雨の夜の秘密 *

幸せになりきれないヘムトム。R-18は少しだけ。

一度。たった一度だけだ。
彼と僕は知り合って間もなくて、二人とも今よりも若くて、ただ一緒にいることが楽しかった。
だから、わからなかったんだ。

仕事を終えて、次の日は久しぶりのオフだからと、ホテルの部屋で二人でアルコールを飲みながらくだらない話をして。
僕が肌寒いと言ったことがきっかけだったのかもしれない。
何があった訳でもない。ただなんとなく視線がぶつかって、気が付いた時には唇が触れあっていた。
そんな雰囲気などなく、ただ、自然に。
抵抗することもなかった自分に驚いて、目を見開いたまま、離れていく彼のブルーの瞳を眺める。
僕が驚いたのと同じように、彼も何が起こったのかわからず驚いていた。
二人揃って訳も分からず見つめ合ったまま、沈黙だけが空間を満たしていく。
先に動いたのは彼だった。
慌てて視線を逸らし「部屋に戻るよ」と席を立ち、自分の部屋のキーを握りしめて背を向けた。扉を開ける直前に「おやすみ」とだけ告げて。
僕は立ち上がることも出来ずに、静かにその背中を見送った。閉じてしまった扉に向かって小さく「おやすみ」と返事をしたが、彼には届かなかっただろう。
僕はまともに動くことも出来ず、唇に残された感触に全神経が集まってしまったようだった。
そっと唇をなぞる。
そこにはもう温もりなどなく、いつもの自分の乾いた感触があるだけだった。
それなのに、いつまでも柔らかな温もりが掠めているようで、僕は動き出すことを諦めた。
床をひんやりとした空気が這っていく。
雨が降っていた。

  *

その日は結局まともに眠れず、起きたときはオフでよかったと心底思った。
クリスもオフのはずだ。どうしているだろうと頭をよぎるが、さすがに昨日の今日で連絡することは出来なかった。向こうからも何の連絡も来ていない。お互いに気まずいのだろうと思い、そこを考えるのはやめた。
明日からはまた一緒にいる時間が増えるのだから、まずは明日、ちゃんと今まで通り話せるようにしなければ。
全てはそれからだ、と、外の空気を吸いに行くことにした。動きやすい恰好で自然の風に包まれながら、何度も頭の中を通り過ぎるブルーの瞳を無かったことにするために一日を費やした。

一先ずちゃんと眠れるところまでは落ち着き、これなら明日の撮影もなんとかなるだろうとベッドに潜り込んだ次の日。
正常に目覚め、いつも通りの身支度をしてホテルの部屋を出て、いつも通りの顔をして現場に向かう。
スタッフたちに挨拶をしながらスタジオを進んでいくと、先についていたらしい彼の姿が目に入った。
スタッフと笑顔で話している彼にどう話しかけるかと一瞬考えている間に、彼の方がこちらに気が付いた。
一瞬、本当に一瞬だけ、彼の顔から表情が消える。
おそらく二人にしかわからないであろう短い時間、確かに彼は何かを思い、そしてすぐにそれを消して「トム、おはよう」と手を振った。
僕はほんの少しの動揺を無かったことにして、同じように手を振り返して挨拶をして、輪の中に滑り込んだ。
他の誰も不審に感じないように、ごく自然に彼の隣に並ぶ。
驚くくらい、彼は普通だった。
一昨日の晩、その唇に触れたなどとは微塵も思わせない振る舞いで、いつものように僕の肩を抱き、僕は背中を叩いて返し、触れ合い、笑い合った。
自分が全てを隠せているかは不安だったけれど、ほっとしている自分もいた。
クリスに避けられたりしなくてよかった。
あれが何だったのか話すにしても、二人きりになってからだろう。みんなの前では彼に合わせていれば大丈夫だという安心感があった。
しかし、僕はそれを後悔する。
昼になり、夜になり、何度も休憩時間をはさみ、次の日も、その次の日も、彼とその話をする機会は訪れなかった。
それについての連絡もない。僕も何と言っていいのかわからなかったし、二人で話せるタイミングが来た時でいいだろうと、そう思っていた。
そんな時にやってきた二人きりの時間。
少し早めに撮影を終えて、僕は久しぶりに彼を食事に誘った。彼も二つ返事で「YES」と答えてくれたから、僕は嬉しくなって少しはしゃいでいたのかもしれない。
疲れていたくせに軽い足取りでラフな服に着替え、食事の準備をし、彼を部屋に招いて二人で食事をとった。
並べられていたテイクアウトの品がどんどん消えていく。撮影のこと、役のこと、くだらないこと、色々なことを喋りながら、話を切り出すタイミングを窺っていた。
そしてわずかな沈黙の瞬間、僕はそれを切り出そうとした。
「あのさ、クリス……」
「ん?どうした?」
僕の決死の一言は、最後まで紡がれることはなかった。
目の前のクリスはあまりにも普通で、こちらの意図など全く気付いていないようだった。
なんでもない、それまでと同じ雑談を話す時のトーン。真っ直ぐ返される視線。
その違和感で、僕は気付いてしまった。これが彼の答えなのだと。
クリスは相手の様子に気が付かない男ではない。なら、彼はあえてそうしているのだ。
そうすることを選んだのだ。
ちくりと心臓が痛んだことは無視して、息を吸いなおして、口角を上げる。
「この話知ってる?この前の撮影でさ……」
こっそりと、秘密を共有するように面白おかしく話を進めた。
クリスもそれに合わせて少年のようにふざけ始める。
大丈夫。ちゃんと笑えているはずだ。あの夜よりも前の二人と何一つ変わらずに。
今まで通りの距離感で笑い合いながら、僕は初めて、自分の秘められた気持ちを知った。

