ひなげしを抱き締めて *

先日、スティーブ・ロジャースが残した記録に目を通しながら、ゆったりとソファーに腰かけてマグカップからコーヒーを口内に流し込む。
温かい陽射しの中でコーヒー片手に資料を読むなんて、宇宙を彷徨っていたここ数年では考えられなかったことだ。
思ってもみなかった穏やかな時間に、少し困惑してもいる。
すっかり馴染んでしまった他人の家。隣の部屋から静かな寝息が聞こえることを確認して、再び手元の文字列に視線を戻す。
そのまま過去の記録を遡っていたところで、玄関の扉が開く音がした。
顔を上げると、この家の本来の住人がそっと入ってくる。
「ロキは?」
「大丈夫。寝てるよ」
姿の見えない弟のために小声で話す。
今日のロキはひたすら眠い日らしい。僕がこの家を訪れてから、ほとんどの時間を睡眠に費やしていた。
ソーはゆっくりと息を吐き、持っていた紙袋をテーブルに置いた。
「それは?」
「ロキに食べさせてやろうと思ってな。前に美味いと言ってたから」
「確かに、ああ見えて甘いものは好きそうだね」
紙袋の中には、色とりどりのドーナツが入っていた。
砂糖に覆われ、カラフルな装飾がしてあるそれは、このエリアでは人気の商品だ。
袋の中身を眺めるソーの顔には優しさが溢れていたが、そこには寂しさも滲んでいた。
きっと前にもロキに買ってきてやり、このドーナツは弟の好物になったのだろう。
彼が覚えていれば、だけれど。
ロキの症状は一貫性がなく、日々変化し続けていた。記憶も、認識も、すぐに曖昧になってしまう。
回復のための手助けになればと、持ち回りで状態などの簡単な記録を付けていたが、彼が快方に向かっているのか、変わっていないのか、それすら把握出来ていないのが現状だ。
彼の意識が同じ状態で何日も持つのか、それとも数時間だけなのか、全く予想がつかなかった。
僕のことを認識出来る日もあれば、初対面から始めなければならない日もある。
それは誰に対してもそうだった。幼い頃から一緒にいたはずのソーやヘイムダルでさえも。
そんな弟の姿を見ているのは、ずっと共に育ったというソーは特に辛いだろうに、生きていてくれるならそれでいいと言って笑うから、僕たちは少しでも力になろうと決めたのだ。
「いつもすまないな、バナー」
「いいんだ。どうせ暇してる。それに、何かあったときに動ける人間は限られてる。だろ?」
困ったように笑うソーの肩を軽く叩く。
ロキは精神こそ幼くなってしまったが、身体は立派な成人男性だ。しかも人間よりも遥かに頑丈で力も強いフロストジャイアント。彼が力を使ったとき、人間の肉体では対処できない。だから、この家に出入りするのはアスガルド人で事情を知っているヴァルキリーとヘイムダル、地球人でも頑丈なキャプテンとハルク、もとい僕が中心だ。
トニーが来るときはアーマー必須、他の面々でも同様だ。
同じ家に住んでいるとはいえ、ソーはアスガルドの王でもあり、ずっと家にいることはかなわない。それに四六時中こもっていては参ってしまうだろうと、ソーが家を空けている間は交代で子守りを請け負うことになったのだ。

