この声を届けて

ヘム←トム前提のトムトム。ホヒ。IW公開前後にかけてのホくんががんばる話。少女漫画チックかもしれない。2ページ目はおまけ的な話。
細かいところがわからなかったので時期や設定がおかしくても許してください…。

僕がまだ子供の頃、もう大人になっていたその人を初めて見たのは四角い画面の中だった。
ただぼんやりと、すごい人なんだなと思ったのは覚えている。それ以上でもそれ以下でもなかったはずなのに、その人の目の前に実際に立つと、思っていたよりもずっと大きく、ずっと綺麗だった。
彼から見たら随分と幼く見えたのかもしれない。少し緊張していた僕に向かって、その人はやわらかくまなじりを下げて微笑んだ。
「初めまして」
穏やかな声が僕を包み込み、差し出された手を取る。
優しく僕の手を掴んだその手のひらは、想像していたよりも、ずっとずっと温かかった。

同じ名前だね、と言って笑うトムは気さくな人だ。緊張はあっという間にほぐれて、笑い合えるようになるまで時間はかからなかった。
それでも初めて二人きりの時間が訪れると、話が途切れる瞬間がある。黙っていることも出来たけれど、それはなんだかもったいないような気がして、頭の中でいくつかの話題を比べてみた。
何が盛り上がるだろうかと考えて、選んだのは共通の共演者の話。二人は仲が良いと評判だったから、それが一番いいと思った。
「僕、クリスと共演したんだ。クリス・ヘムズワース」
「ああ、そうだったね。クリスから君のことは聞いてたよ。面白いって」
そう言ってトムはそのときのことを思い出したのか、小さく笑いを堪えている。その様子を見て頬が熱くなった。一体何を言ったんだ、と、ここにいないクリスを恨む。
手のひらで顔を覆って赤みを誤魔化してから、クリスとふざけ合った話をした。少し仕返しの意味も込めて。
僕とクリスのバカみたいな話をトムは随分と楽しそうに笑ってくれて、それを見て僕も楽しくなって二人でけらけらと笑い続けた。トムとクリスのふざけ合った話も聞いて、このいかにも紳士然とした人がそんなことをするんだと思うと、意外さも相俟って余計に楽しくて仕方がない。
そうやって笑い合っている途中、ふと、本当に少しだけ、トムが不思議な表情をしたことに気付いてしまった。
懐かしい、に限りなく似ているけれど違う。
そんな優しいものだけじゃなく、もっと――もっと、なんなんだろう。
わからない。トムはその“兄弟”の名前を口にする瞬間、どこか遠い場所を見ているようだった。
ほんの一瞬のことだったはずなのに、楽しそうに笑う彼に、さっきの表情が重なって頭から離れない。
彼がその名前を口にする度に、他の人が目を離した隙に見せるその表情に気がつく度に、胸の奥をじくりと何かが蝕んでいく。その感覚には覚えがあった。
まさか、と思いながら完全に否定することも出来ず、彼の後姿を眺めながら僕はこっそりと頭を抱えた。
それが、彼に近付こうと決めた最初の日。

