熱情 *

友人兼同僚をそういう目で見るようになってしまってからどれくらい経っただろうか。
夢を見た当日は、それは酷いものだった。
シャワーを浴びることで強引に気分を変えてみても、一度植え付けられた映像は消えることなく俺を内部から蝕む。
トムに会うとどうしてもそれを思い出してしまい、その日は最低限の会話しかできなかった。居合わせたスタッフにも珍しいとからかわれ、早くなんとかしなければと次の日には取り繕うことができたのは幸いだった。普通に笑えたことに安堵の息を吐いたのは記憶に新しい。
トムも違和感を感じていたようだったが、それについては何も言われず、気を使わせてしまったことを後で謝罪し、その話はそれで終わり。変わらない毎日が続いている。

しかし、直接的な夢を見たことで、俺はこれまでどこかで否定していた欲望を認めざるを得なくなってしまった。
撮影が進むにつれて、より良くなっていくチームワークの中で、俺のその感覚だけが異物のような気がしている。
トムだってそんなつもりであの話をしたんじゃないだろう。そんな風に見られているとは知らずに信頼して話しかけてくれる友人に対してはただただ申し訳なく思うが、自分でもどうしてこうなってしまったのかわからないのだ。
衣装を身にまとい共演者と話している様子を遠巻きに眺めていると、不意に目が合ったトムが笑う。こっそりとウインクを返すと、気付かない間に近くに来ていたらしいラファロが小さく笑うのが聞こえた。
「妬けるなぁ」
隣に並んだラファロは、持っている水が入ったペットボトルをゆらゆらと揺らして笑っている。
少しばかりいたずら心が芽生えて、正面を見ている同僚の肩をつついた。
「特別サービス」
そう言って少し下に向かってウインクをすると、受け取ったラファロが一際大きく笑った。
見上げた角度のまま、くしゃりと顔をゆがめて見せる。どうやら俺の真似をしているらしい。
何度か挑戦しながらラファロは顔に皺を寄せている。
「すごいなぁ。そんなにきれいにできないよ」
「子供の頃に練習した。ああ、トムもへたくそだよ」
「確かに!意外だよね」
「そう?トムっぽいけどなあ」
その言葉を聞いたラファロの目がまるくなる。それから噴き出して、もう一度ペットボトルで遊び始めた。
顔に浮かぶ笑みから、からかうような気配を感じる。
「本当、仲良いよね」
「大物だらけの中で若造二人だったから。特別にもなるだろ?」
「僕は今回が初参加だから少し羨ましいよ」
「すぐにそんなこと言ってられなくなるさ」
肩に腕を回し、力を込めて叩くと、同じだけの力が背中に返ってくる。持っていたペットボトルを落としそうになったのを揶揄して笑い合っていると、ラファロの視線が上がってひらりと手を振った。
その視線の先を追いかけていった先で、ラファロに応えてエヴァンスの手が上がる。少し離れたところでトムと一緒に、俺たちのことを話しているようだった。
その距離のままジェスチャーでからかい合っていることで、ずっとざわついていた気分が少し落ち着いていることに気が付いた。
トムは共演者で友人だ。馬鹿をやって笑い合う。他の出演者も同じで、少し付き合いが長い以外は変わらない。そう思えたことへの安堵だ。
トムが大きく口を開けて笑っているのを見て、勝手に身構えていたことが馬鹿馬鹿しくなり、朗らかな空気と共に少し肩の荷が下りたような気分だった。

その日の撮影を終えて、私服に着替えてスタジオの廊下を歩いていると、同じように着替え終えたトムが後ろから駆け寄ってきた。
「お疲れ様」
「トムもお疲れ」
簡単な挨拶を交わしたところで隣に並ぶ。そのまま出口に向かって歩いていると、トムが顔を覗き込むように横を向いた。
「ねえ、僕の部屋で少しご飯でもどう?」
「これから?」
「うん。気分転換に」
そう告げたトムは笑顔だったがどこか気遣わしげで、前に声をかけてくれたときからずっと心配させていたんだと察した。
俺が勝手に悶々としてしただけなのだが、申し訳なくて胸が痛む。
本当は今日少し楽になっていたけれど、そうすることでトムを安心させられるならと「そうしよう」と返事をした。俺の答えを聞いたトムが嬉しそうに笑う。何を食べようかと話しながらスタジオを後にした。