僕が温くなったコーヒーを新しいマグカップに入れてソーに手渡すと、彼は笑って受け取る。
二人並んでコーヒーをすするのは、決して悪い心地ではなかった。
彼の弟が起きてしまわないように、ぽつりぽつりと声を抑えて会話を続ける。
内容は主に移り住んだステイツマンの住人についてだ。
「たまにはアスガルドにも顔を出してくれ。コーグが会いたがってる」
「ああ、もちろん。みんながどうしてるかも見ておきたい」
一緒に船旅をしてきた僕としても、船の住人たちがどうしているか聞けるのは喜ばしいことだった。
アスガルドの状況を聞きながら、ふと視界に入ってしまったものが気になり、それについて尋ねてみることにする。
「そういえば『庭』は使わないのかい?」
リビングから扉一つ隔てて、この家には小さな庭が用意されていた。決して大きくはないが、ガーデニングをするには十分な広さになっている。
だがその庭は手入れされた様子はなく、剥き出しの土だけが見えていた。
「何かやろうかと思ったんだが、花のことがよくわからなかったんだ」
「なら、最初は育てやすくて生命力が強いのがいいかもね」
ふむ、と思案しているソーにいくつか候補を伝えてみると、予想以上に熱心に聞いてくれた。
このまま静かな時間が過ぎていくかと思っていたその時、隣の部屋からつんざくような泣き声が聞こえてきた。
嫌な予感に顔を見合わせ、カップを置いて隣の部屋へと駆け込む。
案の定、というべきだろうか。ロキはベッドの上に蹲り、シーツを握り締めて泣いていた。
押し殺されることなく吐き出された声は、容赦なく耳を突き刺してくる。刺激しないように注意しながらそっと室内へと足を踏み入れると、ロキの顔がゆっくりとこちらを向いて、目が合った。
まずいな、と思った瞬間、泣き声が大きくなって勢いよく吹っ飛ばされた。
衝撃波によって僕は床に転がり、ソーは壁にぶつかって小さな呻き声をあげていた。そのまま静かに立ち上がって、ソーはロキが座っているベッドへの距離を縮めていく。
ロキはわんわん泣きながら、時折言葉を漏らしていた。
「ちちうえ」「ははうえ」「たすけて」「ごめんなさい」「どうして」
文章にならないそれは、僕らにはわからないまま彼の精神を蝕んでいるようだ。
ソーの存在に気付いたロキは何度も彼を吹き飛ばしたが、ソーはめげずに近付いていく。
それを繰り返している間に、綺麗に並べられていた本は落下し、棚には傷がついた。
あと少しという場所まで近付いたところで、ロキから放たれたエネルギーが彼が座っているベッドにひびを入れた。みしり、という嫌な音を立ててベッドが割れていく。
「危ない!」
叫んだソーが大きく一歩踏み込んで、逃げる気配のなかった弟をベッドから引っ張り出した。無人になったベッドからは裂けたマットを突き破って、折れた金属の鋭い先端が飛び出している。
腕に抱えた弟ごと床に座り込んで、ソーは泣き叫ぶその身体をぎゅうっと抱き締めた。
「やだ!やー!」
「ロキ、ロキ、俺だ。もう大丈夫だ」
「しらない……!あにうえっ、あにうえぇ」
自分を抱いている人物が呼んでいる相手だとは気付かず、ロキは泣き続けた。
彼の身体から発せられる魔術がソーの皮膚を裂いていく。細かな傷をいくつも作り、それでも放そうとしないソーに、ロキは異空間から取り出したナイフを突き立てた。
鋭い切っ先が太い腕に食い込む。ロキがそれを抜いたことで血が流れ出し、今度は背中に突き刺さる。
さすがにまずいだろうと近寄ろうとしたところで、ソーに目線で制止された。
確かに、ロキの泣き声は少しずつだが小さくなってきている。今刺激するのは得策ではないだろう。
泣きながらナイフをきつく握りしめて離さないロキの背を、ソーが優しくさすってやる。根気よく、何度も。
「ロキ、大丈夫だ。大丈夫だからな」
「ううー……あにうえぇ……」
「大丈夫。ここにいるぞ」
「こわい……っ」
「……そうか、そうだな」
ぐずるロキを撫でてやりながら、会話になっていない会話を続けている間に段々と声は小さくなり、そのうちぴたりと止んだ。
今度は小さな寝息が聞こえてくる。
それが変化しないことを確認してから、静かに息を吐き出した。
どうやらロキは泣き疲れてしまったらしい。
彼がこうやってパニック状態に陥ることは定期的にあった。だから、比較的頑丈な僕らが子守り代わりをしている。
力の抜けたロキの手から慎重に抜き取ったナイフをソーから受け取り、破れかけのタオルケットをロキにかけてあげると少しだけ身じろぎ、ソーの腕の中に収まった。
「ありがとう」
「何も出来なくてごめん。これは持っていくよ。壊れた家具の手配はしておくから」
「ああ、すまない」
ロキが起きてしまわないようにヒソヒソと話を済ませて、物音をたてないように気を付けながら部屋を出た。
ソーはあのまましばらく動こうとはしないだろう。こういう時は彼に任せてこの場から離れた方がいいと、これまでの経験から学んでいた。
辺りを見渡すが、傷が付いた物はないようだ。ロキの力がリビングまで破壊しなかったのは不幸中の幸いだ。
冷めきったコーヒーを片付け、血の滲んだソーの背中を尻目に家を出る。
地面を照らす夕日が眩しい。もう間もなく、夕焼けは星空に変わるだろう。
僕は目を焼きそうな光に顔をしかめて、壊れてしまった家具をなんとかするために、ポケットに入っている電話に手を伸ばした。