  *

「残念だったね。来られなくなって」
“誰が”とは言わなかったのに、隣に並ぶ彼はそれだけで全てを理解して苦笑を浮かべた。そんな彼の表情を横目で確認しながら、無造作に開けられた袋に手を突っ込んで、掴んだ菓子を口の中に放り込む。
一緒に過ごした数日間のイベントを終えて、明日には国に帰ることになる。
最終日の夜、せっかくだからと言って、スナック菓子やドリンクを持ち込んで彼の部屋に乗り込んだ。テーブルの上に広げられた色とりどりの袋と、缶や瓶。二人で平らげたそれらを眺めながら、僕らはソファに並んで座っている。BGMとしてつけられたテレビからは知らないCМが流れていた。
「彼は忙しいから」
少しだけ言葉を選んで、表情を崩さずにトムはそう答える。
その穏やかな表情の奥に一瞬の揺らぎがあったのを僕は見逃さなかった。彼に初めて会ってから今日までの間に、何度も見てきた視線。
その視線が向かう先にいる相手が誰なのか、とうに確信していた。どんな彼も見逃すまいとしていると、瞬間的に見せる揺らぎがどこから来ているのか、嫌でもわかってしまう。
トムの瞳の色が変わるのを見ると、腹の中でどす黒いものが渦巻きそうになるのに、彼の気持ちが変わったんじゃないかとつい確認してみたくなる。
そんなことはないとわかっているのに。
頭に血が上りそうになるのを堪えて、咀嚼した菓子を飲み込んだ。
「クリスの新作、上映が楽しみだね」
「うん、僕もだよ」
明るいトーンに切り替えて話を続けると、トムは嬉しそうに笑った。彼が俳優としてのクリスを観るのをどれだけ楽しみにしているのか伝わってくる。
そうやって笑うのが、僕のことだったらいいのに。
そう思いながら、ゆったりとくつろぐトムを眺めた。
隣に座るトムは無防備だ。長い脚を放り出して、胸のラインが服から透けていても気にもしない。僕がどんな目で見ているかなんて知らずに、友人として座っている。
こうやって二人で行動することなんて、もうないかもしれない。そんな考えが頭をよぎって、急に胸の奥がざわついた。もう、次はいつ会うのかもわからないなんて、嫌だ。
焦りと共に体温が上がる。頭の奥が熱い。
腕一本分空いていた隙間を埋めて、彼に近付いてみた。距離が近くなったことに気付いたトムが僕の動きを確認しようとこっちを向いて、少し驚いた表情を見せる。そのまま止められる前に一気に距離を詰めて、唇を合わせた。
身体を伸ばして触れた唇は柔らかく、少しだけ髭がくすぐったかった。
数秒だけ触れ合って顔を離す。きつく咎められるかと思ったが、トムはそうしなかった。少しの間硬直したかと思うと、眉を下げて困ったように笑ってこう告げた。
「……こういうイタズラは感心しないな」
それは余りにも残酷な響きだった。怒鳴られた方がマシだったかもしれない。
全く相手にしてないと、そう言われているようなものだ。
唇を引き結び、ショックなど受けていない風を装って向き合う。
「イタズラなんかじゃない」
「……本気でも、問題だよ」
「何が?男だから?」
「そういうことに偏見はないつもりだけど」
ああ、そうだよね。知ってるよ。だって、あなたが好きな相手だって男じゃないか。
そう矢継ぎ早に言ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、息を吸い込んだ。この人相手に冷静さを欠くわけにはいかない。僕の方が身長が低いのを利用して、彼の瞳を覗き込む。
「じゃあ何が問題なの?」
「君は若いんだから、ちゃんと相手は選んだ方がいい」
「選んでるよ。あなたが好きなんだ」
真っ直ぐに見つめながらそう言うと、トムは少し動揺したのか、初めて視線を泳がせた。彼の呼吸が変わる。こんな言葉一つで動揺する年上のひとが可愛くて、頬が熱くなった。
「トム。ちゃんと、あなたが好きだよ」
もう一度気持ちを言葉にすると、トムの瞳が揺れる。
ゆっくりと時間をかけて顔を寄せても何も言われず、そのまま二度目のキスをした。気持ちを伝えた上で触れてしまうとその心地よさに止まれなくなりそうで、いっそ止めてほしいとも思ったけれど、トムは一度も「やめろ」とは言わなかった。
目を閉じてキスを受け入れるトムを見ていると、この気持ちも受け入れてもらえるんじゃないかと錯覚しそうになる。どうか受け入れて、と願いながら薄い唇を舌で撫でてみると、そろそろと口が開いて舌を迎え入れた。
ゆっくりと舌を挿し入れて口内に触れる。熱い粘膜に触れて、どうしようもなく体温が上がっていく。ソファに置かれていた彼の手に自分の手を重ねると、彼の方から指を絡めてきた。ほんの少し湿った手のひらが、彼の興奮を伝えている。
「ベッド、行っちゃダメ……?」
唇を少しだけ離してそう囁くと、トムはゆったりと目を細めた。
「僕は悪い大人だな」
「いいところだけじゃない方が好きだよ」
僕の返事を聞いたトムは愉快気に笑みを深める。そのままキスをして、ゆっくりと立ち上がった。