  *

静かな室内に笑い声が響く。二人きりで話すのは随分と久しぶりな気がした。
俺がそういう状況を避けてきたというのもあったし、単純に人数が多くて機会がなかったというのもある。ゆっくりと一緒に食事をするなんて、シドニー以来じゃないだろうか。
案内されたトムの部屋で、俺はソファに、トムは机に備え付けられた椅子に座っている。机の上では数冊の本が重なったまま端によけられており、空いたスペースに飲みかけの炭酸飲料が置かれている。
俺はソファの背もたれに体を預けて手の中にあるジュースを煽った。続けてテーブルの上にあるナゲットに手を伸ばす。その隣にはポテトと山盛りのサラダ。
最後に二人で飲んだときに酔いすぎたことが気まずくなる発端だったので、自然とアルコールは避けていた。
談笑しながら手を動かし、食料を口の中に放り込んでいく。
部屋について三十分ほど過ぎ、腹が満たされたところでトムの食事の手が止まった。
静かな瞳が俺の顔をまじまじと見ている。白い指先が逆の手を掴んで擦っていて、トムが迷っていることが伝わってきた。
そうして俺が観察している間に心が決まったらしく、ゆっくりとトムの口が動く。
「クリス、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「なんだよ、水臭いな」
「うん……もし違ったらごめん。僕、何か変なことしちゃったかな……?」
「え?」
「君に避けられてる気がして」
控えめに、けれどしっかりと届いた声で、今度は俺の手が止まった。持っていた缶をテーブルに置き、組んでいた脚を下ろす。
トムは少しだけ眉間に力を入れたまま俺の返答を待っている。絡み合った指は祈っているようにも見えた。その指先にきゅ、と力が入るのを見ながら、俺はどう答えたものかと頭をフル回転させていた。
誤魔化すべきか、少しだけ嘘を交えて答えるべきか、正直に話すならどうするのがいいのか。そんなことをぐるぐると考えたあとで、トムと向かい合うように体の向きを変えて座り直す。ソファが微かに音を立てるのと、俺が大きく息を吐き出すのはほぼ同時だった。
隠し事をしてぎこちない関係になるよりも、正直に話してくだらないことだと笑い合いたい。そう結論付けた俺は、どうかトムが馬鹿な男だと笑い飛ばしてくれるようにと祈って息を吸い込んだ。
「確かに避けてたけど、嫌いになったとかじゃないし、君は悪いことはしてない」
「じゃあどうして?」
「あー……俺が馬鹿なだけなんだ。シドニーで飲んだときに話しただろ?その、夜の……」
「ああ、うん」
「それでその、なんか想像しちゃって、勝手に気まずくなってた」
「……」
しん、と痛々しい沈黙が場を支配する。
トムは何も言わなかった。やはり不快に思われただろうかと不安が頭の中を支配しようとしていたが、それを振り払うために勇気を振り絞り、話しているうちに段々と下がっていた視線を上げていく。
そろそろと上げた目線の先にいるトムは、ぽかんと口を開けたままこっちを見ていた。予想外の表情に拍子抜けしてしまい、俺の口も開いてしまう。二人揃って口を半開きにしたまま見つめ合っている様子は、間抜け以外の何物でもないだろう。
「え、と……それだけ?」
「え?ああ……うん、まあ、俺ヘテロなのにとか、そういうのもあったけど」
ぽろりとこぼれ落ちた言葉にトムが目を伏せたことで、しまったと思った。整理できないまま不用意に飛び出してしまった声は、批判するような響きを含んでいなかっただろうか。そんなつもりは毛頭なかったが、焦りで心臓が激しく脈打ち始める。
トムはというと、視線を床に向けたまま何か考えているようだった。指が唇を撫で、端から端までを往復したところでゆっくりと目蓋が持ち上がる。
そして、さっきとは違う落ち着いた声でこう言った。
「試してみる?」
思ってもみなかった反応に思考が止まった。
固まってしまった俺を余所に、トムの表情も声も、ここに来るまでの間に「何が食べたい?」と言ったときとなんら変わりなかった。
視界から入ってくる情報と言葉が合致せず、何か聞き間違えたんじゃないかと必死に考える。だが、俺が答えを見つけ出すよりトムが動く方が早かった。
ゆっくりと立ち上がり、躊躇うことなく距離を詰める。足音を立てずに俺の真横に辿り着いたトムは、ソファの空いていた隙間に腰かけた。柔らかい布の表面が沈む。
膝がぶつかったことに動揺したのは俺だけで、トムは眉一つ動かさずに俺を見ていた。
「……え、と、試すって言った?」
「そう。君と、僕で」
なんとか絞り出した言葉も一瞬でかき消されてしまった。
囁くような柔和な低音は、聞き慣れた友人のものとは程遠い。声に含まれる色に反応してばくばくと心臓が高鳴る。その理由はさっきまでとは確実に違っていた。
返答に困ってしまった俺を助けるようにトムは言葉を続ける。
「試してみれば、はっきりすると思うよ。男も対象になるかどうか。無理だったら途中でやめればいい。実際に見ちゃった方が気にならなくなるかもしれないし……わからないままでいたり、知らない誰かとするよりいいでしょう?」
トムが喋っている間、向けられた瞳に吸い込まれたように動けなかった。声を発することもできず、どこか遠い世界の音のように聞こえる。
そのままじっと瞳の奥を覗いていると、それが視界いっぱいに広がって、次の瞬間には唇に柔らかいものが触れていた。
それがトムの唇だと気付くのに数秒かかったと思う。まず肌にぶつかったのが鼻だとわかって、それからキスされたのだと理解した。
薄いと思っていたそれは思いのほか弾力があり、優しく唇を啄んで離れていく。
再び距離が空くのに合わせてゆっくりと目蓋が開き、さっきより幾分潤んだ瞳が姿を現す。
それを認識した途端に、硬直していた肉体が一気に動き出した。
激しく動く心臓が送り出した血液が血管を巡って、指の先まで脈打ち、首から上が急激に熱を持つ。自分の変化に追いつけず、もう一度近付こうとしていた肩を慌てて掴んだ。
いきなり止められたことに驚いて、トムが息を詰める。
動揺を隠しきれないまま、俺は視線を少しだけずらして息を吸い込んだ。目の前の鎖骨を見つめたままで、まとまらない思考を声にする。
「悪い。続きはできない」
「……うん、わかった」
「トムが嫌いなんじゃない。それで気まずくなりたくないんだ。それに」
「それに?」
「遊びのセックスはしない」
「……うん、そうだね。君の言うとおりだ。僕の方こそ無神経だったよ。ごめん」
トムはそう言って申し訳なさそうに笑った。その瞳にも声にも、さっき確かにあった色はもう感じられない。
空気を戻そうとテーブルに放置していた缶を手に取り、一気に飲み干した。トムも残ったサラダを平らげる。そうやってなんでもない顔をして、日付が変わる前に部屋を後にした。