***

バナーが出て行ってから、どれくらい時間が経っただろうか。
タオルケットごと抱えたロキの顔をぼんやりと眺める。
泣き腫らした目元は赤く染まり、頬にはいくつもの涙の跡が残っている。
そっとそれに触れると、ほんのりと温かく、ロキが確かにそこに存在していることを証明していた。
太陽はとうに消え去り、室内は月明かりで照らされている。
その青白い光が、ロキの肌を際立たせて見せた。
弟の重みを腕で感じながら、その翡翠の瞳が開けられるまで、ただ黙ってその時を待つ。

早く目を開けて俺を見て欲しい。
このまま少しでも長く、目を覚まさないで欲しい。

どちらも間違いなく本心だった。
どんな状態であれ、弟が生きて隣にいるということは喜ばしい。だが、苦しんでいる姿を見るのは、自分の身を裂かれるようにつらい。
それらが同時に存在してしまい、結局ただ抱き締めていることしか出来ないでいる。
「ん……」
小さな声と共に、腕の中でロキがもぞもぞと寝返りを打った。
少しずつ覚醒に向かっていることがわかる。
この生活には慣れてきていたが、それでもこの瞬間はいつも緊張してしまう。
果たしてロキは俺のことがわかるだろうか?また「兄上」と呼んでくれるだろうか?
無意識のうちに抱き締める腕に力が入ってしまい、ロキが眉をしかめる。慌てて力を緩めたが、ロキの意識は浮上してしまったようだ。
ゆっくりと目蓋が持ち上がり、緑の瞳が周囲を観察し始めた。
その先のことを想像して脈が速くなる。頼むから「知らない」なんて言わないでくれ。
祈るような気持ちでその顔を覗き込むと、乾いた唇がゆっくりと動いた。
「兄上……?」
「……ロキ」
「どうしたんだ、そんな傷だらけで……」
ロキの手が伸びて、そろりと傷付いた頬を撫でる。
身体を起こしたロキがニヤリと笑い、切り傷の表面を触ったせいで皮膚がぴりぴりと痛んだ。
「なんだ?敵にでも襲われたか?」
「ロキ……!」
投げられた軽口を無視してきつく抱き締める。加減など出来ないくらい、きつく。
ぎゅうぎゅうと力を込めてしまったために、耐久力を超えたロキの骨が反発してきた。
「ソー、苦しいっ」
「あ、ああ、すまない」
慌てて解放すると、ロキはわざとらしく深く息を吐いた。
突然の俺の行動の意味がわからず、不思議そうにこちらを観察している。そのままロキは手を伸ばして、腕に付いた傷を撫でた。
「一体なんだというんだ?こんなに怪我をして……兄上らしくない」
「……」
「誰にやられた?」
鋭い視線でじっと瞳の奥を探られる。だが俺は、その問いに返すべき言葉を持っていなかった。
何をどう伝えたらいいというのだろう。全てを説明するには、それは余りにも長い話のような気がしていた。
そして、それを伝えることで良い方に話が転がるとは思えなかった。
「なんでもないんだ」
ようやく喉の奥から捻り出した言葉は、それだけだった。
もちろん、そんな答えでロキが納得するはずはなく、眉間にしわが刻まれる。
「なんでもない訳ないだろう。こんな……」
声が途切れるのと同時に、傷付いた腕を撫でていた手の動きが止まった。
その視線はひたすら一点に向けられている。ロキがナイフで突き刺した、その傷跡に。
ロキは言葉を発することをやめて、注意深く傷を観察する。
何か言わなければと思うのに、上手い言葉が出てこない。嫌な汗が背を伝ったような気がした。
赤く裂けた傷に触れたまま、ロキは動こうとしない。
「……私か?」
しばらく黙ったまま何かを思案していたロキは、ぽつりと、それだけを呟いた。