  *

めくるめく夜だった、としか言いようがない。
思い出す度に、吐き出す息に熱が混じる。
目を閉じると記憶が鮮明に蘇ってくる。鍛えられているけれど適度な肉がついた胸を突き出して、トムが背を反らす。その肌の熱と湿り気。持ち上げた太腿の重み。臀部の柔らかさ。性器を包み込む粘膜の熱さ。耳に届く掠れた彼の声――。
「あー……」
小さく唸り声を上げながら自室のベッドの上を転がる。
何度ため息を吐いてみても、ベッドの上に置かれたスマートフォンに変化はない。それを確認してもう一度ため息を吐く。連絡は取り合っているけれど、僕から送ることの方が圧倒的に多かった。

あの日、トムとセックスをしてからもう二週間だ。
気持ちを伝えてすぐに身体を重ねてしまったけれど、トムは『好き』とも『嫌い』とも言わなかった。僕の気持ちを否定するでもなく、セックスのことは『よかった』と言ってくれたけれど、決して恋人になった訳ではない。
当然だけど、朝になってホテルを出てしまえばそんなことは話題にできず、彼にとっての僕は後輩で、年下の友人で、彼に好意を抱いている人間の一人。それ以外の何物でもない。そんなことは自分が一番よくわかっていたが、それで終わってしまうのは嫌だった。
拒絶はされていない。少なくとも、肉体は受け入れてくれた。
あの日に触れた肌の感触がいつまで経っても消えない。それに何より、好意を伝えたときの彼の顔が忘れられなかった。
戸惑いと、喜びと、罪悪感に揺れた瞳。ずっと彼のことは綺麗で心揺さぶるひとだと思ってきたけれど、あのとき染まった頬ほど愛おしいと感じたことはなかった。
そして、そう感じるほどに、クリスのことを想うトムの表情にやるせなくなる。思い出すと胸が詰まって、何度目かのため息を吐き出した。
あんなに可愛く笑うのに。クリスじゃなく僕にその顔を見せてほしい。そこに年齢とか、立場とか、そんなものは関係ないのに。
彼に好かれたいと思うほどに、それがどれだけ難しいかも感じている。頭がいい彼は、僕のためと言って首を縦には振らないだろう。それに、彼の中にいる存在は大きすぎる。
それはわかっている。それでも会いたい。伝えたい。せめて気持ちを伝え続けることは許してほしい。
「……よし」
誰に言うでもなくそう呟いて、僕は勢いよく上半身を起こした。スマートフォンを握りしめて立ち上がり、カメラを起動する。この部屋から見える空と街並み。それを写真に撮って送信した。
いつも一緒にはいられないから、彼と一緒に見たいと思ったものを撮影して送る。文字で『好き』と言う代わりに、メッセージと共に。
その日から、定期的に写真を送り続けた。
晴れた日には高い空を。暖かい日には道端で咲いていた花を。
美味しかったスコーン。僕になついた子犬。ビルの上から見た夜景。流行りの店で見つけたかっこいい靴。
僕が美しいと思ったものを、トムが隣にいたらよかったのにと思うものを、彼に届けた。
SNSに載せることはない、彼のためだけの写真。
独りよがりだと思ったけれど、少しでも彼の日常を彩ってくれたらと祈って送る。
すると、トムは律義にいつも返事をくれた。僕がどうしてそうしているのか、理解していたかはわからない。何通か送ったあとで、トムはただ『君からの写真が待ち遠しいよ』と言った。
それがどれだけ嬉しかったか。
撮影で忙しくなっても、そのやりとりは続いた。毎日、今日は何か見つかるだろうかと考えると楽しくなる。
そうやって彼に送った写真がフォルダに溜まってきた頃、珍しく彼からメッセージが届いた。
トムが送ってきたのは、一枚の写真。
細長い花びらの、あまり見たことのない花だった。いくつもの花弁が集まった薄紫のその花は、茎の緑が映えて綺麗だ。
嬉しい。でもそれ以上に、トムが写真を送ってきたということに驚きが隠せない。
僕と同じように、きれいだと思って送ってきたのだろうか?
疑問に思いながらも意気揚々と返事をする。
『キレイだね。なんていう花なんだろう』
『アガパンサスだって』
あっさりと名前を教えてくれたトムに、物知りなんだなと思って感心してしまう。僕は名前に聞き覚えすらなかったから。
彼から行動してくれたことが嬉しくて、その写真は保存して待ち受け画像に設定した。

