ひなげしを抱き締めて *

ラグナロク後、地球に無事に辿り付いたアースのお話。IWは関係ありません。
幼児退行してるロキと地球で一緒に暮らす兄上の日常と非日常と。
※体は大人、中身は子供なロキがいます

小さな窓から射し込む柔らかな陽射し、空調の整った部屋。
最低限の家具と、家の外から聞こえてくる人々の賑わう声。
穏やかなこの空間で、僕はただ一人のことを眺めている。
ヒーローとして親しまれた偉大なるキャプテンも、今はただの子守りにすぎない。
ただ黙って見ているのも落ち着かず、立ち上がって床に散らばった紙のうちの一枚を手に取る。
そこにはぐちゃぐちゃの人のようなものが描いてあった。
「これは?」
「……ちちうえ」
床に膝をつき、目線を合わせて笑いかけると、おずおずと小さな返事が返ってきた。
ちらりと合った視線は知らない人間に対しての戸惑いを表している。
「こっちは?」
「ははうえ……」
もう一枚手に取って尋ねると、今度は返事が少し早く返ってきて、彼なりに歩み寄ろうとしていることがわかって自然と笑みが深くなる。
確か5歳くらいだと言っていたはずだ。人間の年齢で考えれば、だけれど。
彼が『母』だと教えてくれた絵はキラキラと輝き、その人は満面の笑みを浮かべている。
「すごく綺麗だ」
手に持っている絵をそう讃えると、彼は嬉しそうに頬を染める。
微笑んだ彼は散らばった紙の山を漁って、その中の一枚を取り出した。そしてそれを僕に向けて見せる。
「これが、あにうえ」
こちらに向けられた絵は、確かに彼の兄の特徴を掴んでいた。
金の髪に青の瞳、赤い装束は間違いなくソーのトレードマークだ。幼い頃から変わらないんだなと思うと、ついつい笑ってしまう。
「よく似てる。自分の絵は描かないのかい?」
そう聞くと、彼は今しがた描き終わったばかりの絵を手に取って見せてくれた。
そこにあったのは、家族の絵。
父と母に挟まれて子供たちは笑顔を浮かべている。
僕は彼のことを知らない。彼ら兄弟に何が起こったのか、実際に見ていた訳でもない。僕が知っているのは、彼ら家族は大きな問題を抱えていたということだけ。
だが、その絵からはそんなことは微塵も感じられなかった。
そこにいたのは、仲のいい家族。
不安など感じさせない、暖かな人たち。
「これが、ぼく」
彼が指した緑の服を纏った人物もしっかりと笑っている。
僕は少し胸が苦しくなって、一瞬言葉に詰まってしまった。
胸を占めた感情を捨て去る。僕が彼を憐れむなんて、そんなことがあっていいはずがない。彼に対してそんな失礼なことはない。
「……素敵なご家族だね」
なんとか笑みを浮かべてみせる。
褒められて、彼は屈託なくにっこりと笑った。余りにも無邪気なそれに微笑ましくなり、頭を撫でてあげると彼は照れてはにかむ。
素直な反応にこちらまでくすぐったいような感覚に襲われて、僕はそれを処理しきれずに壁に掛けてある時計を確認した。
時刻は夕方に差し掛かろうとしている。
本日の子守り担当としては、子供のお腹を空かせるわけにはいかないだろう。夕飯の準備をしなければ。
「僕はこれから食事の準備をしなくちゃいけないんだ。君も一緒にリビングに来てほしいんだけど、テレビを見るかい?」
「本がいい」
「よし。じゃあここを片付けよう」
床に分散した紙や鉛筆、クレヨンを二人で一緒に片付けていく。
筆記用具をまとめてある箱にそれらを収納し、箱ごとしまってから残ったものがないことを確認して振り返ると、彼は本棚に向かって真剣に悩んでいた。
隣に並んで背表紙を眺める。
科学用語が続いた難しそうなものから絵本まで、各種様々なものが並んでいる中から、彼が手に取ったのは子供向けの本だった。
色とりどりの挿絵が描かれている少年らしい冒険譚。
「それにするのかい?」
「うん」
じっと表紙を見つめ続ける彼に尋ねると、ぎゅっと本を抱いて頷いた。
「それじゃあ行こうか」
彼の背を軽く叩いて促すと、小走りで部屋を出ていく。その背中を眺めながら、後に続いて部屋を出た。

