずかに緊張していたが、それを隠すように笑顔を作ってみせた。キャスは僕の表情を確認して、無言で頷く。
正面からキャスの手が向かってきて、衝撃に耐えようと目を閉じた。握り締めた指先に力が入る。額にキャスの指が触れた途端に、脳が掻き回されて乱れた。
ノイズ混じりの記憶が、川が氾濫するみたいに一気に流れ込んでくる。
狩りを終えたところで僕はミスをしていた。
モーテルに戻る前に買い出しをしてしまおうということになり、ディーンと別行動をしているところだった。声をかけられて振り向くとネイサンが立っていた。
ハンター仲間だと思い油断してしまったが、もっと早く気が付くべきだった。今回は電話での情報提供のみだったはずのネイサンがいること自体がおかしいということに。
もちろん、不思議には思った。だから「どうしてここに?」と訊ねたところで、身体に痛みが走った。手足が痺れて制御できず、地面に倒れ込む。したたかに全身を打ち付け、起き上がれずにいる僕にネイサンは馬乗りになった。その手に握られていたスタンガンらしきものを地面に置いたネイサンに何かを注射され、そこで意識が途絶えた。
次に目覚めたのは見たことがない部屋の中で、両手足がベッドに括りつけられており、自分が失敗したことを悟った。
縄を外そうとしてみたが上手くいかず、隠していた武器も奪われているようだった。閉じたカーテンの隙間から見えるのは生い茂った木々ばかりで、人の気配はなさそうだ。外に助けを求めても無駄だろう。そうなると、ディーンが異変に気付いてくれることを願うしかなく、小さく悪態をつく。
そうしている間に現れたネイサンは、僕の問いかけなど無視して「メダイはどこにある?」と訊ねた。そもそもメダイのことなど知らなかったから「知らない」と答えた。ネイサンはすぐには納得できなかったらしく、同じ問答を繰り返したあとで、ため息を吐きながらこう言った。
「それじゃあ、君のお兄さんが来るのを待とう」
僕が縛られているベッドに向けて一歩踏み出したネイサンの手には注射器が握られている。それに気付いて、さっと血の気が引いた。抵抗を試みたが敵わず、腕にちくりと痛みを感じる。その直後に視界が揺れ始め、話しかけてくるネイサンの声が遠くなっていった。
そこから先は同じことの繰り返しだった。薬の効果が消えれば意識ははっきりするが身動きが取れず、なんらかの問答や食事を終えたら薬を打たれる。すると、意識は遠のいていく。薬が効いている間は聞こえてくる音が妙に遠く、反響していて、ほとんどの時間はゆらゆらと歪む天井を眺めていた。
時間感覚を失い、捕まって数時間なのか数日なのかもわからなくなった頃、正常な意識を取り戻すと脚だけ拘束を外されていることがあった。意識が朦朧としている間になにがあったかわからず、記憶の中の自分がネイサンに「何をした」と問い詰める。しかし、ネイサンはそれには答えずに「大丈夫。すぐに忘れるから」と言った。
その表情の歪さに吐き気がこみ上げてくる。奇妙に感じるほどきれいに弧を描くまなじりと、ぴったりと張り付いたように上がった口角。それなのに、眼に光がない。普段退治している怪物たちより、この男の方が余程不気味だ。
ネイサンはその不気味な笑みを浮かべたまま近付いてきて、もう見慣れてしまった注射針を僕の腕に突き刺す。そしてまた、長い狂った時間が始まるのだ。
その時間が終わりを迎えたのは、巨大な破壊音が聞こえたときだった。僕は薬の世界の真っ只中にいて、ぼやけた天井しか見えていなかった。突然響いた音のせいで、世界がぐわんぐわんと揺れている。その最中に、今までなかった音が混ざった。
「――ム、サム!サミー‼」
何かが聞こえる。けれど何かは上手く認識できない。
「サミー!どこにいる⁉」