「私がやったのか?」
返す言葉を失っている俺に対し、逃がさないと言わんばかりに視線で射ぬいてくる。
その表情は驚愕と不安に満ちていた。
突如背中に腕を回され、背中の傷を押されて思わず呻き声が漏れる。
それが刺し傷だと確認したロキは、その瞳をこぼれんばかりに大きく見開いた。
「私なんだな」
「ロキ」
「この傷も」
「ロキ……」
「この部屋も」
「ロキ、いいから」
「私がやったんだろう?」
「落ち着け」
「なぜ覚えていない!?」
「ロキ!」
「ここはどこだ!!」
周囲の情報を一気に取り込んだロキが激昂する姿は、さながら手負いの獣のようだ。
処理しきれない情報量に、半ばパニックになりながらロキは頭を抱えている。
「答えてくれ、兄上。私はなぜ何も覚えていないんだ……!」
乱れた黒髪が俯いた顔を隠す。
お前は何もしていないと、そう言ってやれたらいいのに、この聡い弟に上手く嘘をついてやることすら出来ない。
額に当てられた拳はきつく握られすぎて、白くなってしまっている。その指先をほどいてやり、引き寄せて抱き締めた。
「大丈夫だ」
「何がだ」
「なんでもない」
「なんでもない訳ないだろう!私の質問に答えろ、兄上!」
「いいから!!」
自分で思っていたよりも大きな声が出た。
離れようと腕の中でもがき、耳元で怒鳴り付けるロキをきつく抱き締める。
目一杯力を込められたロキは、苦しそうに息を吐き出した。
「いいから。こんなのは何でもない」
「兄上……?」
「こんな傷は痛くない。すぐに治る。だからお前が気にかけることはないんだ」
宥めるように、安心させるように、出来る限り落ち着いて言葉を紡ぐ。
ロキは俺の腕を振りほどくことを諦めて、大人しく話を聞いていた。
「大丈夫だ」と何度も繰り返す。それは最早ロキのために言っているのか、自分のために言っているのかわからなくなってきている。
穏やかに話すことを心がけていたはずなのに、繰り返された言葉は懇願しているような音に変わり、ロキを抱き締めているはずなのに、まるで俺がすがり付いているようだった。
しばらく黙っていたロキは微かな笑い声をこぼした後、俺の腕をぽんぽんと叩いた。
「兄上は嘘が下手だな」
「嘘じゃない。お前は何もしてない」
「……そうか」
そう答えると、腕の傷をロキの指先で押し込まれて思わず声が漏れた。
反射的に緩んだ腕から抜け出したロキはニヤリと笑う。
「これでも痛くないと?」
「お前、それはズルいだろう」
「どっちがだ」
悪戯に成功した弟は人を小馬鹿にしたような、楽しそうな笑みを浮かべている。
ようやくまともにお互いの顔を見て、ふと空気が変わるのがわかった。ロキの口元から笑みが消える。
流れのままに白い首筋に手を伸ばした。
伸ばした手は抵抗されることなく滑らかな肌に辿り着き、指先に揺れる髪が絡み付く。
ロキは少しの間こちらを見上げて、困ったように笑った。
「しょうがないから、兄上のつまらない話に騙されてあげるよ。その代わり、今すぐ私を抱いてくれ」
傷を撫でていた指が顔へと伸びる。
頬に触れ、髭をなぞり、眼帯を撫でた。
触れた箇所から熱が伝わり、どうしようもない衝動にかられて、皮膚を辿る指先を捕まえて唇に噛みついた。
タオルケットを床に敷き、その上にロキを組敷いて、隙間を埋めるように全身に噛み痕を残していく。
ロキの身体は素直に反応して雄を求めた。
月明かりだけが照らす部屋の中、その誘惑に抵抗することなく、少しばかり乱暴にロキを抱いた。