彼の周りの世界を彼自身がどう認識しているのか、僕には知る由もない。
彼より大人であるはずの僕よりも彼の方が背が高いことも、彼自身の手足が大きいことも、今の彼の世界では大きな問題ではないらしい。
リビングにあるソファーに飛び乗るように座った彼は、意気揚々と本のページをめくり始める。そのまますぐに冒険の世界に入り込んでしまった彼は、目を輝かせて文字を追っていた。
そこから動く様子がないことを見届けてからキッチンに向かう。とは言っても、キッチンはすぐそこだ。
冷蔵庫から適当な野菜をいくつか取り出す。ハムやチーズも出してから、それらを切るための包丁を取るために引き出しに手を伸ばした。
棚の端に取り付けられた機械に、ロックを解除するための番号を入力する。続いて目をカメラに合わせて生体認証。
ようやく開いた引き出しから包丁やまな板を取り出して、さっそく作業に取り掛かる。
もうすぐこの家の主が帰宅するだろう。その前に終わらせてしまいたい。
缶詰を使って簡単なスープを作り、煮込んでいる間に切った野菜をパンに挟んでいく。豪勢とは言えないが、トマトやレタス、ハムやチーズが入ったボリュームたっぷりのサンドウィッチをいくつも皿に並べていると、本を抱えた青年がふらりとやってきた。
「いいにおい」
「もうすぐ食べられるよ」
スープの匂いにつられてやってきたらしい彼は、鍋の中身を確認してにこりと笑った。
そんな彼を可愛らしいと思ったところで、玄関から微かな物音。
それにいち早く気付いた彼は、鍋のことなど忘れて玄関に向かって駆け出した。僕もコンロの火を止めてその後を追う。
「あにうえ!」
僕がその姿を認識するよりも早く、駆けていった青年の嬉しそうな声で主の帰還を知った。
「あにうえ、おかえりなさい!」
「ただいま、ロキ。いい子にしてたか?」
「すごくいい子だったよ」
「そうか。世話になったな」
「おかえり、ソー」
僕から答えを受け取ったソーは、ロキの髪がくしゃくしゃになるまで撫で回した。
兄に誉められたロキは余程嬉しかったようで、眩しい笑顔で頬を紅潮させている。
本を戻してくるように伝えると、パタパタと足音を立てて走っていく。
そんな彼を二人で見送り、姿が見えなくなったところで顔を見合わせた。
「本当にいい子にしていたよ。落ち着いてたし、問題はなかった」
「そうか」
ソーはほっと息を吐き出す。その安堵した様子から、出掛けている間も気が気ではないのだろうと想像出来た。
「アスガルドの方は?」
「ああ、とりあえずは一段落だな。お前たちのお陰だ。ロキのことも……手間をかけてすまない」
「それはいいんだ……これについては、僕たちにも責任がある」
しん、と沈黙が降りる。
彼のことを考えると、どうしても苦い思いが僕たちを締め上げる。
ロキがこうやって生活するようになったのは、この土地にやってきてからだった。

ある日、巨大な宇宙船が僕たちの頭上に突如現れた。
また宇宙からの攻撃かと一騒ぎあったのだが、その船から降りてきたのがソーだったので、話の方向は一気に変わった。
ソー曰く、彼の故郷は爆散してしまい、地球に居を構えたいのだという。
揉めた。それはもう世界各国、あらゆる方面から意見が飛び交い、彼らの処遇をどうするべきか話し合った。
ソーとアスガルド人だけならまだしも、見知らぬ異星人もいたし、何よりもロキが一緒だった。
彼がこの国において犯罪者であるという点だけは変えようがない。
だがいつまでも宇宙船を放置しておく訳にもいかず、一先ずロキは処遇が決まるまで軟禁状態で保護観察。 他の住人たちには纏まったエリアに暮らしてもらうことになった。住居は都心から少し離れたところに用意され、それよりももう少し離れた場所がソーとロキの家になった。
住居が整うまでは政府の管轄にいることが条件だ。
それが決まってから、ロキの監視付きの軟禁生活が始まった。
武器や凶器になりそうなものはことごとく遠ざけて、魔術にも十分警戒する。ロキのことだからすぐに何かやらかすだろうと初めは誰もが目を光らせていたが、我々の予想に反して、ロキは文句を言うでもなく大人しく暮らしていた。
それには誰もが驚いた。
かつて見たロキの姿とはうまく重ならない。彼の思惑がわからなくなって、
「逃げ出そうとは思わないのか?」
と尋ねてみたことがある。
ロキは訝しげに顔をしかめ、馬鹿なのか?という意志が透けた瞳をこちらに向けた。
質問に対する彼の答えはこうだった。
「今、私が逃げ出せばミッドガルドはアスガルドの民を受け入れないだろう。それは私の望むところではない」
彼の意見は至極真っ当で、しかし、それを彼が口にすることが不思議でもあり、変化を感じさせた。
家具すらない簡素な部屋で、何一つ装飾のない服を身に纏い、与えられた食事だけを口にする日々。
囚人と変わらないその生活を、彼は静かに享受していた。