ああ、知っている声だ。まともに動かない頭の片隅でそう思った瞬間に再び破壊音が響く。それから、いくつかの破裂音と、怒鳴り合う声。それがしばらく続いたあとで、今度は急に静かになった。
しばらくの沈黙のあとで視界いっぱいに人間の顔が飛び込んでくる。輪郭はぶれて顔のパーツも揺らいでいたが、その人が必死に口を動かしているのはわかった。
「サム、俺の―――わかるか?サム!」
「……ぅ……、ぁ……?」
「……少しだけ待っ――よ。すぐに帰―――らな」
そう言った人物が離れていき、またしばらく経ってから今度は悲鳴が聞こえた。泣き叫ぶ低い声が響き渡る。その声は次に視界に変化が訪れるまで続いた。
ぐらりと視界が大きく揺れたかと思うと、今度はゆっくりと前に進み出した。視野の端の方で四本の足が動いている。目に映る物全てがぐらぐらと揺れ動く中、すぐ近くで声が聞こえた。
「も――丈夫だか――。――少し頑張ってくれ」
耳元で聞こえる声は、上手く言葉を聞き取れなくても心地よかった。そのせいか、自然と目蓋の力が抜けて、そこで記憶は途絶えた。
その先は病院で目を覚ますまで抜け落ちているから、ずっと眠っていたんだろう。
俯いてしまった僕を、キャスが心配そうに見つめている。胃液が込み上げてくるような感覚を口元を手で覆うことで堪えた。テーブルに肘をつき、頭部を支えているから座っていられる状態といっていい。
「サム、大丈夫か?顔色が悪い」
「ああ……いや、問題ないよ。ちょっと情報量が多くて混乱してるだけ」
「五日分の記憶を一気に呼び戻したんだ。無理もない」
「そうだね……」
小さく頷き、落ち着くために冷め始めたコーヒーに手を伸ばして口に含む。苦みが胃を楽にしてくれた気がして、ようやくまともに呼吸することができた。
手の中の黒い液体を眺めながら、今さっき思い出したばかりの記憶のことを考える。
概ねディーンが説明してくれたとおりだろう。メダイを狙ったネイサンに捕まって、薬で尋問され、兄貴とキャスが助けてくれた。だが、あの途中の記憶はなんだ?なぜ拘束されていない時間があった?
例えば、拘束したままでは不都合な何かが起きた、拘束具に問題が発生した、僕自身に何かがあった――可能性はいくつも考えられたが、記憶の中には決定打と言える情報がない。ネイサンの笑顔の気味悪さを思い出して、落ち着いたはずの胃がもう一度絞るように動き出しそうだった。
黙って待っていてくれるキャスに申し訳なくて強引に吐き気を飲み込む。声をかけようとして視線を上げた先で、キャスは目をまんまるに見開いていた。
「よう、奇遇だな」
僕がそれを疑問に思うより先に頭上から声が振ってきた。聞き慣れたその声に驚いて、勢いよく振り返る。
「ディーン……⁉」
「なんだよ、水臭いじゃねぇか。俺も混ぜてくれよ」
ほら、詰めろよ、と言って当然のように隣に座ったディーンは、僕のコーヒーを取り上げて口に含んだ。
まさかキャスが連絡してしまったのだろうかと思って向かい側を見たが、意図を汲んだキャスが首を横に振っている。ちらりと隣に視線を向けると、ディーンと目が合った。口は笑っているが眼光が鋭く、不機嫌なのが丸わかりだ。
どう切り出そうかと考えている間に、先に口を開いたのはディーンの方だった。
「なあ、何を話してたんだ?俺にも教えてくれよ」
「……見当はついてるんだろ」
「ああ、見当がつくようなことを話してたってことか」
「ディーン、聞いてくれ。サムには知る権利がある」
「キャスは黙ってろ。サムには何も言わないって約束したはずだ」
「僕がキャスに頼んだんだ。彼は悪くない」
「約束に関しては俺とキャスの問題だ。お前は関係ない」
「関係あるよ。僕のことだ」
「いいや、お前は知らなくていい」
