慣れ親しんだ香りが鼻腔をくすぐる。緩やかに目を開けると、黒髪の隙間から白いうなじが見えた。
素肌にシーツを被っただけの弟は、腕の中で眠っている。
横たわる弟の頭の向こうにある星空を視界に入れながら、冷えた指先に自分の指を絡めた。
王宮に住んでいた頃よりもずっと狭くなったベッドも、二人で並んで眠ると自然と肌が触れ合って悪くない。
むき出しの首筋に口付けると、堪えきれないというようにロキの肩が震えた。それと同時に小さな笑い声が聞こえ始める。
「何をやってるんだ」とからかわれるか、はたまた「しょうがない」と甘やかされるか、どちらにしろロキの表情は笑みの形を作っているだろう。
三日月を描く瞳が見たくて、肩を引き寄せて身体の向きを変えるように促すと、視界に入ったのはロキの泣き濡れた顔だった。
目元を赤く染め、瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちて頬を濡らしている。
思わず呼吸が止まりそうになった。どうして、何が理由でこうなったのか全くわからない。
衝撃のあまり声をかけられずにいると、繋いでいたはずの指が喉に回された。そして、どこにそんな力があるのかと思うほどに、きつく締め上げられる。
ぐぅ、と喉の奥から声が漏れるが、ロキはそんな事は気にも止めず、どんどん首は締まり、圧迫感が増していく。
ロキは俺の上に馬乗りになり、押さえ込みながらボロボロと涙を流した。
「ミッドガルドに行かなければ!このままでいられたのに!」
温かい雫が頬を濡らす。
頭上から滴り落ちる涙が頬を流れていく。
「あんたが私から何もかも奪っていくんだ!いつも、いつも、いつも……!!」
喉に指先を押し込みながら、ロキは視線を逸らすことなく思いの丈を吐き出す。その泣き顔はどこか幼く見えて、手を伸ばして涙を拭ってやりたいと思ったところで意識が遠退いた。
*
勢いよく目が開く。視界に入ってきたのは無機質な天井だった。
バクバクと心臓は激しく脈打っている。
じっとりと気持ち悪い汗が服を湿らせており、そこでようやく自分が夢を見ていたことを理解した。
ソファーに座ったまま寝てしまったせいで首が痛い。だからあんな夢を見たのかと、重い息を吐き出し、凝り固まった首を回してうなじを擦ったところで、隣に弟の姿がないことに気がついた。
並んで座っていたはずのその場所は冷たく、一緒に観ていた映画はとうにエンディングを迎えたようで、メニュー画面が流れ続けている。
さっと血の気が引いた。
落ち着いたはずの心臓が再び激しく鳴り始める。
なぜ、どこに?今日は落ち着いていたからと油断した。もし寝ている間に意識が混濁していたら……。
ぐるぐると頭の中を忙しなく文字が飛び交い、喉の奥が絞まるような気がした。
「ロキ!」
声を張り上げて立ち上がり、玄関を確認しに行く。ドタドタと足音を立てて辿り着いた扉には、開けられた形跡はなかった。
それを確認して引き返しながらもロキの名前を呼び続けていると、ちょうどリビングに入るところでロキが不思議そうな顔でソファーの近くに立っているのが見えた。
「お兄さん、起きたんだね」
「ロキ!よかった……」
駆け寄って肩に触れてみたが、特に変わった様子はなく、安堵の声が漏れた。
「どこにいたんだ?」
「んー……内緒だよ?」
ロキは悪戯を企んでいる時のように、堪えきれない笑いを滲ませながら俺の手を引いた。
されるがままに後をついていくと、そこは放置されているはずの庭だった。
ロキの手が部屋と庭を隔てている扉を開く。すると、そこには赤い花が咲き乱れていた。
所々で白いものも見受けられるが、視界に拡がるのは一面の赤い花たちだ。
入り口で呆然と立ち尽くしていると、少し進んだ先でロキは立ち止まり、振り返った。その表情は得意気だ。
「きれいでしょ?」