ゆらり、と意識が現実と夢の間をさ迷う。
身体はどこか気だるく、重い。
視界がクリアになっていくのと同時に、腕の中が空っぽなことに気が付いて、一気に目が覚めた。
壊してしまうんじゃないかと思う程にロキと抱き合った後、微睡んでいる間にどうやら眠ってしまったらしい。
ロキがいないという事実に血の気が引いていく。
勢いよく起き上がろうとしたその時、扉越しに物音が聞こえた。
ガタガタと何かを動かしている音に、ロキの存在を確認する。
急いで起き上がり、扉を開ける前に、部屋の棚の奥にしまってある小箱を取り出した。それは手のひらに収まるような大きさだったが、小さいながらも頑丈な鍵がついており、それを開けて中身を取り出しポケットに突っ込む。
その箱を棚に戻したところで、ガンっと何かが破壊された音が聞こえた。
嫌な予感に慌てて扉を開けて部屋を見回すと、髪を振り乱し、息を荒げているロキの背中が視界にはいった。
その手には折れた椅子の背が握られており、床には無惨な姿に変わり果てた座面が転がっていた。ロキの正面にある窓に傷がついていることから、椅子はそこにぶつけられたのだろうと想像出来る。
「ロキ」
「ソー……」
ゆっくりと振り返ったその表情は厳しく、先程まで睦み合っていたとは思えないほど鋭く睨まれる。
「ロキ、落ち着け」
「……落ち着け?落ち着けだと?ソー、一体なんなんだこの家は……!」
ぎっ、と余計に視線が鋭くなる。額に青筋が浮かぶほどに激昂したロキは捲し立てた。
「なぜこんなにあちこちに鍵がついてる!?小さな棚にすらだ!玄関だって、内側に向けて鍵があるのはおかしいだろう!!椅子で殴り付けても窓も割れない!!この家はなんだ!!」
一気に言い切ったロキは、肩で息をしながら返答を待った。俺が口を噤んでいると、その間にじわりとロキの瞳が濡れていく。
内側から開かない玄関、異常な強度の窓、一つも開けられない棚。
それらから導き出される答えに、ロキはもう辿り着いているのだろう。一縷の望みにかけて俺からの答えを聞き出そうとしているのかもしれない。
しん、と室内の空気が冷え込む。
長い、長い沈黙の後、ロキは歪に口角を上げた。
「何も言う気はないか」
「……もう、わかってるんだろう?」
「ああ、そうだな」
ロキはおもむろに椅子の背を投げ捨て、空いた手のひらにナイフを握り締めていた。
その切っ先がロキの喉元を真っ直ぐに狙っている。腕に力が入り、狙った喉の皮膚をナイフの先端が破る。ロキの体内に刃が引き寄せられてしまう前に、踏み込んでその腕を掴んだ。
ロキは力を抜こうとはせず、もみ合いになる。
「はなせ!」
「ナイフを捨てろ!」
「放せと言っている!!」
力では敵わないことはわかっているはずなのに、ロキは一向にナイフを手放そうとはしない。
睨むように見上げた翡翠の瞳が揺らいで、一筋の雫が頬を伝った。
「あんたを刺したはずなのに、全く覚えていない。この家も、自分のことも!」
引き離そうともがく身体に、より一層力が入る。
「こんな状態で、足手まといとして生きていくなんて御免だ!!」
「……すまない、ロキ」
半ば叫ぶような、切実なその声は心臓の奥を切り裂いた。
浮かんだ血管も、流れた涙も月光に曝されてより繊細に、か細く見える。首も腕も、こんなに華奢だっただろうか?
体格差ははっきりしている。それでも諦めようとしないロキの腕から、音を立てて電流を流した。
ばちり、と手元から音がしたと思った瞬間、ロキは小さな呻き声を上げてその場に倒れ込んだ。力が抜けた指からナイフを取り上げ、手の届かない位置まで放り投げる。
「卑怯だぞ、兄上……!」
「だから、すまないと言っただろう?」
床に膝をつき、乱れた黒髪を撫でると、微かに汗で湿っていた。
こちらに向けられたロキの顔は悔しそうに歪められ、大きくは動けないことがわかる。
だが、こちらが目を離している隙に、ロキは再びナイフを取り出そうとしていた。手の動きに気付いて止めると、その瞳に涙の幕が張る。
「……すまない、ロキ」
愛してると、それだけ呟いて、命に支障がないギリギリのところを狙って電流を走らせた。
衝撃に見開かれた目はゆっくりと閉じていき沈黙する。後に残ったのは静かな呼吸音のみだ。
手を伸ばし、頬を伝う涙を拭ってやる。