しかし、それはほんの僅かな時間のことだった。
暴れる様子もなく、僕らも少しずつ彼と言葉を交わすようになってきていたその日、彼は突然倒れ、そのまま昏睡状態に陥った。
本当に突然のことだった。
傍にいたソーは、特におかしな様子は見受けられなかったという。
すぐに医療に明るい者が集められ、青い顔をした彼を取り囲んで治療にあたったが、地球の技術で出来ることはそう多くはなかった。
アスガルド人の医療の心得がある者を中心に、アベンジャーズの面々も知恵を絞り、ようやくわかったのは原因が毒物だということだけだった。
真っ白い部屋の中、ぽつんと置かれたベッドに横たわりロキは眠り続けている。
ソーはそこを動こうとしなかった。動かない弟の顔を見続ける。じっと。

ロキの看護と同時に毒物の調査も続けられた。
成分自体はありふれた薬物だった。普通の人間であったなら助かることはまずない強力なものだが、奇しくも彼は普通の人間ではなかったため、命を落とすことはなかった。しかし、本来ならば倒れることすらないだろうとアスガルド人たちは言う。
それだけ彼らの肉体の造りは僕たちとは違うはずで、彼が倒れた理由はやはりわからないままになってしまった。
そして彼が目を覚ます少し前、ロキが口にしていた食事に毒物を混入した人物はあっけなく見つかった。
政府の保護下にある囚人に毒物を盛るなどという事件を起こしたのは、まだ年若い青年だった。犯人の正体が明らかになった時、ソーが怒りのままに暴れることがなかったのは、彼がNYの事件の被害者遺族だったからだろう。
紐解いてしまえば簡単な話だ。青年はチタウリ襲撃の際に家族を亡くし、その首謀者に復讐を果たそうとした――それだけのこと。
それだけのことのために、優秀な頭脳を持ち、政府の機関に配属された彼は、自分の未来を捨てたのだ。
誰も、何も言えなかった。
ロキも自業自得だと言ってしまえばそれまでだが、だからと言って暗殺されていいという話ではない。意識不明の人物に対して「お前が悪い」と言えるほどの悪人はその場にはいなかった。
かといって犯人の青年が悪いと言える者もいなかった。僕たち自身もロキを受け入れることなど出来ないと、そう考えていた人間の一人なのだから。
やり場のない想いを抱えて佇む中、ソーの拳がきつく握られていたことをよく覚えている。

そうしてロキの病状に進展のないまま時間が過ぎようとしていた時に彼は目を覚ました。
ソーが見守る中、ゆっくりと緑の瞳が姿を現す。
ぼんやりと天井を見上げた後、殊更時間をかけて辺りを見回し、兄の姿を確認した彼は、使われていないせいで掠れた声でこう言った。
「だあれ?」
彼は、長い間同じ時間を過ごしたはずの兄を認識することが出来なかったのだ。
ロキが目覚めたと連絡を受けた僕らは施設に集まり、その現状に頭を抱えた。
彼の記憶はあやふやで、その場にいた誰のことも理解出来なかった。ソーのことも兄だと説明してみたが、彼にとっての兄はまだ子供で、大人のソーのことは受け入れがたいらしく、余計に困惑させてしまっただけだった。
僕たちが予想外の事態に困り果てていると、タイミングよくやってきたのがヴァルキリーだ。
彼女は僕たちを別室に呼び出し、一つの小さな袋を見せた。ステイツマンで見つけたというその袋の中には、何かの粉が入っている。
「たぶん、ロキはこれを使ってた」
その一言で部屋の空気が凍った。ソーの様子を横目で窺うと、見てわかるほどに顔色が悪くなっている。
「こりゃなんだ?薬物か?」
「まあ、そうね。元はグランドマスターが作ったブッ飛ぶやつ。ミッドガルドには存在しないわ。王子サマは改良してたみたいだけど」
「改良?用途は?」
「睡眠導入剤みたいなもんね。ちゃんと調整されてるみたいだし、これだけなら害はないと思う」
「これだけなら……ね」
トニーとヴァルキリーのやりとりを見守っていた誰もが、恐らく同じ結論に辿り着いていた。
確かに問題なかったのだろう。”これだけなら”
だが不運にも彼の体内には違う薬物が入り込んでしまった。それは体の中に残った成分と混ざり合い、いとも簡単に彼を壊してしまった。
それが脳なのか、精神なのか、僕にはわからない。
彼が何に悩んでいたのか、彼が眠れなかった原因は何なのか、きっと誰にもわからない。
わかっているのは、彼のこころが幼い時代を彷徨っているということだ。

「ごはんたべよう!はやくー!」

彼の幼い呼び掛けに現実に引き戻された。
苦笑を浮かべたソーと目配せをして、ダイニングに向かう。
「ロキ、手を洗ったか?」
「うん!」
楽しそうに笑う兄弟の声を聞きながら、食事をテーブルに並べていく。
どこにも向けられない想いを抱えた友人の助けに、少しでもなれていることを願って。

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