冷静に話したいと思っていたのに、勝手に決めつけられて腹が立った。攻撃的になりすぎないように気をつけながらも、つい言葉尻がとげとげしくなってしまう。
「大体、なんでディーンがここにいるんだ」
「お前の様子が朝からおかしかったからだよ。なんだか知らねぇがこそこそしやがって」
「それこそ兄貴には関係ないじゃないか」
「関係あったじゃねぇか。お前の考えてることなんかお見通しなんだよ」
眉間にしっかりと刻まれた皺が、いかにディーンが怒りを堪えているか示している。
言動に違和感がないように気を付けていたが、それでも気付かれてしまったのは僕の失態だ。思わずため息が出てしまう。
「後をつけてる車なんかなかったし、GPSも切ったのにどうして」
「お前のはな。だが、キャスのやつはまる見えだったぞ」
突然名前を出されたキャスが慌てて上着のポケットから端末を取り出し、画面を確認してから小さな声で「すまない」と呟いた。僕もキャスに指示していなかったのだから何も言えない。
黙ってしまった僕らの顔を交互に見て、ディーンはわずかに僕の方に身体を向けて訊ねた。
「で、何を聞いた?」
「何も」
「くだらねぇ嘘つくなよ」
「嘘じゃない。キャスは何も言ってないよ。ただ、記憶を戻してもらった」
「おい、キャス……!そっちの方が問題だろうが!」
「ディーン、サムの記憶はサムのものだ。我々に邪魔する権利はないだろう」
キャスの訴えを聞いたディーンが、思わず怒鳴りそうになったのをぐっと飲み込んだのがわかった。テーブルを叩くところだった手は中途半端に宙に浮いている。その手はディーンの額に当てられ、怒りを抑え込んでいるようだった。
「それで?……思い出したのか?」
「一応ね。薬が効いてる間のことはほとんど思い出せないままだけど」
「そうか」
テーブルの上をじっと見つめて何かを考えていたディーンは、突如立ち上がって僕らに背を向けた。
「ならこの話は終わりだ。サム、帰るぞ」
「え」
「思い出しちまったんだから仕方ねぇだろ。仲良くディナーって気分でもないしな」
「ディーン、ちゃんとサムの話を」
「もう何も言うな。聞きたくない」
「おい、何もそんな言い方……」
「いいから早くしろ」
じろりと睨まれてここでの説得を諦める。これ以上何か言っても怒りを煽るだけだろう。店に迷惑をかけるつもりはない。
ディーンに「わかった」と返事をして、テーブルの上に何枚かの紙幣を置いて立ち上がった。
「ごめん、キャス。また連絡する。協力してくれてありがとう」
「大した力になれなくてすまない。君も、あー……応援している」
キャスは心配そうにしてくれていたが、どこか的外れな別れの言葉に思わず笑ってしまった。兄の怒りを買ったことで応援されるのは妙で、堪えていた怒りが静まっていく。
再度「ありがとう」と告げてディーンと共に店を出る。見つからないように動いていたことが功を奏して、別々の車で帰路に着くことができた。ディーンの先導する車についていく形だったから、当然離れることは許されなかったが、それでも一人で考える時間ができたのは助かった。
バンカーに到着し、車を元あった場所に戻して中に入ると、小難しい顔をしているディーンが待ち構えていた。
「見張ってなくても逃げないよ」
「どうだか。俺の弟は隠し事が大の得意みたいだからな」
しばらく一人で出歩くな、と付け加えてディーンはキッチンに向かって歩き出した。僕はその後ろを黙って着いていく。
キッチンに到着すると、ディーンは迷うことなく冷蔵庫に手を伸ばし、ビールを二本取り出した。そのうちの一本を投げて寄こし、どかりと椅子に座って勢いよくビールを呷る。
僕もカウンターに腰かけて、一口分の炭酸を流し込んだ。まだ中身が半分以上残っている瓶をカウンターに置いて、ディーンの横顔に向かって声をかける。