これは俺の我儘だ。わかっている。それでも、自分のことを邪魔だと言って離れていく弟の姿は見たくないのだ。
もう、二度と。

***

「王様?入って平気?」
玄関先に取り付けられたスピーカーに向かって声をかける。
大きな物音は聞こえないから、片が付いたか膠着状態かのどちらかだろう。
しばらく待ったあとに「ああ」と返事がスピーカーから帰ってきて、鍵を開けて中へと入る。
玄関――多少乱れているが問題なし。
キッチン――棚に取り付けられた電子ロックがエラーを起こしているが、開けられた形跡はなし。
リビング――傷付いた窓と、床と、破壊された椅子。倒れて動かない王弟殿下と、その真横に座り込んだまま動かない我が国王陛下。
入り口に向かって背中を向けているために、その表情は窺い知れない。大きなはずの背中は、とても小さく見える。
「もうすぐヘイムダルも来ると思う」
「そうか」
「薬は?」
質問に答える代わりに、ソーはポケットに手を突っ込んで薬剤を取り出して床に放り出した。
使っていないということだろう。
「今回は何で止めたの?」
「……雷で」
「そう」
気絶させたのなら、しばらくは目覚めないだろう。休めるようにしなければと隣の部屋に踏み込み、壊れたベッドを見付けてため息を吐いた。
代わりのものが来るまでこの部屋は封鎖だと決めて、開きっぱなしになっていた扉を閉める。
「とりあえずソファーにでも寝かせてやったら?」
「ああ、そうだな」
小さく頷いたソーがロキを抱えて立ち上がるのを横目で見つつ、床に放置された薬剤を回収する。
小さな針がついたそれが使われなかったことに安堵して息を吐いた。
ソファーに視線を移すと、横たわるロキの枕元にソーが座り込んでいた。
「すまないな、ヴァルキリー。寝てただろう」
「別に。いつでも起きれるように訓練されてるから」
出来るだけ暗くならないように軽い口調で返すと、意図を汲んだソーが微かに笑った。
この家で異常が起こったときには、私やヘイムダルに連絡がくるようになっている。
なぜなら、ロキが家から出ようとしたのはこれが初めてではないからだ。

ミッドガルドに到着して倒れたあと、子供返りを起こしたロキは、ごく稀に正気に戻ったようなそぶりを見せることがあった。
初めは症状が改善したのだと、誰もが喜んだ。
しかし、彼には倒れた後の記憶がない。この家にも、並んでいる絵本や玩具にもロキは違和感を示した。
そんなロキに対して、これからよくなっていくのだとしたら、彼自身にも理解してもらった方がいいだろうと症状を説明したのだが、その時は大人しく聞いていたロキは、その日の夜、この家を脱走しようとした。
その逃走劇自体は未遂で終わり、この家の玄関に厳重な鍵が増やされた。
そして、その次の日には元の状態に戻っていた。
どうやらまだ安定しないらしいと結論付けられたが、希望が見えたようで、ソーの表情はいくらか明るくなった気がしていた。