  *

それからは、なんの変哲もない日々が続いた。
撮影は順調に進んだし、彼と僕はとても相性のいい仕事仲間。
僕らが仲が良いことはプラスになったから、インタビューでもどんどん話した。
そうこうしているうちに一つの作品が終わりを告げて、彼と関わることが少し減って、それでもシリーズは続いていたから、また同じ現場になって、気が付いたら彼は“父親”になっていた。
お互いに少しだけ歳をとって、関わる作品が増えて、関わる人が変わって、そうしている間に、会えない時間に伝わってくる彼の情報は、専ら家族中心のものになっていった。
小さな赤ん坊を抱きしめる彼の写真がネットの海を漂う。
その子が大きくなり、赤ん坊が増えて、絵に描いたような幸せそうな家族がそこに現れる。
子供たちと笑顔でじゃれ合う彼を見て、心からよかったと思った。
これがあるべき姿だ。
彼に直接写真を見せてもらった時も素直に可愛いと思ったし、僕は彼の仕事仲間でいられる。こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
彼が家庭を築いている間に僕も恋愛はしていたけど、上手くはいかなかった。けれどそれは僕自身の問題だ。
彼の幸せを素直に祝えたことに、ひどく安心した。これでいいんだ。

そうやって、彼への想いを忘れたのかどうかも曖昧にしたまま時間は過ぎて、僕はまた彼の隣に並んでいる。
彼と兄弟でいるのはいつ以来だろうか。こうして彼の隣に並んで立つのも、きっと後わずかだろう。
撮影はとても楽しかった。彼も新しい仲間たちもユニークで、誰もが現場を楽しんでいた。
クリスとぎこちない瞬間があったことなんて、もう遥か昔のことのようだ。
僕自身、もう忘れた気になっていて、だから、油断したのだ。