「ディーン、勝手に動いたことは謝るよ」
「なんだよ、殊勝だな」
「怪しい動きをしてたのは事実だからね」
「そうかよ」
「でも……隠し事をしてるのは僕だけじゃないだろ?」
「何だって?」
「ディーンも僕に言ってないことがあるはずだ」
「何の話だよ」
「ネイサンに捕まってる間の、僕が思い出せない何かをディーンは知ってるんだろ?だから昨日のことだってすんなり受け入れたんだ」
ディーンはビールを飲む手を止めて、じっと僕を見ている。そして、肯定も否定もしないまま視線を逸らした。
「悪いが、その話をする気はない」
「ディーン!」
「あいつの話はしない。二度とだ。胸糞悪い」
「……わかった。ディーンが言わないならネイサンに直接聞くよ」
「はぁ⁉」
話は終わりだと言わんばかりにビールを飲んでいたディーンは、僕の言葉を聞いて咳き込みながら勢いよく立ち上がった。椅子がガタン、と音を立ててバランスを崩しかけたが、ディーンの耳には届かなかったらしく、もの凄い剣幕で睨まれる。勢いのままに発せられた低い怒声がキッチンに響いた。
「自分が何言ってるかわかってんのか⁉お前を誘拐した犯人だぞ!絶対に許さん」
「でも、他に知ってるのはネイサンだけだ。ディーンが言いたくないなら、彼に聞くしかない」
「第一、どうやって話す気だ」
「それなら心配ないよ。もう居場所はわかってるから」
「……何?」
「彼の偽名も、どこの病院に運ばれたかも、もう調べてある」
「午前中になんかやってたのはそれか……」
額に手を当てて、ディーンは深くため息を吐いた。さっきまでの噴火のような怒りから迷いへと変化しているのがわかる。
僕が言い出したら聞かないのも兄は理解しているはずで、その予想通り、今回は譲るつもりはなかった。納得してもらえるよう願いながら、真っ直ぐに向き合う。
「頼むよ、ディーン。僕だって進んで会いたい訳じゃない」
「なら、これ以上調べなきゃいいだろ」
「それはできない。兄貴が言いたいこともわかるけど、このことに関しては知らないでいる方が気持ち悪いんだ」
そう言い終わって返事を待つ。すると、それまで視線を外していたディーンの顔がそろそろと動き、目が合ったかと思うと二度目の大きなため息を吐かれた。
座っていた席に戻ってビールを口内に流し込んだディーンは、投げやりに「わかったよ」と呟き、目を逸らしたまま言葉を選んで話し始めた。
ディーンが語った内容はこうだった。
あの日、買い物が終わっても僕が待ち合わせ場所に現れず、電話にも出なかったことでディーンは異変に気が付いた。しかし、その時にはもう拐われたあとで、しかも、狩りを終えたばかりだったから、見落としていた残党に襲われたんだろうと思い込んでしまい、初動が遅れた。
それからキャスや他のハンターにも協力してもらい、潜伏場所を割り出せたのが五日後だったのだそうだ。
ネイサンが監禁に使用していた小屋に突入したのはディーンとキャスの二人。ネイサンはディーンが来ることを予想して罠を仕掛けていたが、罠にかかったのはキャスだった。だからすぐに回復できて、問題なく潜入できたのだという。記憶の中にある破壊音はその時のものだろう。
それから戦闘になったそうだが、ネイサン一人に対して兄貴とキャスだ。ネイサンがどんなに足掻いても敵わなかっただろうことが想像できる。
それから、銃撃戦でネイサンが負傷したところを押さえ込んだディーンは、怪しい動きをしないようにキャスに見張らせて僕の様子を確認した。
「心臓が止まるかと思ったよ。お前の目は虚ろだし、ろくに返事もできなかったからな」
思い出しながらそう言ったディーンの声はやけに静かで、握り締めた拳が痛々しい。それでも続く言葉を待つ僕を見て、ディーンは話を進める。