それから数日後、仕事を終えて帰宅する途中で一通のメッセージが届いた。
表示されたトムの名前に心臓が大きく跳ねる。見ていたアプリを閉じてメッセージを開くと、そこには一枚の写真。すっと背を伸ばしたような赤い花。それには見覚えがあった。
『チューリップ?』
『正解』
当たったことにホッとしながら、前回と同じように画像を保存して待ち受け画像に設定する。
自分の手の中にある小さな端末に恋しいひとの存在を感じて、顔がにやけてしまうのを止められない。
トムが写真を送ってくれるなんて珍しいな、なんて思っていたのも束の間、数日後には新しい写真が届いた。

最初に写真を送ってくれた日以降、数日おきにトムから写真が届くようになった。写真が送られてくる間隔は決まっていないようで、時間もバラバラだ。
共通点は全て花の写真であること。
次に届いたのは伸びた枝に咲いた白い花。その次には大きな花びらで中心の色が濃い、紫のパンジー。その次にはたくさんの花びらが重なった、白やピンクの可愛い花――。
送られてくる花に共通点は見当たらない。名前を知っていたのはほんの一部で、ほとんどは知らない花だった。
僕が花の名前を尋ねると、トムはすぐに答えてくれる。好きなんだな、と思うのと同時に、僕は段々と違和感を覚え始めていた。
花のことは詳しくないけれど、今の時期に咲いている花だっただろうか?
そんな疑問を抱えながらも、トムが連絡をくれるという事実が嬉しくて、僕は変わらず画像を保存し続けた。
彼にメッセージと共に写真を送る。彼からも写真が届く。そんなやりとりを続けているうちに、トムから届いた写真は十枚目になっていた。

トムからその写真が届いたとき、画面を見ながらつい首を傾げてしまった。
スマートフォンに写し出されたのは、四つ葉のクローバー。花に疎い僕でもすぐにわかるし、植物ではあるけれど、果たして花と言えるだろうか。
『四つ葉のクローバーだよね?』
『そう。幸運のお守りになってくれるよ』
不思議に思ってトムに確認すると、そう返事が返ってきた。
花も実もついていない鮮やかな緑の葉に、突然どうして?という疑問は消えなかったが、彼の厚意を無駄にしてしまうような気がして、せっかくだからとお礼を言って画像に設定した。