自分の部屋に戻るまでの間も、部屋に辿り着いてからも、トムの顔が頭から離れなかった。
シャワーを浴びている最中もトムの言葉と、触れた唇の感触と、自分が言ったことが繰り返し頭の中を駆け巡る。
全身を洗い終わり、泡を流す頃には大分冷静になっていた。そして、それによって最後の自分の言葉が何を意味していたのかようやく理解した。
半ば無意識に飛び出した言葉は半分本当で、半分は嘘だ。

気まずくなりたくないのは本当。遊びでセックスをしないと決めたのも。
だけどそれ以上に、トムにそうして欲しくなかったんだ。トムが誰とも知れない男に抱かれるのが嫌だった。
トムの遊び相手になるのも嫌だった。だから、咄嗟に拒否した。

思考回路がそこに結びついて、俺は今更ながら気付いてしまった気持ちに打ちのめされていた。
熱い湯を頭のてっぺんから浴びて全てを流そうとしても、一度脳にこびり付いてしまった想いは簡単には消えてくれない。きっと最初に意識し始めた日から片鱗はあったのに、そんな可能性は考えようともしなかった。
それに、向こうは抵抗がないというだけで、俺に対してどうこう思ってはいないだろう。答えを見つけた途端に手詰まりだ。
鬱屈した気分になり、タイル張りの壁に手をついて俯き、水の流れをぼんやりと眺める。
水を含んで垂れている髪が世界を遮断してくれることが、今はありがたかった。

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