無事とは言い切れないものの、僕が生きていることを確認したディーンは、奪われていた持ち物を回収した。そして、すぐに動けないようにネイサンの骨を折って僕を小屋から連れ出した――。
「その後はお前が知ってる通りだよ。薬のことはわからないから、一応病院に運んだ。以上」
そこまで言って、ディーンは目の前に置いたビールの最後の一口を飲み干した。
「……それだけ?」
「それだけってなんだよ」
「それじゃ説明がつかない。ちゃんと話してくれ」
「話しただろうが」
「……思い出した記憶の中に、ネイサンに何かされてる瞬間があった。兄貴は知ってるんじゃないか?」
「……何を思い出した」
「多分、兄貴が考えてるようなことだよ」
そう告げた途端にディーンの顔色が変わった。
正確に言うと思い出した訳ではなかったが、推測はしていた。嘘をついていると気付かれないように、冷静に、感情が乗ってしまわないよう意識しながら話す。
ディーンは反論しかけて思い留まり、言葉を飲み込んだ。睨み合うようにお互いの様子を見合う。簡単に全て話してくれるとは思っていなかったが、僕を気遣っているというだけではなく、ディーンにとっても嫌な記憶なのかもしれない。
ディーンは鋭く僕のことを観察していたが、その瞳にはどこか諦めの色も滲んでいる。このままでは僕が本当にネイサンに会いに行ってしまうこともわかっていて、それでも迷っているようだった。だから、最後の一押しを試みた。
「お願いだ、ディーン。覚悟はできてる」
そこまで聞いて、ディーンは渋い顔のまま小さく舌打ちをして、乱暴に頭を掻いた。立ち上がって冷蔵庫から新たなビールを取り出し、今度は席に戻らず口に含む。
「……お前の状態を確認してから、奪われた物を回収するために引き出しを漁ったんだよ。そしたら色々と出てきてな」
「色々って?」
「写真に録音機、バイブだのローターだのの大人の玩具」
「ああ……」
やっぱり、と頭の片隅で思ったが、それは声にならなかった。具体的に何を、というところまで考えてはいなかったが、性的な何かをされていたんだろうと予想はしていた。そうでなければ、自分の身に起こったことに説明がつかない。
ディーンは手の中の瓶をゆらゆらと揺らし、僕の顔を盗み見て、躊躇いながら言葉を続けた。
「写真は燃やしたし、録音機は壊した。データは残ってないから安心しろ。それに……お前だけじゃなかった」
「え?」
「常習犯だったみたいでな、いろんな奴の写真が保管されてたよ。ほとんどは未成年に見えた」
「それなら、どうして僕なんか……」
「お前、あいつと会ったことがあったのか?」
「え、と……確かまだ現場には出してもらえなかった頃に、一緒にサポート役で狩りをしたことはあるけど」
「じゃあ、それだな。ガキのお前の写真が混ざってた」
「そんな昔から……?」
ぞくり、と全身に鳥肌が立つ。敵に命を狙われることも、監禁されたこともあったが、それとは全く違う恐ろしさを感じる。気色悪さに指先が震えそうになるのを、自分の腕を掴むことで堪えた。
「……らしいな。だから両手を潰して放り出した」
「それであの悲鳴か。……もう悪さできないようにって?」
「ああ。ヤバい写真も服に突っ込んどいたから、救助された後で通報されてんだろ」
雑な物言いだが、きっと兄は僕のことだけで怒っていたんじゃないんだろう。新たな被害者が増えずに済んだのだと思うとほっとして、微かに息が零れる。
それを黙って見ていたディーンは、何かを言おうとして視線をさ迷わせた。これ以上に言いづらいことがあるのだろうかと不思議に思って首を傾げる。
ディーンは迷いながら小さな唸り声を上げていたが観念したようで、困ったように顔を歪ませてゆっくりと言葉を紡いだ。