その日は少し撮影が長引いて、遅い時間に解散になった。
次の日はオフだからどうしようかと考えていたら、クリスも明日はオフだと言う。
話の流れで、じゃあ久しぶりに一杯飲もうかということになり、二人で買い出しに出かけた。
ホテルの近くの店に入り、簡単なテイクアウトの品をいくつか注文していると、ぽつぽつと音を立てて雫が地面を叩き始めた。
「雨?」
「ああ。酷くならなけりゃいいけど」
細かな雫がパラパラと降り注ぎ、ゆっくりと地面の色を変えていく。
カウンターから差し出された食品を受け取り、二人で手分けして抱えてホテルまでの距離を一気に走る。
まだ降り始めたばかりだったおかげで、毛先が湿り気を帯びる程度で済んだ。
エントランスで軽く水分をはらい、並んで歩きだす。
向かうのは僕の部屋だ。
エントランスを抜けてエレベーターを待っている間に雨足は強くなってきて、地面を激しく打ち付けている。
「すごい雨だね」
「ああ」
ほとんど独り言のように呟いて、すぐに会話は終わってしまった。
ゆっくりと光を移動させながらエレベーターが下りてくる。
ぼんやりとそれを眺めていると、湿度を含んだ空気がじっとりと肌に纏わりつくような気がした。ああ、雨の匂いがする。
そう思ったところで光が“1”で止まり、金属の箱が口を開く。
二人でそれに乗り込み、数字が書かれたボタンを押すと、そこは密室になってゆっくりと動き出した。
機械音だけが響くその空間で、湿った髪をかき上げる。指先についた雫を見て、ふと、そういえばあの夜も雨だったと思い出してしまった。あの日に見たブルーの瞳も思い出して、いけないと思考を無理矢理振り切る。
一つ息を吐いて体勢を変えると、降ろした手の甲が、隣に立つ彼の手の甲にふいにぶつかった。
心臓がどくりと跳ねる。
けれど、あの記憶が甦っていたところだったからだと、なんとか落ち着こうとする。そのとき自分自身の反応に驚き、つい横を向いてしまったのが良くなかった。
彼も、こちらを見ていた。
目が合ったことに彼も驚き、でも逸らすことも出来ず、言葉も交わさないままお互いの瞳を見つめ続ける。
そして一度ぶつかった手の甲が、触れるか触れないかのところでぴたりと止まった。
その距離から離れることはない。今度は意思を持ってその距離を保っていることは明確だった。少しだけ距離を縮めて、皮膚と皮膚がわずかに触れ合うところで止まる。
それ以上は近付かない。手のひらを合わせることも、指を絡めることもない。
けれど、僕らは確かに触れ合っていた。
目が離せない。彼の瞳はこんな色をしていただろうか。ずっと見てきた美しいブルー。なのに初めて見たような気がして、心拍数が上がり続けている。
身体が熱い。

時間が止まってしまったのかと思うくらい長く感じたけれど実はほんの一瞬で、箱はあっという間に密室では無くなってしまった。
二人でエレベーターを降りて、再び機械が動き出す音を背中で聞きながら、ゆっくりと足を動かした。
言葉はなく、靴の下の絨毯の感触だけが確かなものだった。
密室からは解放されたというのに、鼓動は治まる気配がない。
どうするべきかわからずにいるうちに、部屋の前まで来てしまった。
今から解散というのもおかしな話だし、とにかく自分が落ち着けば万事解決するのだと、そう信じて扉を開けた。
しかし、それは間違いだったとすぐに理解することになる。