次に正気に戻ったとき、あったことも説明されたこともロキは何も覚えていなかった。それどころか、前回正気に戻ったときよりも過去に意識がいるらしく、ミッドガルドに到着したことも知らなかったのだ。
そして前回と同じように違和感に気付いたロキは逃走を謀り、玄関扉が開けられなかったので壁ごと窓を破壊した。
やはり前回と同じように逃走に失敗し、ロキはまた子供に戻ってしまった。
窓と壁が修理され、攻撃にも耐えられるような頑丈なものに変えられた。

また暫くしてロキの意識は大人になった。今度はぼんやりと子供返りしている間の記憶もあるようだった。
しかし覚えていたが為に現状に堪えられず、大人しくしている姿を見せた後、同じように逃げ出そうとし、窓の破壊に失敗して家から出られないとわかったロキは、キッチンの引き出しから包丁を取り出して自ら首を切り裂いた。
もっとも、彼自身が驚異的な回復力を持っていたので、大事には到らなかったけれど。
その時から、ありとあらゆる棚に鍵が取り付けられた。

ロキが家を破壊するだけではなく自死を選ぶということが判明したので、ロキを沈静化させるための薬が用意された。
アスガルドの民が調合したそれは、小さな針がついた容器に入れられ、簡単に取り出せないように厳重に保管された。
そしてそれは、確かに効果てきめんだった。逃走を謀るロキに薬剤を投与すると、すぐに大人しくなった。
しかし、倒れたそもそもの理由が毒だったので、決していい手だとは言えなかった。それがどう影響するのか未知数だったからだ。
そしてロキは眠りにつき、また幼子として目覚める。
時には雷で、時には薬で、時には拘束具も使って、ロキが姿を消してしまわないように、ありとあらゆる手段を使ってこの家に留め続ける。
何度も、何度も、何度も、何度も――。

記憶の狭間をさ迷い続けるロキを見守っている私たちの近頃の心配事は、壊れてしまった彼自身よりも、それを見続けている兄の方がそのうち壊れてしまうのではないかということだった。
「見てるから少し休めば?」
「ここで大丈夫だ。ありがとう」
声をかけても、ロキの顔を眺めたまま、そこから動こうとはしない。
眠くなったらその場で寝てしまうつもりだろう。
ソーは弟を見放そうとはしない。それがどんなに苦しいことだとしても。
普段は威厳を持った王として振る舞っているが、この瞬間は弟を心配する兄でしかなく、普段は見上げている巨体が私よりも小さく見えた。
座り込んだソーとロキからゆっくりと視線を移していくが、目に映るのはどこか生活感が欠けた無機質な部屋だけ。
外界から隔離されたこの場所が、私には時折箱庭のように思えた。
ここから外に出ることも、外から何かを受け入れることも無い、ここだけで完成された箱。
それは何も生まないと思うのに、箱庭の主が時々、とても穏やかに笑うことを知っているから、私は何も言えなくなる。ほら、今だって。
ぼんやりと二人のことを観察していると、顔を上げたソーと目が合った。その存外に穏やかな瞳を苦い思いで見返すことしか出来ず、笑みを浮かべてごまかす。
「飲み物とってくるけど、なんか飲む?」
「ああ、頼む」
ひらひらと手を振り、二人に背を向けてキッチンに向かう。その途中で、元番人の到着を知らせる声がスピーカーから響いた。
それに返事をし、冷蔵庫を開けて中を物色している間に、玄関からは扉を開く音。
どうせまんじりともせずに朝を迎えることになるだろうと、飲み物とつまみをいくつか掴んでリビングへと足を向けた。

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