「それから、あれだ……お前は最後まではされてない」
「は?」
「インポなんだとよ。事故の後遺症だかなんだかで自分じゃできねぇから、薬を飲ませた相手に道具を使ってたらしい。だから、お前は正真正銘のヴァージンだよ」
その言葉が理解できるまでしばらく時間がかかった。考えている間にじっとディーンの顔を見てしまい、その視線を受け止めきれずにディーンが顔を逸らす。僕はただ理解が追い付かなかっただけだったのだが、ディーンは違う意味で捉えたらしい。言葉を改めるときのように、ひとつ咳払いして僕の方を向いた。
「あー……ヴァージン、だった。昨日まではな」
躊躇いがちに、しかしはっきりと告げられた言葉は、僕を動揺させるには十分すぎた。今度は一瞬で意味を理解してしまい、カッと顔が熱くなる。昨日、ベッドの上で見た兄の姿を思い出してしまい、急に顔が見れなくなった。
赤くなっているであろう顔を見られないように、髪で隠すように俯く。心臓が激しく脈打っているのを、両手をきつく握ることで誤魔化そうとした。
その様子を見たディーンは、僕がショックを受けていると思ったらしい。珍しく物音を立てないように慎重に近付いてきて、僕の目の前に立った。
「なあ、サム。あいつは本物のクソ野郎だ。セックスドラッグまで使って自分の欲望を満たしてやがった。だから、昨日のことも、身体に違和感があってもお前は一切悪くない」
僕に向けられたのは、随分と優しい声だった。俯いたまま動こうとしない僕を宥めようと、ディーンの手が伸びてくる。それなのに、この動揺しきった顔を見られてしまうんじゃないかと思うと、咄嗟に手を払ってしまった。乾いた音が鳴り、ディーンの手が空中で止まる。
その瞬間、ディーンを包む空気が変わった。行き場を無くした指が拳を握り、穏やかな雰囲気が消えていく。僕はそれすらなかったことにしようと、静かに手を膝の上に戻した。
「大丈夫。いい気分じゃないけど原因はわかったし、自分のことは自分で対処できるようにする。兄貴に負担はかけないよ」
「は?……何言ってんだ?」
「だから、その、昨日のことは忘れていいから。事故みたいなものだろ?」
「おい。サミー、聞けよ」
ディーンが僕の肩を掴む。今度は腕の動きが速くて止められなかった。肩を押されたことで体勢が崩れて、顔を隠していた髪が揺れる。その隙間から、しっかりディーンと目が合った。
険しかったヘイゼルグリーンの瞳が、僕の顔を見て丸くなっていく。僕はスローモーションのようにそれを見ていた。
「……へぇ?サミーちゃんは事故でセックスすんのかよ」
ディーンの手が肩から離れて顔を覆う髪を除ける。隔てるものがない状態で見るディーンの視線はいやに真っ直ぐで、感情が乗っていない顔が必要以上に整って見えて恐ろしい。
それでもなんとか抗いたくて、頬に触れてしまいそうな手を退ける。必死に紡ぎ出した声は緊張で強張っていて、そのことに更に動揺した。
「セックスって、あれは治療の延長線上っていうか……」
「あんだけ悦がっておいて、セックスじゃねぇって?馬鹿言うなよ」
「あれはっ、ディーンが……!」
「ああ、そうだな。俺が突っ込んでイかせたんだ」
「……っ」
何か言い返そうとしたが、上手くいかなかった。全身が脈打っているみたいに熱を持ち、喉の奥が詰まって声が出ない。昨日のありとあらゆる光景と感覚が甦ってきて、じわりと瞳に涙の膜が張った。一言でも発すれば涙が零れてしまいそうで、僕は仕方なく唇を噛みしめた。
ディーンはじっくりと僕を観察して、少しずつ距離を縮めてくる。僕は逃げ場を失い、カウンターに体重を預けることしかできなかった。
「お前が今まで通りの方がいいって思ってそうだから、忘れてやろうかと思ってたが……やっぱやめた」