そのまま何事もなく時間は過ぎて、クローバーの画像が届いてから五日。まだ次の写真は送られてこない。
そろそろ届いてもいい頃なのに、忙しいのか、送りたいものが見つからないのか、このやりとりが嫌になってしまったのか。
頭をよぎる悪い考えを振り払おうと、思い切り伸びをした。椅子に座ったまま突然体を動かし始めた僕を見て、メイク道具を片付けてくれていたスタッフが小さく笑う。
「疲れた?」
「少しね。でも元気だよ!」
そう笑って答えて血液が体に巡ったところで、つい手にした端末の画面を確認してしまう。だが、何度見ても彼の名前は表示されないままだ。
画面いっぱいに表示されたクローバーとにらめっこをする。
彼がくれたお守り。だけど、ずっとこの画像のままなのは嫌だ。早く変えさせてほしいと念を込めていると、後ろで作業をしていたスタッフがぽん、と肩を叩いた。
「すごい顔してるよ」
そう指摘されて顔を上げると、目の前の鏡の中には眉間に皺を寄せた自分の顔。そんな表情をしていたことに驚いた僕を見て、後ろに立つ女性はまた小さく笑った。
気分を変えるために再び腕を伸ばしたことで、手に握った端末の画面が鏡に写り、それが彼女の目に入る。
「それ、クローバー?ラッキーアイテムか何か?」
「うん。もらったんだ」
質問に答えて直接画面を見せると、改めて画像を見た女性は優しく笑った。
「素敵。あ、もしかして女の子?」
「違うけど……なんで?」
「ガールフレンドならもうひとつの意味もあるかも、と思って」
「もうひとつ?」
送り主が女性なのかという問いと、彼女が何を言っているのか全く繋がらず、仕事を続けるスタッフに向かって首を傾げる。僕が反芻した言葉に頷いて、彼女は続けた。
「四つ葉のクローバーは幸運の象徴だけど、花言葉にはもうひとつ意味があってね。それが『私のものになって』」
「……え?」
その言葉が脳に届いた途端、急に彼女の言葉が遠くなり、視線がゆっくりと手の中に向かっていく。端末のボタンを押すと、鮮やかな緑が画面いっぱいに広がっていた。
彼は『幸運のお守り』だと言った。それ以外の何かだなんて考えもしなかった。送られてくる写真はどれも綺麗で、それ以外の意味があるなんてこれっぽっちも――。
さっと、血の気が引いていくような気がした。慌てて彼からのメッセージを遡っていく。心臓が早鐘を打っていたせいで手が微かに震えていたが、構わず花の名前を順番に検索していった。
最初がアガパンサス。その次に赤いチューリップ。それからハナミズキ。紫のパンジー。ラナンキュラス。ペチュニア。リナリア。ミスルトー。ピンクの椿。そして、四つ葉のクローバー。
必死になってメモを取りながら送られてきた画像の花言葉を繋げていくと、それはしっかりと意味を成していた。

『これはラブレターだ。愛の告白だよ。君に関心がないと思ってる?
君のことで頭がいっぱいだ。君の魅力に目を奪われてる。君と一緒なら心がやわらぐんだ。
この恋に気づいて。キスしてほしい。恋しいんだ。僕のものになって』

画面の中に連なる文字の意味を理解して、一気に体温が上がった。急激に脳に血液が集まって、ぐらぐらと揺れる。
本当のことはわからない。都合よく解釈してるだけかもしれない。でも、こうして意味を知ってしまうと、もうラブレターとしか考えられなかった。
本人に伝える気があったのかもわからない、ひどく遠回しなメッセージ。
もしこのまま気付かないでいたらと思うと背筋が凍る。きっと彼は、何食わぬ顔で今までと変わらない付き合いを続けるんだろう。
そんな未来を想像すると、恐ろしさと同時に悔しさも込み上げてきた。そうやってなかったことにして、大人のフリをしていくなんて、僕は嫌だ。
急に動かなくなった僕を心配してくれたスタッフに笑顔で返事をして、深く息を吐き出す。
そして、少し冷静になった頭でトムにメッセージを送り、会う約束を取り付けた。
明日の夕方には答えが聞ける。今にも飛び出して行きそうになるのを堪えて、まずは目の前の仕事に集中するために立ち上がった。