「ああ……だが、どうやったんだ?今朝は土しかなかったのに」
「魔術で咲かせたんだよ!兄上に見せたくて、ずっと練習してたんだ」
「え?」
「前にミッドガルドに行った時に『きれいだ』って言ってたから」
しゃがんだロキは、赤い花びらに触れながらにこにこと笑ってそう言った。
不意に遥か彼方に沈んでいた記憶が浮き上がってくる。
*
「兄上、見せたいものがあるんだ」
狩りに連れて行ってもらおうと身支度を整えていた俺に、ロキは珍しく興奮した様子でそう言った。
だが俺は、まだ子供だからと遠出に連れて行ってもらえないことに不満を抱き、今日こそは無理矢理にでもついて行こうと思っていたところだったから、ロキのことは適当にあしらってしまえばいいなどと考えていたのだ。
ロキはそんな俺の頭の中を知ってか知らずか、後ろに回していた手を無邪気に差し出した。
「ほら、これ」
その小さな手には、摘み取られた花が握られていた。
赤い花びらの小さな花束を、ロキは笑顔で見せてくる。
「なんだ?それ」
「魔術で咲かせたんだ。兄上がミッドガルドで――」
「くだらない」
「……え?」
「花なんかどうでもいいよ。お前も魔術なんてやってないで、剣術を鍛えたらどうなんだ」
大して見もせずにそう言い放った俺に、ロキは唇を噛み締めて差し出していた両手を引っ込めた。
その頃の俺は、始めたばかりの武術が楽しくて仕方なかった。
剣を振り回す重みも、自分の体が思い通りに動くことも快感だった。
それと同時に大人と同等に扱われないことに苛ついていて、早く戦いに出たくて仕方がなかった。
だから、その花がなんなのか、これっぽっちも考えなかったのだ。
もっと幼い頃、父に連れられてロキと一緒にミッドガルドに来たことがある。
自分達が守るべき場所を見ておけと、まるで散歩でもするようにミッドガルドを歩いた。短い時間だったが、俺もロキもいたく感激して、アスガルドに戻ってもしばらくはその話で持ちきりだった。
しかしそれきりミッドガルドに足を踏み入れることはなく、成長と共に楽しみも増えて、自然とその話はしなくなった。
俺は体を動かすことの方が楽しくて、花や宝石を「美しい」と思うことよりも、剣を扱い、戦士たちの武勇伝を聞くことが日々の娯楽になっていった。
そうして俺は、自分が「きれいだ」と言った花の存在などすっかり忘れてしまった。
そうやって俺が簡単に興味を失ってしまった花のことをロキは律儀に覚えていて、喜ばせようとその花を咲かせてみせたのだ。
アスガルドには無い花を咲かせるのは、魔術を覚え始めたばかりの子供にとっては大層難しいことだっただろう。
珍しく俺が褒めた花を、もう一度見せようと研究したに違いない。
しかしその努力は認められるどころか侮辱され、ロキは何も言わずに部屋を出て行き、それ以降、純粋に魔術を見せにくることは減っていった。
*
ぽたりと、地面が濡れて染みが出来る。
一度流れ始めた涙は止まることなく、溢れ続けて頬を濡らした。
情けない声が出ないように手で口を押さえたが、その手も濡れて地面は色を変えていく。
なぜ気付いてやれなかった。俺が忘れたものをロキは覚えてくれていたというのに。
いつもそうだ。失ってからじゃないと気付かない。
夢の中のロキの声が耳元で鳴り響く。
ロキが大事にしてきたものを、俺はいつだって奪ってきたのかもしれない。
嗚咽が漏れてしまわないように奥歯をきつく噛み締める。ミッドガルドでのこの生活が始まってから、とうに涙など枯れてしまったと思っていたのに、一度流れ始めてしまった雫は止まる気配がない。
俯いたまま立ち尽くしていると、ロキが心配そうに近寄ってきた。
「大丈夫?どこかいたいの?」
「いや、大丈夫……大丈夫だ」
そう言いながら相変わらずぼろぼろと涙を流す俺を見て、ロキは困ったように眉を下げて足下の花を一輪摘み取った。