「何、が……?」
「男に、っていうか弟に勃つかよ、普通」
「でもっ、弟があんな風になって、失望してたのはディーンじゃないか」
「はぁ?ああ……それは俺自身にだ。暴行されてああなった弟に欲情した悪い兄貴にな」
「それは……兄貴は医者の、代わりに」
どうにかして理由を見つけ出そうとしたが、その途中で鼻で笑われ、言葉に詰まってしまった。ディーンは僕が反応を窺っていることを察し、身を乗り出して両手をカウンターについた。僕は密着してしまわないように懸命に身を引いたが、どうしても脚が触れ合ってしまう。ディーンの身体に囲われて身動きが取れない。
ディーンは固まった僕を嘲笑うように片方の口角を上げて、さっきとは違う軽やかな声で話し始めた。
「確かに最初は治療代わりのつもりだったが、それだけで最後までする訳ねぇだろ。ポルノの観すぎなんじゃねぇのか?」
「なっ、ディーンにだけは言われたくない!」
聞き慣れた口調でからかわれると、つい兄弟喧嘩のように返してしまう。習慣のようなそのやりとりが今は緊張を解してくれて、ほんの少しだけ肩から力が抜けた。
だが、続くディーンの言葉でまたすぐに心拍数が上がることになる。
「大体、あんな野郎に開発されやがって。俺の知らないところで触らせてんじゃねぇよ」
「か、開発って……それに、好きで触られたんじゃない」
「わかっちゃいるが、嫌なもんは嫌なんだよ。お前も男ならわかるだろ?」
「それ、は」
それは。それは――わかる。おそらく。もう随分と昔のことだけど、身に覚えのある感情だ。自分以外の誰かが彼女に触れていることが苦しくて仕方なかった。そんな瞬間が僕にもあった。でも、それは、その感情の先には、触れてはいけないものがある気がする。
ディーンの顔が近い。睫毛の一本一本まで見えてしまいそうだ。もうこれ以上後ろに下がることはできず、吐息が肌にかかるのを待つしかない。触れていないのに熱気が伝わってくるようで、僕の体温は上がっていくばかりだ。
僕の顔を覗き込むディーンは“兄”でも“相棒”でもない顔をしていた。
生まれたときから一緒にいた。人生の大半を共に過ごしてきた。でも、こんな顔の男は知らない。
ディーンは今、僕が見たことのない顔を見せているんだとわかってしまうと指先が震えた。心臓がバクバクと音を立てて脈打ち、ちっとも落ち着いてくれない。
何も言えないでいる僕の震える手にディーンの指が触れる。驚いて手を引いた拍子に、置きっぱなしにしていたビール瓶にぶつかってしまった。瓶が倒れる鈍い音が聞こえて、焦って手元を見る。
「あっ」
倒れた瓶から液体が流れ出るのが視界に映り、手を伸ばそうとした。だが、その前にディーンの手が頬に触れ、強引に顔の向きを戻された。
「ディー……っ」
「もう他の野郎に触らせんなよ。サミー」
そう言ったディーンの声は心地よく耳に届いた。視界を占めるディーンの顔が近付いてくる。このまま何をされるかわかっているのに、唇から目が離せない。
突き飛ばして逃げることだってできるはずなのに、僕はそれを選ばなかった。少しも動けないくらい僕は混乱していた。そして、自分の唇に熱い吐息がかかったとき、気付いてしまった。
昨夜、気持ちよかったのは本当は“何が”理由だったのか。胸が痛んだ原因はなんだったのか。
いつからか、どうしてなのかなんて自分でもわからない。だが、嫌悪感がないことは否定しようがない事実だ。それどころか、あの快楽を期待している自分もどこかに存在している。昨日受け入れていた時点で、とうに普通なんかじゃなかったんだ。
薬に侵されている訳でもない、至極まともな頭で思ってしまった。
ずっと、これが欲しかった。
こんな行き着く先なんてない関係に呆れ果てる。それなのに、触れ合った唇は酷く熱かった。