翌日の午後。電車を降りて、駅を出てから歩くこと数分。用事をを済ませた僕は待ち合わせ場所に向かっている。
夕方とはいえまだ暖かく、生ぬるい風を感じながら足を動かす。イヤホンから流れている聞き慣れた音楽は、激しく脈打ちそうになる鼓動を鎮めてくれる。帽子を被ってしまえば、通り過ぎる人々も僕のことなんて気にならないようだった。
車が行き交う道を抜けて少し開けた場所に出て、約束の場所に指定された公園に向かう。敷地内に入るとアスファルトの色が変わり、一気に植物が増えた。
風で枝が揺れ、生い茂った葉が音を立てる。
その並んだ木々の先、木陰になっている場所にその人は立っていた。
歩みは止めず、手に力を込めて気合いを入れ直す。緊張も不安もあったが、ここで速度を落とす訳にはいかない。そうしてしまったら、気持ちまで落ちていくような気がしていた。
イヤホンを外してまっすぐに彼の元に向かっていくと、声をかけるよりも先に僕に気がついたトムが手を上げた。最後に会ったときと変わらない姿で笑みを浮かべている。
「待たせてごめん!」
「そんなに待ってないよ」
風で乱れた髪を整えながら、トムが見せる笑顔はいつもどおり柔らかかった。
彼の全てを視界に収めるには邪魔で、帽子を脱いで鞄にしまう。押さえ付けられていたせいで乱れた髪を、トムの大きな手がやさしく撫でた。はねた部分を押さえながら、トムは優しく僕を見下ろしている。
「食事には少し早いかな。どうしようか」
「せっかくだから少し散歩しない?」
どうするか決めかねていた彼にそう提案すると、トムは嬉しそうに笑って、いいね、と返した。
隣に並んでゆっくりと歩き出す。話す内容は大したことじゃない。最近何があったとか、友達のこととか。
くだらないことを話しながら周囲の様子を伺い、目的の話を切り出すための場所を探していた。さりげなく誘導しながら、人がいない方へと向かっていく。日陰が多く、見つかりにくい場所。
さっきよりも背の高い樹が植えられている場所に出て、僕は足を止めた。
そのことに気付いたトムも少し遅れて立ち止まる。風の音だけが二人の間を通り過ぎ、急に黙ってしまった僕をトムは不思議そうに見ている。
「どうしたの?」
これから何を言われるのか知らずに、トムは躊躇いなくその疑問を口にした。
勘違いだ、と困らせるだろうか。冗談だったと笑われるだろうか。それでも構わない。曖昧なまま消えてしまうくらいなら、その方がいい。
まっすぐに彼を見据えて、腹に力を込めて笑みを浮かべて見せた。
「写真、ありがとう。嬉しいよ。どれもキレイだった」
「ああ、君が綺麗な写真をたくさんくれるから、お礼だよ」
「……それだけ?」
「え?」
「本当に、それだけ?」
そう問うと、それまで柔らかく笑っていたトムの口角がゆっくりと下がっていくのが見えた。
その直後。一際強い風が吹いて、一筋の髪が彼の表情を曖昧にする。太陽はトムの後ろ側だ。陽の光が彼の表情を隠し、僕の表情を晒す。
「あなたからの手紙、受け取ったよ」
その言葉を聞いたトムが目を丸くして固まったかと思うと、それから時間をかけて表情を緩めた。
困ったように眉の端が下がり、ほんの少しだけ口の端が上がる。それはどこか見覚えがある表情だった。
静かに視線を地面に向けたトムを見つめたまま、次に出てくる言葉を待つ。しばらくの沈黙のあとでトムは小さく息を吐いた。
「そう……そうか」
ようやく聞こえてきたのは、微かに吹いている風に馴染む穏やかな声だった。それだけ呟いて、再び口を閉ざしてしまう。
否定も肯定もされなかったが、その言葉だけで僕は自分の考えが間違っていないと確信した。
さっきまでとは違う緊張で心臓の鼓動がうるさい。震える手に気付かれないように、彼から視線を逸らさず言葉を口にした。
「僕の勘違いじゃないよね」
「うん」
「なんで、ちゃんと言ってくれないの?ずっと気付かないままだったかもしれない」
「……最初は、偶然だったんだ」