赤い花が差し出される。
「お兄さんにあげるよ。兄上に見せたいから、たくさんは無理だけど……はい」
「ありがとう……」
嗚咽混じりではあったがなんとか笑みを浮かべて目の前にある手から花を受け取ると、ロキはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた。
それを見て、新たな涙が頬を伝う。
最後にこんな表情を見たのはいつだっただろうか。気が付けば弟は、どこか影を湛えたまま笑うようになっていた。
本当は何百年も前のあの瞬間に、こうして受け取ってやらなければならなかったのに。大事なことに気付くのが、いつだって遅すぎるのだ。
泣き止まない俺に困ったのか、ロキはキョロキョロと周りを見渡し、少し離れたところにあった白い花を摘み取る。
「赤いのは兄上のだけど、この白いのは僕のなんだ。アスガルドにはない花なんだよ!」
「ああ、すごいな」
「これもあげる。何があったかわからないけど、きっと大丈夫だよ」
「……ロキ、お前はソーのことが嫌にならないのか?」
微笑むロキから白い花を受け取り、ずるいと思いながらもそう尋ねてみる。すると、きょとんとこちらを見つめて、しばらく視線をさ迷わせてから、目を逸らしたまま困ったように笑った。
「ときどき嫌になるけど、でも、兄上は兄上だから」
そう言ったロキの表情の柔らかさは、戴冠式の日を思い起こさせた。
本当は、変わっていなかったのはお前の方なのかもしれない。無意識に考えないようにしていた壊れてしまう前のロキとの思い出が溢れ出し、堪えきれずにしゃがみこんでその手を取った。
ロキは首を傾げ、どうしたらいいのかわからずに緩く手を握り返してくる。
「お兄さん?」
「大丈夫……もう絶対に手を離さない。ちゃんと待ってるから」
「……?わからないけど、いてくれるといいね」
「っ……そうだな」
声を堪えて泣き続ける大人を、ロキは根気よく宥め続ける。
そっと頭を撫でる冷えた手のひらが懐かしかった。
***
「バナー、少し頼みがあるんだが」
シャワールームに向かう直前、ソファーから少し離れた場所で記録を書き込んでいた僕に向かって、ソーが小声でこう言った。
「あの花について調べてくれないか?自分で手入れ出来るようにしたい」
僕はそれに頷き、ロキが子供向けの映画を観ている最中に作業に移った。
タブレットに取り込んだ画像からデータを拾い上げる。
検索結果を確認しながらマグカップの中身を胃に流し込んで、とりあえず静かな住人に胸を撫で下ろした。
この家に入ったときは、心底驚いた。
なにしろ土しかないと思っていた庭で花が咲き誇っていたし、ソーは屈んだまま涙を流し、ロキは立ち尽くしたまま途方にくれていた。
理由はわからなかったが、とりあえず二人をソファーに座らせて温かいお茶をいれてやり、ソーが握り締めていた花をコップに生けて落ち着くのを待つ。
しばらくして腫れた目のソーがシャワーを浴びに行くのを見送って、作業を開始した。
よくある花だが、ちゃんと生態を調べたことはなかったから、出てくる情報はどれも興味深い。
学名、形態、育て方――それらに目を通していった先で、ある情報が目に入った。
この花にも花言葉というものがあるらしい。
そういったものは女性が好むイメージがあり、微笑ましい気持ちでスクロールして、そこで手が止まった。
画面上に浮かぶ文字がどうしても彼らに重なり、ついさっきまで弱っている姿を見てしまっていたせいか、ふと視界が滲みそうになり目頭を押さえた。
これを彼に見せるべきかどうか、今の僕は決めかねている。
ソーがこの部屋に戻ってくるまでに決めなければいけないだろう。
子供向け映画の賑やかな音声が鳴り響く中、僕は画面とにらめっこを続けている。
Shirley poppy
赤色『慰め』『感謝』
白色『忘却』『眠り』