部屋の中に入り、明かりをつけたところで背後で扉が閉まる音がして、そのまま奥へ進もうとした腕を引き寄せられ、壁に身体ごと押し付けられた。
何が起こったのか全く理解出来ずにいるうちに、唇が熱いもので覆われる。
髭のちくりとした感触で、ようやくそれがクリスの唇だと理解した。
近すぎて表情は少しもわからない。
繰り返されるリップ音にパニックになっていると、首に手を添えて頭を固定される。ぬるりと柔らかな塊に口内に侵入され、余計にパニックを起こす。
ぬるぬると口内を撫で上げる舌に驚いて抱えていた料理を落としてしまい、包みの音と共に足に衝撃を感じた。
僕はそれにも動揺してしまったのだが、クリスは気にする様子がない。
それどころか、自分が抱えていた料理も床へと手放してしまった。
空いた両手でがっちりと頬を捕まえられて逃げられない。
驚いて固まっていた舌を引きずり出され、丁寧に愛撫される。濡れた音が響くのと同時に呼吸も上がってきて、しがみつくように彼の両腕を握りしめていた。
「クリス……っ、ま、って……」
繰り返されるキスの合間になんとか言葉を口にすると、ゆっくりと唇が離れていく。
お互い呼吸を荒くして、唇を濡らして、向かい合って言葉を探す。
唾液で濡れた唇を舐め上げた舌がセクシーだと思った。
「くそっ」
その唇から小さな声が漏れる。
もう一度キスしてしまいそうな距離で、目の前の男は壁に手をつき、きつく拳を握り締めていた。
「クリス?」
「せっかく我慢してたのに……!」
「我慢……?」
訳がわからず繰り返すことしか出来ない僕を、すっと見つめてくる。真っ直ぐ、射抜くように。
そこには見たことがないクリスがいた。
彼の視線の意味がわからない。いや、わかってしまうのが怖い。
バクバクと心臓は激しく脈打ち、耳元で鳴り響いているようにうるさい。
「そう。あの夜から」
クリスは視線を逸らすことなくそう告げた。
あの夜。あの夜。不思議なことに、一瞬なんのことかわからなかった。だがすぐに脳の回路が繋がる。
あの夜、何もわからないまま唇を合わせた、あの——。
「君はもう、忘れたと思ってた……」
「忘れようとした。そうしないといけないと思った。でも、ダメだった」
そう言い切ると、今度は触れるだけのキス。
温もりが離れて、再び視線が交わる。
「気付かなかった?俺がトムを見てたこと」
「そんなの、全然知らない……」
「俺はトムに見付からないように上手く見てたからね。だから、トムの瞳は素直すぎて、困った」
苦笑と共に告げられた真実に、体温が一気に上がる。頬が熱い。きっと顔は真っ赤になっているだろう。
まさか自分の気持ちが筒抜けだったなんて。しかも何年もだ。
「気付いてたなら、なんで」
「ダメだと思ったんだ。俺の欲望にトムを巻き込んじゃいけないと思った。だから無かったことにしようと思った。……なんて、そんなの綺麗事だな」
結局なんの意味もなかった。と、歪な笑みを浮かべる男にいろんな感情がぐるぐると駆け巡る。
その困り果てた顔すら愛おしくて、今度は僕が困り果ててしまった。
文句を言ってやりたいとも思うのに、これっぽっちも音にならない。
僕だって、君の幸せの邪魔にならないようにって思ってきたのに。いや、本当はそんなのは言い訳で、ただ怖かっただけかもしれない。
でもそれにもこうして向き合ってしまった。
もう何も知らないふりは出来ない。
トム、と名前を呼ばれて、そっと手を取られる。
先程までのキスが嘘のような優しい手つきで、指先にクリスの唇が触れて、びくりと身体が跳ねた。
「ごめん、俺はもう堪えられない。手放したくない。だけど無理強いもしたくない。だから、逃げたかったら、今この手を払って」
優しい唇とは裏腹に、その表情はどこか苦々しさも湛えている。それなのに、瞳は獣のような獰猛さも孕んでいた。
なんて複雑で、美しくずるい男なんだろう。
ここで僕がその手を振りほどくと本気で思っているのだろうか。
握られた手をぐっと握り返す。深呼吸を一つして、ゆっくりと震える唇を動かした。
「そんな優しさなんかいらない」
握られた手をほどき、彼の頬を両手で包んで噛み付くようにキスをする。
やわやわと下唇を食んで、驚く彼を睨み付けるように見上げながら、そっと頬を撫でる。
「僕だって、ずっと君に触れたかったんだ」
そう告げて、そこからはもう止まらなかった。
急激に上がる体温に流されて、雄の欲を滲ませた男に噛みつかれて、ただただ熱に身を任せた。

  *

「はぁ、あっ……クリ、ス……ッ」
「トム、かわいい……っ」
腹の中を膨らんだ性器がみっちりと満たしている。クリスのそれは大きすぎて、もう快楽なのか痛みなのかもわからない。
ただそこにある熱が、クリスと繋がっていると感じさせてくれていた。
ぐちゃぐちゃと卑猥な音が結合部から聞こえてきて、ただの排泄器官のはずのそこが性器として機能していることがわかってしまい、恥ずかしさでまともにクリスの顔が見れない。
顔を背け必死にシーツを掴んでいると、無理矢理正面を向かされて、呼吸を奪うようなキスをされる。貪るように食らいついて、ようやく解放される頃には口の端から唾液が流れ落ちていた。
ぼやけた意識で見上げたそこには、腰を振りながら必死に熱い視線を送る男の姿があった。
彼の、たった一人の美しいひとにしか向けられないと思っていたものが、今間違いなく自分に向けられている。
ぎゅうっと心臓が掴まれたように痛んで、不意に涙が溢れそうになってしまう。
裏切り者の彼と、彼を裏切り者にした僕。
きっと僕らは許されない。
そう思うのに、この熱を手放したくないと思ってしまう。だから。
「クリス、もっと……!もっと、激しく……っア!」
「……ットム、ああ、くそっ」
「あ、ぁあっ、ん、んっは、アっ……ッ」
何も考えられないようにして。
伝えようとした言葉は、全て喘ぎ声になって消えた。
がつがつと揺さぶられながら、与えられる熱でいっぱいになっていく。

誰も僕たちを許さないだろう。
いつか、僕たちのどちらかが耐えられなく日が来るかもしれない。
でもどうか、どうかそれまでは、この熱に溺れさせて。
せめてこの雨が止むまでは。
誰にも見付からないように、振り落ちてくる雫で僕らの姿を隠して。

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