トムは曖昧な笑顔のまま、ぽつりと話し出した。
「君が送ってくれる写真が楽しみになっていたのも、お礼をしたいと思ったのも本当。最初の一枚は偶然見付けて、お返しにと思って送ったんだ。綺麗だったから見せたいと思った。花の意味に気が付いたのは、君に名前を聞かれたときだ。調べていたらそのページに辿り着いて、恋の花だったって気付いたら、そうしたら……伝えてみたくなった」
半分ほど影になっている顔に張り付いた笑みが自嘲めいたものに変わる。僅かに伏せられた瞳は地面に向いたままだ。
数秒、間を空けてから言葉を続ける。
「でも直接言うのは憚られて、あの写真にしたんだ。他の花を探して、順番に送って……僕の自己満足だよ。だから、君が気付かないならそれでいいと思ってた」
そこまで言うと、トムはようやく顔を上げた。
しっかりと視線が交わる。
向かい合うトムは笑顔を崩さないけれど、僕はちっとも笑えなかった。胸の奥がじりじりと炙られているように熱い。その熱が溢れ出てしまわないように、きつく拳を握って声を絞り出した。
「僕がガキだから?」
「僕が、若くないからだよ」
答えるトムの表情は変わらない。どこか遠い場所を見ているかのような視線は、この短い期間に何度も見てきたものとよく似ている気がした。
「君にはもっといろんな選択肢が、未来がある」
夕陽を背にしたトムの表情はいつもより読み取りにくい。けれど、その分だけ声がはっきりと聞こえた。
耳に届いたトムの声が普段の何倍も優しくて、優しくて、そして、それ以上に痛かった。
彼の決意が、思いやりが、僕の中を一層ぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
見つめ合ったままの二人の間を支配している沈黙を破るために、一歩を踏み出した。残った最後の理性を手放さないように息を深く吸い込んで、数歩分の距離を一気につめる。
目の前に立っても変わらず黙ったまま僕を見下ろすトム。その顔から視線を外すと、腕を掴んで歩き出した。
アスファルトの境を越えて整えられた芝生を進んでいく。後ろからトムの慌てた声が聞こえても無視して足を動かした。トムは戸惑いながらも手を振りほどこうとはせず、僕が答えないとわかると黙って後をついてきていた。
視線を動かして見つけ出した、より周囲から隠れられる位置へと真っ直ぐに向かっていき、一際大きな樹の真下に辿り着いたところで振り返った。
トムの顔には不安の色が浮かんでいる。それを塗り潰すように、彼の襟を掴んで引き寄せキスをした。
突然バランスを崩されたトムはよろめき、目をまんまるに開いて、僕を潰してしまわないように樹に手をついている。
トムの腕が僕の顔の横で彼自身の体重を支えている様は、包まれているような錯覚を起こしそうになる。それを振り切り、彼が動揺しているのをいいことにゆっくりと唇を吸ってから解放した。彼の服を掴んだまま、至近距離で見つめ合う。
「あなたは優しいよ。初めて会ったときから、ずっと。それはあなたの美徳だけど、僕は守ってほしいんじゃない……!」
「……え?」
トムの口から微かに掠れた声が聞こえた。
それが何に対してなのかはわからない。僕はきっと情けない顔をしているんだろう。絞り出した言葉と共に、しまい込もうとしていた火花が溢れだし、声は上擦り、目の奥が痛い。
服を掴んでいた手を動かし、彼の首をなぞると、ぴくりと彼の肌が震える。そのまま両手でトムの頭を捕らえた。指先に柔らかな毛先が絡む。
彼に僕の体温が伝わるように、たとえ僅かであってもしっかりと触れながら揺れる瞳を覗き込んだ。
「ちゃんと僕を見て。今あなたに触れてるのは僕だ。ねえ、わかる?僕が好きなのはトーマス・ウィリアム・ヒドルストン。他の誰でもない!確かに年齢は追い付かないし、永遠があるかなんて知らないけど、今の僕はトムと一緒にいたいと思ってる」
