熱情 *

トムとキスをしたあの日から、どうするかずっと考えていた。
今までどおり、友人として振る舞う分にはなんの問題もない。
友人に欲情していると思っていたから気まずかったが、好きになった相手が友人だっただけだとわかると、いっそすっきりしてしまった。過去にもそういうことはあった。今回は性別が違うから混乱してしまっただけで、特別何かが変わったわけじゃない。
強いて言えば、友人の枠を飛び越えてしまわないように気を付けているくらいだろうか。
だが、そんな悠長なことは言っていられなくなってきた。タイムリミットが迫っている。
撮影が終わってしまえば、また会うまで時間が空いてしまう。そうなればトムの中であの出来事はなかったことになり、俺たちは永遠に親しい共演者のまま。
友人でいたいなら、そうするべきなのかもしれないとも考えた。こんな感情はなかったことにして、トムが思っている通りの関係を続けることもできる。
一度はそうしようかと思ったけれど、残念なことに俺はずるい人間だったから、違う選択肢を選ぶことにした。

わあっと歓声がスタジオの中に響く。
今日はトムの撮影最終日。そして、たった今撮り終えたシーンが最後だった。人々が彼の周りに集まり、口々に声をかけていく。それに一つ一つ丁寧に応えながら、みんなと抱き合い、お互いを労わる。終始、微かに寂しさを滲ませた笑顔をトムは浮かべていた。
人々の輪をトムが抜けると空気が変わり、それぞれ次のシーンの準備に取り掛かる。
トムは後からやってきた人にも順番に声をかけていき、一番最後に俺のところにやってきた。
「終わっちゃった」
「お疲れ様」
残念そうに呟いた友人を腕の中に迎え入れる。同時に背中に手が回り、鎧越しにぎゅっと力が込められた。
しばらく抱き締め合ってから離れると、ゆっくりと手を引っ込めながらトムは照れ臭そうに笑っていた。
「君とはまた会うのにね」
「それでも、ここでは最後だろ」
そう言うと安心したのか、トムは破顔し、それから続けて「後は頼んだよ、兄上」と、さっきまで演じていた声色でにやりと口の端を上げた。
俺はそれを返事はせずに笑顔で受け止める。すると、トムの表情は役のそれから彼自身へと戻っていき、不思議そうに俺を見上げた。表情の変化の一部始終を見て静かに声を出す。
「トムの部屋でのこと、覚えてる?」
「え?あ……と、多分、僕が考えてることが合ってるなら……」
周りに聞こえないように普段よりも低い声で囁くと、つられてトムも声を潜めて返事をした。
俺を見上げる青白い顔、その中心に力が入って皺になっていく。それに反応してしまわないように意識しながら言葉を続けた。
「あの話はまだ有効?」
「……え?」
「あの時は断ったけど、やっぱり頼みたい」
もちろんトムが嫌じゃなければだけど、と最後に付け加えて返事を待つ。
トムは迷っているようだった。俺の真意を探ろうと、じっと瞳を覗き込んでいる。それでも答えは見付からなかったらしく、視線が外れ、手で口が覆われて顔の半分が隠された。
その間も俺は黙って返事を待ち続ける。
答えを教えるつもりなんかなかった。心が無理なら身体だけでも、なんて、情けない奴の常套句だ。自分がそんなことをするとは思いもしなかった。
格好悪いところは見せたくなかったし、そもそもトムだって気持ちがある人間を遊び相手には選ばないだろう。俺ならそうする。お互いにそういう好意はないと思っていた方が後腐れがなく、今後も付き合っていくには都合がいい。
同じ現場で働くのは決まっているんだから、始まらないことがわかっているなら、何も始めない方が今後のためだ。
暫くの間黙って考えていたトムの顔から手が離れ、口が開く。
「いいよ」
たった一言、返事はそれだけだった。
トムの表情から迷いは消えて、あの夜と同じように真っ直ぐに俺を見つめている。
「じゃあ、打ち上げの後に」
「うん」
約束を取り付けると、トムは微かに笑って踵を返した。
顔が正面を向いてしまうギリギリの瞬間まで目が合い続け、透き通るグリーンが視界から消えたところで、ゆっくりと唾液を飲み込んだ。
喉元から小さな音が鳴り、そっと息を吐き出す。それでも体中に広がっていた緊張感はまだ消えてくれなかった。

全ての撮影を終えたら、その時がやってくる。それがいいのか悪いのか、俺には判断がつかなかった。

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