言葉にすればするほど熱が籠り、コントロールできなくなっていく。理性と感情がぶつかり合っていても諦めたくなくて、目を逸らさず言葉を続けた。
「あなたが誰を好きでも、何を怖がってても、僕が吹き飛ばすから、だから、ちゃんと今の僕とあなたを見てよ」
じわりと瞳が濡れていき、それを堪えようとするほどに力が入って顔が熱くなった。微かに手が震えているのは彼にも伝わっているだろう。それでも声だけは掠れることなく、最後まで音にすることができた。
こんな情けない姿を見せるはずじゃなかったのに。そう思うけれど、彼の視線を受け止めることだけはやめなかった。
そうしている間に随分と時間が経った気がしたが、実際はほんの少しの時間だったのかもしれない。僕の話を聞いているときと同じ表情のまま、トムはほう、とゆっくり息を吐き出した。次いで小さな声がその口からこぼれる。
「……トム」
「何……?」
「たった今、目が覚めた気分だ……」
そう告げたトムの声は小さく、けれど穏やかなものだった。体勢を整えたトムの手が僕の腕に触れて、手に重なる。そのまま包み込んで、トムはそっと微笑んだ。
「僕は、君に甘えてばかりだな」
「まだ足りないよ」
「少しは厳しくしてくれよ」
くしゃりと表情を崩してトムが笑う。
目尻に皺が集まり、眉が下がり、白い歯がきれいに並んで見えた。木陰に隠された笑顔。太陽は彼の顔を照らしてはいないけれど、僕が見てきたどの表情よりも美しく、初めてちゃんとトムの笑顔を見た気がした。
そのまま僕のことをじっと見ていたかと思うと、トムは少し緊張した面持ちで口を開いた。
「……“彼”のことはね、ずっと遠い昔の、始まりも終わりもなかった話なんだ。僕が思い出をずっと見てた。それだけ」
「うん。わかった」
さっきの話で僕が気付いているということにトムは気付いたんだろう。瞳は相変わらず遠くを見ていたが、初めて聞くクリスとのことを話すトムの声は想像していたよりも随分と凪いでいて、この言葉は事実なんだろうと納得できた。
トムが甘えるように、僕の手のひらに顔を寄せる。僕は彼の力が抜けるように、そっと頬を撫でる。
僕の手を包む手のひらは温かい。その手の甲に風が運んできた一枚の葉が当たり、それをきっかけにトムは手を離した。更にその手を追うように僕も手を離す。だが、離れることにもうなんの抵抗もなかった。
僕の手には彼の温もりが馴染み、彼の瞳には僕が映っている。
僕は何度でも気持ちを伝えるし、トムは何度でも聞いてくれる。未来が不確定要素だらけでも、今は間違いなくそう思える。それでいい。
僕らの間に吹く風は、もうお互いを隔てるものではなかった。
小さく笑い合うと、自分の襟足を撫でながら、トムは暗くなり始めた空を見上げた。
「さあ、どうしようか」
「いい時間だし食事でも……」
この後の予定を考えるトムに提案しようとしたところで、遥か上空から再び下りてきた瞳が妖しく煌めく。そして、さっきまでの笑顔はどこへやら。いやらしい笑みへと変化した。
トムはわざとらしく声を潜めて、僕の瞳の奥を見透かしている。
「我慢してたのは僕だけだった……?」
彼がそう言うなんて思っていなくて、思わず言葉に詰まって唇を噛みしめる。トムは僕がなんて言うかなんてお見通しで、悔しいことに僕はそれを否定できない。今更隠しても仕方ないと、悔しさが滲んでしまう声で答えた。
「我慢してない訳がないでしょ」
「ディナーは後で?」
「当然。あなたには覚悟してもらわないと」
「怖いなぁ」
ちっとも怖いなんて思ってないくせに、そんな事を言いながら無邪気に笑う。そうやって笑ってくれるなら、多少の子ども扱いだって構わない。年齢も身長も追い付かなくても、こうやって隣を歩くことはできるから。
二人の時間を味わうために来た道を戻る。鮮やかな緑色の柔らかな芝生を並んで歩き、夕陽が差すアスファルトへと一緒に足を踏み出した。

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